ドリップコーヒーを飲みたい日。/大田康湖 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





ドリップコーヒーを飲みたい日。/大田康湖

https://kakuyomu.jp/works/16818093074899484209


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。


方角については前回の「落陽」と概ね同じであると思います。

本作を理解するための勘所が割と捉えやすい。“人生の分かれ道”という捉え方をすると、本作の理解を大きく外すことはないだろうと思います。

むしろ誰しもが抱く感傷という意味においては(「落陽」に比べ)本作のほうが共感性は高いとも考えられるので、むしろ本作のほうが北とすら考えることもできるだろうと思います。


本作の終わり方には明確な意味を置いていないというのは確かにそうなのですが、それは本作の出来事への富士美の捉え方に明確な意味を置いていないということであり、“人生の分かれ道”そのものは共感性高く示されていますので、終わり方云々で方角が大きく変わることはないだろうと思います。

ただ無理に西に寄せようとして作品のバランスを崩すなどがないのは、さすがの技術だろうと思います。


前回の感想でも述べましたが、方角がどうあれ大田さんの創作は大田さんの創作としてきちっとすっきりまとまっていると思いますので、方角がどうというのに強く執着する必要はないだろうと思います。



本作を読んでいて上手いとフィンディルが思った箇所が二点あるので、それぞれ簡単に挙げます。


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「本日は茅土中一九八六年度、三年二組の同窓会にお集まりいただきありがとうございました。卒業以来の再会の方もいらっしゃるでしょう。今日は心ゆくまでご歓談ください」

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この同窓会の幹事である高山の挨拶ですが、すごく丁寧なんですよね。大人が大人に対して行う挨拶です。

今は五十代で三十年以上前のこととはいえ中学時代に気の置けない日々を過ごしてきた間柄なので、砕けた挨拶をしても差し支えないはずです。

ただ高山は、中学時代に気の置けない日々を過ごしてきた間柄とはいえ三十年以上前のことで今は五十代なので、改まった挨拶をした。

これが様々な同窓会のなかでも、それぞれの人生を生きてきた中高年の同窓会ならではのワンシーンで、印象に残りました。


実際高山が大人が大人に対して行う挨拶をしたのは、場をとりまとめる幹事という立場や高山本人の性格が関係しているかもしれません。

しかし作品としては、この改まった丁寧な挨拶によって三十年という年月を表現しているのであろうとフィンディルは受けとりました。この挨拶は三十年を表現しているのだと。

実際幹事がどうあれ高山がどうあれ、これが二十代三十代の同窓会ならば違った挨拶になっていたはずです。し、作品表現として違った挨拶をさせたはずです。


最初フィンディルがこの挨拶を見たときに「五十代の同窓会って感じだなあ」とそれぞれの人生に流れた年月を感じました。

そして話が進むと、まさにそのそれぞれの人生と年月こそが本作で描こうとしているものであると知り、大田さんの上手さを感じました。作品に合致した、綺麗な表現であると思います。



上手いと思った二つめ。

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「最近、良かったことはあるかい」

 赤坂先生の問いかけに、富士美は気を取り直して答えた。

「ダイヤモンド富士の写真、今年はいいのが撮れました」

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すごく上手い、素晴らしい表現だと思います。

本作は、前回の方角企画に大田さんが執筆投稿された「落陽」とつながっている話です。「落陽」は富士美がダイヤモンド富士を撮影するようになったきっかけが綴られたお話です。「今年はいいのが撮れました」とあることから本作は「落陽」から数年以上は経っていると考えられます。富士美の趣味・ライフワークになったのでしょう。

「落陽」と本作をつなげる、読者サービス的な一文と考えられます。


ただこの一文はそれだけではないとフィンディルは受けとっています。

つまり「ダイヤモンド富士の写真、今年はいいのが撮れました」は、富士美が哉大と一緒にならない人生を選んだからこそ持てている「良かったこと」なのではないかと。

作中で富士美は、あのときホテルで逃げなかったらという“違う未来”を想像します。富士美は未婚であることを気にしている様子ですので、未婚の“この未来”と哉大と一緒になった“違う未来”とを比べたでしょう。しかし“違う未来”だったら哉大の娘はいなかったと考え、“この未来”で良かったのだと思い直します。

哉大の立場に立ったときの“この未来”だからこその「良かったこと」を富士美は想像し、自分を納得させようとしています。


反面、富士美は自分自身にとって“この未来”だからこその「良かったこと」を考えようとしていません。

なかなかそういう発想に至れないというのはあるでしょう。自分が今持てているものについて、自分ではなかなか気づけないものです。

しかし富士美自身は気づけていないとしても、本作はきちんとそれを提示できているんですよね。それが、ダイヤモンド富士の写真を毎年撮影するというライフワークです。

ダイヤモンド富士の写真を毎年撮影するというのは、趣味としては準備とお金のかかる部類になるでしょう。結婚して家族を持つとなると、家族の理解はおよそ必須です。「落陽」でダイヤモンド富士を撮影していた金剛富士は既婚者でしたが、夫からの理解がありました(というか夫からの影響で始めているので、元々は金剛富士が夫への理解を示していた)。

仮に富士美が哉大と一緒になる“違う未来”に生きていたら、富士美はダイヤモンド富士の写真を毎年撮影することを趣味・ライフワークにできていたか。できていたかもしれませんが、できていなかったかもしれない。少なくとも自身の意ひとつで選択できる“この未来”より、可能性は低かったでしょう。

これは富士美にとって“この未来”だからこその「良かったこと」です。ちゃんとあるんです。

富士美はこの場においてはそこに思い至れていませんが、そのうち思い至れ、そして自身の“この未来”をもう少し納得させることができるはずです。赤坂先生の問いかけに即答できるくらい、富士美にとっての「良かったこと」なのですから。


これが作品として表現できているのが素晴らしいと思います。

「ダイヤモンド富士の写真、今年はいいのが撮れました」は「落陽」と本作をつなげるサービス描写だけでなく、本作自体のテーマにも深く関わって重要な表現となっている。本作にとって欠かせない一文になっていますし、また本作にとって欠かせない一文であることで「落陽」と本作をより密接につなげている。ただ単に同じ要素を共有しているだけでなく、どちらの作品も富士美の人生を色濃く描いていることを示せている。

とても上手いと思います。素晴らしい。



では指摘もひとつだけ挙げたいと思います。

富士美がこの同窓会への参加を決断したことは非常に重いものであるはずなのに、作品がそこをほとんど気にかけていないところです。


本作を読むと容易に想像できることですが、富士美はこの同窓会に参加するかどうかめちゃくちゃ悩んだはずです。参加しまいと何度も思ったはずです。

それはあんなに苦い過去のある哉大と再会してしまう可能性が非常に高いから。

お互いに好意を持ち、肉体関係を持つ同意を交わし、いざホテルに入ろうとしたところで恐怖が勝って、逃げだして、それっきり。三十年前のこととはいえ、富士美にとっては今なお触られたくない傷跡のはずです。また富士美にとっては何度考えても自分が悪いと思っているでしょうし、自身の人生に一度二度しかなかった色恋ごとということもあって、どんな顔で哉大と再会すればいいのかわからないはずです。俗に言う“人生の忘れ物”ですね。

同窓会に参加するかどうかめちゃくちゃ悩んだはずです。そして悩んだすえ、参加を決意した。「先生にお会いしたくて参加したようなもの」とあるように同級生や恩師を会える人生最後のチャンスということで勇気を出したのかもしれませんが、いずれにせよこの決断は富士美にとって非常に重たいはずです。

そうでなければ、同窓会に臨んだ富士美の心をこんなに支配することはないでしょう。こんなに仔細にあの過去を思い返すことはないでしょう。

本作の富士美を理解するうえで、この決断はとても重要であると考えられます。


しかし本作は、この決断についてほとんど気にかけられていない。「先生にお会いしたくて参加したようなもの」にて軽く察することはできますが、軽く察する程度しかできない。

本来なら本作の富士美には、「参加するかどうか悩み、勇気を出して参加する」→「哉大との再会を覚悟していたが、どうやら不参加のようで複雑な安堵を覚える」→「高山からのメッセージで、不意打ちに哉大の現在を窺い知って動揺する」という心理心情の流れがあるはずです。覚悟→安堵→動揺、この心の乱高下は成熟した大人にはかなりタフです。

しかし本作ではこの心理心情の流れが大幅にカットされて「高山からのメッセージで、不意打ちに哉大の現在を窺い知って動揺する」しか残っていない。

これはフィンディルとしては非常に違和感がありました。当然描かれるような心理心情が描かれていない。直接描かれないにしても端々の叙述から匂わせることは可能なはずですが、それすら香ってきません。


これはフィンディルの妄想ですが、おそらく大田さんは「富士美が参加した同窓会で、起こったことと考えたこと」というのを構想のスタートにされたのではないかと思います。妄想ですけどね。

「富士美は同窓会に参加する」を出発に作品を詰めていった結果「富士美は同窓会に参加する」がすごく重たいものになったけれど、それを作品として上手く拾えなかった。

そのように妄想します。割とあるあると思います。


なので、それを上手く拾えて作中で表現できると、もっと富士美の人物表現に厚みが出ると思います。

様子を見るかぎり、おそらく哉大は何とも思っていないと推測します。「そういえばそんなこともあったね。でももう三十年も前のことだ」ぐらいに。

もし哉大が富士美と同じくらいあの過去を重大に感じていれば、不参加なのにわざわざメッセージは寄こしませんし、寄こしたとしても「娘の結婚式」ではなく「大事な用事」とボカしたはずです。仮に哉大も富士美同様に悩んだのならば、娘の結婚式と被ったのを悩まない理由にして同窓会を無視したでしょうし、わざわざ(その場にいるかもしれない)富士美の心中に波紋を起こしうる言葉を選ぶことはしなかったでしょう。

なので「あの過去を重大に感じ、参加するかどうか悩んだすえに参加した富士美」と「あの過去を特に気にせず、参加したかったが参加できなかった哉大」という対比が成立します。この対比を作っているのは、お互いに流れた三十年の違いです。

もちろん対比を作らなくてもいいと思います。作ってもいいし作らなくてもいい。決断した理由を明確にする必要もないと思います。ただいずれにせよ、富士美が同窓会へ参加を決断したことは何らかのかたちで作中で表現する価値のあることとフィンディルは考えます。

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