ショウカフリョウ。/夜桜くらは への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





ショウカフリョウ。/夜桜くらは

https://kakuyomu.jp/works/16818093075870728914


フィンディルの解釈では、本作の方角は北西です。

北らしさと西らしさが同居している作品だと感じました。


職場や学校や家族などのコミュニティに属していると、ロールプレイを強いられるのが常です。

こういう役割、こういう性格、こういう価値観、こういう趣味。「〇〇さんはこういう人」を押しつけられて、それを演じないといけないような強迫観念を抱く。

当然ながら人は「こういう人」だけで処理されない揺らぎを抱えているわけですが、「こういう人」を演じると、また「こういう人」を演じてもらうと、コミュニティが円滑に回るようになるのでそんなロールプレイが場を支配する。


これが楽だと感じる人もいれば、しんどいと感じる人もいます。「こういう人」というレールに乗って演じるだけで社会をこなせるから楽だと思う人もいれば、「こういう人」と本当の自分との差異を埋めつづけることを負担に感じる人もいる。「こういう人」も自分の一部ではあるのですが、それが全部であるように押しつけられるしんどさ。カツ丼が好きなのは事実だが、毎日カツ丼だけを食べるのはしんどい。それに近しい感覚だろうと思います。


なので共感性の高い題材であると思います。社会に生きる人なら決して少なくない人が感じているしんどさです。職場や学校や家族もそうですが、インターネットコミュニティでも感じている人は少なくないでしょう。

なので、そういう特定かつ共感性の高いしんどさを選んでいる点で、西はそこまで強くないのかなと思います。


他方、本作はその題材を用いた人物表現を、少し大きく描いているようにフィンディルには感じられました。

もちろん実際に三谷と同程度の苦痛と感覚を有している人はいらっしゃるでしょうけど、作品としては“ロールプレイの苦痛”をやや大きく描いているようにフィンディルには感じられました。

三谷の感覚について客観的納得感をあまり重視せず、(三谷の)主観性を重視しているように感じられました。ここがやや純文学的といいますか、西らしさを感じます。

人の思考と行動を解像度高く描こうと思ったときには、客観的納得感を重視したより自然で「切りとり方が本当に繊細だ」「こういう人、本当にいるよね」「私がありのまま描かれている」と思われるような表現と、主観的な感覚を重視したより凄みある「恐ろしさを覚えるほど、“人”が描かれている」「何だか圧倒された」と思われる表現と、大きく二つに分けられるような気がします。前者はあまり西が強くなく、後者は西が強くなるものと思います。前者は最近色々な媒体で流行っている“日常モノマネ”にも通じますしね。

そういう意味で本作は方向性として後者を選んでいるようにフィンディルには見受けられました。フィンディルとしては「凄みがある」「圧倒される」という印象までは抱かなかったのですが、それは程度の話であって、方向性としては主観的な感覚を重視することで“ロールプレイの苦痛”を解像度高く描こうとされているように受けとっています。


また構成も一人目二人目三人目で変化をつけるエンタメ的でベタな構成(何かしらの名前があるはず)を採用しつつも、三人目(村山)を特効薬的な変化にせず飽くまで“きっかけになるかもしれないきっかけ”程度に抑えているのも、北らしさと西らしさを感じさせる箇所だと思います。


ということで北西と解釈します。共感性の高い題材を、客観的納得感を重視しない方向性で描いている。

夜桜さんは方角企画に親しんでらっしゃいますし、「作品の方角」の傾向と対策を練られた印象を持ちました。

その傾向と対策を練るのが作品品質にどれほど貢献するのかは置いておいて、(作品として)消化しやすさと消化しにくさが同居した仕上がりになっているところは、題材に合致していて良いと思います。



一点、西向きの指摘をしたいなと思います。

三谷の感覚の歪みの表現には、もっと凄みを出す余地があるように思います。


“ロールプレイの苦痛”に苛まれつづけた三谷は、自身の感覚に歪みをきたしています。

熊川の顔はのっぺらぼうに見えるし、鹿島の顔はバーヴィー人形に見えるし、村山の顔も歪んで見えています。

これはその人自身とロールプレイとの差異を感じつづけた結果、何がその人の顔なのかがわからなくなったせいでしょう。あるいは他者が全うするロールプレイが、三谷にとって過剰に知覚された結果です。

いずれにせよ、これは比喩ではなく実際に三谷にはそのように見えています。おそらく吐き気についてはイメージを膨らませているだけだと三谷もわかっているでしょう。想像が身体に影響を与えているのだと。ただのっぺらぼうとバーヴィー人形は想像ではなく知覚の域に達しているものと思います。(知識としてこれは幻覚とわかっているでしょうが)三谷が都度イメージを膨らませているわけではなく、そのときの三谷には本当にそう見えているはずです。

三谷が知覚している世界は、我々が知覚している世界と違うと考えられます。三谷は自身の感覚に歪みをきたしている。

そして本作は三谷の一人称視点ですので基本的に、感覚に歪みをきたしている三谷の目を通した世界が綴られていると考えるのが自然です。


それにしては、本作は大人しい。三谷の歪みが読書体験の歪みになる感覚を得られませんでした。読者までも感覚に歪みを覚えるような印象はなく、飽くまで「三谷は感覚に歪みをきたしている」という情報を常識的に受けとれる程度の仕上がりになっているように思います。

これが、主観的な感覚を重視した方向性ながら「凄みがある」「圧倒される」とフィンディルが感じなかった主な理由だろうと考えます。

三谷の知覚する世界が我々読者の知覚する世界にまで侵食してくる感じがなく、読者は本作を常識的に読むことができているのです。

それをどう評価するかは人それぞれではありますが、フィンディルとしてはもう少し読者もぐわんと歪みを感じられる読書体験のほうが本作には合っているものと思いますし、夜桜さんも目指されているものと想像しています。


三谷の感覚の歪みを作中に出しておきながら、どうして読者までも歪みを覚えるような読書体験にならないのか。

理由は多岐にわたると思いますが、フィンディルとしては大きく二つの事情があるものと思います。

まずはそもそも文章創作は、読者までも歪みを覚えるような表現に工夫が必要だから。別の言い方をすると、想像と知覚の表現的隔たりが小さいから。

詳しいことは割愛しますが、小説を始めとする文章創作って(登場人物が)脳内でイメージする情景と実際に目で知覚する情景との表現上の行き来が容易な媒体だと思います。漫画とか映像とかでは脳内情景と知覚情景を行き来するのが容易ではないと思いますが、小説では大がかりな何かをせずとも両情景を簡単に行き来できる。

それは逆に言うと、脳内でイメージする情景と目で知覚する情景との差異を作品として映えさせるのに工夫が必要ということでもあって、「まるでのっぺらぼう・バーヴィー人形のように見える」と「本当にのっぺらぼう・バーヴィー人形に見えている」の違いを表現することは容易ではないのだろうと思います。

仮に本作を忠実に映像化するとなると、三谷がのっぺらぼうとバーヴィー人形に見えている様は、ただ素直に表現するだけでも一定の異様さはしっかり映えるものと想像します。


もうひとつの事情は、夜桜さんに「ちゃんと場面が理解できるように書こう」という意識があるのではないかということ。

三谷は感覚に歪みを有する人物でそんな三谷の一人称視点だから歪みをしっかり描こうとする反面、場面は場面として読者が自然に理解できるような分かりやすさも損なわないようにしようとされているように思います。

感覚に歪みを有さない読者でも問題なく把握できる前提で、感覚に歪みを有する登場人物を描こうとされているように見受けられます。ただこの両要素は同居しづらい関係にあると思いますので、特別な工夫なく同居させようとするとどちらかが削られてしまいやすいと考えます。

のっぺらぼう・バーヴィー人形で三谷の感覚の歪みを示してこそいますが、のっぺらぼう・バーヴィー人形を熊川・鹿島のアイコンにすることによって歪みのない読書体験となるようバランスをとっている。人物表現として歪みを持ちだしているが、読書体験として歪みを出さないようにしている。

そのように見受けられました。

あえて線引きをされているのかもしれませんが、もしかしたら結果的に線引きしてしまっているだけかもしれません。

もちろんそれにより読みやすさは確保されているのですが、西としてのエネルギーには欠ける印象を覚えました。西の凄みというものは出ていない。「読みやすい」をどう評価するのかも、作品次第ですからね。

読みやすさを整えるバランスはある程度大事とは思いますが、それを西のエネルギー(感覚の歪みの侵食)とのトレードオフにするのではなく、凄みある表現と読みやすさという高次元の両立に押し上げられるともっと良いだろうと思います。「読みやすい」と「ぐわんとする感覚」は二者択一ということではなく、本作においてどちらも両立させる価値のあるものと思います。

ある意味ではこれも北らしさと西らしさの同居かもしれませんが、ここについては同居のさせ方について洗練の余地があるのかなと思います。


といくつか事情は思い至りました。それを解決する方法は色々考えられると思うので、夜桜さんのほうで試行錯誤してみてはどうかなと思います。

三谷は感覚の歪みを有しているのに、その歪みが読書体験に侵食してくる感じがなく、エネルギー・凄みに乏しい。「感覚の歪み」という情報に留まってしまっていて、大人しい。

三谷の感覚の歪みをぐわんとした読書体験というレベルで表現できるようになると、もっと作品に厚みが出るものと期待します。


そういう意味では「あーあ。あーあーあ。」を実は声に出して歌ってしまっていた、といったくだりは読者としてもぐわんとする感覚が少しあったので、参考にしてみてもいいかもしれませんね。三谷と読者が混ざる感じがあって良かったですし、本作らしいと思いました。

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