東風。/えーきち への簡単な感想
応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。
東風。/えーきち
https://kakuyomu.jp/works/16818093075192450705
フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。えーきちさんの宣言と同じですね。
印象としてですが、前回の方角企画でのフィンディルや皆さんの反応をすごく踏まえてきているなと思いました。「西風」ですね。
その作品でエンタメギミックを用いて真北解釈されたことを受けて、今作はとことん対策をうってきたように感じました。
具体的に言うと、真北解釈されそうなギミックを用いない、目的を達成しない、のあたりですね。
本作はタラの芽の収穫を待つ視点者の思考を綴った話ですが、意外性重視の展開もなければ、タラの芽が収穫される展開もない。タラの芽を収穫するのが本作の目的であるのは明白ですが、収穫されることなく本作は終わっています。
真北と判断されそうなものをとことんカットしてきたように感じます。
そして北北西を指すという意味において、これらの試みは間違いなく成功していると思います。北北西だと思います。本作を真北と解釈するのはさすがにできない。
春先にタラの芽の収穫をヤキモキしながら待つ日常を切りとった、北北西のお話だと思います。やはりギミックもないし目的達成もないということで、一定の西はきちんと出ているものと思います。
タラの芽を収穫して目的達成の場面を描いても北北西は向きうると思いますが、その場合には細かな塩梅が関わってくるので、確実に北北西を向かせようと思うならば目的達成をカットするのは賢明な判断であると思います。
とだけ書くと「クオリティ度外視で方角だけを狙った作品」みたいな見られ方をするかもしれません。ただ北北西を向かせたいがための作品だと。
ただフィンディルとしては必ずしもそうではないと思います。もちろんえーきちさんの意図がどうかはわかりませんが、結果的な品質としては方角ありきのものではない。
というのも、タラの芽を収穫する場面を描いていないことによる作品的な良さが、本作にはきちんとあるようにフィンディルは見ているからです。
目的設定をしつつ目的達成を描かない。真北エンタメでもたまに用いられる構成です。
どうしてこの構成を用いるのかというと「結末を読者に想像させるため」というのが通常でしょう。結末がどうなったのか、主人公の目的は達成されたのか、これらを読者に想像させて幅を持たせるためです。
ただ本作はそのケースではないと思います。結末を読者に想像させる効果が出ているわけではない。
何故ならば、十中八九収穫されるからです。
いくら天候の関係で成長が遅くなろうが、タラの芽は出ませんでしたということはおよそないと思います。もちろん収穫時期を逃したとか急用なり急病なりでそれどころではなくなったということはありえますが、そんな低確率のイレギュラーでも起こらないかぎりタラの芽は収穫できます。収穫して天ぷらにして美味しく食べたはずです。
本作でタラの芽を収穫する目的達成の場面をカットしても、こういう構成で通常得られる「結末を読者が想像する幅」は得られないものと思います。
「じゃあなおのことクオリティ度外視で方角だけを狙った作品なのではないか」ともなるかもしれませんが、フィンディルはそうは思いません。
タラの芽を収穫する目的達成の場面をカットすることで、本作にはしっかり品質上の効果が出ているとフィンディルは思います。方角を北北西に向かせる意図もおありでしょうが、ちゃんと作品の面白みにも寄与していると思います。
それが「本作は何のお話か」を決定づける効果です。本作はどんなお話か、本作は何を描いたお話か。これを決める効果が、目的達成カットにはあると思います。
仮に本作にタラの芽を収穫して天ぷらにして食べる場面を入れたとしたら、本作は「タラの芽を収穫して天ぷらにして食べるお話」になっただろうと思います。どんなに待ったとしても、むしろこんなに待ったからこそ、収穫して天ぷらにして食べる場面が本作を決定づけてしまう。目的設定と目的達成をともに描くと、やはり(ネタバレを無視するなら)目的達成こそが本作の肝になるのです。
ただ本作は「タラの芽を収穫して天ぷらにして食べるお話」にはなっていません。本作を一言で要約するときに「タラの芽を収穫して天ぷらにして食べるお話」と言う人はいないでしょう。本作は「タラの芽が出てくるのを待つお話」です。
どんなに待っても、収穫する場面を描いてしまうと「タラの芽を収穫して天ぷらにして食べるお話」になって「タラの芽が出てくるのを待つお話」にはならないんですよね。もちろん細かい塩梅で感じ方は変わってきますけど、やはり目的達成が読者に与える影響は大きい。タラの芽を収穫して天ぷらにして食べる場面を一文二文でも最後に入れていたら、寄せられる感想のテイストは大きく変わっていただろうと予想できます。
そのうえでフィンディルとしては、ここに面白みを覚えることができます。
本作が「タラの芽を収穫して天ぷらにして食べるお話」ではなく「タラの芽が出てくるのを待つお話」だからこその面白み。
これはフィンディルの感覚ですが、何かを心待ちにしたときって、後から振り返ると「待っていたものが訪れたとき」よりも「まだかまだかと待っていたとき」のほうが記憶に残っているんですよね。待っていたものが訪れたときの五感よりも、ヤキモキして待っていたときの五感のほうが鮮烈に残っている。日時指定をした配達物を実際に受けとったときよりも、「もう時間になったのにな」と思いながら何もできず待っているときのほうが、何か覚えているんですよね。受けとった物自体は覚えていないけど、待っていたときのことは「あのときは待ったなあ」と覚えていたりする。
もしかしたら本作の視点者も似たような感じかもしれません。
一年後にこのときのことを聞いたら「いや去年はすごく待ったよ。全然暖かくならなくて、雨が多くて。町内会の花見も中止になってさ。いつも窓から庭のタラノ木を見てた記憶がすごくあるよ」と言うばかりで、収穫や食べたときのことを聞くと「ああそりゃあ収穫できたよ。天ぷらにして食べたよね? 毎年そうだもんね」みたいな感じでぼんやりしているんじゃないかなと思います。
そういう、やや角度を変えた日常の切りとりが、本作はできているんじゃないかと思います。
目的達成の場面をカットすることにより「タラの芽が出てくるのを待つお話」にして“待つときのあの感じ”を丁寧に描くことに成功しているようにフィンディルは感じました。その作品表現を考えると、タラの芽の収穫の場面をカットするのは作品表現に非常に合致していてとても良いと思います。品質に寄与している。
タラの芽の収穫の場面を入れていたら、この読み味にはならなかったはずです。
やや角度を変えた日常の切りとりという意味では、ネットで調べたタラノ木情報と庭のタラノ木に食い違いがあるのもその一環かなと思います。
調べて得た基本情報やセオリーに即していないけど何だか上手くいってるよなというケースは、意外と日常にあるものと思います。むしろ基本情報やセオリーと100%一致しているほうが少ないんじゃないかというくらいで。
この食い違いについて隠された真実的な回収がされればエンタメ的なのですが、本作はそういうわけでもなさそうで、ここも良い表現になっているものと思います。角度を変えた日常の切りとりが重層的になっていて良いと思いますし、本作の方向性も固く示せていると思います。
ひとつ、気になった点があったので軽くご紹介します。
ただ先に言っておきますが、この指摘はえーきちさんは参考にしなくていいと思います。
本作は「同じようなことを何度も何度も思考する」という表現対象を選択されているように思います。同じ思考を繰りかえしている。
春なのに暖かくならない、タラの芽が出てくるのはいつだろうか。そういったことをずっと考えて進展らしい進展がない。そういう様を描かれていると思います。
そういう表現対象自体は「タラの芽が出てくるのを待つお話」を描くうえではおよそ必須だろうと思います。ヤキモキしながら待っているときって同じようなことばかり考えていますからね。進展のある思考はなされないもので、だからこそヤキモキする。
このあたりも、きちんと作品に合致した表現だと思います。
気になったのが「同じようなことを何度も何度も思考する」という表現を処理するにあたって、「同じようなことを何度も何度も思考する」の悪い面を抑えるようなアプローチをされているように感じたところです。引っかかりを少なくする創作的な加工を施しているように感じました。
「同じようなことを何度も何度も思考する」の悪い面とは何かというと、飽きるというところです。それもそうで、同じような思考を繰りかえすわけですから一般的には「またその思考か」と飽きやすくなると考えられます。
本作はそういう悪い面を抑えるようなアプローチをしているように感じられました。「飽き」という引っかかりをできるだけ小さくしている。意識的にか無意識的にかはわかりませんけどね。
具体的には、同じことを思考するにしてもちょっと角度を変えたり、新しい情報や進展を入れたりしている。「まだ寒い」を何度も伝えるために、暖房器具の叙述を入れたり、気温の叙述を入れたり、天気予報の叙述を入れたり。要は「まだ寒い」という同じ内容なのですが、その伝え方の角度を少しずつ変えて“読んでいられる”仕上がりにしている。町内会の花見の情報や進展を入れたり、タラノ木の情報を入れたりして、やはり“読んでいられる”仕上がりにしている。
そういった文章技術を用いて、「同じようなことを何度も何度も思考する」という飽きやすい表現対象ながら飽きにくい読み心地に近づけているように感じました。これは技術が出ていますね。
ただフィンディルとしては、この文章技術を積極的に評価しようとまでは思いません。
というのも、“読んでいられる”仕上がりを目指すほど、“読んでいられない”仕上がりからは遠ざかってしまうから。引っかからない読み心地は、引っかかれない読み心地ということでもあります。
人を選ぶ表現対象のアプローチとして「悪い面を抑える」という方針は「良い面も抑える」と表裏一体になってしまうことがあります。その表現対象の特徴や特色を抑えるという処理になりがちですからね。
本作の「同じようなことを何度も何度も思考する」の筆致は、確かに同じ思考を繰りかえす辟易の香りこそはあるのですが、それが濃密に鼻腔を刺激する程度にまではなっていないように感じました。異国の料理を、日本人の舌に合うように加工した感じですね。
それは“読んでいられる”仕上がりおよび文章技術によるところが大きいだろうとフィンディルは感じています。「飽き」の悪さと「飽き」の良さを、どちらも抑えてしまっている。
ただ先述したとおり、この指摘はえーきちさんは参考にしなくていいと思います。
フィンディルが積極的に評価しなかったとしても、えーきちさんは本作のアプローチを選択するのが良いと思います。「同じようなことを何度も何度も思考する」表現対象を“読んでいられる”仕上がりにするのが、えーきちさんにとっての正解だと思います。評価こそしませんが、推奨はしたいと思います。
というのもやはり、本作の表現が、えーきちさんにとってめいっぱいの可動域だと思うからです。これまでのえーきち作品を読んできたかぎりの話ですが、本作執筆にあたってえーきちさんは腕をめいっぱいに動かしていると思います。腕をめいっぱい動かした表現だと思います。
なのでここでフィンディルが「“読んでいられない”仕上がりの面白みを出してみよう」なんて軽率に言ってしまうのは、えーきちさんのためにはならないだろうと思います。肩を外すだけの提言になってしまう。
なので本作の表現は、えーきちさんにとって堅実な挑戦を示せているものと思います。そういう塩梅は創作活動においてとても大事なことだと思います。自身の可動域の範囲で挑戦を行う。
また人を選ぶ表現対象を、悪い面を抑えて引っかかりをなくして“読んでいられる”仕上がりにすることで片づける、は局所的な運用ならエンタメ創作でも十分活かせられるテクニックだと思います。癖のある異国の料理を日本人の舌に合うように加工して届けるのは、エンタメとして有用なテクニックです。
なので、良ければ持ち帰っていただけたらいいなあと思います。
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