わんちゃんと泥棒。/竹神チエ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





わんちゃんと泥棒。/竹神チエ

https://kakuyomu.jp/works/16818093075524108406


フィンディルの解釈では、本作の方角は北東です。


漢字(と記号)のみで物語を執筆するという手法の作品です。表語文字である漢字ならではの手法だと思いますが、(一字と熟語が混在していたりするなどで)あまり言語学的な側面を重視しているものではない印象を受けます。

シンプルに、漢字と仮名で構成される日本語において漢字(と記号)だけで書いてみました、という作品でしょう。


創作的に見ると漢字だけで構成されていることよりも、「助詞が存在しない」ことのほうがより大きな影響を与えているものと思います。

助詞が存在しないことにより、本作には大きく分けて、

・意味がわかる程度のわかりにくさがある。

・文という形式から解放され、レイアウト上の自由がある。

・文字数が圧倒的に節約される。

の三つの特徴がもたらされているものとフィンディルは感じています。


助詞が省かれるので当然ながら意味の把握は難しくなるのですが、表語文字である漢字なので漢字だけでもある程度の意味は掴める。この“意味がわかる程度のわかりにくさ”の面白み。

助詞が省かれるとおよそ文ではなくなるので、基本的な文章規則から解放されます。それによって自由なレイアウトを自然に受けいれる土壌ができる。別に文であっても自由なレイアウトを採用してもいいわけですが、文でないことにより良い意味で読者はこの自由なレイアウトが気にならなくなる。それによりレイアウトによる演出を自然に入れることができる。

助詞が省かれると文字数は圧倒的に節約される。本作は約600字しかありません。それで何ができるのかというと、同じ文字を重ねまくっても悪目立ちしなくなります。本作は「吠」を筆頭に同じ文字を何度も重ねているわけですが、あまり下品にならないんですよね。それは一言葉を素早く読み終わられる本手法だからこそと考えます。

たとえるなら鍵盤打楽器のトレモロですね。一音の減衰の早い楽器で同じ音を重ねるのと同じように、一言葉の減衰の早い(素早く読み終わられる)本手法では同じ言葉を重ねているのだと思います。トレモロ的な筆致ということで、本作に非常に馴染んだ本手法ならではの表現だと思います。


といった特徴が見られるのかなと思います。

フィンディルの感覚では、本作の手法はそこまで発想を飛ばしたものではないと思います。見た目のインパクトに比して、やっていることは大人しい。文章表現というものをかきまわすものではなく、既存の文章読解をそのままあてて読める表現だろうと思います。スペースで助詞を代用しているところなどは特にそうです。

ただそれだけに、わかりやすさは確保されているものと思います。既存の文章読解をそのままあてて読める大人しい手法ですが、見た目のインパクト自体は大きい。なので、東の面白さに馴染んでいない人に東の面白さを届ける手法としては適当だと考えます。


ということで方角判断としては北東程度かなと思います。

竹神さん本人が「ノリで書いた」と仰っていますが、ノリで書ける手法だということですね。もちろん「ノリで書ける=楽」というわけではないので、一定の執筆カロリーはあるわけですが。



そのなかでフィンディルが上手い、面白いと思ったところを二つ挙げます。


まずはストーリーチョイスです。ストーリーチョイスが上手い。

何が上手いと思ったのかというと、シンプルであるところ、そしてコミカルであるところです。

さきほど本手法を“意味がわかる程度のわかりにくさ”と評しましたが、それは本作のストーリーがシンプルであることを前提にしています。通常の小説のように一定の複雑さがあると、さすがに伝わらない。泥棒が入ってきて犬に見つかって吠えられて住人にバレて通報されて捕まった。このシンプルなストーリーだから本手法の面白さが読者に伝わっているものと思います。

また逆に言うとこのシンプルなストーリーであっても、“意味がわかる程度のわかりにくさ”の面白みが与えられると、読者を十分に楽しませることができるということでもあります。このストーリーでも、小説に読み慣れた読者をはしゃがせることができる。物語を楽しませる方法は物語だけじゃないんだよ、ということを東は教えてくれます。

そしてコミカルである。本作にはデフォルメされたコミカルさがあるわけですが、これが“意味がわかる程度のわかりにくさ”と非常に相性が良い。

本作は、泥棒は窓を割って侵入したのではなくたまたま窓が開いていたから侵入できた、犬が泥棒と対峙するのを住人は応援した、犬が泥棒のお尻にかじりついた、などかなりコミカルな味つけをしています。通常の小説だと扱いを誤るとちょっと浮いてしまうくらいのコミカルさがあるわけですが、“意味がわかる程度のわかりにくさ”だと読者が意味を拾おうと集中しているのでこのコミカルさがすごくアクセントになっているんですよね。一見するとわかりにくいので意味を拾おうと集中すると、何かすごくコミカルなことが書いてあった。これで読者としては集中して読んだご褒美がもらえたような気持ちになって、楽しく読める。真面目にシンプルなストーリーを書くだけでないところが上手いと思います。

窓が開いていたのは住人が在宅していたからだなどもごく簡単な伏線になっていますが、これも本手法のなかに入れると気づいた人へのご褒美として映えてくれます。

ということでストーリーチョイスがとても上手いと思います。手法を凝るならストーリーはシンプルに、というのは東の定石です。


次に面白いと思ったところ。これは東的な面白みが詰まっていて、フィンディルとしてはすごく面白いと思ったところです。

―――――――――――――――――――

    泥棒  嬉 心中 心中   泥

    泥   喜 踊 踊 喜   棒

    棒   喜 踊 踊 喜   泥

    泥棒  嬉 心中 心中   棒 

―――――――――――――――――――

ここがすごく面白いと思いました。

フィンディルはここを読んだとき「泥棒、めちゃくちゃ嬉しそうだなあ」と思いました。同様に感じた読者は多いはずです。

ただこれ、通常はありえないと思います。このくだりを見て「泥棒、めちゃくちゃ嬉しそうだなあ」と思うのは、本手法ならではだと考えます。

というのも嬉しそうも何も、「嬉」と明記されているんですよ。作中に「嬉」と書いている。「嬉」と明記されているのだから嬉しいに決まっているのですが、読者としては「嬉しそう」という受けとりになるんですよね。これが面白い。

このくだりを通常の文に変換すると「泥棒の心中は喜びに満ちた。嬉しさで踊りたくなる思いだった。」などとなりますが、これを見て読者は「泥棒、めちゃくちゃ嬉しそうだなあ」なんて思いません。「泥棒は嬉しい」というひねりのない心情説明を受けているだけの印象になるはずです。ただこれを本手法で表すと「泥棒は嬉しい」と説明を受けている印象にはならず、「嬉しそう」という気持ちが表現されているような印象になる。

“意味がわかる程度のわかりにくさ”および同じ文字を何度も重ねやすい本手法ならではの面白みだと思います。

「嬉」「喜」という言葉が(「嬉しい」「喜ぶ」の説明ではなく)「嬉しい」「喜ぶ」の表現になることなんてあるんだ、という発見の心持ちです。「嬉」で嬉しさを表現している。面白い。

以前流行った脳内メーカーにも似た面白さですね。



ではここからは、フィンディルが本作で気になったところをお話ししたいと思います。こちらも二点。


―――――――――――――――――――

見 泥 泥棒 泥泥棒棒 見見

吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠吠

泥泥棒棒 泥 驚 驚 泥 棒棒

―――――――――――――――――――

このあたりのくだりがわかりにくい。意味が掴みにくい。

何がわかりにくいのかというと「(住人が)泥棒を見て驚いた」のか「泥棒が(住人を)見て驚いた」のかがわかりにくい。

これは助詞を省いている影響を大きく受けているところなのですが、主語と目的語が判然としなくなるんですよね。日本語は語順が自由なこともあいまって主語と目的語の関係説明は助詞が担っている部分が大きいわけですが、この助詞が省かれるといよいよわからなくなる。

おそらくこのくだりは文脈判断をするかぎりでは「(住人が)泥棒を見て驚いた」なのだろうと思いますが、文脈判断をしないとわかりません。

「泥泥棒棒」「泥 棒棒」などで泥棒が存在していることにフォーカスをあてるなどの工夫はされていますけどね。


さらにこのくだりをわかりにくくさせている要因がありまして、それが本作はカメラ変更をしているというところです。

本作は序盤は泥棒サイドで書かれていましたが、途中から住人サイドへとカメラが移っています。カメラが移るということは基本的な主語が変わるということです。本作は序盤は泥棒が基本の主語でしたが、途中からは住人が基本の主語になっている。

ただでさえ助詞を省いて主語と目的語がわかりにくくなる本手法において、カメラ変更をして主語を変えているとなると、より一層わかりにくくなります。

引用したくだりは住人サイドに移ったあとの話ですが、一度カメラ変更をしているならここでもう一度泥棒サイドに戻ったっておかしくないと思えてしまうのです。現に直後の「泥棒犬嫌 泣 泣 腰砕 涙涙」は泥棒視点の文ですし。


本手法のウィークポイントをわざわざ強調するような物語構成になっているのは、非常に気になりました。“意味がわかる程度のわかりにくさ”の面白みを落とすような構成になっていると考えられます。

読者のなかでも引用したくだりあたりがちょっと読みにくいなと思われた方もいらっしゃると思うのですが、それはこういう理由があってのことだろうと考えます。

なのでこのウィークポイントを克服するような本手法のブラッシュアップ、あるいはこのウィークポイントが気にならないような物語整備がなされるとより良いのかなと思います。



次に気になったのが

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非 歩ーーー

陽 歩ーーーー卯-卯ー

―――――――――――――――――――

です。オノマトペの処理です。ちなみにひとつだけダッシュになっていますね。また細かいところですが「陽 歩」が湯桶読みのようになっているのはイレギュラーな読ませ方なので読みにくいと思います。最初「ヨウホ」と読んでしまいました。

それはさておきこのオノマトペ処理、悪くはないのですがもっと面白くできそうだと感じました。

というのも「非」「歩」「陽」「卯」は音だけで、フィンディルが見るかぎりではパトカーのサイレンの意味を表しているわけではないんですよね。

日本語には当て字の文化があるので、それが悪いとか不自然とかではありません。「亜米利加」とか「仏蘭西」など。米国は米を代表する国ではないし仏国は仏教を代表する国ではない。なので意味を無視して音だけで漢字をあてても悪いわけではないと思います。

ただ日本語の当て字には「型録」「倶楽部」みたいに、音であてながら意味も対応させている当て字もあります。「珈琲」などもそうみたいですね。こちらは当て字の面白さや美しさを感じられる、妙が出た当て字です。

なのでどうせあてるなら「型録」「倶楽部」「珈琲」のような当て字をしたほうが、もっと面白くなって読者を楽しませられるとフィンディルは思います。

たとえば「ピーポー」を「非 報ー」とすれば「非常事態を報せる」と意味を対応させられます。「ウー」についてはちょうどいいのがなかったのですが、ならば物語を加工して住人はすぐに通報したけれど(住人体感で)なかなか到着せずにヤキモキしたとしてうえで「迂ー」とすれば、「やっときた! どこを遠回りしてたんだ!」みたいな通報者の待ちわびた心情が表現ができます。

こういう当て字ができれば、もっと読者を楽しませられたと思います。長音があるのでそれがオノマトペであることはおよそ伝わりますし。

ただこの話とは別に、「ワン」を「腕」ではなく「椀」にしたのは、誤読を防ぐ良いチョイスだったと思います。


ということでいくつか気になったところを挙げました。



余談ですが、漢字で描画をするのはフィンディルとしては安易なオススメはできません。(一演出程度なら)やってもいいと思いますが「やったらどうですか?」とはなかなか言えない。

(類似しているだけで)本手法とは全く別の着想というのもありますし、「情報を有する線で描画する」手法で面白くするのは想像している十倍難しいと思います。成立させることはできますが、面白くするのは難しい。発想の勝利的な絶賛は簡単に湧くでしょうけどね。

詳しいことは割愛します。

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