【黒歴史放出祭】最後の切り札

神崎あきら

最後の切り札

 私は温泉が好きだ。旅先で温泉があれば立ち寄るし、週末は車で三十分ほど走ると到着するスーパー銭湯によく通っていた。

 そういうわけでシャンプーやリンス、ボディーソープ、身体をこするタオルと温泉セットは常に常備しており、行くとなればセットとタオル、着替えを持ってすぐに出発できる心づもりができている。


 そのくらい温泉入浴のプロなのだが、一度致命的なミスを犯してしまったことがある。それは、身体を拭くタオルを忘れてしまったことだ。

 それに気が付いたのは運悪く温泉からあがったときだった。身体はびしょ濡れ、タオルはない。


 温泉に入る前に気が付いていたなら、売店でタオルを購入することができた。しかし、脱衣所にはタオルの販売などない。しかも、一人で来ているので助けを求めることもできない。


 さあ、どうしよう。

 まず手持ちの布地を探す。あるのは履いてきたパンツ、シャツ、新しいパンツ。新しいパンツで身体を拭けば、びしょ濡れのパンツを履いて帰る羽目になってしまう。しかし、履いてきたパンツや汗ばんだシャツで身体を拭けば温泉に入った意味が皆無だ。


 そもそも、パンツで身体を拭く姿は他の入浴客の目にどう映るのか。

「あいつ、パンツで身体を拭いてるぞ」 

「倒錯趣味なのか、気持ち悪い」

……下着に手を出すのはやめよう。まずその案は排除した。


 次に見つけたのは、バッグに入っていたハンドタオル。これは洗濯したものを持参しているので、綺麗ではある。しかし、せいぜい二十センチ四方のハンドタオルで身体を拭いていると、他の入浴客からどう思われるのか。

「あいつ、バスタオルを忘れたんだ」

「温泉にバスタオル忘れるなんて、とんだまぬけだな」

……とんだまぬけと思われたくない。


 マットの上で小刻みにジャンプして水滴を散らしてみたり、扇風機の風に当たってみたりしたが、身体は冷えるばかりだ。ああ、バスタオルを忘れるなんて、長きにわたる温泉ライフにおいて痛恨のミスだ。こんなことになるなら、温泉に入らなければ良かった。そのくらい後悔した。


 地味に絶体絶命のピンチ、そこで私は閃いた。

 扇風機の風は冷たいが、ドライヤー《温風》があるではないか。私は洗面台のドライヤーに飛びついた。普通、ある程度服を着てからドライヤーを使うものだ。しかし、タオルを持たざる私はなり振り構っていられない。


 堂々真っ裸でドライヤーをかけ始めた。髪を乾かす必要があるが、身体も乾かさねばならない。真っ裸でドライヤーをする奇異な奴、と思われても仕方がない。しかし、タオルを忘れた間抜けと思われるのは心外だ。

 なので、身体に向けて温風をかけているのをできるだけ悟られないようにあたかも髪を乾かしているようにドライヤーの角度を駆使して身体を乾かした。


 どうしても温風だけではしっとり濡れたままになってしまうが、何も無いよりマシだった。おかげさまで身体も温まった。仕上げに素早くハンドタオルで身体を拭き上げ、新しい下着を身につけた。


 私は危機を脱した。これほどスリリングな温泉体験はこのときが最初で最後だろう。そうであって欲しい。

 以来、私は温泉に持って行くバッグに必ずタオルを入れておくという掟を作った。それ以来、タオルを忘れたことはない。

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