月のうらがわ

多田いづみ

月のうらがわ

 衛星の自転周期と公転周期は、完全に一致した。

 すなわちその衛星は、主星を一周するあいだにちょうど一回転する。

 もっと多く、数回ないし数十回ぐらい回転してもよさそうな気がするし、もっと曖昧な、小数点とか無理数とかそうした端数を含んでもよいはずなのに、ふしぎなことに、衛星が主星を一周するたび正確に一回転である。偶然にしてはあまりに出来すぎている。


 この事実は、衛星の自我形成に大いに影響した。

 衛星は長いあいだ考えをめぐらせ、ある結論に達した。自分は広い宇宙にまたとない特別な存在だ、と。

 じつは衛星の自転と公転というのは、主星が及ぼす潮汐力によって一致する場合がほとんどなのだが、衛星はそのことを知らなかった。


 自転と公転の一致は、同時に、表と裏という概念を作り出した。

 衛星はこれといった特徴のない没個性な球体だったが、細かく見てみると、主星に面を向けている表側は、白色と鈍色の岩石が複雑に入り組んで華やかな様相をしめし、心なしかクレーターの数も少ない。

 それにくらべて裏側は、灰色の岩石がのっぺりと表面を覆い、その単調さゆえに醜いあばたのようなクレーターの陰影がより際立っている。

 このような表と裏のささいな違いは、衛星の身体感覚に新たな定義をつけ加えた。

 つまり、表側はどこに出しても恥ずかしくないよそゆきの公的な側面であり、裏側はなるべく秘めておきたい私的な側面である、と。


 そうして衛星が主星を回りつづけて、数十億年ほど経った頃のことである。

 主星に、ある知的生物が出現した。

 衛星はずいぶん前から、主星に生物が存在していることに気づいてはいた。が、それを知ったからといって別にどうとも思わなかった。生物など、現れては消えるかすみのようなものなのだから、いちいち相手にするまでもない。

 しかし、かつて体験したこともないほど不愉快な出来事が、その取るに足りない知的生物によってもたらされたのだ。


 あるとき衛星は、奇妙な隕石が近づいてくるのを察知した。それはおそらく、くだんの生物が作り出したものにちがいない。というのも、その隕石は主星からとつぜん飛び出てきたからだ。そんなおかしな隕石は今まで見たことがない。


 その奇妙な隕石は、ちりにも等しいちっぽけな金属のかたまりにすぎなかったが、衛星をひどくイライラさせた。なぜなら、そいつは衛星の裏側に回り込もうとしていたからだ。衛星の裏側は、何者にも侵されざるべき聖域なのだから、とうてい許すことはできない。

 衛星は隕石が裏側にさし掛かったところで軌道を操作し、地表に墜落させた。重力をあやつり隕石の軌道を変えるなど、衛星にはたやすいことだった。隕石が衛星の裏側に回ったっきり出てこないので、知的生物どもはさぞや驚いたにちがいない。衛星はいくらか溜飲の下がる思いがした。


 知的生物の嫌がらせはてっきりそれで終わりだと考えていたのだが、とんでもない間違いだった。衛星が隕石を墜落させたことで、知的生物の好奇心は余計に刺激されたらしい。衛星に隠された秘密を暴こうと、何十という隕石――つまり知的生物の作った探査ロケット――を次つぎに送りはじめたのだ。


 探査ロケットの群れは、雲霞うんかのごとく衛星に押し寄せていた。ロケットの中には衛星の力が及ばない遠い軌道を描くものも含まれており、さしもの衛星もこれには手を焼いた。こうもたてつづけに失礼なことをされては、もう黙ってはいられない。こんな不愉快な状況は、いっときも我慢できない気持ちだった。


 かつて衛星の内にあったマグマは、とうの昔に冷えている。今ではつめたい土のかたまりだ。しかし、怒りと恥辱の感情があまりに激しかったものだから、冷めたマグマはふたたび燃え盛った。衛星の内部で真っ赤になって激しく対流しはじめた。


 そしてマグマが十分に温まるや否や、衛星は思いきりはずみをつけて、主星の重力圏から飛び出した。


 図らずも、知的生物のぶしつけな好奇心が、何十億年もただ主星の周りを回るだけだった衛星の巣立ちをうながしたらしい。衛星は主星を離れ、自由な遊星となって宙を泳ぎはじめた。はじめはたどたどしく、しだいにしっかりとした足どりで――。


 衛星の長い幼年期が、今ようやく終わったのだ。ゆくさきは、衛星自身にも分からない。なにしろ前に広がるのは、未知の、果てしない大宇宙なのだから。


 離脱の反動で、主星の表面にさざなみが起こった。さざなみは、宇宙的規模からすればささいなものだったが、主星に住まう知的生物にとっては未曽有の大津波である。知的生物の築きあげた文明は波に飲まれ、あっけなく崩壊した。


 衛星は、知的生物があれほど知りたがっていた裏側の様子を、はっきりと見せつけながら主星を離れていったが、わずかに残った知的生物たちは生きのびるのに必死で、のんびりと空を見上げる余裕のある者など一人もいなかった。


(了)

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