本編

 温泉や寺のどこが面白いんだ。と僕は心の中で毒づいた。


 僕が今いるのは東京のずっとはずれにあるあきる野市の、ずっと外側にある武蔵五日市駅の、ずっとはしっこにある山の中に建てられた温泉施設『瀬尾の湯』の隣にあるカフェ。

 まさしく世界のすみっこ。そんなところに電車を乗り継いでまで行って、朝からいくつもの神社を渡り歩かされて僕は心底参っていた。


 本当だったらゲームをしていたかったのに親に「引きこもってばかりだと心に悪いから」だとか理由をつけられて無理やり連れだされた。三月の今頃、世間の小学生は春休みだと息巻いておでかけをねだっていることだろうが、年がら年中春休みの僕にはそんなのまったく関係ない。


お父さんがずぞぞ!とやかましい音をたててそばを吸い込んだ。お母さんもそばをすする。

 僕の目の前にも同じそばが置いてある。このそばも不満の一つだ。

 席に着くなり「お父さんが選んでやる」と勝手に注文してしまった。本当はハンバーグを食べたかったのに。僕が唇をつんと突き出して黙り込んでも、二人は気にもせずにお喋りしてる。


「しかしあきる野って本当にいいところだよね」

「どこが」

「自然がいっぱいで最高」

「虫がいっぱいで最低」

「空気が美味しいし」

「コーラの方が美味しいし」


 僕はストローに息を吹きこんでジュースをぼこぼこさせた。


「ほんとに子供だなぁ」とお父さん。

「子供じゃないし!」


 そもそも『あきる野』市って何って思う。ひらがなってダサすぎ。漢字にした方が格好いいのに。


「この後三倉神社にも寄ってみようか。南一揆にまつわる文書があるらしい」

「一揆って何?」


 慣れない言葉に僕が聞くと、お父さんは何事もないように「ん? 殺し合い」と言った。


 普段聞くはずのない単語のその冷たさとおぞましさ。指先が冷えていく。


「もうそんな言い方しないでよ。信念をもって戦うことよ」

「当時はそこらへんに死体が転がってたんじゃないか」


 僕の足下にも死体があるのだろうか。そう思うと鳥肌が立った。


 二人はそれから「有名な遺跡が」とか面白くない話を始める。昔の話がそんなに面白いのか目をきらきらとさせている。僕の存在なんてまるきり忘れたかのようだ。


 温泉は「せっかくだから長湯しよう」というのを無視して5分くらい湯船につかってさっさと出た。知らない人がいるのに裸になるのは居心地が悪かった。今は服を着てるけどその時よりずっと居心地が悪い。


「僕トイレ行ってくる」と席を立つ。


 学校に行かなくなったのは4年生になって1か月くらいのこと。今年の5月からだからもうすぐ1年になる。


 不登校になった原因は体育の授業で平均台から足を滑らせて落っこちたことだ。せいぜい高さ30センチ程度の平均台。


 僕はわざと変な動きをして渡った。それを見てみんなが笑っていた。半ばまで行った時、足を滑らせた。「ぎゃっ」と僕は叫んだ。みんなは冗談だと思ったようでまた笑った。後で病院で聞いた話では落ちた時に足の甲にひびが入っていたらしい。


 2回目に渡ろうとした時はすでに痛みでまともに足が動かなかった。今思うに担任は普段から僕のことをよく思っていなかったみたいで、ここぞとばかりに罰を与えるみたいに何度もやり直しさせられた。何度も、何度も。もういい、と言われたのは9回目だった。

 授業が終わるまで僕はずっと下を向いたままだった。みんなが笑っているような気がした。


 学校には翌日から行かなくなった。高いところがダメになったのはそれからだ。部屋の窓から道路を見下ろすだけでも足が震えてしまうので、窓もずっと締め切っている。


 不登校になってからしばらくして授業に使っていたノートは全て捨てた。

 お母さんは「何が正しいか間違っているか、それさえわかれば学校なんて行かなくていいのよ」と言ってくれている。


「悪い人を見分ける力さえあれば意外と人生なんとかなるからね。 学校に行っていても、自分に近づいてくる人が悪意を持っているか見破れない人ってたくさんいるから」と僕に優しく説いてくれたことがある。


 でも僕は知っている。


 新聞紙と一緒に束になったノートを見た時にお母さんがとても悲しそうな顔をしていたのを。その顔がずっと頭から離れない。ゲームをしている時やアニメを見ている時にふと思い出して、とても申し訳ない気持ちになってしまう。


 今もふいに思い出し、もやもやした黒い気持ちを抱えて歩く。


 ふと入口前にソフトクリームを模した置物が見えた。周りに人はいない。そっと近寄り、蹴っ飛ばしてみた。ぽかりと音がした。その瞬間さっきまでの嫌な気持ちがすっかり吹き飛んだ。

 倒れても構わず蹴り続けた。息がはずむ。肩で息をする。足を止めると窓ガラスの向こうに傘立てがあるのに気付いた。

 入り口をくぐると少しもためらわずにひっくり返した。驚くほど大きな音が空に響いたがもう僕は止まらない。


 正面に見える足湯に駆け寄り、靴のまま飛び込んだ。生ぬるいお湯。水しぶきが座るところや地面のタイルをぬらしていく。


 ばしゃり、ばしゃり。


 靴はすでにびしょびしょだが、気にせずに跳ね続けた。


 ばしゃり、ばしゃり。からり。


 動きを止めた。今、しぶきに混じって変な音がしなかったか。耳をすませる。からり。また聞こえた。背後からだ。

 さっと振り向くと、一瞬人影が見え、すぐに消えた。


「――てやる」低く、かすれた声。


「誰!?」

「神社で、いたずらをしたな」とびきり重い石臼をひくような、そんな声がした。


「どうして根性のない、どうしようもない」振り向くが、何度繰り返しても焦点が合う寸前に消えてしまう。かろうじて見えたのは古めかしい服。手には何か太い棒のようなもの。


一つ、気がついたことがある。振り向くたびに、背後の誰かは、徐々に僕の方に近づいてきている。

今度は耳元ではっきりと「殺してやる」と聞こえた。


――この人は、僕に悪意を持っている――


僕はわき目もふらずに駆け出した。

「待て童(わっぱ)! 殺してやる!」


足湯のある場所から瀬尾の湯を見て左手の方に向かって走る。追ってきている姿の見えない誰かがわめく。「後北条め!やはり間違っていた!」

転がるように走り続け、小さな森を抜けると、僕は絶望した。


目の前には、橋があった。それも両手を伸ばすのも精一杯の、細く頼りない橋。後ろからは僕を殺そうとしている誰か。正面には、平均台。


「殺す!」古いレコードを再生したようなひび割れた声が、今までで一番近くで聞こえた。途端、僕は駆け出した。


「待て! 殺す!」

橋のすぐ下には滝があるらしい。それでも声は耳元にはっきりと響き続ける。「払沢の滝に打たれろ! その腐った根性! 死なば治らん!」


 足元では滝が流れ続ける。


 滝のような冷や汗が背中を流れる。


 気がつくと橋を渡り切っていた。誰かは橋を渡れないのか、急速に声が遠ざかっていく。


「逃げるなわっぱ! 殺せぬならせめて、せめて、間違い続けろ!」


「孤独に死ね!」と叫んだきり、誰かの声は聞こえなくなった。


 僕は肩で息をしながら地面に座り込んだ。振り返ればたった数百メートル。僕ってこんなに体力なかったっけ。


 そのまま戻るわけにもいかず、大通りに出て左手に歩き続けているとふいにいい匂いがした。ふらふらと匂いの方に歩いていくと、広場のような空間に出て、そこには小さな車があった。


「どうしたの僕。おつかい?」

「……え」


 車の側面からマスクをした女性が僕を見ていた。


「これは……何?」

「ここ? ハンバーガー屋だけど」


 車の中にはコンロなどがある。キッチンカーと言うらしい。ご丁寧に広場の端っこにはハンバーガーを食べるための座席もある。


「でも僕、お金持ってない」

「あ、そうなの。お母さんと一緒じゃないの?」


 ふいに孤独を感じた。小学生が見知らぬ土地でひとりきり。当たり前だ。こんなのさびしくないわけがない。


「その、僕、瀬尾の湯から来たんだけど」

「あ、そう。橋の方から来たのかな?」

「うん! そう! そう! それで、橋を渡らずに瀬尾の湯に戻りたいんだけど!」

「道なりに歩けば20分くらいでつくと思うけど……。迷わないかな。ここらへんの子じゃないでしょ?」

「うん」

「どうしよっか……」と店員さんは困ったように言って黙ってしまう。


 僕は「その、店員さん!」と言った。

「ん?」

「店員さんは何か怖いものある?」

「怖いもの? 幽霊とか、高いところとかそういうの?」

「そうそう! 幽霊とか! 高いところとか!」僕は首をぶんぶんと振った。

「うぅんとね……」店員さんはしばらくして言った。


「しいて言うなら、怖いものがあることが怖いかな」

「怖いものが怖い……?」

「私ね、昔ウニが嫌いだったのよ。知ってる? ウニって全身トゲだらけだけどその下には無数の触手があって、その触手をうねらせて移動するんだって。ある時それをテレビで見て、それがあまりにもおぞましくて。それから食わず嫌いだったのよ」

「うん」

「でも大人になってウニを食べなきゃいけない時があってその時に我慢して食べてみたの」

「美味しかった?」

「もう、びっくりするくらい」


 店員さんは興奮したように目を見開いた。

「こんなものを食わず嫌いしてたなんて今までの人生何してたんだろって。なんでもっと早く克服してみなかったんだろって思ったね」

「そうなんだ」

「だから君も嫌いなものがあったら向き合ってみな。意外と悪くないかもよ」


 僕は橋の方を振り返った。


「やっぱり道路歩いていく? 途中まで一緒にいこっか?」


 急にすべてがばかばかしく思えてきた。幽霊も、学校も、平均台も。


「いや、いいや。一人で戻れるよ」

「そっか」


 店員さんに別れをつげ、橋の前まで戻ってきた。絶え間なく流れ続ける滝の音。一歩橋に足を踏み入れる。もう誰かの声はしなかった。


 高すぎる平均台。ここから落ちても足の甲にひびが入るだけですむだろうか。まだ、少しの怖さはある。一歩、一歩。好きなアニメで頭をいっぱいにする。気がつくと橋を渡り切っていた。


「こんなもんかぁ」自分に聞こえるように大きい声で言った。「こんなもんかよっ!」唱えるみたいにもう一度。


 森を抜けるとすぐに瀬尾の湯が見えてきた。


 レストランの入り口では従業員さんが倒れたアイスクリームの置物を直してるところだった。太い眉の大男。担任よりもずっと恐ろしく見えた。


 うつむきながら横を通りかけたところで、頭の中に誰かの声が響いた。『間違い続けろ!』自分の罪を隠すことがはたして正しいことなのだろうか。

 僕は不機嫌そうな従業員さんの前に立った。いつか見た金剛力士像よりも恐ろしい顔が僕を見下ろす。


「ごめんなさい! それ倒したの僕なんです!」

「なに……?」どすの利いた、低い声。


 僕は頭を下げたまま震えるしかできなかった。固まっているとぶあつい手が僕の頭におかれた。


「そうか。よく言えたね」今まで聞いた中でずっと優しい声だった。

「本当にごめんなさい!」

「うん。君が大人になったらまた来てよ」


 なんて温かい言葉なんだ。思わず目元をぬぐった。本当に、本当に謝ってよかった。もし怒られたとしても殴られていたとしても、きっと知らんぷりするよりかはずっとせいせいしていたと思う。


 席に戻るとお父さんは僕を見るなり「長かったな。うんこか?」と言った。


「やめてよ。食事中なんだから」お母さんが顔をしかめる。僕の席には相変わらず灰色のそばが置いてある。


 相変わらず二人はよくわからない話をしている。それをさえぎり「本当はさ! ハンバーグ食べたかったんだけど!」と叫ぶ。


「ハンバーグなんて子供の好きな物食べるのか?」

「子供だもん」

「子供だってこと認めてもいいのか?」

「いいんだよ。これから大人になるんだから」

「はははっ!立派なこと言うようになったじゃないか!」


 朝の電車で口を尖らせていた僕はいない。胸の中に強い熱があるような気がした。


 ハンバーグを待っている間、とっくのとうにそばを食べ終えたお母さんに、おずおずと「そういえば帰ったらお金くれない?」と言った。


「なに?またゲームでも買うの?」お母さんはあきれたように言う。


「ううん。新しいノートを買いたいんだ」


 その時のお母さんの笑顔を、僕は生涯忘れないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

反抗する平均台 いかがなモンカ @Monka__Ikagana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る