今日も嬉野あずさの頭には桜が咲いている

未来屋 環

桜の季節は、終わっても。

 ――そして彼女は、花が綻ぶように笑った。



 『今日も嬉野うれしのあずさの頭には桜が咲いている』



 或る朝、目覚めた俺の目に映ったのは、頭に花を咲かせている母親の姿だった。


「あら拓己たくみ、早いわね。おはよう」


 いつものように朝食を準備する母親と、その頭からすっくと天井に向かって伸びる白いチューリップ。

 俺は無言で目をこする。昨日遅くまで動画を観ていたから、寝惚けているんだろう――そう考えながら再度瞼を開くが、残念ながら景色は変わらない。


 ガチャリと音がして、トイレから父親が出て来る。

 俺は救いを求めるようにそちらを向くが――その期待は見事に裏切られた。


「どうした拓己、朝から怖いカオして」


 その寝癖がついた頭からも、ご丁寧に母親と色違いの黄色いチューリップが生えている。言葉を失い立ち尽くす俺を、二人は怪訝そうに見ていた。


 ***


 ――あれから1週間。

 今日も食卓に朝食を並べる母親の頭には白いチューリップが、俺の隣で漬物をかじる父親の頭には黄色いチューリップが咲いている。


「今日は飲み会で遅くなるよ」


 父親がそう言うと、母親の頭のチューリップが、ぴん、と揺れた。


「わかったけど、飲みすぎないでよ」


 声に圧がこもる。その声を聞いて、父親の頭のチューリップが、しゅん、と小さく萎れた。

 そんなやり取りを見ながら俺は味噌汁を飲み干し「ごちそうさま」と席を立つ。



 家を出て、最寄り駅まで自転車で10分。

 いつもより1本早い電車に滑り込み、俺は入口近くのスペースに陣取った。イヤホンから流れるロックを聴きながら顔を上げれば、見渡す限り――花、花、花。


 座席で寝こけるサラリーマンも、吊り革につかまりながら本を読む女子高生も、こそこそとお喋りに興じる小学生も――皆素知らぬ顔で、頭に花を咲かせている。

 俺の親のようにチューリップを咲かせている人もいれば、道端で見たことのある小さな花や、校長室に飾られるような派手な花を咲かせている人もいる。規則性はよくわからないが、わかったところでどうということもないので、別段興味はない。

 「人の頭に花が見える」以上の害もないので、俺も段々とこの状況に慣れてきていた。

 学校の近くを歩く猫にすら、タンポポが生えているのだ。もう驚くことなど何もない。


 ――しかし、そんな俺でも慣れないことが一つだけあった。

 それは……


「あずさ、おはよう」


 最寄り駅から学校まで向かう途中、俺の前を歩く女子達の中に彼女はいた。

 友人から話しかけられた彼女が振り返ると、まっすぐに伸びた黒髪がふわりと風に揺れる。彼女はぱっちりとした目をにこやかに細めて「おはよう」と優しい声で応えた。


 彼女の名は、嬉野うれしのあずさ。

 高1の頃からクラス委員を務めているしっかり者で、可愛らしい見た目だけでなく穏やかな性格も男子達に人気で、そして――

 彼女の頭には、桜の木が生えている。


 ***


 1時限目の英語の授業が始まった。

 黒板を眺める振りをして、俺は右斜め前方に座る嬉野に視線を向ける。

 嬉野の桜は、決して大きいものではない。全長で500mlのペットボトル1本分くらいだろうか。それでも他のクラスメート達と違って、『花』ではなく『木』がこぢんまりと立っている。


「じゃあ次のページを、嬉野読んでくれ」

「はい」


 先生に当てられた嬉野は、落ち着いた声で返事をして立ち上がり、音読を始めた。英語の成績がさっぱりの俺には正直何を言っているのかわからないが、彼女が読む英語はとても綺麗に聴こえる。流暢で耳ざわりが良く、まるでアナウンサーみたいだ。


「そこまで。よく予習しているな」

「ありがとうございます」


 軽く会釈をしてから座る仕種も、何だか品があるように感じられる。

 頭の上の桜の木は控えめに花を付けていて、それすらも愛らしかった。



「――向井むかい、最近嬉野さんの方ばっか見てる」


 休み時間に同じサッカー部の斎藤が話しかけてきた。ちなみにこいつの頭には、真っ赤なバラの花が咲いている。初見の時にはそのギャップに思わず吹き出してしまい、首を傾げられたものだ。

 投げかけられた台詞に内心ドキリとしながらも、俺は「そう?」とそっけない返事をした。


「いいよなぁ、おまえ去年も嬉野さんと同じクラスだったんだろ。俺全然話したことないもん」

「同じクラスっつっても接点そんなにねーし」

「でも嬉野さん、たまに話しかけてくるじゃん」

「たまにって――体育委員の仕事の時くらいだろ」


 そう、俺と嬉野はたまたま同じクラスで――たまたま2年連続、嬉野はクラス委員を、俺は体育委員をやっている。そのため、体育委員の仕事がある時には話しかけられることもあるが、それ以外は特に目立った接点もない。


「それでも羨ましいんだよ。いいなー、俺も可愛い子と喋りたい」

「はいはい、じゃあ俺昼飯買ってくるわ」


 うだうだと絡んでくる斎藤を置いて、俺は席を立った。

 売店に向かいながら、頭の中で1年生の時の最初のHRホームルームのことを思い出す。クラス委員がなかなか決まらず、教室内が微妙な空気になった時――すっと手を挙げたのは嬉野だった。


「もし誰もいないのであれば――私、やります。うまくできるかわからないけど……」


 その時も、俺は後ろの席で嬉野の背中を見ていた。ぴんと張った背筋が、まるで彼女のまっすぐさを表しているようで、やけに印象的だったのを覚えている。


 そう――彼女から目が離せないのは、きっと頭に桜が咲いているからということだけが理由ではない。

 そんなことは、自分が一番よくわかっていた。


 ***


 売店は今日も混雑していた。取り敢えず目に付いたパンを4つ掴んで、さっさと会計をする。今日は部活があるから、終わった後のおやつ分も確保しておかなければならない。

 たとえレギュラーでなくても、基礎練習は平等に部員達に降りかかってくる。何となく中学でもやっていたからサッカー部を選んだが、特筆して何かに秀でているわけでもない俺は万年補欠選手だ。さすがに来年は最高学年なので、お情けで試合には出してもらえるかも知れないが。


 そういう意味では、人の頭に花が見えるようになったこの暮らしも悪くない。

 試合中のメンバーの頭に咲いた色とりどりの花は、ただベンチで試合を眺めるだけだった俺の心を、ほんの少し和ませてくれる。

 まぁ、ヘディングの時には、折れてしまわないか心配になるけれど――


「――あー、もう売り切れちゃった……」


 そんなどうでも良いことを考えながら歩いていた俺の耳に、ぽつりと寂しげな声が届いた。

 ――振り返ると、そこには嬉野あずさが、俺に背中を向けて立っている。

 頭の上の桜は、はらはらと力なく舞っていた。


「嬉野、どうしたの」


 思わず声をかけると、嬉野がこちらを見て「あ」と声を上げる。


「やだ向井くん、聞こえちゃってた?」


 そう言う彼女の頬が、ほんの少しだけ赤く染まった。


「普段はお昼ごはんお弁当なんだけど、今日お母さんいなかったから売店で買おうと思ってて――のんびりしてたら買い逃しちゃった」


 そして、ふふっと照れ隠しのような笑みを浮かべる。いつも落ち着いている彼女の珍しい表情に、俺の心拍数が上がった。


「――そ、じゃあこれやるよ」


 胸の高鳴りを悟られないように、俺は腕の中のメロンパンを嬉野に渡す。嬉野はびっくりしたように目を丸くした。


「えっ、でもこれ、向井くんの――」

「買いすぎただけだから。俺まだ3個あるし」


 そう言って俺はその場を離れる。席に戻ったら斎藤に何だか勘付かれそうな気もして、そのまま校庭に出て、中庭のベンチでパンを食べた。


 ――午後の授業が始まる前に、教室に戻る。

 席に座って嬉野の方に視線を向けると、桜の開花は午前よりもふんわりと進んでいるように見えた。


 ***


 翌日、2階の部屋から降りてきた俺が見たのは、チューリップを満開に咲かせた母親の姿だった。


「拓己、おはよう」

「……どうしたの、それ」

「それって?」

「――いや、何でもない」


 思わず訊いてしまったが、花が見えるのは俺だけだということに気付き、それ以上は言わず食卓に着く。よく見ると、納豆を混ぜる父親の頭のチューリップも満開だ。


「何か、良いことあった?」


 ぼそりと父親に問うと「あぁ、昨日母さんにおみやげのケーキを買って帰ったから、機嫌が良いんじゃないかな」と事も無げに答える。

 成る程、今日も夫婦仲は良好のようで、結構なことだ。



 学校の最寄り駅で電車を降りる。学校までの道は、今日も色とりどりの花で彩られていた。

 歩き出した俺の背後から「向井くん」と心地良い声が響く。

 驚いて振り返ると、そこには嬉野が立っていた。


「おはよう」

「――お、おう」


 挨拶もまともにできない自分に内心呆れるが、目の前の嬉野はそんなことを気にする素振りを見せない。そのまま一緒に学校までの道を歩くことになった。


「昨日はありがとう。メロンパン、おいしかった」


 嬉野が俺の横を歩いている。横目で様子をうかがうと、開花状況は八分咲きといったところか。


「そりゃ良かった。俺もパン無駄にしなくて済んだし」


 そう俺が言ったところで、嬉野がこちらを見上げる。目が合ってしまいそうになり、俺は慌てて前を向いた。

 何か話した方が良いんだろうか――そう思いつつも、何も言葉が出てこない。そうやって頭の中で格闘している内に、嬉野が再度口を開く。


「――向井くんって、本当に優しいね」

「え?」


 思わず嬉野の方を見た。前を向く彼女は、穏やかな口調で続ける。


「1年生の時のHR、覚えてる? 私がクラス委員になったのは良いけど、他の委員がなかなか決まらなくて。困っていたその時――向井くんが体育委員に立候補してくれたんだよね」


 ――そんなこと、覚えていたのか。


 嬉野がクラス委員に決まったものの、皆探り探りで他の委員決めが難航し――面倒になった俺が体育委員に立候補して、そのままの勢いで他の委員達も適当に決めてしまったのだった。あとで多少文句を言われた気もするが、あまり覚えていないということは大したことじゃなかったのだろう。

 そのまま2年生でも体育委員をやることになるとは思わなかったが――あの時の嬉野のほっとした顔を思い出すと、他のやつにやらせるのも勿体ないような気がして、結局また立候補してしまったのだった。


「たまにサッカー部の練習見てるけど、向井くんはいつも一生懸命だよね。他の子が少しサボり気味な時も黙々と練習して、試合の時にはレギュラーの子達の応援もしっかりして――そういう所すごくいいなって思う」


 予想外の言葉が嬉野の口からこぼれてくる。

 俺はどう答えたら良いのかわからなかった。まさかサッカー部の練習を、嬉野が見ていたなんて。しかも――全く目立たない俺のことを。

 何も言えずにいる俺の前で、嬉野が自分のスクールバッグを開く。中から取り出したものを、彼女は俺に差し出した。


「昨日のお礼。うまくできてるといいんだけど……」


 受け取ってみると、それは可愛らしいビニール袋に入れられたお菓子の数々だった。クッキーやマドレーヌ、パウンドケーキ……もしかしなくても、これは――


「――嬉野の手作り?」


 ぼそりと呟くと、隣を歩く彼女は黙って――小さく頷く。


 ――その瞬間、俺の目の前に桜吹雪が舞った。


 東京の桜は1ヶ月以上前に開花宣言が行われ、もう桜は散っているはずなのに。思わず嬉野の頭の上を見る。彼女の頭の桜は満開だった。

 こちらを見上げる嬉野の視線が――不意に少し上にずれ、そしてその表情が優しく綻ぶ。


「――桜、綺麗だね」


 そう言って微笑む彼女の頬は、桜色に染まっていた。



(了)

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