増える

 俺は今日も塾帰りの生徒らと、飲み会を終えたサラリーマンたちに混ざって電車に乗っていた。会社を出て右に曲がり、パン屋がある五つ目の交差点を左に曲がって駅に入る。真っ直ぐ進んで、四つある改札の左から三番目を通って、階段を上る。二分と経たず最終電車がやってくる。予定通りだ。

 駅の付近にある会社に勤めている俺は大きなプロジェクトを立ち上げ、ここのところ毎日残業続きだった。疲れも溜まっていたのだろう、自宅の最寄り駅の一つ前の駅で俺は自分のカバンに持ち出し禁止の書類を入れっぱなしにしていたことに気がついた。くだらないミスからくる焦り、遠のく愛しい寝床。半ば発狂しかけたが、文句を言いようにも自分が全て悪いのだ、拳を固く握り冷静さを取り戻す。もし自宅に持ち帰って何かあれば、プロジェクトの大成どころか自分の退職だ。俺はすぐに電車から降りて、そのままタクシーで引き返した。今夜はビジネスホテルだな。

 会社の目の前まで行っても良かったのだが、料金がかなりのところまでかさんでいたので、とりあえず会社の最寄り駅で下ろしてもらった。給料日前、寒い懐が氷河期を迎えた。もしかして野宿か?野宿しないといけないのか?いやいや、いざとなればカラオケボックスに泊まればいい、コンビニで何か買って腹を満たそう。

 限りなく灰色に染まった今夜の予定表を悶々と埋めながら深夜の街を歩く。風が冷たい。冬が終わったものの、まだまだ春には遠そうだ。あ、そうだ。あそこのパン屋は、深夜に売れ残ったパンを袋詰にして、自販機にして売っている。……そういえばパン屋が遠い。駅を出て一つ目の交差点にあるはずだ。今二つ目の交差点を通ったぞ…?あ、あった……俺が疲れていて勘違いしたのか?それとも俺がタクシーを降りる場所を間違えたのか?まあ、いい。さっさとパンを買って……?

 自販機はいつも二×三のマスでパンを並べていた。しかし、いつの間にか四×五になっている。さっき俺が通ったときは二×三だったような。まあ、今日初めてこの自販機にお世話になるし、今までろくに見てなかったから間違えても不思議じゃないな。…いやいや、そんなはずは…、あ、俺の好きなピザパンとアンパンを詰めてるやつがある。うはっ、チョコドーナツまであるじゃないか。他には切ったフランスパンに、食パンにエトセトラエトセトラ……。これにしよう。七百円。こういうのってワンコインじゃないのか?まあいいか、そんなこと。空腹に耐えかねた俺は誰も見ていないのをいいことにピザパンをむしゃむしゃと食べながら八つの交差点を通り、会社についた。

 いやいやいやいや、待て待て待て待て。今まで五つの交差点しかなかったはずだぞ。こんな特急工事があってたまるものか。ドラえもんじゃなきゃこんな芸当は不可能だ。タクシーがタイムマシンだったのか?しかも通ってきたビルもなんだか怪しい。なんというか、寒気がするというか、異様な空気が充満していてそれが通りにまで流れ出てくるのだが、それを吸ってしまえば五臓六腑をすべてぶちまけて死ぬような…。とにかく嫌な感じがした。みてくれは至って普通なのに。

 会社は普通だった。エントランスはまばゆい光を放ち、どことなく人を安心させる。自動ドアから入ってエレベーターまでの空間の両壁に視力検査で使う例の垂れ幕が続いていた。社長が「今日から視力改善週間だッ!」とかいってこんなもの下げてもう九年にはなる…。出社したときの癖で、垂れ幕の一番上のデカイやつだけを左から回答するようになっていた。

 左、左、右、右、上、上、下、下、右上、左下。またおかしいことになっている!いつもなら左、右、上、下と四つだけなのにどうしたんだ?幕の幅も長さも倍になって床に引きずられている!?一番下なんて指で弾いたダンゴムシのようだ…。今夜社長がいそいそと張り替えたのか?ええい、さっさと書類を戻して寝るのだ。朝起きてアンパンを食べればすべて元通りになっているんだ!

 俺は十一のエレベーターの五つ目を選んで、うおおおおい!なんで三から八も増えているんだ!変化が二乗関数のように加速していく!分かった、これは夢だ。俺はまだきっと電車の中で、書類をもとに戻せば発車ベルとともに目を覚ますのだ!エレベーターの扉が開く。すぐさま飛び込んだせいでガラス張りの壁にしこたま頭をぶつけて、壁にヒビが入り、ちょっと血が出た。えーっと六階六階、あった…?最上階…百三十五?宇宙にでも出張する気か?よし、夢だ。確信した。一周回って安心。

 六階について、窓から四番目の自分の席につく。書類をフォルダーに戻してほっとため息をついた。席を立って見回してみる…。テレビで見た深海探検のような景色に気絶しそうになった。どこもかしこも机机机…。遊園地の『鏡の世界』といい勝負だ。椅子に座って呆然と天井を見上げる。

 …うすうす勘づいてはいた。これは夢じゃない、凄腕の建設業者の仕業でもない。超常現象だ…。こうなったらとことん原因を突き止めてやる。アラサー崖っぷちのサラリーマンだと思って舐めるんじゃぁないぞ。とりあえず一階に降りなくては。

 窓の外を見る。真っ暗なビル群の中に、ぽつりと明かりが灯る小屋がある。…いや、小屋じゃない立派なビルだ。そうだ、あれはいつも会社の隣でワークショップだかなんだかのテナントになっているビルじゃないか。あんなに小さいわけがない。どんどん小さくなっていく…違う!俺が昇ってるんだ!周りのビルも雨上がりのタケノコのようにぐんぐん伸びていく!もうスカイツリーくらいは来てしまったんじゃないか!?空気が薄い…!このままじゃあ本当に宇宙まで昇天出張してしまう!パニックになって十七のエレベーターの全部のボタンを押しまくった。また増えている!かまってられるか!エレベーターが来た!飛び乗れ!一階だ!一階のボタンを押すんだ!みるみる内にボタンが増えていく…もう千はあるぞ……。一階を押した先から二、三、四と変化していく!押せ押せ、押しまくれ!とにかく下へ向かうんだ!エレベーターが動く。エレベーターが降りるよりも速くビルが伸びていく!宇宙で孤独死は嫌だあっ!間に合わない、どうにでもなれぇっ!

 ガラスのエレベーターを通勤カバンでぶち破った。ガラスが砕ける甲高い音、カバンが震える鈍い音、何重奏かもわからない音が夜空に拡散していく。もはや何階かもわからないこの場所から飛び降りた。言葉にもならない声を上げながら落下していった。この黒々としたアスファルトが最期に見るものか……。

 いや、白い。真っ白で小さなものがこの街全体を埋め尽くしている。コケ―ッ、コケ―ッ!と鳴くのが聞こえる。まだ夜なんだ、お前たちが鳴くのは明け方だろう…鶏!?なぜ…俺は確かに酉年だが…関係ない!今は!少なくとも!

 身を翻した瞬間、例のテナントビルの中が見えた。瞬間、時が止まる。その部屋は大学の講義室のような階段状になっていた。電気がついていた。大勢の人々が着座して、鶏を抱えていた。細かく膝が動いているのが見える。貧乏ゆすりだ。彼らが貧乏ゆすりをする度、鶏が増えていく。ドカドカという音とコケ―ッ!という鳴き声が白んだ空に鳴り響く。見下げると(俺は頭から真っ逆さまに落ちていた)例のビルの屋上から無数の鶏がこの街に溢れていた。

 ああ…そういえばこんなことを聞いたことがある。どっかのなんかの大富豪が世界中の貧しい家庭に鶏を配るんだとか。やすい餌代で、毎日卵を売れる。産めなくなれば肉を売る…。余すことなく利用でき、子供やお年寄りでも扱いやすい家畜だ。(でも、それなら雌鳥だけ増やせばいいのでは?)きっと、彼らはそれに激しく共感したのだろう。いや、共感なんて生ぬるいものではない、信仰だ。さながら鶏教コケコッキョウなる信仰が人間の非科学的な力を極限まで引き出し、このような事態を引き起こしたのだ。きっとビルや道路がどんどん増えていくのはその影響だろう。増えろ、増えろと念じる彼らの姿を見ればよく分かる。あの真剣な眼差し。今なら瞬く星も消し去りそうだ。これだけの力が外に漏れ出ないほうがおかしいのだ。

 講義室の正面に女がいた。若く、真っ白な髪に赤毛が一房混じっていた。リーダーだろう。ポニーテールで黄色い丸メガネをかけていた。…見たことのないような笑顔だった。本当は鶏教コケコッキョウも関係なく、ただただ鶏を愛しているだけなのかもしれない。俺はたまらなくなって吹き出した。だってそうだろう?こんなに一心になって好きなことに取り組んでる人を見て微笑まずにいられるか?途端に、時が進みだした。俺は……


               コケ―ッ!


 ふと、目が覚める。俺は会社の前で大の字になっていた。まだ薄暗く、夜勤明けと、だらしなく酔った人々、虚ろな目をした子供らが俺に目を向けるがすぐに反らした。……街は、なにもかも元通りになっていた。いや、胸のところが重いな。それにくすぐったい。……雄鶏?俺の一張羅の上をよちよちと歩き回っている。こうして見てみると…意外と可愛らしい…?左手に持っていたパンの袋は空になっていて、パンくずと無造作に散らばった白い羽、焦げ茶と紫の鳥の足跡が俺の左手周りに残されているだけだった。未練たらしく小豆とカカオが香る。

 仕方がないので、案外大人しい雄鶏を抱えて出社した。左腕に鶏、右手に通勤カバン、足跡まみれのスーツとワイシャツ。ホコリまみれのローファー。エントランスには誰もいない、受付の人さえも。視力検査の垂れ幕はもとに戻っていた。左、右、上、下。うん、いつも通り。エレベーターも三つだった。ボタンも七階に戻っていて、ぶち破ったはずのガラスも傷一つ無かった。六階に上がり、自分の机に向かった。書類はフォルダーに挟まっていて、俺は胸をなでおろした。きっとパン屋も元通りだ。キョエちゃん(雄鶏の名前、即興でつけた)を、色々取っ払って空にした机の一番下の引き出しにそっとしまい、空気穴代わりに少しだけ隙間を開けておいた。同僚に見つかりませんように、と。朝礼が始まった。今日から新人研修から帰ってきた子たちがここに配属される。今年は四人だった。

 左から二番目。例のポニーテールの女の子が、そこにいた。

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先輩と後輩と諸行無常 青毛の子 @mutsunia

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