蝋梅  二月は師の教えとともに生きる

 冬の清流に浸した刀が白銀に煌めいた。

 刀を返し、水を中空へ巻き上げる。水飛沫とともに舞い上がった鮭二匹を、小刀を投げて前方の木へ磔にした。鮭は血を流しながらも尾を激しく揺らした。

 銀嘉ぎんかは息を吐いて刀を拭って鞘に収め、木の前へ移動する。

 鮭は丸々太っていて美味そうだった。


 魚は衣をつけて揚げるのが銀嘉は好きだが、脂の乗ったこの新鮮な鮭を炙って塩を振るだけでも充分に美味しいと、銀嘉は山へ来て初めて知った。

 それでもたまに揚げ物が恋しい。口の中でとろけるような脂が乗った身と、揚げたてのさくさくした衣の食感……。

「……やめよう。叶いもしない想像なんて虚しいだけだぜ」

 銀嘉は小さな竹籠に鮭を入れて持ち帰った。


 銀嘉は、南方からやってきた白虎の若者だ。

 現在は南東にある森の滝壺近くに棲んでいる。そこで白彼岸花の土地神を守る老花守の小波さざなみに弟子入りしているからだ。

 小波は百年前の内戦では最前線で戦い続けた武人で、その働きは守護武神たちにも認められ、ついには霊獣の中でも選ばれた武人しかなれない花守に就いた。

 百年も経てば当時の勇将も穏やかな老人に変わっていたが、それでも武人を目指す者として小波に憧れる気持ちは変わらない。

 銀嘉は彼から武人として鍛えてもらおうと意気込んでいた。


 が、実際は違った。

 小波はあまり手ずから戦いや稽古の指導をしてくれないのだ。

 銀嘉が自主的に鍛錬しているのを横から見ているだけである。それどころか、戦いには明らかに必要のない知識だけは熱心に教えられては実践させられる。

 この川で鮭を獲るのも小波に言われてやったことだ。

 ついでにいえば、鮭を入れているこの籠も作らされた。

 竹を採り、細かく裂き、それをひたすら編むのだ。簡単な小皿、籠、机や椅子くらいなら竹ひとつで作れるようになってしまった。


 他にも魚釣りの方法、火の熾し方、山で採れる山菜や木の実の見分け方、天気のこと、山のこと、その他雑学も。

 何でこんなことばかりやらせるんだと訊いてみたこともある。

「若いんだから何でもやってみて、覚えてみなさい」

 好々爺の笑顔でそう言われる始末。

 正直納得はいっていない。銀嘉は一人前の武人になりたいのであって、山で生活する術を身につけたいのではないのだ。

 かといって、こちらから弟子入りした以上、修行を放り投げて故郷に帰るのも情けない。ここへは守護武神の竜海たつみの計らいで来ているのだ。帰っては主人の厚意を無にすることになる。


 蝋梅ろうばいの香りがどこからか漂った。

 白彼岸花の元へ帰ると、他の霊獣がいた。守護武神である常盤ときわと竜海の遣いで、茸や野菜、豚肉やお茶を届けに来てくれたのだ。

 茸は乾燥させてあるのでいつでも使えそうだ。

 野菜は水菜と蕪を中心に、白菜やほうれん草、大根など。

 豚肉は腿から足の部分と、もうひとつ塊があった。塊は正直どの辺の部位かわからない。小波は肩の部位だと教えてくれた。


 小波は老いてなお壮健で何でもよく食べるのだが、これらの食材を前に嬉しそうに瞳を細めた。

「いやあ、お二人はいつも下の者を気にかけてくださって、本当にありがたい」

「小波様、これらはどうするのですか?」

 まさか一気に全部食べるとは言わないだろう。

「雪の中に包んで保管しましょう。この時季なら外気のおかげで保管できます。食べ物は基本的に凍らせたり干したりして長持ちさせます。夏は滝壺の裏や川の傍が一番冷えて保管できますよ」

 小波は人差し指を立てた。


 人の好さそうな顔には皴ができていて、どこからどう見ても雑学を教えてくれる近所の好々爺である。とても古の内戦で戦いきった勇士には見えない。

「さあ、今夜は鍋にしましょう。火を熾してくれますか」

 小波に言われて、銀嘉はすっかり慣れた手つきで川辺に火を熾した。

 鍋に川の水を入れ、火にかける。水がない山奥の場合は雪を鍋で溶かして水を手に入れろと小波が教えてくれたことがある。

 包丁の扱いや食材の扱いもこれまで小波に教えられてきた。


 豚肉の腿と足を解体し、豚足と骨を先に鍋に入れる。正直銀嘉は味にそこまでこだわりがないので、出汁を取る手間をただ面倒だと思う。余生の少ない小波のゆったりとした生活は若々しい熱気に逸る銀嘉の血の巡りとは圧倒的に合わない。

 骨と豚足を取り出し、刻んだ野菜を鍋に入れていく。

 その間に小波はどこからともなく調味料の瓶を持ってきて、塩をまぶし、唐辛子、生姜、大蒜などを刻んで入れた。


 食材の保管方法に料理の仕方。こんなことを知っても武人になれるとは到底思えない。言われた通りのことをしても、銀嘉の血が沸き立つのは抑えられない。ひとりで鍛錬を続けても、強くなっているという実感はどうしても湧かない。

 鍋が煮えたところで器に具をよそい、二人で食べた。

 熱々で辛みの強い豚骨汁はコクがありつつもさっぱりしていて飲みやすい。銀嘉もすっかり唐辛子がたっぷり入ったものが平気になった。味の沁み込んだ水菜はしゃきしゃきしている。豚肉はよく煮込んだおかげでとろけるように柔らかかった。


「時間をかけると料理は美味しいでしょう」

 料理に時間をかけるなんて馬鹿らしいと思っている心の内を見透かされているような気がした。

「美味しいものが傍にあると、美味しいもののよさは判りにくい。ものを教えられるのと教えられないのとでは見聞に大きな差が出る。その影響もすぐに判るものではありません」

 小波は美味そうに器の中を煽った。


「武芸だけを教えて、お前を武人にするのは簡単です。でも、武人になるだけでは人生の深淵は見えてこない。人生を知り、生を知り、己を知るには、色々なものを学ばなくてはならない。後悔せず生きるために、どんなことも学びに変えなさい。そうやって作られていく心と知恵と価値観は、お前を豊かにしてくれるでしょう」

 小波は、今まで人生で得た経験のすべてを銀嘉に伝えようとしてくれている。


 正直籠の編み方が銀嘉の人生をどう豊かにするのかはわからないが、小波はどんなものも学びに変えろと言った。それが小波という勇将を作ったのならば、銀嘉は音を上げずにまずはやってみようとすら思い始めている。

「何事も若いうちですよ、銀嘉」

 銀嘉は器の汁物を勢いで飲み干した。

 今日は小波のくどくどとした物の教え方もあまり気にならなかった。




 鍛錬が終わって川に水を飲みに立ち寄ると、美味そうな太った鮭が泳いでいたので何匹か獲った。その場で籠を編んで鮭を入れ、野営地へ戻る。

 どこからか蝋梅の香りが漂ってきた。

 鮭が獲れたぞと銀嘉が言うと、年若い部下たちがはしゃぐように歓声を上げた。

「ほら、その辺の枝を削って串を作るぞ」

 銀嘉はさっそく小刀で鮭を差して通すための串を作り始める。


「銀嘉様、魚を獲ったり狩りをしたり、よくしますね。串や籠もその場で作ってしまうし……」

「え、その籠、自分で作ったんですか?」

「そうだが」

 自分で編んだのだと言うと、部下たちは一様に驚いた顔をする。

「銀嘉様って何でもできますよね。色々なことをよく知っているし」

 そうかなと、相槌を打ちながら串を完成させ、鮭を通して焚火の傍に添える。


 今は守護武神の側仕えにまでのし上がり、周囲に一目置かれる武人になった。部下がいて、若者たちを率いる立場だ。

「お前たちも武一辺倒じゃなくて、こういうのを覚えておくと何かと便利だぞ」

「こんなことがですか? 武人に必要だとは思えませんが……」

 銀嘉は昔の自分を見えているようで思わず笑ってしまった。

 若かった頃は疑問に思っていたことも、一人前になった今になってみると、すべてが自分を助けてくれる大切な知恵や知識なのだと理解できる。できることがひとつ多いだけで、自分の行動範囲はどんどん広がっていく。


 空の広さ、大地の広さ。それを感じながらも自分の立つ大地と空を自分のものにすること。それが銀嘉の人生を豊かにしてくれる。

 それは自身の血や肉を与えるようにして、人生で得たすべてを教えてくれた師のおかげなのだと、銀嘉は今になって思う。

「すべて若いうちだぞ、お前たち」

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