片栗  三月は季節の廻りに命を知る

 あたたかな日差しが川の氷を溶かし始める、立春。

 鶯の初音が響くようになり、今まで氷の下に隠れていた川魚が跳ね上がる。冷たい土から芽吹き始めた新芽に、春の陽が当たる。


 山野を渡り歩いていると、季節の移り変わりを敏感に感じる。

 故郷にいた頃は季節が変わることをこんなに間近で感じてはいなかった。故郷の山は冬が長かったから。

 いや、おそらくは鳥や風の声に耳を傾けることをせず、ふいごの音を聞き、鉄が溶ける熱気だけを肌に感じていたせいだろう。季節の細やかな変化に五感を委ねたことはなかった。


 芽吹いたばかりの若葉の色や、鶯の声に春を知る。

 春の風の中にいて、八瀬やせはそうしたことを初めて肌で感じた気がした。

「随分春めいてきたね」

 前を歩く嵯峨さがが、森を見上げながら呟く。森の色をした水干すいかん姿の小柄な人間だが、どれだけ森を歩き回っても彼は疲れを見せない健脚を持つ。

「そろそろ春の山菜や野草が食べ頃だ」

「野草? その辺の草を食うのか? いや、食えるのか?」

 嵯峨が振り返る。ぎょっと目を丸くしている。


「野草だよ? もしかして、食べたことない?」

 そんなに驚くようなことを言っただろうか。信じられないという顔をしている。

「我ら一族は、あまり菜や草の類は食わぬ」

 八瀬たち白鬼はっきの一族は火山地帯に棲み、鉄を鍛え、刃を研ぎ、獣肉を食べていた。他に魚や米などは食べるが、野菜や果物は好まない。


 白鬼族は神の矛とも呼ばれた武人の霊獣一族だ。

 武芸を第一とする白鬼たちの価値観は、おそらく他の霊獣たちとも少しばかり違っていたのだろう。頑固にひとつの価値観にしがみついてさえいなければ、今は八瀬ひとりを残して滅ぶことはなかったはずだ。

 とにかく、そうした価値観の中に食もあり、八瀬は今までほとんど山菜や野草は食べたことがない。


「味噌汁とか、煮物とか、漬物とかも食べないの?」

「決して食わぬわけではないが……」

 付け合わせとして味噌汁や漬物に野菜を使いはするが、ほとんどそれだけだ。

 野菜や山菜を主とした料理を、八瀬とその一族はほぼ食べなかった。だから野草を摘んで食べるということはしたことがない。

「君たち白鬼族は大柄で屈強だからね。肉ばかりという食事も、君たち鬼の剛力と身体を作るのに一役買っているんだろうね」

 小柄な嵯峨は、巨躯を持つ八瀬を見上げながらそう言った。


「反対に僕は、ほとんど五穀と山菜しか食べたことないかな。川魚を釣って食べるのも好きだけれど、獣肉はあまり食べたことがない」

「そんなだから嵯峨殿は小柄でひ弱なのではないか?」

 口をついて出た言葉に、彼は気を悪くする素振りも見せず笑うばかりだった。

「そうなのかもしれない。普段食べているものによって、身体の成長や不調はよく表われると言われているからね」

 それは確かなことだろう。嵯峨も八瀬も体格の差が激しい。白鬼たちは誰もが大柄で剛力を持っていた。


「でも、美味しい山菜や野菜だってあるし、狩りがいつもうまくいくわけじゃないだろう? せっかくだし山菜を摘みに行こうか」

 嵯峨は八瀬に向けて微笑んだ。

「いつもはお互いに好きなものを採って食べるのにか?」

「君にも山菜の摘み方を教えておきたいからね」

 嵯峨は山をどんどん進んでいってしまう。仕方ないのでついていく。


 嵯峨に命を救われ、彼の旅に同行することになって早一年。

 季節はようやくひとつ廻り、再び春がやってきた。

 山の高いところはまだ雪を被って白く眠っているが、山の低地や南の方は既に雪が溶け、冷たい水が川に注いでいる。雪解け水で濡れた土の下からは植物が芽を出し始め、鳥たちが森を行き来するようになった。木々の合間から差し込む日差しはあたたかで、頬や腕に日差しが触れるたびに、じんと熱を持つ。


 八瀬は嵯峨に続き、山の中を歩いた。

 あんな薄い葉っぱなんて美味しくなさそうだが、嵯峨は美味しそうに食べていた。どんな味がするものかと、歩きながら少し興味を持った。

 山を歩きながら、嵯峨は注意深く地面を見回していた。

 嵯峨は土筆つくし、タラの芽、嫁菜、母子草、野蒜のびる酢漿草かたばみそうなどと名を呼びながら、用意していた籠に入れていく。

 野草の名を教えられながら一緒になって摘んでみるが、八瀬にはどの野草がどう違うのか、さっぱり解らない。


 武に生き、風雅を解せぬ八瀬にとって、桜、梅、蓮、水仙、牡丹など有名で特徴的な名の花しか知らずに生きてきた。嵯峨は、何の変哲もない草を摘んで「これは芹だね」などと言っている。

 嵯峨が小さな籠いっぱいに野草を摘むと、川辺を探した。

 摘んだ野草をさっと洗って湯がき、携帯している味噌や胡麻で和える。乾燥させた保存食の米を湯で戻してから野草と一緒に食べた。

 一口食べて、やはり植物の持つ独特の苦みとしゃっきりした食感が口に広がった。何とか喉に流し込むと、目の前では嵯峨が大層美味しそうに同じものを食べている。自分の分を何とか食べきるが、腹に溜まらないので食べた気がしない。


 旅の道中で、ふっくらした米を毎日食べられないのは仕方ないにしても、こんな葉っぱばかり食べていたのではとてもやり切れぬ。

「嵯峨殿は、毎日これを食っているのか?」

「どうだい? なかなかいけるだろう? 春の山菜は少し苦めのものが強いけれど、それが春の植物らしい味で僕はけっこう好きなんだ」

 そう言って微笑む嵯峨は本当にそう考えているようで、八瀬は閉口するばかりだった。苦々しい顔つきで黙る八瀬の様子から何を思っているか察したのか、嵯峨は困ったように眉を下げた。


「まあ、食べ慣れれば少しは変わるかもね」

「食べ慣れる気がせぬし、食っても腹に溜まらん」

 恩人の嵯峨が勧めるものを突っぱねるわけにもいかず、不承不承、しばらく嵯峨に合わせて野草に慣れることにした。

 そう思ったのも数日だけ。

 三食の食事が野草か野菜ばかりではさすがに滅入った。たまに川魚を食べるが、それだけではやはり満たされず、ひたすら肉を食べたい欲求にかられた。

 兎、野鳥、鹿、猪、何でもいいから肉が食べたかった。


 ともに旅をする嵯峨は八瀬の心の内に察するところがあるのだろう。「久しぶりに今夜は肉にしようか」と言ってくれた。

 八瀬は久々に気が昂って兎か鹿を獲ることに決めた。

 山の中、動物の痕跡を追って分け入っていく。途中、兎がいる辺りに見当をつけ、罠を張った。周囲にも同様の罠を張り、あとは引っかかるのを待つばかりである。

 近くにいては兎も寄りつかぬと思い、罠から少し離れた。

 木々の合間を通り抜けて、小さな花畑に出た。


 明るい緑の葉が敷かれたその合間から細い茎を伸ばし、薄桃色の花がにゅうと突き出ていた。あまり大振りの花ではないが、群生している様は何とも春らしい爛漫な姿だった。

「これは、片栗かたくりだね」

 嵯峨が驚きと喜びを混ぜたように目を輝かせた。

「これはそんな名の花なのか」

「これも食べられるんだよ」

「これもか? こんな花をどうするというのだ?」

「さっと茹でておひたしとか酢の物なんかによくするかな。あ、干すと保存食にもなる」


 嵯峨は足を踏み出し、花畑の前で屈む。八瀬も彼の隣で屈んだ。

「……八瀬殿。この花はね、早春の、まだほかの花が咲かない時期から花を咲かせる。野山での生活が多い僕にとっては、この花が僕の春告草はるつげぐさだ」

 都などでは、梅の花が春告草だとよく言われるらしいが、山々を渡り歩く旅人の嵯峨にとっては違うらしい。

「片栗は春の間にしか花を咲かせない。けれど、実は多年草なんだ」

「多年草とは、複数の季節に跨って咲くものではないのか?」

 以前、嵯峨自身がそう教えてくれた。そうだよ、と彼は答える。


「彼らは春の間花を咲かせる以外は、土の下でひっそりと生きる。春の時季に一枚だけ葉を出すことを繰り返して、開花を待つのさ。花が開花するまでに、七、八年ほどかかるといわれている」

「なに? そんなに長い間花が咲くのを待つのか?」

 驚く八瀬の反応が想像通りだったのか、可笑しそうに笑いながら嵯峨は片栗の花畑を見渡した。

「すごいだろう? たったひと月あまり花を咲かせるために、彼らは長い時間をかけるんだ。花が咲けば毎年花を咲かせて実を残すんだけれどね。その寿命は五十年ともいわれているよ」

「人間とほぼ変わらんではないか」

 八瀬は感嘆の溜息を漏らす。


 七、八年という長い年月をかけて花を咲かせ、そして人と同じくらいの寿命を全うする。こんな小さな花が、長い時間をかけて生きているということに、八瀬は植物の力の一端を思い知った心地がした。

「植物は何も言わないけれどね。でも、動物に種を運んでもらったり、他の植物を枯れさせる毒を持っていたり……。動けず喋らずの彼らにも生きていく知恵があって、動物たちと共存することでこの世に逞しく生きている。僕は、そんな植物たちが本当に好きなんだ」


 目を細めた嵯峨の萌黄色の瞳は、どこまでも優しい。

 植物を心から慕い、敬う彼の心がありありと読み取れた。

 こんな、どこにでもありそうな小さな植物が、季節や時、周囲の動物たちと折り合いをつけて、生きている。

 八瀬たちと同じように、生きているのだ。

「――美しいな」


 豊かな緑が根を張り、その恩恵にあずかって、虫も獣も鳥も、人も生きている。

 多様な命が育まれ、まれ糧になり、食んで糧にすることで、また次の命を遺してゆく。

 どこまでも流れる川のように、永遠に廻る命の一部がここにあった。


 降り注ぐ春の日差しを受けた片栗は、俯くように咲いている。春の日差しを眩しそうに受ける片栗の花々は、この春の情景の中にあって格段に美しかった。

 嵯峨は片栗の花を少しだけ摘んだ。

 その後で罠を見に行くと、兎が一匹かかっていた。必死で逃げようとする兎を憐れと思えど、八瀬は捕まえた兎の息の根を止めて皮を剥いだ。

 生きることは他の命を食すということだ。必要なものをいただくのは生きていくうえで当たり前のことであり、必要もないのに殺すことこそ残酷な行いである。


 その晩の夕餉は炙った兎の肉と、片栗のおひたしである。

 久々の兎の肉は言うに及ばず、片栗は苦みの中に、ほんのり春の甘みのある野草であった。

「……旨い」

 素直にそう言うと、嵯峨は嬉しそうに兎肉にかぶりつく。

「野草も美味しいものだろう?」

 頷きながら片栗を味わう。

 春の味は少し苦いが、前ほど苦手とは思わなくなっていた。それは野草に慣れたからなのか。彼らの逞しさに感じ入ったからなのか。

 嵯峨と二人、食べることで命を繋ぎながら、植物を咲かせる旅は、命のわだちのように廻っていく。

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