福寿草 一月は君が心をくれたとき
一年で一番日が短い日を冬至といい、
この時季にある行事が
古清水の守護武神が新しい年の訪れを
冬の守護武神の
新年を祝う晴れやかな空気が時間とともに薄れていくと、一層冷たさが増した北山の凍りつく空気が強まっていく。
冷たく澄んだ空気に心身が触れていると、自分の居場所に帰ってきたような安堵を覚える。正月の儀式や宴の賑やかな空気、友人たちとの語らいも嫌いではないが、あれは年に数度だから嫌いにならないだけだ。頻繁にあればおそらく疲れるし、やはりあれば特別な日だから楽しいのだろう。
だから正月が過ぎ、ひとり静かな場所で雪を見ていると、自分の日常が帰ってきたと実感する。
山の中に福寿草が咲いていた。白と灰色の濃淡で作られた冬の雪山の景色にあって、鮮やかな黄色い花は真白の目には雪より眩しく映る。
静かな場所で花を見ていると時が止まったように感じるが、実際にそんなことはない。そろそろ戻らねばならない。真白は庵に戻ることにした。
真白の住処は屋敷と呼べるような立派なものはない。眠る場所と、仕事ができる場所さえあればいい。代々使われてきた草庵が真白の家だった。
真白は静かな場所を好むので、住み込みの霊獣はいない。昔は家裡を整えるための通いの者が来ていたが、今は妻がひとりでこなしている。
山中から戻り、足を拭いて庵に上がり込むと、気配を察してすぐに妻が迎えに出てくる。
「真白様、おかえりなさい」
妻の
首を下げるように少し屈むと、訃結は手拭いで真白の頭と肩の雪を拭いてくれる。
「すぐお仕事に戻られますか?」
「ああ」
「では、夕餉はお部屋にお持ちいたします」
妻は一切を心得た様子で手拭いを持って奥へ引っ込んだ。
面倒なやり取りや意思の疎通が最低限でいい。真白は部屋へ戻って途中になっていた着物の刺繍の作業を再開した。
友人の
常盤はてっきり誰かが紹介した娘を義務的に嫁に貰うと真白は考えていた。
常盤は不愛想な印象とは違って他者を気遣える男だが、神の責務を何より重んじる。結婚すらその責務の内と捉えるだろうと真白は思っていた。
しかし予想に反して、常盤は突然雫姫を真白たちに紹介してすぐ祝言を挙げた。
その後すぐ内戦が勃発し、真白は死を司る神として多くの死者を送った。
死者を送るとき、真白は怒りと悲しみと恨みに満ちた死者の記憶を見てしまう。内戦で亡くなった霊獣たちの、大量の記憶が真白に流れ込できた。
戦いの後はしばらく山に篭ってひとりで過ごした。精神がひどく疲弊し、ことあるごとに死者の怒りと悲しみが混じった生々しい感情を思い起こした。
先代である真白の母は死者の情念に触れ続けて発狂し、弱って死んだ。
家族を持ってからの母は死者の記憶に苛まれる頻度を増やしていた。
だから真白は取嫁に積極的に踏み切れず、よく常盤たちを心配させていた。
そんな真白の元に通いの女中としてやってきたのが訃結だった。
睡眠も食事も荒れ放題だった真白のために真白の護衛たちが選んで送ってきたのだが、死者の未練や負の感情に触れ続けていたせいで、真白は他者との関わりが煩わしくなっていた。
だから訃結が掃除や洗濯をする気配が嫌だったし、彼女が用意する食事もほとんど受けつけなかった。山の中に実っている野葡萄を抓んで過ごすようなこともあった。常に訃結に背を向け続けるような状態だった。
普通そんな態度を主に取られ続けると疲弊し、耐えられなくなって来なくなると思う。情の薄い自分でもそう思うのに、訃結はきっともっと辛かっただろう。
だが、訃結は毎日真白のための食事を作り続けた。
湯気を上げる膳に手をつけるようになったのは一体いつ頃だっただろうか。
多分ものすごく空腹だったときだと思う。守護武神同士で久しぶりに鍛錬でもして、体力も
おそるおそる膳に手をつけると、熱くて味のする料理を少しだけ食べられた。
身体の力がほっと抜けた。
それから少しずつ、作り立ての料理を見ても嫌悪感は抱かなくなったし、匂いで気持ち悪くなることもなくなった。庵の中に訃結の気配があることが当たり前になってきた。
言葉を交わすことも増えた。口数の少ない真白の心中を慮ることが訃結は上手で、少ないやり取りの中で真白の意思をよく汲んでくれる。
そういう何気ない日々の積み重ねで、妻にと意識し始めたのだ。
具材を切る音や調理の匂いが厨房の方から漂ってきた。
じきに食事だと思いながらも、真白の指は黙々と着物に糸を通す。刺繍や縫物が好きで、よく友人たちから妻子のための着物を誂えてくれとよく頼まれる。今裾に刺繍しているこの着物は妻に贈るためのものだ。
集中するとあっという間に支度ができたと呼ばれた。
訃結はあまり自己主張もしないし口うるさく何か言うことは滅多にないが、料理が冷めることは残念がる。
隣の部屋へ向かうと、既に膳が据えられている。
今日は白米に
「河豚とは珍しい」
「新鮮な河豚を秋の守護武神様の使いの方が捌いてくださったのです」
秋の守護武神とは友人の
河豚は調理できる者が少ない。毒があって適切に捌ける者がいないと食べられない食材なので、食卓に上がるのは珍しい。
料理の良し悪しには興味が薄い方だが、訃結の料理は美味しくなかったことがない。塩を振った天ぷらを口に運ぶと、身のしっかりした魚とさっくりした衣の食感がいい。
「美味いな」
素直にひと言ぽつりと漏らせば、訃結はとても嬉しそうな顔をする。
「真白様は昔から美味しそうに食べてくれるので、作るのが毎日楽しいです」
確かに訃結の料理は美味しいが、そんなに美味いと言った記憶もなければ、表情にも出していないと思う。一体真白のどこを見てそう思ったのか。
「私はそんなにわかりやすいのか」
「それは私だからわかるのだと、自惚れたいところですわ」
妻は頬を赤らめながら小さく笑った。彼女はいつも前向きで明るい。
「傍におればわかることも増えよう」
「お傍にお仕えし続けられるのは、真白様が優しいからですよ」
思わず訃結を見た。
昔は彼女を無視し続けた記憶しかないし、真白は妻には助けてもらうだけ助けてもらって、あまり自分から妻のために何かしたことはない。真白が優しいとは到底思えないのだが。
「私がお仕えし始めてすぐの頃、私が足を滑らせて川の中に落ちて帰ってきたとき、真白様は縫ったばかりのすごく上物の絹の着物をくださって着替えてこいって言いました」
「そんなことあったのか」
あの頃は精神が疲弊していて、あまり細かなことは憶えていない。
訃結はあの頃の真白の精神状態をよく知っているからか、真白が憶えていないと言っても気を悪くする素振りもない。
「ありました。そのときの薄青の着物、大事に取ってあります。着た私を見て、薄い色のものがやはり似合うっておっしゃったのです。黄色の花の刺繍でより華やかに見えていいって」
精神的に不安定でも言いそうではある。着物を仕立てていると、その者に合う色柄を考える癖が真白にはある。
「――私、そのとき好きになってしまったのですわ」
「そういうものなのか」
「そういうものです」
感情を殺し続けて死者の魂を送り続ける真白は、慈悲や愛情というものからひとつ隔てた場所に自分を置くように心がけている。
だから妻が真白に寄せてくれるものを心から受け入れ、同じ心を返しているとは到底言い難い。
そうであっても、自分のために尽くしてくれる訃結に真白は感謝しているし、彼女を蔑ろにはしないと決めている。
真白にとって訃結は、雪山に咲く福寿草のようなものなのだろう。
訃結の料理を口にすると、腹が満たされて落ち着く。
食べていると生きているという実感が湧き、不思議と明日のことを考えられるようになる。身体の強張りが解けて夜は眠りにつける。
昔は思いもよらなかったことである。
「……ご馳走様」
「はい。すぐにお茶を淹れてまいりますね」
「頼む」
妻が見放さずに真白に料理を作り続けてくれたから、今真白は生きている。
だから真白にとって食事という行為は、生きようとする行為のかなり大きな部分を占めているのだろうと思っている。
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