桂花 十月は秋の実りを楽しむ
段々と寒さが深まっていく、秋分の時節。
日の長さが昼夜で同じくらいになる秋分の日が終わると次第に空気が澄んでいき、秋の気配が濃くなっていく。
着物から着慣れた服に戻ると身体が軽やかになる。
着物は柄や色の組み合わせが無限大だから、帯や帯揚げを変えるだけで着物全体の雰囲気が変わる。それが面白くて着るのは嫌いではないけれど、身体を思いきり動かせないのが不自由だ。帯の締めつけも気になって仕方ない。着慣れていないせいもあるだろうけれど。
老舗呉服屋で着物を試着する仕事を終えたばかりだった。
立ちっぱなしだし、宣伝のために立つから笑顔も崩せないし、帯のせいで背筋がぴんと張って肩は凝るし。
終わった後に気疲れがどっと押し寄せた。
こうした着物や小間物の宣伝は色々なものが着られて楽しいのだけれど、やっぱり音楽の仕事の方が性に合っている。
今日の仕事はお昼で終わりだから、家で楽器を弾きながらゆっくりできそうだ。そう思うと疲れた足も少し軽やかになる。
「よし、こうなったら徹底的にくつろいでやる!」
明日からまた仕事が詰まっている。そのためにも今日はゆっくり休もう。せっかくだから何か美味しいものも食べながら。
気が乗って、帰る前に寄り道をした。
五十鈴はあまり料理が得意ではない。仕事の予定が詰まっていて家でゆっくり料理をする暇があまりないのだ。その辺のお店で食べるか、お弁当を買って帰るか、通いの女中が用意したものをお食べるかがほとんどだった。
久しぶりに家で料理も楽しいだろう。そんなことを考えているうちに自宅の傍まで帰ってきた。五十鈴の家は繁華な南町の中でも穏やかな住宅地が広がる地帯にある。
白い塀に囲われた五十鈴の家が見えてきた。
とんとん、と五十鈴の肩が軽く叩かれた。
「わっ!」
思わず腕を振り払うようにして振り返った。着物に羽織姿の若い男が立っていた。
「
縁があって交友関係にある、春の守護武神その人である。線が細い、中性的にも見える美貌をこちらに向けていた。
「仕事の帰り?」
「はい。常盤様こそ、どうしてこちらに?」
守護武神の常盤は、都から離れた森の中に住んでいる。頻繁には都に来ないので、こうして町中で会えるのは珍しい。
「少し買い物に。お前がいたらと思って寄った」
――会いに来てくれたんだ。
普段から感情を表に出す人ではないうえ、上辺だけの世辞や嘘は言わない。彼の純粋な友情と厚意がわかって、五十鈴は自然と頬が緩む。
「これはお土産」
常盤は腕に提げていた、小さな花束と紙袋を五十鈴に差し出した。受け取った花束には、束ねられた黄金色の金木犀の花から、ふわりといい香りが漂う。
「よろしいんですか? ありがとうございます」
笑顔を向ければ、常盤も目を細めて小さく笑ってくれる。
「贈り物とはやるじゃねえか」
突然常盤と五十鈴の間に立つように、友人の
「……え? 水央様?」
いつの間にここに。いや、それより白桜の花守はどうしたのだろうか。こんなところを出歩いていていい人ではないはずだが。
常盤は水央を小馬鹿にするように眉を顰めた。
「やっと出てきたのか。そこの桜の木の後ろに隠れて何をしているのかと思えば」
「何だ、気づいていたのかよ」
水央はあどけなさの残る顔立ちをつまらなさそうに歪めた。
水央の淡い青い髪と瞳は、この地の豊穣を象徴する色だからとても神秘的な色のはずだが、水央がこういう人だから彼自身に神秘性はほとんど感じない。
「それにしても、お前が五十鈴に贈り物とはな」
水央はすぐに表情を緩ませて笑みを浮かべ、常盤の羽織の裾を突っついている。常盤はといえば、水央を軽蔑したように見下ろしていた。
「手土産はお前の家にも持って行ったことがあると思うけど?」
ここで二人に会えたのは幸運だ。三人はそれぞれに忙しいから、会える日は月に一度もあれば多い方だった。ここで別れてしまうのは勿体ない。
「あの、お二人とも。お時間があれば家へどうですか? ちょうどお昼を作ろうと思っていたところだったんです」
「いいのか? それじゃ荷物持つよ。貸してくれ」
水央は嬉しそうに五十鈴の荷物を半分持ってくれた。
こういうことを気取らずにしてくれる人なのだ。
とても帝に謁見が許される高位の名家には見えないけれど、血筋や仕事のことで偉そうな態度を取らない。常盤もこの地の主神なのにそれを鼻にかける様子はない。
特に二人は五十鈴のことを年頃の娘として侮ることもせず、変な目で見てきたりもしない。性差を通した目で五十鈴を見てこない二人は、とても接しやすい貴重な友人なのだ。
五十鈴の先導で家へ向かう。五十鈴の家は南町の大通りを一本入ったところにある、けっこう立地のいい場所にある。塀に囲われており、三つか四つの建物が中庭を囲うという
通いの女中は午前中に家事をした後は、作り置きをして帰ってしまうので、今家には誰もいない。水央と常盤を応接間まで通し、五十鈴は隣にある厨房へ荷物を持って行く。机の上に買ってきたものや常盤から貰ったものを出して並べた。
常盤から貰った袋には、新鮮な石榴と葡萄、鮭が六切れ。それから
常盤は羽織を脱ぎ、襷掛けをして厨房までやってきた。
「手伝おう」
「いいですよ、常盤様は。お客様なんですから!」
客人なうえ、二人は目上の貴人。とても手伝わせるわけにはいかない。
「三人分の食事は大変だろうし、ご馳走になるだけというのも気が引ける」
常盤も言い出したら引き下がらなさそうだ。仕方ないので皿を出して葡萄と石榴を洗って出してもらった。
水央はひとりでいたたまれないのか、何か手伝おうかと言ってきたが常盤は「厨房に入ったこともない奴は邪魔」と一蹴してしまった。
五十鈴も料理をはじめ家事は女中にやってもらいっぱなしなのだが。
五十鈴は鍋に醤油と水とみりんと砂糖を入れて混ぜ、火を入れる。その後で牛肉、白菜や白滝、えのき、豆腐、切り餅を並べて入れた。あとはすき焼きに火が通るのを待つだけ。
本当は食材を入れる順番には気をつけた方が、火の通り加減や風味に多少の違いが出ると思うのだが、五十鈴にとってはただの手間でしかない。客人がいるとはいえ別に料理人ではないのだから省略してもいいだろう。
その間、常盤にお湯を沸かしてもらった。せっかくなので貰った金木犀茶を淹れてみたかったのだ。お茶の用意は彼に任せてしまい、五十鈴は貰った鮭を三切れ、平たい鍋に油を引いて焼いた。ぬか漬けになっているらしく、そのまま焼くだけで一品出来上がる。
常盤にお茶と果物を先に持って行ってもらった。
五十鈴は必要なお皿を三人分出し、焼けた鮭を皿に取り分ける。野菜と肉に火が通った鍋の火を止め、順番に応接間まで持って行った。
背の低い机の真ん中に鍋、端に果物とお茶、そしてそれぞれの席に箸と取り皿。
普段こんなに人と食事を囲まないので、机いっぱいに料理が並んでいる状態はそれだけでも賑やかで嬉しかった。
貴人二人にすき焼きを取り分けて渡していく。二人ともありがとうと言ってくれる。この二人、やってもらって当然の立場の人なのに、普段から目下の者にもこういう接し方をしているのだろうか。
熱々の豆腐、しんなりした白菜、柔らかい牛肉を順に食べる。溶き卵と絡めると醤油や砂糖の味もまろやかになる。この塩梅が堪らないのだ。
すき焼きの器を手に味わい深いといわんばかりの表情をする水央。
「牛肉なんて久しぶりに食べた」
「そういえば僕も牛肉は久しぶりかな」
常盤まで頷くので五十鈴は素直に驚いた。
「普段は食べないんですか?」
牛は農業や荷運びに使われるので、他の肉と違って牛肉を食用にすることは少ない。たまに食べられるものの、出回るもの自体が少ないので高級食品扱いなのだ。
この二人ほどの身分ならどんなにいいものでも毎日食べられると思うが。
水央はお茶を飲んでから口を開く。
「いやあ、うちは毎日食べるものさえあればいいから、高価なものなんてほぼ買わないし。牛肉は特別な日だけだよ」
「うちは、僕が野菜ばかり好むからそうした品が多くなる。家臣が山で猪や兎の肉を獲ってきてくれるけど、牛肉は客人があるときや行事のときくらいかな」
水央も常盤もあまり贅沢はしないらしい。意外と庶民的である。
五十鈴は鮭に箸をつける。脂の乗った鮭の香ばしさが堪らない。これはいくらでも食べられる。あっという間に一尾を平らげた。
「秋は何でも美味しくて、いい季節ですよね」
「だよなあ。美味いものがあると、いつもの仕事もがんばれるし」
水央が餅を口にする。
常盤は水滴を弾く大粒の葡萄を一粒抓んで口に入れた。
「秋の実りは古清水の恵みの賜物だからね」
「それに私、空気が秋めいてくる感じが好きなんです」
夏は夏らしい暑さが好きではあるのだが、秋になると空気が澄んで楽器を弾くとより音が綺麗に聞こえる。歌や楽器の音の通り方が変わるのが面白い。
「それに、もうすぐ冬が来ると思うと嬉しくて」
冬になれば父が旅から帰ってくるのだ。それが待ち遠しい。秋になって寒さが増してくると、父の帰りが現実味を帯びてくるのだ。
水央も常盤も、五十鈴の言葉の裏にある想いに気づいている。だから二人とも「早く冬が来るといい」と笑って返してくれた。
五十鈴は金木犀茶を飲む。温かくて、甘い香りがして、心までほっと落ち着く。
きっと帰ってきた父も喜んでくれると五十鈴は思った。
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