百日草 七月は海と日常を思う

 梅雨も明けてからっと晴れた天気が続く、小暑しょうしょ

 果てを思わせない穏やかな海と白い入道雲が浮かぶ、透き通るほどの青い空。そして空よりずっと深い、青い海と潮風。


 それがなぎの一番好きな夏の景色だ。

 潮の匂いが混じった爽やかな夏の風が強く吹きつけた。

 元々癖の強い長い髪が、風に煽られてばさばさになる。少し気にはなるけれど、潮風に晒されることは都の西町では当たり前のことだ。これが気になっていたら、海の傍では暮らせない。


 風雨に晒された古い祠と白の鳥居。そして白木蓮はくもくれんと松林、そして神社に集まる白猫。このお社の土地神は西町のみんなが祈りに来る。

 凪も神社の傍を通ればお参りする。白花は凪たちが知らないところで、町の人を守り、土地をきれいにしてくれるのだと母が教えてくれた。

 だから、感謝の気持ちを持ってちゃんとご挨拶するんだよ、とも。


 凪は白木蓮に向けて手を合わせ、祈りを捧げる。

 波を薙ぎ散らす海の音が祈りの合間に聞こえてくる。断崖を駆け上がる白波が飛沫を散らす光景を思い起こす。

 海は大きい。たくさんの魚が食べられるのは古清水こしみずの海の恵みだけれど、人を呑み込んでしまう恐ろしいものでもあると、母は言う。


 母の浮舟うきふねは少し前まで、いつも海の方を向いていた。

 漁に出ない日やちょっとした時間ができたとき、母は西の海を見つめていた。

 虚ろで、魂が抜けたように。

 快活で頼りがいのある母だったが、母は凪を見ているようで見ていなかった。


 父は六年前のある夜から帰ってこなかった。凪がまだ三歳のときである。

 母は海に消えて帰ってこない父の方をずっと見るようになった。

 凪は、海を見つめる母の背をずっと見ていた。この弱々しい背が海に攫われてしまうのではないだろうか。父のように、母もいなくなってしまうのではないだろうか。

 それがとても怖かった。


 あるときを境に、母は海を見るのをやめた。

 こちらを振り向いて笑ってくれるようになったし、出かけるとき、帰ってくるとき、一緒に家事をするとき、海のことを教えてもらうとき、一緒になって笑うときも。母はちゃんと凪を見てくれる。

 虚ろな表情もなくなった。父がいた頃と同じ、活力に溢れた、強い海の女の姿がそこにはあった。いつかは凪も母のように、海に船を出すのだ。


 神社を後にして市場へ向かう。

 西町は海の向こうからやってくる珍しい物も売られるから、朝から夕方まで商店街がとても賑やかだ。往来は買い物にきた人たちで溢れていた。

 凪は人混みを通り抜けて八百屋へ入った。

「おじさん、赤茄子あかなす胡瓜きゅうりと、あと茄子ください!」

 凪は八百屋の旦那さんに小走りで駆け寄った。凪に気づいた恰幅のいい旦那さんは、凪を見下ろして顔を綻ばせた。


「凪ちゃん、いらっしゃい! お使いかい? 偉いねえ!」

「おじさん、あたしもう九つ! 立派な海の女なのよ!」

「ははは! こりゃ頼りがいのある漁師になりそうだ!」

 旦那さんは笑いながら、凪が言った夏野菜を取って包んでくれた。凪はお代を払って店を出る。野菜を抱えながら、人にぶつからないように気をつけながら歩いた。


 凪が帰ると、家の中には魚が焼けるいい匂いが漂っていた。急いで厨房に向かうと、母が味噌汁に豆腐を刻んで入れているところだった。

「おかえり、凪」

 母がこちらを振り向いて笑った。

 母が笑うと凪も嬉しくなる。凪は駆け寄って買ってきた野菜を渡した。


「ただいま! はい、これ!」

「ありがとう。わざわざ悪かったね」

「お参りもしてきたの。白木蓮様の傍に白猫がいたよ!」

「白木蓮様を守ってくださる霊獣様だね」

 母はさっそく買ってきた野菜を洗い始める。


「ねえ、母さん。神様が守ってくれるなら、どうして海の事故は起こるの?」

 母は帯に挟み込んだ手拭いで手を拭き、屈んだ。母の目線が、凪と合う。

「四柱の守護武神様はこの地を守ってくれる神様だけれど、自然そのものでもあるの。命が生まれるのも、雨が降るのも風が吹くのも、みんな神様がいるおかげ。でも、自然っていうのは人の思い通りにはならないものだろう?」

「そのために神様がいて、守ってくれるんじゃないの?」


「神様は雨を降らせてくれるけれど、人のために降らせているんじゃないんだよ。畑で作物を育てるために人が利用しているだけ。雨も降りすぎたら日照り不足で作物は枯れちゃうし、海だって荒れる。雨がちょうどよく降れば私たちだって嬉しいけれど、それはみんな人間の都合なんだよ」

 だから海では、空模様や波を見て、安全に海に出られるかを見るのが大事になるんだ、と母は言った。


「複雑で難しいんだね、自然のご機嫌って」

 何からでも守ってくれるわけじゃないのだと知って、凪はがっかりしたような、少し安心したような気持ちになった。

 ――そっか。神様が気紛れに嵐や大雨を起こすわけじゃないんだ。

 ――父さんは海で死んだけれど、神様に殺されたんじゃないんだ。

 それを知って少し気が楽になった。

 それ以上追求しない凪が納得したように見えたのか、母は凪から手を離して料理を再開する。


 うちでは朝は軽めのものを食べて、昼にしっかり食べることが多い。

 今朝は白米とお味噌汁だけの簡単なものだったけれど、昼は色々なおかずを作る。

 夏の旬は半夏蛸はんげたこや車海老だ。

 新鮮な半夏蛸は刺身にする。車海老は包丁で叩いてひき肉状にした後、刻み葱や卵、調味料と混ぜる。小麦粉で作った皮にその種を包んで焼けば海老餃子のできあがりだ。


 茄子は半分に開いて味噌焼きに。胡瓜はそのまま切って食べる。唐辛子を使ったたれを垂らして食べるのが凪は好きだ。

 赤茄子は湯剥きして刻み、生姜、玉ねぎ、大蒜、ひよこ豆と一緒に炒める。夏は汁物にすることも多いけれど、今日は炒め物だった。


 食事を含め、母と過ごす時間が大事だ。

 焼き立ての海老餃子を口に入れる。熱々のものを口の中で冷ましながら食べるのが好きだった。焼いた茄子は、身は柔らかいのに濃厚な味噌味が香ばしい。母は赤茄子の炒め物に箸をつけていた。


 以前の母は料理も適当で、食べる量もあまり多くなかった。

 言ってしまえば、凪のためだけに食事の用意をしているみたいで、虚ろな目で少しを口に入れる程度だった。

 今は違って、母は精力的に作って食べている。

 凪はそれだけでもすごく嬉しいのだった。


 凪は胡瓜に唐辛子のたれをつけて食べた。口の中いっぱいにぴりっとくる辛みが堪らない。

「辛いとご飯がすっごく進むね」

「でも、食べすぎはだめだよ。冷たいものや辛いものは胃に負担がかかるからね」

 辛いものが好きなのはあの人に似たのかね、と母は優しい目で凪を見た。

 その瞳は目の前にいる凪を通り越して、別のものを見ているようだった。


 お昼を食べてしまうと、あとは家事を済ませる。洗い物や拭き掃除をして、朝から干していた洗濯物を取り込む。夏だから少し早い時間でもすっかり乾いていた。

 家のことだって母と二人でやってしまえばすぐに終わってしまう。

 真夏のゆったりとした午後、家の縁側に座る。

 じっとしていると西町の住宅街はすごく静かだ。

 どこからか蝉の声が聞こえて、涼しい風が凪の首元を通り抜ける。遠くから聞こえる波の音と一緒に、軒先に吊るした風鈴が澄んだ音を立てる。


 庭先にいつの間にか百日草が咲いていた。

 橙色、桃色、赤色、明るい色の小さな花がひと群れ庭に根を下ろしていた。

 夏の間中――おおよそ百日咲くとさえいわれている花だ。

 縁側の脇では朝顔を育てていて、それが壁の方へと伸びている。母は朝顔が好きなので、夏の間は毎朝水をあげている。夏はちょうど、緑の簾のようになるのが綺麗だし、影ができると涼しくなる。


 母は座敷にいて竹の葉で座布団を編んでいる。家で必要なものはできるだけ家で作る。暇なので凪も教えてもらいながら挑戦することにした。

 開け放ち、波の音が押し寄せる座敷の中で母と向き合い、汗を浮かべながら編み物をする。少し前まではこんな時間さえなかったことを思えば、こんな何でもないことがとても大切に感じる。


 竹の葉を編む順番が頭の中でこんがらかって、何度もつまずいた。そのたびに母が丁寧に教えてくれて、少し歪な形の座布団が少しだけできた。これをどんどん長くしていって、最後に座布団の形に縫い合わせるのだ。道のりはまだ遠いが、これから作り続ければいつか母が作るようなちゃんとしたものができるだろうか。


 あの百日草が枯れるまでには、小さいものがひとつはできるといい。

 時間はこれからもある。母が傍にいる時間が、まだこれからずっと。

 凪が母を陸に繋ぎとめるもやいにならなければ、母はまたいつか父のいる海の方へ行ってしまうかもしれない。だから凪はそのためにも母と過ごす。

 果てしない奥行きを湛える潮鳴りに耳を傾けると、あてのない膨大なこれからの夏を思わせる。

 母と過ごせる夏は、これからだ。

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