吸葛  六月は貴女を流し去る雨

 芒種ぼうしゅも後半の、雨の匂いに満ちた季節。

 梅雨入りしてしばらくの薄暗い午後だった。


 時雨しぐれが喉の渇きを覚えて厨房へ向かうと、ちょうど妻が青梅の実を塩に漬けているところだった。厨房の戸を開けたところで時雨はつい立ち止まり、顔をこちらへ向けた妻を見返した。

「どうしたんだい、あんた」

 妻の逢瀬おうせは帯に挟み込んだ手拭いで手を拭い、こちらへ向き直った。簪でひとつに結った長い黒髪が揺れる。


「ああ、水か茶でも貰おうと思ってな」

「はいはい、待ってな」

 逢瀬は青梅を詰めた透明な容器に蓋をして、棚から硝子の大瓶を取り出した。

 瓶の中身を湯呑に注ぎ、それを時雨に差し出す。

「はい、作ったばかりの麦茶だよ。まだ少し生温いけど」

「悪いな」

 麦を炒った香ばしい香りが鼻先を掠めた。まだ暑すぎないこの季節、生温くても喉を潤すには充分だ。


 青梅雨に入ってから、雨が続いている。

 都の鎮守の白桜しろざくらの警護のため、雨の中で仕事という日も少なくない。時雨は雨が嫌いではないので苦にならないが、家中の武士たちは「恵みの雨はありがたいがこうも雨が続くと陰鬱になる」と口を揃えていた。

 今もそんな武士たちが警護を行っているのだろう。


 今日、時雨が警護に当たるのは日が暮れてからになる。

 昨日の警護も前日の夜から朝にかけてで、日が昇ってから少し寝て、昼間の自由時間をこうして満喫しているところである。

 せっかくの梅雨の時季、外で散歩を楽しみたいのだが、ここ最近は外をのんびり歩けるほどの自由時間が取れていなかった。

 それに家にいた方が妻と過ごす時間も取れる。


 梅を漬けた容器の横には、黒々とした液体が入った別の瓶が置かれていた。

「こいつは?」

 時雨の目線の先を追った逢瀬が「醤油だよ」と答えた。

「青梅を漬けてあるから風味が出るよ。あと梅肉を今煮詰めていてね。晴れたら梅干しも作っておかないと」

「そいつは大忙しだな」


 見れば、竈の鍋がぐらぐらと煮えていた。

 普段は家中の武士の妻やその娘たちが協力して家の仕事をしてくれている。逢瀬が来てからは家中の女性陣とともに家裡いえうちを整えてくれていた。

 今までも何とか家は回っていたが、やはり女主人が収まることで女性たちの統制や仕事振りに張りが出てきたように思う。

 逢瀬は孤児を引き取って育てている旧家の元で暮らしていたらしいのだが、家のことは何でもてきぱきとこなす。聞けば、どこに出てもやっていけるように育て親によく教わったのだという。


 逢瀬は棚に麦茶の瓶を仕舞い、鍋の蓋を取って中の様子を確かめた。

 せわしなく動き回る妻の後ろ姿を眺めていると、自分が白桜の守り手でいられるのは、女性たちが家を支えてくれているからなのだと実感する。武家であっても、厨房の中では突っ立っていることしかできないただの男でしかない。

「春は桜、夏は梅、秋は菊、冬は年始のごちそうもあるし、……どの季節も細々とした手仕事は多いもんだね」

 土鍋の中をかき混ぜながら逢瀬がこちらに言葉を投げかける。


 さっぱりとした逢瀬の声色からは、家のことをすべて任せている時雨を責めるような色はまったくない。こちらとしては肩身が狭くなるばかりだが。

「……悪いな。うちに来てから働きづめだろ?」

「元のお屋敷だって、たっくさん兄弟がいたからね。そんなに変わんないよ」

 逢瀬が鍋から離れる。水瓶の蓋を開け、柄杓に掬った水で喉を潤した。


「それに、あんたは都で唯一の家の長なんだろ」

「俺はただの武士だよ」

 古清水こしみずは平穏だから、要人の警護や犯罪者を取り締まっている武士は、宮中では一段低く見られがちだった。

 うちは一応名家の部類に入るが、名家だ旧家だと気取るような家でもない。だから自分はただの武士であると思っている。


「でも、鎮守の白桜――土地神様の武士だ。白花の守り手は霊獣様がするもんだけど、あんたは都で唯一それができるんだろ? 立派じゃないか」

 逢瀬は晴れやかに笑った。この雨続きの中で、夏の花のように晴れ晴れとしている。この薄暗い湿気た天気さえ吹き飛ばしそうなほどで、時雨は彼女の傍に立つだけで、日の光を浴びているような心地になる。

 逢瀬と話すと、何でもないはずの自分が特別な存在のように感じるときがある。


 そんな気持ちになるのは、逢瀬といるときだけだ。

 白桜の武士はただ白桜の前に立っているだけではない。

 都の鎮守の白桜には何も起こってはならない。

 塞ノ神の守り手とは、白桜に何もないことを傍に立って証とするものだ。だから時雨たちは、白桜の傍に立ち続けなければならない。


「ねえ、あんたは梅好きかい?」

「ああ、好きだぜ」

「なら楽しみにしてなよ。あたしの漬けた梅は最高に美味しいよ」

 逢瀬は煮詰めた梅肉をしゃもじで掬って、そのまま時雨に差し出した。

 真っ白な湯気が上がるその梅肉を一回冷ましてから一気に啜った。熱い。とろけた梅肉と梅の風味が口の中に広がった。

「うん、美味いぜ。これならいくらでも食える。今年一年分だろ? 足りるか?」

 うちは武家というだけあって、部下の武士たちとその家族を含めればかなりの人数になる。すると逢瀬は声を上げて笑った。


「いっぱい作っているから大丈夫だよ。それに、また来年も、その次の年だって作るんだから」

「そいつもそうだな」

「そうさ。あんたが飽きたって言っても、食べさせてやるんだから」

「そいつは覚悟しとかねえとな」

 ――その次の年も、そしてその次の年も。

 ――子供ができたら、その子の分まで多く作るさ。

 ――その子もあんたほど食べるなら、もっと忙しくなるね。

 逢瀬は娘のように笑い、時雨もつられるように口元が緩んだ。

 梅の香りが厨房の中に広がっていた。




 雨が降っている。

 梅雨は毎年やってくる。花が散るのとおんなじだ。

 今年もそれぞれの家で青梅を漬けて、大体一年分の梅を蓄える。うちでも梅を漬けた。塩漬け、梅醤油、梅干し、うちの梅仕事は、もう済んでいる。

 時雨は絹の胴着に包まれた赤子を抱えていた。赤子は小さな腕をもぞもぞと動かしながら、むずがゆそうにしている。


「……一年ちょいしか食えなかったなあ」

 雨の音に混じって、どこかで遠雷が響いた。薄暗い座敷が瞬間に光って、また夜のような暗さが戻ってくる。

「お前にも食わしてやりたかった」

 白桜の武士の血筋と逢瀬の命、どっちが尊いわけでもない。

 だからって、子供だけ遺すことはないだろうに。

「逢瀬の漬けた梅は、最高に美味いんだぜ。なあ、水央みお

 今はもう、遠い。

 雨の音だけが、静かな座敷に響いている。

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