躑躅  五月は幸福の風に吹かれる

 萌える若草の匂いを風が運んでくる、立夏の季節。

 吹き渡る新緑の匂いは生命の芽吹きそのものだと思う。目に眩しいほど鮮やかな若葉が風にそよげば、こちらまで身体が軽くなるようだ。


 雫姫しずくひめは風を思いきり吸い込んだ。

 春の花は終わってしまったけれど、森は初夏の緑が溢れ始め、日ごとにその背丈を伸ばしていた。

 今日は夫の常盤ときわの先導で初夏の森を散策していた。

 細やかな雑務が多いはずなのに、彼は雫姫と過ごす時間をまめに作ってくれる。今日はお弁当を持って森にお出かけだ。


 夫は歩きやすい道を選んでくれている。

 気をつけていれば草木に着物を引っかける心配もなさそうだった。せっかく大柄の藤が描かれた白緑色の綺麗な着物を着ているので汚したくない。着物も帯も簪も、みんな常盤が誂えてくれたものだから大切に使いたい。

 常盤はいつも通り、淡い色の着物に濃緑の羽織をかけ、森と同じ色をした髪を後頭部で結わえていた。男の人とは思えないほど色白で線が細く、整った顔立ちである。どんなに見つめても見飽きないくらい綺麗な人だ。本人は中性的な顔に複雑な感情を抱いているようだが。


「……休む?」

 先を行く常盤が立ち止まってこちらを振り返る。たったひと言だけの気遣いが嬉しく、雫姫は彼の隣に立ってその傍らに立つ。

「平気よ。それより、今日はどこへ連れていってくれるの?」

「行けばわかるよ」

「もう、朝からずっとそう言っているじゃない」

 口を尖らせても頑なに教えてくれない。

 常盤はお弁当の包みを左手に提げながら、反対の手で雫姫の手を取る。

「もうすぐだよ。行こう」

 常盤の手に引かれ、再び歩き出す。


 常盤は、中性的な面立ちだけれど、それでも手は男の人らしい大きさと武骨さがある。刀を握るせいかもしれない。

 冷たい手のひらでも、雫姫と手を重ねれば二人の熱が交じり合って温かくなる。常盤と触れ合うひとときが、雫姫は好きで堪らなかった。

 薫風に乗って、不如帰ほととぎすの声がどこからか聞こえてくる。

 春の頃はどこに行っても鶯の声で溢れていたのに、鳥も季節を告げるように鳴いては移り変わっていく。


「雫」

 常盤はいつも雫姫のことをそう呼ぶ。どうしたの、と問おうとして常盤が向けている視線の先を追うと、森の中の拓けた場所に眩しいほどの陽が差し込んでいた。

 その中央には真っ白な躑躅つつじの花が鎮座し、白躑躅を囲うように濃い桃色の躑躅が咲き群れていた。躑躅の花の周囲には蝶が舞っている。

「素敵。白躑躅の――土地神様の神域なのね」

 古清水こしみずでは白い花を土地神として崇める。

 白い花が咲く一帯は彼らがその地を守るため、動植物たちが好んで根を下ろす。だから自然と豊かな場所になるのだという。


 この地の春の守護武神である常盤は、都から離れた森の中で暮らしている神様だ。

 だから白花が咲く場所を把握しているのだろう。

 常盤に手を引かれ、雫姫は白躑躅の前に腰を下ろした。

 柔らかな花びらを広げる躑躅は雪のように白い。古清水にはあちこちに土地神が咲くけれど、こんなに傍で花を見られる機会は多くない。

 隣に腰を下ろした常盤は、風呂敷を解いてお弁当の箱を取り出す。

「時間もちょうどいいからお昼にしよう」


 お弁当の蓋が開けられた途端に、いい匂いが漂った。お弁当は二重になっていて、一段目には出し巻きや野菜の煮つけ、かつおの竜田揚げ、だし巻き卵、漬物、枇杷びわ、苺。二段目には菜と胡麻のおにぎりと蓬団子。色どり豊かなお弁当が輝いて見える。

 お弁当は常盤の元に住み込みで仕えている家臣たちが用意してくれたものだ。こんなにたくさんのおかずを作ってくれていたなんて。


「鰹と枇杷は初ものだよ。身体にもいい」

「初もの? こんなご馳走、本当に食べてもいいの?」

 都では、初ものは身体によく縁起もいいとされており、高価なうえ手に入れにくい。旬のものの中でも、初ものは簡単には食べられないものだった。それが目の前にあるなんて夢のようだ。

「鰹はみなとが今朝届けに来た。枇杷は屋敷の裏手の山から」

 湊というのは秋の守護武神で、春の神様である常盤の古い友人だ。彼は西の海の傍らに住んでいるので、初鰹も手に入れやすいのかもしれない。


 常盤から手拭いと箸を渡され、手を清めてから二人でお弁当に箸をつける。

「いただきます」

 野菜の煮つけから箸を伸ばす。人参、蓮根、莢隠元さやいんげん蒟蒻こんにゃくには醤油の味が染みていた。だし巻き卵はふわふわと柔らかくほんのり甘い。鰹の竜田揚げも、ぱりぱりの皮の中にぷりぷりとした鰹の身が入っていてとても美味しい。


「摘んだばかりの桑の葉のお茶だよ」

 そう言って竹の水筒を差し出してくれる常盤。

 お礼を言って、食事の合間に水筒のお茶で喉を潤す。桑の葉のお茶は、麦茶や緑茶とは違ってこっくりとした甘みがある。

「すっごく、美味しいね」

 彼の家臣の霊獣たちと囲う食卓は賑やかだけれど、常盤と二人、静かに歓談しながらの食事も好きだ。二人きりでいるときの方が、常盤はよく喋ってくれるし、いつもより笑ってくれる。


 食後に蓬団子と枇杷と苺をいただく。蓬独特の香りがする団子は一口大で、餡子の甘さが堪らない。あっという間に食べきってしまう。

 苺を口に含むと、甘酸っぱくも水気の多い柔らかな果肉が、口の中でとろけるように広がった。苺みたいな水菓子は、結婚前は贅沢品でほとんど食べられなかった。甘い幸せを全身が突き抜ける。食べきってもまだ甘さが口に残っている。

「とっても美味しい。苺なんていつぶりかしら」


「気に入った? 庭で今朝採れたものだよ」

 常盤は目元を和らげた。おそらく自分で育てた苺を雫姫が美味しいと言ったことを喜んでいる。

 感情が大きく表に出てくることは少ないけれど、彼は常からそういう人だ。そういうところも好きになって、一緒になった。

「夏はどの植物もどんどん生長して、採るものが多い。畑仕事が忙しくなるよ」

「わかったわ。お手伝いなら任せてね」

 ぐっと両手で拳を作ると、常盤は頷いた。


 最後は枇杷もいただく。苺とは違う甘みが口の中に広がる。

「枇杷酒にしてもよさそうだね。少し甘めにして。そうしたら君も飲めるだろ?」

「それもいいわね。貴方と一緒に飲めるお酒が増えるのは嬉しいわ」

 常盤は見かけによらず酒が強い。ほとんど最後まで一緒に飲んだことがないのが少し寂しかった。


「枇杷は薬用にもできるから今度一緒に採りに行こう。火傷なんかに効くんだよ」

 常盤が一緒に行こうと言ったなら、必ず近いうちに約束を守ってくれる。次に一緒に出かけられることが決まったのはかなり嬉しい。

「それじゃいつ火傷しても大丈夫ね」

「いや。お願いだから、本当に気をつけて」

「今のは冗談よ」

「君のは冗談に聞こえないんだよ」

 そんな会話も、途切れたり続いたりして、時には声を上げて笑う。


 お弁当が空になると、すっかりお腹もいっぱいになった。

 常盤は空の弁当箱を風呂敷に包み直した。お昼は食べ終わったけれど、しばらく動かずに座っていた。

 若草の香りが風と一緒に頬を掠める。

 目を閉じて風を全身で感じた。暖かくはなってきたけれど、まだ少し風には冷たさを感じる。その感覚が頬や首筋をするりと通り抜けていくのが気持ちいい。

 常盤の肩に首をもたげて、身を寄せた。


「雫?」

 常盤の低い囁きが降ってくる。

「貴方のお嫁さんになってから、毎日が幸せ。幸せすぎて、夢を見ているよう」

 この日差しも、常盤から感じる温もりも、すべて夢のように幸せだ。

 だからこそ急に不安になる。一度眠って目覚めたら、常盤も、この生活も、消えてなくなってしまうのではないか。


 あの、丸一日父に家事を強要され、着るものも食事もろくに与えられなかった都での日々に戻ってしまうのではないかと思えて。

 時折とても不安になるのだ。

 だからいつでも常盤の温もりを感じていたくなる。

 彼の胸に耳を当てれば、心臓の音が響く。そうしているだけで、他には何もいらないと思えるほど心が満たされる。


「雫、手を出して」

 不意に常盤の声が降ってくる。

 常盤の胸に寄りかかったまま手のひらを差し出すと、常盤が取り出した小瓶の中の液体を一、二滴、雫姫の手のひらに垂らした。

 花のような甘い香りが手のひらから広がった。甘すぎない上品な香りだ。手のひらを合わせて液を手に馴染ませれば、香りがふわりと漂った。

「これは何?」


「桜と玫瑰まいかいの香水。今年作ったばかりの。君にあげるよ」

 彼は何かにつけてまめに贈り物をしてくれる。

「ありがとう。あ、でも今貰ったら帰りで割っちゃうかも」

 もしどこかにぶつけて割ってしまっては、常盤に申し訳が立たない。


 常盤は小瓶を持ったまま、納得したようにああ、と言った。

「君ならやりかねないね」

 確かに雫姫はそそっかしいところがあるが、きっぱり頷かなくてもいいのに。

「そこはちょっとくらい否定してよね」

 頬をむっと膨らませれば、常盤は声を抑えきれずに控えめに笑い声を上げた。彼が笑うことなんて少ないので珍しい。いいものを独り占めしてしまった。


 何でもない日も、常盤と過ごせば特別な日になる。

 こんな毎日ももっと続けば、実感として積み上がって、幸せを素直に受け取ることができるようになるだろうか。

 初夏の香りに包まれながら、雫姫は常盤と寄り添った。

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