「跳ね上がる天」

 私は海。何か足りない気がしていた。足りないものの代わりに、黒い「それ」が溜まっていく。元々はほんの些細なわだかまりで、日々積もる不満なのかもしれない。燃えかすのような粒子は、誰の目も届かない海の底に蓄積されていった。

 どこか人生の一片でも狂えば、私の手のひらでは抑えきれなくなって胸の中から漏れ出して、私はとうとうおかしくなって、誰かに迷惑をかけるんじゃないか。そんな妄想がはじまる。

 おはよ、と言う。おはよーって返ってくる。流行ってるものの話をする。なんだかんだ笑い合えている。またね、って言う。ばいばいって返ってくる。

 私は海。いまだ私は平静だ。けれども、私はとんでもない時限爆弾をこの魂に抱えているんじゃないか、今もカウントダウンが進んで、誰かを傷つけて、誰かを失望させて、私の周りからは誰も彼もいなくなってしまうんじゃないか。

 抑えなくてはならない。黒くて吐きそうなどろどろは眠れない夜の深海に閉じ込めて、決して昼間で露わにしちゃ駄目。チャック付きの小さなポーチの中にしまっておけばいい。

 だけど、心がどこか寂しいんだ。

 何か足りない気がした。世界は私と決定的にずれていて、摩擦や障壁なく完全に触れあうことのできる手のひらやケーブルはどこにもなかった。不安定な電波を分相応の小さなアンテナで拾おうとするしかなくて、デスクチェアに座って、「何か」を私はずっと待ちつづけていた。私は永久に世界と馴染むことはできず、世界の扉は強固に閉ざされていて、柔らかなクッションに沈ませてもらえない。世界と自己の狭間でゆらゆら漂流し、外界から押しつけられたマイクロプラスティックばかりを胃に溜めこんで沈黙していた。

 ねえ、何。私には何が足りないの? 十分満足でしょ、たのしい会話に、おいしいご飯。なんでこんなに寂しくなるの。これくらいでどうか勘弁してくださいお願いします、分かんない私へ。ほんと分かんないよ、不満なら何して欲しいのか言ってよ。「何か」って何だよ。私なんてきらいだ。

 ずっとずっと、私は深い海に沈んでいたんだ。怖かったし、寂しかったし、辛かった。


 ふっと揺れる、ポニーテール。

 ああ、あれは三年生のはじめ、クラス替えの日。

 何でもないように近づいてきた、願いつづけてきたその「何か」。

 この瞬間、「何か」は「あなた」になった。

 いいや違う、何かなんてもうどうでも良くなったんだ。

 あなたの、とびっきりの笑顔で!


「天ちゃん」

「んー、なに?」


 海底までとどくお日様みたいな、笑顔をうかべられるわけが分からなかった。眩しすぎて、いまでも神秘だと思う。知りたくて、でも一番守りたいもので、ずっと一緒に在りつづけたい聖書。

 あなたがいるのなら、それだけで世界は完全になった。

 ケーブルもアンテナも必要がない。鍵もドアベルもなくて、招待する扉なんて開ける必要もない。

 ただ私はあなたのお空に連れ出されて、どこまでも飛んでいける。あれだけ怯えていた欠乏や葛藤は、私の胸の最奥部まで響きわたる彼女の光に、気づけば溶かされて浄化されていた。

 私にとってのまさに太陽で、空のすべて。

 それが彼女、天ちゃんだった。

「あー、ほんと無理だ」

「また、そういって」

 投げやりな姿勢をとがめるでもなく、どこか嬉しそうに私を窘める彼女。

「もうだめー」

「おい、がんばれ!」

「……そうだね」

 やんなきゃなーと思う。私ってだめだな、とも思う。

 そこを天ちゃんは笑顔で不意打ちし、私の胸はあなたの優しさで満たされるのだった。

「私にできるかな」

「できるよ。だって海ちゃん、もう頑張ってるでしょ?」

 あー、だめだ。信頼のこめられた、私の大好きな顔で見つめられてしまったのなら。

 その信頼に背けないし、もっと応えたくなってしまう。無限のエネルギーを供給された私は無敵だと思う。

 あなたが照らしてくれてやっと分かった、胸のつかえの正体。

 これ、前に進む力にもなるんだ。あなたに教えてもらうまでどっちが前なんて分からなかった。深海に漂ってたら東西南北も上下も分からなくなった。苦しみは、苦しみでしかなかった。隠すべき爆弾の使い道なんてありっこないはずだった。それをあなたは、いとも簡単に解き放ってくれた。

 あなたは知りっこないんだろうけど。

 私を踊り場に導いたのはあなた。一段先で私に手を振って、私が階段を一段一段、おそるおそる踏み越えていくのを見守ってくれたのもあなた。


 もう見失いたくない。

 跳ね上がるようなあなたの足取り。

 笑顔をむけられて跳ね上がる、私の気持ち。

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Blooming Dance 鳩芽すい @wavemikam

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