わだつみのいろこの宮

 「渚彦さま、待ってくださいな」

 ころころと鈴を転がすような声が響く。乳母と呼ぶには年若い娘が、裾を絡げて砂浜を駆けてくるのが見えた。からかうように招き寄せ、彼は波打ち際に走り出す。

 「あ、いけません、ちょっと待って」

 このところすっかり背が伸びて走るのも早くなった渚彦は、打ち寄せる波を蹴立てて逃げる。真顔で追いかけてくる女の顔がおかしくて、彼は声を上げて笑う。

 「だめ、ちょっと待って、あ、だめ」

 ふと思ったより高い波が寄せてきて足を取られた。そのままけつまづいた彼の腕を、必死に細い手が掴んでくる。ただ女の手が精一杯引っ張っても勢いが止まらない。二人は波に頭から突っ込んだ。

 背の高さはもう同じくらいなのに、女は汐にさらわれそうになる渚彦を抱きしめる。気まぐれな波が退いた隙に、女は渚彦を抱えたまま身を転がして水際に距離を取った。

 渚彦が顔を起こすと、顔も髪も砂まみれになった女が心配そうにこちらを覗き込んでいた。その顔がおかしくて、彼は再び笑う。

 「依姫があわてるから転んじゃった」

 「もう、渚彦さまのいじわる」

 砂まみれで膨れ面をする日に焼けた顔は、年甲斐もなく愛らしい。その頬にこびりついた砂を擦って落としながら、渚彦は幼いふりをして依姫に抱きついた。依姫は渚彦に甘いから、こうすればもう叱られることはない。

 「仕方のない子ですねえ」

 頭を撫でる優しい手の感触に甘えながら、渚彦は肌の感触に頬を寄せた。



 渚彦は長の一人息子だった。兄弟は他にいない。

 物心ついたときには叔母の依姫が傍にいて、母代わりと呼ぶには若すぎる彼女にめいっぱい甘やかされながら育った。

 屋敷に他に子どもはおらず、遊び相手はいつも依姫だった。たまに顔を見せてくれる伯父は浅黒く焼けた肌をした男だったが、すこぶる生真面目な性格といやに大きな声が何となく怖くて、彼が来るときはいつも依姫の裳裾に隠れていた。伯父もそれを気にする風ではなく、むしろ幼い渚彦に臣下としての礼をきっちりと取り、従兄弟たちを連れてくるときもきちんと線引きをしていた。そのせいで渚彦は同年代の子どもとまともに遊んだことはない。

 伯父は渚彦だけでなく、依姫にも服属の礼を取っていた。年齢的にも遥かに若く小柄な依姫に、屈強な伯父が平伏するのは何となく不思議だったが、ふとしたときに依姫が教えてくれた。

 「伯父上の郷より、依姫の故郷の方が強いのですよ。依姫と戦になったら絶対に勝ち目がないことを、あの方もよくわかっておられるのです」

 「伯父上と戦になるの?」

 「いいえ、戦はとっくに終わってますよ、渚彦さまが生まれるより前に」

 たぶんそれは父の頃の話だ、と渚彦は勘づいたが、口にするのはやめにした。

 父はこの辺りを広く治める長だが、任務が忙しいからとめったに屋敷に寄り付かないので、渚彦にとっては伯父の方がまだしも見慣れていた。伯父は声が大きくて真面目で強面なだけで、間違っても悪い人ではない。だから戦になったとすれば、父の方から何かしら仕掛けたのだろうと踏んでいる。

 依姫は母方の叔母で、遠洋を渡る交易を生業とする強大な一族の出だ。つまりそれは渚彦の母、父の妻の出自ということになる。たぶん父は、近海の漁労民を束ねていた伯父の勢力を服属させるため、より強い一族と姻族を結んで軍事的な協力を得たのだろう。父は山間に金属器の生産拠点を持っていて、その生産方法は伯父にも依姫にも譲らない。武器の流通を独占しているから、漁労の民にも交易の民にも優位に立つことができるのだ。

 渚彦がまだほんの幼い頃から、父はあまり顔を見せなかった。伯父よりは線の細い神経質そうな顔をしていて、子ども好きの性質には見えなかった。たぶんあまり自分は好かれていないのだと、幼心に渚彦は理解していた。

 別にそれは構わない、渚彦には依姫がいるのだから。

 「おれの母上はどこにいるの?」

 はじめてそれを問うたのがいつのことか、渚彦は覚えていない。依姫は渚彦を抱き締めながら語り聞かせてくれた。

 「渚彦さまのお母様はね、本当は故郷で御子を生むつもりだったのだけど、お父様の跡取りにふさわしい御子を生みたいからって、わざわざこちらの郷に来られたのですよ。お父様は喜んで産屋を建てたのだけど、産屋の屋根を葺き終わる前にお母様が産気づいてしまったのです」

 依姫の語り口はとても優しかった。

 「お母様は産屋に入るときに、お父様に絶対に産屋を覗いてはいけないと言いつけたのだけど、なかなか赤子が生まれないので心配したお父様は、つい我慢できずに産屋を覗いてしまったのです」

 だめだと言われていることを破ってしまうのはいけないことだ。それには必ず罰がある。

 「そうしたらびっくり。産屋の中には、大きな鮫がいたのです。やがてお産を追えて産屋を出てきたお母様は、正体を見られてしまったので恥ずかしくてもうここにはいられないと言って、故郷に戻ってしまいました」

 生まれたばかりの赤子を置いて、産後の身体で父の元を去ったというのか。父の犯した罪はそれほど重かったというのだろうか。

 「それでもお母様は、産んだばかりの御子のことがどうしても可愛くて愛しくてしかたなくて、だから自分の代わりに育ててほしいと言って、御子のところに妹の依姫を遣わしたのです」

 ふと依姫は微笑んで、渚彦の柔らかい髪を優しく撫でた。

 「お母様はね、今は故郷の弘原海鱗宮におられます。会うことはできないけれど、渚彦さまのことをとてもとても愛しているから、依姫がここにいるのです」

 渚彦はふと呟いた。

 「父上は?おれのことが嫌いなの?」

 「そんなことはありません」

 ぎゅっと温かい腕で渚彦を抱き締めて、依姫は微かな声で呟いた。

 「……ただ、そうですね。依姫は渚彦さまのお母様によく似てるから」

 自分とわが子を捨てた妻の顔は見たくないということだろうか。わからないなりに、渚彦は父のことを諦めることにした。

 依姫が語ってくれるこの物語が、渚彦はとても気に入ったので、ことあるごとにねだった。はじめはおずおずと語っていた依姫も、だんだん身振りをつけて楽しげに話してくれるようになった。産屋の屋根を葺く仕草、身重のお腹を抱える仕草、鮫の真似をしておどけてみせたり、そんな彼女を見るのが好きだった。

 「ひょっとして依姫も正体は鮫なの?」

 「さあ、何でしょう。でもそれを知ったら渚彦さまのおそばにいられなくなっちゃうかも」

 「それじゃあしょうがないなあ」

 うふふ、と笑う依姫の笑顔が好きだった。

 依姫の正体の他にもう一つ。

 父のことは、あえて聞かないことにした。



 依姫を娶ったのは、渚彦が十四のときだった。

 周りに比べると多少早い気もしたが、高貴な身分であれば早くに妻を持つことも珍しくない。年の近い従姉妹もいる。他の娘と縁組を結ばれる前に、依姫との契りを結びたかった。

 「渚彦さまには、もっと若い子の方がふさわしいですよ」

 勇気を振り絞って花を差し出したのに、依姫にそんなことを言われたときには、思わず駄々をこねそうになった。ただそれだとあまりにも幼すぎると思い至り、渚彦は依姫の腕を掴んで引き寄せた。自分の方が少しだけ、背が高くなっていた。

 「依姫がいい。依姫でないと嫌だ。依姫がだめだと言うならおれは一生妻を持たない」

 「……それは困ってしまいます。依姫は、渚彦さまの御子の顔を見るのを何より楽しみにしているのに」

 「そんなのいくらでも見せてやる」

 勢いで口走って、真っ赤になった依姫の顔を見ているうちに、自分まで顔が熱くなってきた。

 依姫はいくつになっても年齢を感じさせない女だった。妻になったのは二十代も半ばで、とっくに嫁いでいてもおかしくない年だったが、愛らしい娘のようなところがあった。ただ、抱き締めると柔らかい感触があって、見た目は小娘のようにか細く見えるのに、生命力をいっぱいに湛えているような肉感をしていた。

 娶って間もなく依姫は身ごもり、月満ちて赤子を産んだ。それからほどなくもう一人、少し間を置いてもう一人。いずれも丸々とした男児だった。

 言いつけを守って、産屋は絶対に覗かなかった。赤子を抱いて戻って来る依姫は、いつも誇らしげな顔をしていた。

 依姫は安産の性質だと産婆は言ったが、四人目だけは生まれるのに少し時間がかかった。いつもと異なる雰囲気に、はじめは泰然と構えるつもりだったが、だんだん気がかりになってきた。

 執務にも身が入らず、気付いたときには浜辺に建てられた仮の産屋の見えるところに足が向いていた。上の息子たちはどこかでちょろちょろと遊んでいるが、三人目のまだ幼い息子だけは片腕に抱いていた。

 傾き始めた日を見たときに気が急いた。このまま夜が来て、依姫は真っ暗闇の中で赤子を生むのだろうか。それはあまりに哀れな気がした。

 砂浜に足を踏み出したとき、ふと後ろから肩を叩かれた。

 振り向くと、老境に差し掛かった男の顔があった。繊細な面差しに見覚えはなかったが、それでもそれが父だとわかったのは、その面影が自分によく似ていたからだ。

 「父上」

 思わず口を突いた言葉に、男は驚いたような顔をした。それからふと虚ろな瞳を潤ませて、しわの寄った瞼から涙を零した。

 涙の意味を捉えそこねて立ち竦む渚彦の耳に、ふと遠く潮騒のような音が聞こえた。それが産声だと気づいて、彼は顔を振り向ける。

 産屋を出てきた産婆が笑顔を浮かべているのが見えた。ほっとして渚彦はその場に膝を突く。その肩を抱くように、老いた腕が回された。



 産屋から戻ってきた依姫は、さすがに疲れたようでしばらくすやすやと眠っていた。相変わらず娘のように無邪気な顔をしているので、渚彦は思わず頬が緩む。

 父は――と、何とはなしに思った。

 たぶん母のことを、今も深く愛している。だから渚彦と依姫の傍にはいられなかったのだ、とようやく腑に落ちた気がした。

 母は産屋の完成を待たずに産気づいた。初産は早くなることが多いという。それを見越して産屋を用意していたのに間に合わなかったのだから、かなりの早産だったのだろう。身重の時期に無理に転居したことも影響したのかもしれない。

 母が依姫とどのくらい年が離れているかはわからないが、おそらくはかなり年若かったはずだ。難産だったのだろう、父が待つことに耐えられないほどに。

 父は産屋の中で何を見たのか。かつて伯父が手土産に持ってきた鰐鮫を思い出す。エラの周りに血を滴らせた滑らかで禍々しい青白い肌。喘ぐようにぱくぱくと動く口。どろりと濁った虚ろな瞳。

 血の海に沈んだ妻を目の当たりにした父は、それを報いと受け止めたのだ。伯父との戦を有利に進めるために娶った気高い姫が、ただのか弱い女だったことを彼はそのとき知ったのだ。

 伯父の勢力を平定した父との姻戚関係は、母の氏族にとっても欠かせないものだった。母一人の死で失われてはならず、その絆が生まれたばかりのひ弱な赤子一人というのはあまりにも心許なかった。それゆえに依姫が送られた。依姫は渚彦の乳母ではなく、本来は父の妻になるはずの女だった。

 だから父は逃げたのだ。母の面影を遺した女と、母の命を奪った息子から。

 老いてなお父は各地に強い影響力を持っている。その多くは既に渚彦が引き継いでいるとは言え、難局には着実な手腕を発揮して後方の守りを固めている。年若く実力も十分とは言えない渚彦の元に各地の勢力が服属するのは、ひとえに父の威光にほかならない。

 父は依姫の無事を聞くと、座を温める暇もなく屋敷を去った。

 立ち去り際の彼を引き止める言葉が見つからず、渚彦はようやく呟いた。

 「母上は、弘原海鱗宮におられるのだそうです」

 父は眼差しをこちらに向けた。

 「父上に恥ずべき姿を見られたことに耐えられず、今も宮の中に引きこもっておられます。そして、おれを育てるために依姫を遣わしたのだそうです」

 老いた瞳を瞬かせ、父は不意に微笑んだ。彼が笑うところを見るのははじめてだった。ようやくなくしものを見つけたような、そんな顔だった。

 「そうか、豊姫はそんなところにいたのか」

 母の名を渚彦は初めて知った。

 父の背中を見送ってから寝所に戻ると、依姫は子どもたちにまとわりつかれて目を覚ましていた。誰に似たのかわんぱくばかりで、手荒な真似をしかねないので、すぐに声を上げて追い立てる。きゃあきゃあと悲鳴を上げて上の息子たちは逃げ去っていった。

 「おとなげないこと。あの子たち、お産で構ってあげられなかったから、寂しかっただけなのですよ」

 依姫はいつものように娘のような口調で言う。その頬に指を這わせ、渚彦はたまらずに腕を回す。

 「あらあら、一番の寂しがりやさん」

 「お前はおれの傍にいるんだ。どこにも行ってはだめだ」

 「もちろんですよ。依姫はずっと渚彦さまと一緒です」

 温かく柔らかい腕に顔を埋め、渚彦は静かに啜り泣いた。

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