風筝
胡蝶の凧の紅が紺碧の空に鮮やかに翻っているのが、軒の風鐸越しに見えた。
凝ったように重い空気が沈殿していた屋敷の内に、今日は珍しく賑やかな笑い声が響いている。特に華やかに響く声は、久しく笑顔を忘れていた姑だろう。ただでさえ表に出る機会もなく、一日千秋の如く同じ顔ぶれの家人や使用人たちと屋敷の中に押し込められていると、ささやかな変化が好ましいものになっていく。
――まして、亡くした息子の忘れ形見がやってきたともなれば、年甲斐もなくはしゃいでいるのもいっそ痛ましい。
庭の棕櫚を匂梅を揺らす賑わいは、不思議と耳障りではなかった。遠い幻のようなその笑い声に耳を傾けながら、私は今日もいつもと同じように書見台に向かっていた。
私がこの屋敷に嫁いできたのは十年ほど前で、私は十八、夫は十二のときだった。女だてらに学問を好み、可愛げがないと評判だった私はほとんど行かず後家になりかけていたので、私の親族は喜んで年の離れた夫の元へ私を送り出した。
幼くして家を継いだ夫を支えるしっかりした嫁が欲しい、という姑の要望で迎えられた私は、その義務を果たすべく尽力した。頼りない夫を一日も早く自立させ、家を守り立てて行くために、私はいつも夫に対し厳しい師のような態度で接した。
年頃になった夫が他に女を作るようになったことには気付いていたけれど、特には何も言わなかった。私には一向に子どものできる兆しもなかったし、夫は家のために跡取りを残す必要があったし、何より私自身が異性から見て魅力のある女性であるなどとは少しも思っていなかったためだ。私の前にくれば厳しい叱咤と学習を課せられるものだから、夫は次第に家にも寄り付かなくなった。一人息子に邪険にされ、姑は頻りに寂しがったが、こんな嫁を選んだのが自分だという引け目はあったのか、私にだけは何も文句を言わなかった。
そんな夫が、三月前に急に死んだ。
悪い仲間とでもつるんでいたのか、酒場でしたたか寄った挙句に喧嘩に巻き込まれた。戸板に乗せられ返ってきた夫は、面相が変わるほど殴られて、一目見た姑が卒倒するほどの姿だった。辛うじて葬礼だけは済ませたが、跡取りをどうしたものかと悩んでいた矢先、馬丁の一人が畏れながらと進み出てきた。
遊びに出るときにいつも夫に供を命じられていた馬丁は、夫が通っていた女と、その女との間に生ませた男児のことを私に告げた。女は半年ほど前に流行り病で亡くなっていたとかで、身寄りのない男児は親族の間を点々としており、不憫に思った夫があれこれと支援をしていたのだという話だった。
――つまるところ、私がその子を引き取ることについて、何の障りもないということだった。
一人息子を失った悲しみに暮れていた姑の喜び方は、ひとかたならぬものであった。山のような玩具を与え、侍女たちと一緒になって日がな子どもと遊んでは、疲れ果てて四阿で休息しながら嬉し涙を拭っている。ねぎらいに行くと、それは嬉しそうに「あの子が帰ってきたよう」と囁いて、庭で遊ぶ子どもに目を細めていたりした。確かにその子は、まだ五つばかりではあったけれど、嫁いだばかりの頃の夫とよく似た面影をしていた。夫は学問を好みはしなかったが、ただ私の前では比較的真面目で教え甲斐のある生徒であったように、その子も年の割に聡明そうな佇まいだった。
ただ私は、強いてその子に近づくつもりはなかった。姑にとっては孫であっても、私にとってその子は我が子ではない。まして、私の無愛想が原因で逃げ出した夫のことを思えば、彼の可愛がっていたであろう子どもに私がむやみに近づくのも憚られるような気がした。
斯くして、私は寡婦の装いに身を包んで房室で今日も書を捲る。庭の彼方から響いてくる歓声や、窓越しにちらりちらりと仄見える凧の類は、あたかも蜃気楼のように遥かなものだった。
私は多分、夫に対してそうしたのと同じようにしか、子どもに対しても接することはできない。それを厭って夫が逃げたのだから、だとすればそもそも近寄らないのが最も的確な対処だと思われた。別に私が手を煩わせずとも、姑が溺愛するのは知れきっており、貰われ子として引け目を感じることはなかろう。頃合を見てよい師を探し、夫と同じ轍を踏まぬように気を配ればよいだけのこと。
――私の目論見は正鵠を射ているはずだった。
「どうしたの、お祖母さまが探しているのではなくて?」
「知らない」
庭の笑い声がいつしか途絶え、やがて幼子の名を呼ぶ声ばかりが響くようになったころ、もしやと思って窓辺に寄ってみると案の定あの子がいた。紅い漆塗りの圓月窓の陰に、まるで小猿のようにぶら下がっていたので危ないこと甚だしい。脇に手を差し入れて抱き上げると、ずしりと重みが腕に答えた。
「庭が広すぎるのも考えものね、あなたが迷子になるたびにお祖母さまが心配なさるわ」
ちぎれた庭木の枝葉を髪や衣服にいっぱいにまぶし、子どもはじっと黙っている。ぷちぷちと指でまとめて摘み取ると、大人しくされるがままになっていた子どもは、ふと呟いた。
「迷子じゃないよ」
「でも、遊んでいるうちにいつもこちらへ迷い込んでくるではないの」
この子はいつも、構いもしない私の房室の裏側へ入り込んでくる。その先は袋小路で、湿っていて薄暗いから、子どもが好んでくるような場所ではない。この家の庭は確かに少々広すぎるが、それにしてもこの子が迷わないように目印をつけたり縄を張って入れない場所を作った方がよいかもしれない。
私がそんなことを考えていると、子どもは憮然としてこう言った。
「迷ってるんじゃない」
この子はふと私の顔を見上げて、それから小さく俯いた。少し考えて、もしかしたらこの子は私に気を遣っているのではなかろうか、と思い至る。聡い子のことだから、私が姑のように遊びに付き合わないことで何か気まずいものでも感じ取っているのかもしれない。
「もしかして私を遊びに誘ってくれているの? それは嬉しいけれど、私はあなたが楽しめそうな遊びを知らないわ」
「そうじゃない」
子どもはかぶりを振る。やむを得ず、いつもそうしているように今日も侍女を呼んで姑のところへ連れて行こうかと考えていたら、ふと思い切ったようにこの子がこんなことを言った。
「奥様は、おれの母ちゃんによく似てる」
「え」
庭の方では、この子を呼ぶ声がひっきりなしに聞こえていた。けれど見向きもせず、この子は私を見ていた。
「やっぱり似てる。そっくりだ」
「それは随分と厳しいお母様だったのね」
「うん、母ちゃんはすぐ怒った。けど奥様はあんまり怒らないけど、母ちゃんとよく似てる」
その意味がよくわからず、私は何度か瞬く。それに業を煮やしたのか、子どもはぷいと扉の方へと駆け出して行った。思わず私が目で追うと、あの子は一度だけ振り向いた。
「ホントよく似てる。だから寂しくない。おれ、ここんちの子でよかった」
私が何か返事をする前に、あの子は風のように飛び出していった。やがて姑があの子の名前を呼びながらよかったよかったと連呼するのが聞こえる。遠い幻のようにそれを聞きながら、私はそこにずっと立ち尽くしていた。
――そんなことなら、私にあの子を産ませてくれたらよかったのに。
はじめて亡夫に、恨み言の一つを呟いてみたいと思った。
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