理科や科学を日常生活に役立てる方法

島尾

比喩

【結論:物理化学はすでに多くの自然現象を説明してきた。ところで、日常生活でものごとがうまくいったとき、又はいかないときがある。その理由を考えるとき、誰の許可もなく勝手に物理化学が明らかにしてきた事実を引用して、自分なりの持論を立てる際の例え話として用いた場合に異様に面白い】

[引き合いに出した知識:核生成と結晶成長、単純支持梁の3点曲げ試験における応力分布]

《関連づけたもの:宮台真司の言葉、神戸大学のBADBOYSという犯罪をした飲みサーと私自身の引きこもり》

{言いたいこと:ある程度人と仲良くなる経験を積めば割と簡単に友達ができるでしょう。また、社会が生きづらい空間になればなるほど犯罪者および苦しみすぎてパンクする人、それぞれの数は増えるでしょう。生きやすくなれば両方とも減るでしょう}←これだけのことを一万字も使って長々と書いています。

 

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 結晶成長は、一つの目に見えない核が生まれた後に、それにどんどん原子が群がってきていつの間にか目に見える大きさにまで巨大化することを言う。私もこの前、ガラスビンにミョウバンを入れて水に溶かして放置し、数日たったころにビンを覗いてみたら六角形のボタンみたいなものが生成していた。それを見て純粋に驚いたのと同時に嬉しかった。


 結晶が目に見えるサイズまで成長するためには、一定のエネルギー障壁を越える必要がある。面倒なことは置いておく。代わりにここでは比喩を用いて説明することにする。この間、神戸大学のBADBOYSという悪しき非公認サークルが稚拙な犯罪を犯した。そういった悪いものに参加したいと思う人間は普通いないだろうが、ごく少数は存在する。それが仮に10人だったとしよう。7人は、実際参加してみて嫌な気持ちになり、脱退する。しかし3人は、なんだか面白いと思ってしまって残り続ける。翌年、また10人のしょうもない新入生のうち7人が退き、3人の選ばれし稚拙な新入生が部員となって総勢6人となり、規模がふくらむ。つまりBADBOYSは、外から参入してくる者が必ず存在し、一方で嫌になって退部するものも(必ずとはいえないが)存在する。これがもし、参入者全員が揃って部員となれば、この稚拙な悪いサークルは今以上に大規模になっていただろう。国会議員の殺害や、原子力発電所の襲撃などをやらかす特定指定組織に膨れ上がったかもしれない。しかしそうならなかったのは、退く者がちゃんといたからであるのと、そもそもBADBOYSが魅力的でないことがある。もっと魅力的なものを例に取る必要があるだろう。そこで、YOASOBIのライブに行く人々を考える。ここで一つ非現実的な仮定をする。抽選なし、というものだ。すなわち応募すれば誰でもライブに参加できる。なぜこのような仮定を用いる必要があるかというと、抽選という人為的な壁を除外するためである。生まれた欲望と消えた欲望という自然発生的な壁だけに注目して大集団の形成を語ることが、ミョウバンや食塩の結晶成長を比喩的に説明することができる。さて、抽選なしでYOASOBIのライブに参加できるとなれば、大集団が占拠する面積は東京23区を優に埋め尽くすだろう。思い出されるのは、サバンナを移動するヌーの大集団または砂漠の草を無尽蔵に食べる旅をするバッタの大集団である。会社の用事や不運な病気、あるいは別のバンドに急に鞍替えしたくなった等、チケットがあるにも関わらずライブに行かない者が発生することは考えられる。しかしそれよりも、参加する者の数のほうが圧倒的に多いだろう。もしYOASOBIのボーカルが「私たちはファンのみんなに支えられてるんだよ!」と言った場合、その真の意味は、YOASOBIを構成する人間が莫大であるがゆえに社会全体から大きく目立つ結晶の形を維持できているということ、もっと言えば、何十万か何百万というファン全員もYOASOBIのバンドメンバーの一員だという夢のような連帯集団が形成されているということだろう。そういう大人気で巨大な集団はどんどん膨れ上がり、いつのまにか東京都、関東全域、本州、日本全体……と果てしなく陸地を占拠して超巨大結晶を生成させうる。実際、大きな結晶になりやすい化合物となりにくいそれがあり、私の家には、2ヶ月前に硫酸に溶かしたホルミウムが未だに溶液のままだ。それより前にサマリウムを硫酸に溶かしたところ、米粒より小さな黄色い結晶がいくつもできた。その他いろいろな元素を試したものの粉のように小さな結晶しかできなかった。かつて中学の理科の先生が大きめの硫酸銅の結晶を作っていたのを覚えている。しかし銅はうすい硫酸には溶けず、熱した濃硫酸による酸化還元反応(ここでは水素ガスではなく二酸化硫黄のガスが発生)で溶ける。家庭でそのような危険な実験はできないし、そのような危険な物質を買うこともできない。教科書に写真が載っていて、青くてきれいな結晶だ。とても魅力的である。


 たくさんの経験を積んだ人は、そうでない人よりも他人と円満な関係を築きやすいのではないかという予想をしている。言葉や動画で学ぶより、経験から学ぶほうが自分の血肉となって武器にもなりやすいのではないだろうか。当然、経験というものは目に見えるものでもないし、形あるものでもない。それを分かった上で、数か月前に、あえて経験というものは目に見えるものであり、形もあると仮定して思考実験を試みた。その形がどのようにして生まれるかというと、人と人との結びつきによる仲間意識の共有がなされたときだろう。世の中には友達を次から次へと作る人がいる。例えば私の祖母は、入院しているときに、他の6名の患者と仲良くなったという。たった1ヶ月で。祖母はかなり友達の数が多く、年賀状の量が一冊の本の厚みほどある。底抜けに明るい性格と、大きな声でよくしゃべる口、シャキシャキ行動する力を持ち合わせている。初対面の人と仲良くなるとき、アイスブレイクという言葉がある。祖母にはアイスがないのではないだろうかと思えるほど友達が多く、事実「にこにこしていれば自然と相手も寄って来てくれる」といつも口にしている。おそらくその「にこにこ」は、作り笑いすればいいと言っているのではないだろう。祖母は元から人が好きなはずであって、それゆえに自然に他人に対して笑顔になれるのだ。このような人は、相手との間に壁が無いか、あっても相当低い。よって易々やすやすとその壁を越えて人脈を広げ、巨大なネットワークを築くことが可能なのであると思う。一方で私は、友達がいない。数人いた時があったが、今は0になってしまった。これは自分の意識の話であって相手がどう思っているかは分からないが、その相手と連絡しようと思う日は無くなっている。コミュニケーションも下手で、他人に笑顔を向けるのも難しい。だから私は祖母に「にこにこしてないといけない」と言われてきた歴史がある。今、病院に通院している私だが、スタッフとの間に人間的つながりを覚えていない。日本語でしゃべることはできるが、そこに人と人とのつながりと言えるほど温かみのあるものを感じるときは無い。かつてはそういう経験があったため、今は無いと言える。そういった希薄な関係だけだと、人とのつながりを忘れてしまい、どんどん周りから人がいなくなる。そして引きこもりにつながる。完全に孤立しているわけではないし、人とのつながりを認識できないわけでもない。経験の機会はどんどん失われ、人生全体でまともに人と関わった数は非常に少ないままだ。他人と関わるときに、私の場合には氷の壁ではなく、無知の壁が立ちはだかっている気がする。他人の気持ちを理解しようとか、他人と関わり合おうと思う以前に、その他人は本当に人間なのか? という、書けばあまりにも失礼なことを思っていることを認めざるを得ない。私が人間であることは理解できるが、他人が人間であるということをどうやって理解すればいいのだろうか。このような失礼なことを、無意識のうちに考えている。その背後に生い立ちや恐怖、無関心などの要因があるのだろう。何はともあれ、現在の私の経験数は祖母のそれに比べて圧倒的に小さいことは明らかだ。そして私には巨大な人的ネットワークがないどころか友達も仲間もいない、知っているだけの人はいるものの、そこに人と人との信頼のし合いと言えるものが無い。一方で先に述べたように、祖母にはそれがある。今、経験が形あるもので目に見えるものだと仮定しているので、祖母の経験は地球のように大きな結晶だろう。一方で私の経験は、火山灰の灰の一粒のように小さい何かであり、それはもはや結晶ではなく原子数個の集まりだ。原子数個の集まりが、忌々しきエネルギー障壁を越える大きさまで成長しないと、結晶になれない。結晶になれずに大きくなったり小さくなったりを繰り返す原子集団をエンブリオ(胚)という。ところで私は、一人か二人の人と仲良くなれればいいと思うタイプの人間だ。祖母のように何人もの友達はいらない。これを考えれば、私が結晶になれない理由は仲間の数が少なすぎるからではなく、相手との間にある障壁が大きすぎるからだといえる。ここで、そろそろ経験数が目に見えるものだという仮定をなくそう。実際には経験数が目に見えるわけがない。では、経験数に関連して目に見えるものは何か。それはまさしく、その人の周りにいる人々の人数だろう。友達とか仲間、いろいろな関係があるだろうが、ともかくその人の周りに集まる別の人が多いか少ないかは目に見える。経験数と自分の周りにいる人の数との間には強い相関があるのではないだろうか。だから、祖母には友達が多いのに何で自分にはいないんだと思って嫉妬めいた感情に陥ったときに、自然と、人と関わってきた経験数が圧倒的に違うからと自分で答えることができる。祖母に限らず、周りの大多数の人には友達がいるのになぜ自分には……と嘆いて悲しくなったとき、人との関わりが少なすぎたからだという答えを出すことができる。これを解決する方法を思いついたのだが、それもやはり物理化学が明らかにした事実を比喩として用いたことから始まった。それを書くと文章が長くなりすぎるのでやめておく。


 ここまで書いてきたのは、日常生活における悩みごとの理由を、結晶成長の過程を比喩として用いて説明した場合の話だ。こんどは、材料力学における、単純支持はりの3点曲げ試験を比喩として用い、先に挙げたBADBOYSに関する周囲の態度について説明しようと思う。


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 BADBOYSは神戸大学の非公認サークルで、飲みサーだという。飲みサーというのは基本、酒を飲んで悪ふざけをすることを主目的とし、それを隠すために「バトミントン」だとか「テニス」をやっていると主張する特徴がある。私の大学では「卓球」だった。

 ここでBADBOYSから離れて、社会学者の宮台真司の発言を引用する。彼は、対談番組で以下のことを述べた。

「キーワードは社会的流動性だ。終身雇用制度があった時代、人は入れ替え可能じゃない存在で、ずっと会社に存在できる。ところが今は能力さえあればどこにだっていける良い社会/能力が無ければいつでもクビになる社会、となった。つまり、自分がそこにいるのは能力があるから。しかし能力がある人は他にもいる」

 また、引き続いてプライベートな人間関係についても同様なことが言えるということを述べている。

「私はこの人に好かれているのは可愛いから。しかし可愛い人は他にもいる。あるいは、私が好かれているのは頭がいいから。しかし頭がいい人は他にもいる。○○だから好きだ、○○だからここに居られる、それらの○○が全部入れ替え可能な根拠になっている。つまり○○を持っていれば誰でもいい、何でもいい、となる。(中略)ありとあらゆるものが入れ替え可能となっていくと、実は相当にヤバいことが起こるのではないか」

 そして

「『このような入れ替え可能な社会には意味が無い。意味があるのは宗教世界だけ、または宗教による承認だけ』というような態度をとる人が現れると、その人は社会に対する態度が軽いアモルフになるというか、無茶苦茶なものになる可能性がある。言いたいことは、『犯罪者を潰せ!』のようなネオリベ的な発想、そしてその背後にある不安、そういった不安を取り除くのにはどうしたらよいのか。これが個人単位でなく社会現象として起きているならば、社会の中で存在するということの実りを多くするしかなく、社会的コミュニケーションをすることの実りを多くすることしかないと思う」

 そして宮台真司は引きこもりを例に出し、「引きこもりは良くない」という意見に反対している。その理由として「社会に戻った際に、そこに実りあるコミュニケーションがあれば社会に戻れと言えるが、実際はどうだろうか。親の社会的コストが可哀想というのは、社会を大事にする発想があって初めて生じる感情で、社会なんかどうでもいいと思っているのならば利用するものは何でも利用して退却する、という話になるわけだ。引きこもりや自殺といった、社会から脱するという発想に至る」という。「自分は必要とされていない」という現実、あるいは「必要だと言ってくれる人もいるが、それは○○を持っているからであって、○○を持っていれば誰でもいいということは初めから見え透いていること」という現実について言及し、さらには「親にとっての子供もそう。俺じゃなくても成績が良ければ誰でもいい」という薄れた親子関係にも言及している。

 これらの発言からいえるのは、社会が人間を人間として認めない傾向が強まっている、ということではないだろうか。社会が求めているのは人間自身ではなく、人間が持っている武器である、と。最近の企業は即戦力を求めるし、最近の恋人条件にはルックスの良さや性格の良さを求める。親は子に成績の良さを求め、ある人Aはその友達Bに対して「良好な」関係を求める。ここでいう「良好な」とは、「喧嘩しない」とか「波風を立てない」、「楽しければいい」、「同じものどうしなら分かり合えるよね」といった類の、単純明快にして固有性を無視した関係性だろう。それゆえ多様性多様性と言葉だけが一人歩きするし、逆に人々は多様性の本髄をなす、個々人が固有の唯一無二の存在だということを認知して許容するという面倒なことをしなくなり、いつしか個々人が生み出す一般的な財とサービスを求めるようになるのではないか。「その人じゃないとダメなんだ。理由はない」ということを当然のごとく言える人が、現在の日本国民の何%を占めているか知らないし、「太郎と与助と勘九郎と仁左衛門の四人組じゃないとダメなんだ。理由はないが」とはっきり言えるような集団がどの程度存在するかも知り得ない。ただ、そういう理由なき人とのつながり自体が固有性を認める行為であり、たとえ○○を持っていなくても構わないというマインドを生じさせ、代わりに○○を持っている誰か(とりあえず正次郎と名付ける)を呼び寄せることとなるのではないか。正次郎もきっと○○は持っていても△△は持っていないから、偶然にもそれを持っていた勘九郎と磁力のような引き合いが生まれるかもしれない。あるいは○○を持っていなくても、どこかの機関に頼ればいいやということになれば、それはその機関を信頼することにつながって、四人組の連帯は保たれる。

 現代社会の人々が宮台真司の言うように入れ替え可能なものになっているとしても、本当は彼らが望んでいるのは入れ替え不可能であって、理由のない仲間意識ではないかと思う。その2つのどちらが良いかと問われたとき、私はいつでも後者を選ぶからだ。この感覚は私のみに存在するものだろうか? そうは思えない。最初は顔だの成績だのに引かれるのが自然だが、一定の月日が流れたらそんな入れ替え可能なものはもはや仲間であるための必要条件から除外されてゆくほうがいい。代わりに、理由はないけれどその人が良いんだという、その人の固有性を認める感情自体が仲間意識を持つ理由になっていてほしい。

 しかしこれは、全社会に適用されることが難しい関係性だろう。道を歩く赤の他人をどうやって仲間と見なせるだろうか。その道が例えば街灯一つない山林の、誰もいないような古道で、そこに偶然にも逆方向から歩いてきた「同志」ならばどうなるか分からない。しかし、自宅から最寄りのコンビニまで歩くときにすれ違う他人と、どうやって仲間意識を持てようか。ましてや従業員数数百人という規模になった場合、自分が認めるべき固有の存在が増えすぎて、脳がパンクするだろう。一方で社会はつながりを重視し、情報化やグローバル化に対応するために多数の「優秀な」人間とつながって己の安全と快適、利便性を持続できるようにし、「劣等な」人間を次から次へと排除してゆく流れが出来つつあるのではないだろうか。そして「優秀さ」を見せつけるためには自分自身の固有性は不要になる。代わりに必要とされるのは、自分が持つ優れた部分だ。それを増やし、そのすべてを完全に全世界の人間に知らしめる。そして地位名声のみならず全知全能を得て神のようになり、人々に尊敬される存在になる。これこそが己の安全快適便利な人生を保障する最高の方法だろう。Xを見てほしい。大量の2次元イラストが溢れる中においてひときわ目立つのは、すばらしいイラストだ。そのイラストにはいつも何万のいいねや何万のリツイートがされ、何十万の閲覧がある。おもしろい動画には何十万何百万のいいねやリツイートとともに何億もの閲覧がある。そのようにしてこの地上の神となったひとつまみの者たちは、いったい何者なのだろうか。神イラストレーターとなった者が事故で両腕を切断する羽目になったとき、あるいは、おもしろい動画を投稿することに飽きておもしろい動画が作れなくなったとき、神となったその者はどうなるのだろう。ところで、地位名声と並列して多くなるものがある。それはお金の量だ。事故に見舞われたイラストレーターにも、動画が作れなくなった動画投稿者にも、手元には大量のお金がある。まさに神となった称号だろう。

 ところで、神たちの実際の姿は何なのだろうか。民から見たとき、どんなふうに見えるのだろうか。

 これは気づいたらあまりにも自明であり、かつ虚無的である。神は目に見えざる存在とはよく言ったものだ。民から神を見たとき、単に@argdiuhfbnなどというユーザー名とネット用のアカウント名が見えるだけである。それとアイコン画像だ。

 それは違う、と主張する人がいるだろう。同人会でリアルに会えるとか、ホストや風俗に行けばリアルに会えるとか、講演会や学会に赴けばその人のご尊顔を仰げる、とか。そして「ついにあの超絶イラストレーターに会えた!」「いつも優しい麺、最高!」「○○ちゃん、かわよすぎィ!」「先生の研究は素晴らしい! ノーベル賞に匹敵なさいます!」と、言うのだろう。それは、宮台真司の言った「○○」に相当しているではないか。リアルに会って求めているものは、その人ではなく、その人の優れた部分でしかない。理由はないけどその人がいいんだ、という、その人の固有性を認める意識は皆無で、その理由は当然、その人が神になったからである。

 スタートとゴールを書くと、「社会が人間を人間として認めない傾向が強まれば、ユーザー名と、実体なき優れた部分が残る」だ。これはまさしく歴史に残った偉人の「名前」と「業績」が残ることと等価になっている。そしてそれらの偉人はとっくの昔に死んでいる。人間を人間として認めない傾向が強まった社会で生き残ることは、死んでいる状態を目指してついにそこに到達することと等価、ということになる。現代社会の一番上、神となった者たちから順に死んでいくことになるだろう。生き残ろうとしたはずが、真っ先に死ぬということになる。しかも実際にはまだ生きているわけで、しかもそれは若い人だ。自分が「神」だと思っていたら、実は「生ける屍」になっていたのである。過剰に優秀になろうとすることは、果たして人生を豊かにするのだろうか。

 この破滅への一本道から引き戻してくれるのは、政府でもなければ病院でもない、どこかの専門家でも有名人でもない。「誰か」はすでに「○○を持っていれば誰でもいい」という入れ替え可能な存在でしかなく、人間にはそれぞれに固有性があることを再発見させてくれる見込みはない。では、最後の救世主はいないのだろうか。

 私は、いると思う。理由はないけど良い人だ、と思えればそれでいいのだから、理由なくその辺の人と話してみることである。それで悪ければ離れればいい。良ければ関係を持続させれば済む話だ。私の祖母は友達が大量にいて、巨大な人々どうしの結晶の構成員になることができる人だということは先に述べた。なぜそんなことができるのか不思議だったが、今それが明らかになった。「なぜ」という理由がそもそも無いからである。祖母はきっと理由なくそこらへんの人と話していたのだ。そして祖母の年齢は80歳であり、戦中に生まれた人間だ。生きるか死ぬかの、安全でも快適でも便利でもない時代に、人間は人間として他の人間と理由なくつながることができていたのだろうか。そのとき、おのずと表情は「にこにこ」していたのだろう。きっと祖母だけでなく、周りのほとんどの人たちもそうだったのだろう(決して戦中が良かったと言いたいわけではない。生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている日常に戻るのが良いというのは、人間以外のすべての生物、例えばミジンコやゾウリムシのような生物が送る日常でも良いと言っているようなものだ。それは人間が人間ではなくても良いとする、別の悪夢へ向かう態度だと思う)。

 出生前診断でダウン症の子供が生まれる可能性を伝えられた母親は、その9割が子供を産まずに殺すという。つまり1割の母親は子供を産み、その子供は人間として母体から地球へと脱出することが叶う。その狭き門をくぐり抜けることができた幸運な子供が、TBSで紹介されていた。最初は、どんなに障害が重い子供なんだろうかという気持ちで見ていた。そしたら、その子供が取る行動の一つ一つがいちいち素晴らしくて、気づいたらその子供に好感を持っていた。紹介されていたその子供は。しゃべることがなかなか叶わない代わりに、体で気持ちを表現する。母親の顔が険しくなったら手を引いたり、抱きついたり。輪に入っていないスタッフを見つけたら、その手を引っ張って輪に入れてあげようとしたり。そのとき、母親やスタッフが笑顔を見せていた。そればかりか、引きこもりの私も笑顔になっていた。昨今、手を触ることやハグをすることは、嫌がらせやセクハラ、パワハラなどと言われるようになった。その人が何を思ってその行為をするのかも聞かずに、自分の不快感のみですべてを判断するようになっている例であろう。反動として、そのような犯罪を犯したくないために、手を触ることもハグをすることも、果ては電車のホームで倒れた急病人の女性を救うことをためらう男性が生まれているという。そういう態度を取りやすくなっている背景には、きっと先に書いた悪夢のような社会の変化の流れがあると思う。ダウン症と分かったら殺すのが多勢という呆れた現実も、輪に入れないときに手を引っ張ってくれる素晴らしい人を生まれる前に殺すのも、悪夢のような社会の常識が広まることに関係しているだろう。「それが現実だ」という言葉に対して、「それで良いのか?」と言い返すことのできる人が、どんどん潰されているような気さえする。


 そんな社会で生きていきたいと思えるだろうか?


 BADBOYS並びにそれに似た各大学の飲みサーは、稚拙ながらに社会の致命的欠陥を間接的に浮かび上がらせてくれていると見える。「あんなサークルには引っかからないようにしたいです」「バドミントンはやってない、飲みサーって感じですね」「神戸大学の評判が下がるようなことはやめてほしいです」。これが今の普通の人が発する言葉だ。BADBOYSの現状を学問的に解析しようと試みる学生は、2人くらいしかいないのではないだろうか。そういう人こそ、第1次産業や第2次産業ならびにエッセンシャルワーカーの職に就いて、深刻な諸々の問題を解決してほしい。そこにはきっと「理由なく人を良いと思える空間」ができやすいと予想する。

 引きこもりや自殺も、不動を貫くという堕落をしつつも社会の致命的欠陥をやはり間接的に浮かび上がらせてくれる存在であると思える。「引きこもりは悪い」「自殺はよくない」「働いてお金を稼げ。将来どうするんや?」「気持ち悪いやつらだ、ゴミが」。これが今の普通の人が抱く感想だ。なぜ引きこもるのか、なぜ自殺するのかについて徹底的に考え抜く人が少なければ、全力で救済してやろうと思って革命的な行動に打って出る人もほぼゼロだ。意味の無い政策でやってる風に見せかけて、現実には引きこもりも自殺も(人口が減っているのに)増えている。この、「なぜそうなっているのか」という原因を考えない態度は、大学に対しても言える。偏差値のピンからキリまで、学生を評価するのはたった1回か2回のペーパー試験だ。自分の考えを書くことが最も評価されることはない。自分の考えを養う材料を植え付けてくれる講義もできない。講義中は、最前列をマシンのようなガリ勉が占拠し、中ほどの列では自動人形のように見分けのつかない生徒たちが座って先生の話を聞くなり黒板の文字を書くなりの作業をし、最後列では睡眠か賭博かいかがわしい行為が行われている。「講義はそんなものだ」という人のうち、それ以外の時間を何に使っているのだろう。

・良い子が入るお手本のようなサークルに入って似たような連中と仲間になり、自分が好きなことは絶対に社会的にまっとうである必要があり、ふざけたことはほどほどに、ぼっちにならないように誰かとトモダチになる。ホワイト企業にアピールできるような清廉潔白な履歴書を作成するために善行をし、息抜きにゲームをし、XやTikTokやインスタを見、気づけば深夜になっていたので布団に入って寝て、翌日の講義に間に合うように起きる。

 上の「・」を基準として、それを「着崩す」ようにしてモラトリアムを謳歌するだけだろう。モラトリアムは必要だが、その中身が問題なのだ。

 バイトもしていないのにとんでもない大金を払って大旅行をし、親に金銭的負担をかけることも厭わずに己の中の新世界を築き上げることを社会は悪と見なす。自分の部屋が3次元空間ではないと仮定して世の中の不可解なことがらや宇宙の挙動を説明する人を社会は見捨てる。しゃべらない人から社会は離れる。自分が卑屈な人になって輪の中に入らずに、むしろ外を目指して遠くの彼方に行こうとするとき、先に紹介したダウン症の子供のような大人はこの社会にいない。研究室に行かなかったら怒られて罵倒され、ゴミ扱いされ、退学はするなと言われて結局退学したら「残念ながら」と言われて切り捨てられる。「残念ながら」「ご自身の行いを今一度反省して頂いて、次回からはこのようなことがないようにお願いします」「厳正なる選考の結果、誠に残念ではございますが今回は採用を見合わせて頂くことと相なりました。ご期待に沿えず大変恐縮ではございますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」。これらを訳せば「何こいつ」、それが社会の言っている私への言葉だ。自分が悪い、と自分も周りも言うようになる。そういう中で生きていると、こんな文章を書きたくなって書く。自己責任、自己防衛、自己投資、自己実現、自己中心、私も周りも自分のことだけしか考えず、嫌になった私は不動を貫く堕落行為に走る。


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 さて、ここから、材料力学における単純支持梁の3点曲げ試験を比喩的に用いて、BADBOYS、社会一般の人、私のような引きこもり、この3相について、これがどういう条件で増加・減少するのか考える。

 スーパーで売られている灰色のこんにゃくを思い浮かべてほしい。直方体で、上の面が平らであり、横の面は長い面と短い面がある。あれの両端を持ったとき、真ん中が下にたわむだろう。もちろん、ピンと張ってしまったらそうはならない。軽く持つだけである。すると真ん中がだらしなくだらんと曲がるだろう。私がBADBOYSのニュースを見終えて数分後、なぜか材料力学の講義で単純支持梁の3点曲げ試験による試料内部の応力分布を習ったことを思い出した。そしてそれをうまく伝えるとき、両端を持ったときに真ん中が下にたわむこんにゃくのイメージが湧いた。

 ここで、本物のこんにゃくが道端に落ちていてそれを象が踏み潰した状況を考える。どうなるだろうか。まずこの現象を考えることから始める。その理由は、私が社会をこんにゃくに例えようとしているからである。スーパーで売られているこんにゃくは象がぐちゃぐちゃに踏み潰せるほどに軟弱な存在だが、社会は違うはずである。並大抵の外力ではそうならないはずだろう。そしてここでもまた、目に見えない社会という概念をこんにゃくという目に見える形ある物体に例えている。


==面倒なことがら==

 路面と象の足の両方によって、こんにゃくは、一番平べったい上と下の2つの面に巨大な力を受ける。そうすると大きく変形するだろう。だがこのこんにゃくは信じられないほど伸縮性にすぐれており(エラストマー素材よりも)、どんなに大きな力がかかってもたやすく無限に平らになれるという対抗法を備えている。よってこんにゃくは、あるところで潰されることがなくなって、信じられないほどに非常に平べったくされた状態で止まる。そのように変形したときに、こんにゃくは曲がってはいない(曲がっていてもいいが、曲がってない状態を想像したほうが分かりやすい)。「潰れる」というのは、「厚さが薄くなるものの、こんにゃくの一番上と下の部分ではない「中」の部分の面積が広がる」ということだ。皿のように広くなる、といえる(しかし一番上と一番下の面は相変わらず初期の面積のままである。その理由は、それらが路面と象の足によって完全に束縛され固定されているからである。多分、消しゴムをプレス機で潰したら皿のように薄くなり、一番上と下の面はそのままの面積を保っているだろう)。薄くなったのは、圧縮されたからである。ところで圧縮の力というのはそれがかかっている面に対して垂直である。確かにこんにゃくの一番上と下の面にはたらいた巨大力もそれぞれの面に対して垂直だった。潰れている最中、こんにゃくの仮想断面にはたらく内力は外力よりも小さかったため、変形を続けた。しかし今、その変形もついに終わった。すなわち内力と外力がとうとう釣り合ったのである。どの仮想断面に対しても、外力と同じ値かつ外力と反対向きの内力がはたらいている。力がつり合ったことによって、こんにゃくは変形することを中止することができた。最初は内力0だったが、外力が加えられた瞬間から内力が(目覚めたように)発生し、外力の向きに抗うために反対方向に内力が増加し、ついに外力と同じ値に達して停止できた。しかし代償として、象をどける以外にはもうどうしようもないほどに、とんでもなく薄くなってしまった。依然として象は微塵も動かない。

 代わりに、最初よりも圧倒的に平べったくなった。つまり、もとの状態よりも側面が伸びることになった。伸びたということは、引っ張られたということだ。誰に引っ張られたのかは分からない。象は引っ張ったのではなく圧縮したのだから。ただ、犯人はやはり象だろう。こんにゃくを拡大していくと、原子の規則正しい配列が見えてくるはずである。最初は整然と、秩序を保って並んでいた原子たち。しかし象の信じられない圧縮の力によって、原子の配列が乱された。象の足にへばりついている上面と、路面に密着している下面は原子が絶対に移動できない完全拘束状態だ。にもかかわらずどんどん大きくなる内力に抗う術もない原子たちは、もはや割り込んでくる他の原子たちを受け入れるという嫌な運命を飲み込むしかない。原子たちは別の面から来た原子たちに割り込まれ、もともと並んでいたところから少し間隔を開けさせられて、その隙間へ原子が無理矢理入り込む。そう、満員電車にさらに乗客を詰め込むには、わずかな隙間に人間をねじ込んで、押し寄せる新しい客のための空間を作らなければならない。しかし不幸にも、こんにゃくを構成する原子たちは初期状態の圧縮力ゼロの時点ですでに満員だ。これを打開する策は一つ、割り込んできた原子のために元々そこにいた原子たちが外へ外へと逃げるのだ。幸いにして側面に窓は無い。つまり側面から外力がかかることはない(窓に顔を押し付けられることがない)ので、逃げることができる。しかし次から次へと原子が割り込んでくるので、ますます外へ外へ逃げ続けて常に新しい客のための隙間を確保させねばならない。内力が外力と釣り合ったとき、ようやく割り込みと逃げの繰り返しが終了した。そのとき外からこんにゃくを見たら、原子たちはそれぞれ位置を変えすぎたせいで、もはや象をどかす以外には何をやっても取り返しのつかないレベルにとんでもなく平べったい形になってしまった。なぜ誰にも引っ張られていないのにあたかも引っ張られて平べったくなったように見えるのか。私はその理由を、象の力のせいでこんにゃく内部の満員の原子たちが位置を無理矢理変えるしかなかった、それ以外に他の面にいる原子を受け入れる隙間を作る方法はなかった、という悲劇的な運命によるものと考えた。ちなみに引張の力は圧縮の力と反対の向きであって、それがはたらいている面は圧縮のときと同様に垂直である(面を押すか引くかなのだから、面に対して垂直なのは変わらない。原子たちが一斉に外に逃げたことによって、見かけの引張力がはたらいたという考えを書いた。外に逃げるとき、開いた窓から逃げるだろう。そのとき窓に対して垂直方向に逃げるだろう。原子がこんにゃくの側面から逃げるというときに、こんにゃくの側面に対して垂直方向に移動するという、気にも留めないような当たり前のことをやっていた。それはいつの間にか、引張力が(見かけであっても)面に対して必ず垂直でなければならないという条件を満たしていたのである)。

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 社会はこんにゃくのように柔らかには動かない。にもかかわらず社会をこんにゃくに例えるというのである。ならば必然、鋼鉄のごとき硬さが必要がある。先に書いた象の踏みつけによって変形することは無いと見なせるのだ。厳密には少し変形するが、そんなことは問題にもならない量だ。つまり、潰れないという仮定である。面倒なことがらで書いたのは、曲がらないが潰れるこんにゃくについての変形プロセスだった。では潰れない代わりに曲がるというのは、どういうことだろうか。

 それを書く前に、私は自分の横にあったティッシュ箱を試しに曲げて見た。都合のいいことに、「箱」はプラスチックの包装。つまり中がよく見える。なぜ都合よくそんなティッシュがあったかというと、一番安かったものを買ったからである。曲げたときにティッシュの内部を見た結果はこうだ。褶曲しゅうきょくしていた。それは私が今から仮定する鋼鉄のごとく硬いこんにゃくの条件を満たさない。褶曲とは具体的に、折れ曲がった部分がいくつもあったということだ。折れ曲がるということは変形するということであって、「変形することは無い」という条件を満たさない。どうやら軟弱なものを曲げるとどうしても変形するようだが、ティッシュは潰れる代わりにへし折れるという方法を取るようだ。もっと正確に言うならば、ティッシュ一枚一枚は内側のものほど激しくへし折れていた。対して外側はへし折れていなかった。この結果は材料力学における単純支持梁の3点曲げ試験による試料内部の応力分布(理論)に一致している。そしてその理論こそが、私がBADBOYS、社会一般の人、私のような引きこもり、この3相について、どういう条件でそれらの人数が増加・減少するのか考えるために都合のいいものであった。


==曲げによる応力分布==

 応力とは本質的に圧力のことである。結局、力を面積で割ったものである。しかし単に力を面積で割るといっても、ある面に対して斜めから加えた力を加えた場合にはどうなるだろうか。いろいろと面倒なことになるという予想ができる。中学生のとき、平らな机に置かれたスポンジに鉄みたいな立方体を乗せた写真を見た。スポンジはへこんでいた。これは、平らな面に垂直な力(重力)のみがはたらいた場合の説明であって、単純に力÷面積で良かった。しかし斜めから力を加えるとなると、せん断力というものがはたらく。これは面に対して平行な力だ。確かに、私たちがスポンジを使うとき、いつもせん断力が働いている。スポンジで皿を洗うとき、当然ながらこする。押しつけて洗う人は一人もいないだろう。もしいるとしても別にかまわないが、今回BADBOYSが旅館で行った迷惑行為の中に「シャンプーを廊下にまき散らす」というものがあった。これをタオルで拭きとった際、タオルを廊下に押し付けながら拭きとった職員はどう考えてもいない。廊下に対して平行にタオルをこすることによって、初めてシャンプーが取り除かれたに決まっている。それがすなわち、せん断力なのである。この世界で生きていくためには、垂直力だけでなくせん断力(平行力という言葉は無いけれど、そういう呼び方のほうが分かりやすい人もいるかもしれない)を加えることが絶対に必要である。ということで、ある面に対して斜めから力を加えてみる話に戻る。それをベクトルの成分分解を行ったならば、面に垂直な成分と平行な成分の2つに分けることができる。普通使われる圧力という言葉は、垂直応力と呼ばれる。面に垂直な力を面積で割ることを考えているのだ。では平行な力を面積で割った場合は? それはせん断応力と呼ばれる。床をこする、のこぎりで大木を切る、雪上をそりですべる、など。いずれも力は面に平行にはたらいていることが理解されるだろう。ところで、面に対しても考えないといけないことがある。面自体が斜めだった場合だ。そんなことがあるのかと言われそうだが、物体の内部を考える場合においてそれを考えることが必要である。スポンジで例えるならば、スポンジの表面(どの面でもよい。もちろんスポンジは直方体)の面積を計測することはできる。そして、スポンジを斜めに切ることもできる。その「斜め」ということに関して、いかようにも角度をつけることができる。ここで一旦、中学の教科書に出てくるスポンジの上に鉄のような立方体を乗せた写真のことを思い出していただきたい。スポンジの中はどうなっているのか、と。実際に切らずとも、あのスポンジはいかなる角度からでも斜めに切ることができる。もちろん床と平行に切ることもできるし、非常識にも床と垂直に切ることも可能だ。ということは、あの写真のスポンジの表面にはたらく圧力は、力をその面の面積で割ればいいわけだが、イメージの中で斜めに切った部分にはたらく仮想断面においては、表面の面積とは異なる面積である以上、簡単に計測できる表面の面積で安易に割ることができない。斜めである仮想断面に対しても床に対しても鉄の立方体による重力ははたらくわけであるが、その面に対して重力はもはや垂直でなくなっている。つまり、たとえ斜めから力を加えないで真っ直ぐ垂直に力を加えたとしても、切る面がいかようにも選択できるならばどうしてもその力を成分分解し、面に対して垂直な成分と平行な成分に分けなければならない。その結果、圧力というものは垂直応力とせん断応力の2つに分けられる。しかも、成分分解したときの角度と、面をどういうふうに切ったかを表す角度、この2つが垂直応力とせん断力の値を決める。スポンジの面にいかに垂直に力を加えようとも、頭の中のイメージで切った面にはたらく圧力は先の2つの種類に別れる。まして斜めから力を加えたら、まずその力を表面に対して垂直なものと平行なもの成分分解し、そしてその2者に対して、斜めに切った面にはたらく力をまたしてもその面に対して垂直なものと平行なものに成分分解し、合算して最終的にその面にはたらく垂直応力とせん断応力を算出しなければならない。具体的に知ろうとするとこんな面倒な計算が必要な力を、私たちは24時間365日平気であらゆる物体に加えている。それが善か悪かはまったく関係ないが、それの計算をテストに出す先生は悪どい性格と考えられる(τ=σS,max(S)=0.5)。

 これらの説明をしたのは、以下で応力という言葉を使うからである。それが圧力と同じようなものということを把握していただければ十分である。


 鋼鉄のこんにゃくは存在しない。代わりに、鉄橋のレールを例にとるべきだろう。鉄橋のレールは両端が支持されているから、中央部を電車が走ればその重みで曲げられるだろう。目に見えない程度なのは確かだが、電車に重力が働く以上は少し曲がるはずである。レールの上部は圧縮、下部は引張となる。手近なところにある直方体を曲げてみてほしい。一方の面はしわが寄り、もう一方の面はつやめきが出ているように見える。これは、手で持っているほうの側面2つに垂直応力がかかっているからだ。曲がることが起こるのは、上面に圧縮応力が加わり下面に引張応力が加わるからである。全体としては力が釣り合い、静止状態を保てる。ということは、圧縮も引張もかかっていない特別な面が内部のどこかに1つ存在することを意味する。曲げているのに何の力もかかっていないとは、不思議でしょうがない。しかし圧縮から引張に切り替わる面があるということは、その面の応力がゼロということになる。頑丈なレールの一番上の面とそれよりごく浅い内部の面には大きな圧縮応力が、一番下の面とそれよりごく浅い内部の面には大きな引張応力がはたらいている。一方で、何の応力もはたらいていない面(中立面)があり、さほど大きな圧縮または引張応力がはたらいていない面が中立面の近くにある。


 不良と引きこもりの数は、普通に生活できている人間の数に比べて圧倒的に少ない。ほとんどの人に何かしら圧力がはたらく社会でも、不良または引きこもりにまで陥る人は少ない。不良には最大の引張応力がかかり、引きこもりには最大の圧縮応力がかかっていると感じる。曲げすぎて壊れる場合には、引張応力がかかっている面が壊れる。はじけすぎて過激な行動に走り、犯罪を犯して人生が壊れるのは、大抵不良だろう。逆にふさぎこんで自分で自分をいじめ、潰れるか潰れないかの圧迫感のある日々を延々と送るのは、引きこもりだろう。普通に生活が送れている人にはきっと、壊れるほどの引張応力も、自分で身動きが取れなくなるほどの圧縮応力もかかっていない。何かしらの応力はかかっていても、限度を超えることはないのだろう。可能性がないわけではないが、とりあえず今のところは大丈夫な人たちだろう。では不良と引きこもりにかかっている異常な応力を軽減するにはどうするか。一つに、レールの下から力を加えるというのがある。磁石による磁力、水による浮力、あるいはクレーンで釣り上げるという強硬手段。もう一つに、電車が通り過ぎるのを待つという方法がある。しかし次の列車は必ず来るので、その場合は曲がったレールが元に戻る時間を考慮に入れる必要がある。それらの比喩が現実ではどのような行いに相当するのだろうか。下から押すというのは、誰かの助けを借りることや、誰かに注意されることかもしれない。その際に必要なのは信頼だろう。依存または敵意が生まれる可能性が高いうちは、助けも注意もしないほうがいいだろう。よって第二の方法、電車が通り過ぎるのを待つということ、すなわち、落ち着いた状態が来るまで待つというものだ。終電のない電車はない。始発までは電車は通らない。都会のひっきりなしに往来する電車にあっては、真夜中しかチャンスがないだろう。田舎の1時間に1本しか電車が走らないところは、真夜中以外にもチャンスがあると思われる。どこかで運転見合わせが起きたら、それもチャンスになるのかもしれない。

 BADBOYSのような非行連中や引きこもりのような孤立者が増加するのは、社会がどんどん曲がっていることを意味するかもしれない。社会が曲がるとは、ずっと前に書いた諸々のことである。そして、曲がり続けてついに壊れ始めたら、壊れた部分は使い物にならないためレールとは呼べない。レールと呼べる部分が必然的に少なくなり、弱くなる。そしたら、今までの応力値だと大丈夫だった人たちに、より大きな応力がはたらく。すると非行者と孤立者が増加する。そして非行者が社会を壊し、孤立者はますます孤立を深めて陰鬱な考えに支配される。そのような繰り返しが続くと、鉄橋レールは真っ二つに折れて川に落ちる。いままで幸運にも応力がゼロ付近だった連中も、否応なく川に落ちる。すると新たに鉄橋を作る必要があるが、ここでは鉄橋が社会の比喩になっている。真っ二つに割れて「川」に落ちた社会を、どうやって処分して、そしてどうやって新しい社会に変えていくのか。外国にでも頼るのだろうか。そういえば日本はアメリカの属国だとか中国の属国だとか言う者がいる。ある人は、日本はアメリカに「無垢の巨人」にされて久しいと述べている。社会が一度分断して「川」に落ちた場合、その修復はきわめて難しいのではないかと私は思い始めた。

 まあ、しかし鉄橋はそこまで柔らかではない。社会がどんなに悪かろうと、なかなか潰れないだろうし、よって完全に真っ二つに割れて再建不能に陥ることもなかなかあり得ないように思える。簡単に絶望するのは、社会がこんにゃくのように柔らかくなってからでいいだろう。


 *


 物理化学を日常に役立てることができる。物理化学を比喩として用いて、人生や社会について持論を展開することだ。それは異様に面白いことであり、いわゆる理系がいわゆる文系に批判されないようにするために少々役立つかもしれない。

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理科や科学を日常生活に役立てる方法 島尾 @shimaoshimao

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