ヒーラ

凪野 織永

ヒーラ

ヒーラ

 不死。

 それはこの世のありとあらゆるものを見届ける特権にして、この世のありとあらゆるものを見届けなければならないという枷である。

 決して逃れようもない在り方で、決して変わりようのない生き方。

 何もかもが失われていく。何もかもが朽ちていく。何もかもがわたしを置いていく。大切なものも唾棄すべきものも全て分け隔てなく、この掌をすり抜けて虚無に落ち、全てが過去の産物になる。

 何もかもが風化していくなか、衰えないのは記憶だけ。その名残すら雨風に削り取られて粉塵と化す。

 だから、わたしはダイスを振る。


 選択を、遥か過去に落ちていった彼に任せたいがために。





 不死はロマンだ。

 胸いっぱいに抱えた映画のCDを抱えて隠しきれないニヤつきを必死に抑えながら、少年はそんな事を思う。

 不死はロマンだ。その言葉をひたすらに反芻して、この言葉を座右の銘にしよう、だなんて思いながら。

 少年が抱えているのは、今の時代ではなかなかお目にかかれない娯楽だ。パッケージは随分と古びていて、印刷されているタイトルなんか掠れて読めたものではないが、少年はその中身がゾンビものの映画だと知っているし、外側が判然しなくても中身は一応見れるものだと知っている。

「ああ、本当に師匠には感謝しなきゃ。CDのみならずプレイヤーも貸してもらえるなんて……」

 少年はブツブツと呟きながら、早足に帰路を辿る。誰にも見つからないように。深く帽子をかぶって。

 しかし、少年が古びた衣服の上に羽織った白衣はどうしても目立って人目を引く。だから、少年はそいつに目を付けられてしまったのだ。

「おーい、キャンサー!」

 友好的な調子で呼ばれて、少年はびくりと震えて身を固くした。その赤みを含んだ黒の瞳は、怯えの感情を顕著に表していた。

「おいおい何してんだよキャンサー。『トモダチ』が呼んでるってのに、つれねえなぁ」

 あくまでただの友人に話しかけている体の言葉は少年——キャンサーにとってはひどく寒々しく、茶番じみたものに感じる。あからさまに怯えた仕草をする体とは反対に、心の中は静かな苛立ちに冷め切っていた。

 トモダチ。そんなもの、一人だっていないのに。どの面を下げてそんな事を言えるんだ。

 悪態をつきたくなるが、それをする勇気は彼には無い。抵抗をしたらどうなるのかは火を見るよりも明らかだ。力関係を無視して抵抗した結果に転がった歯の破片や人の形をした肉塊を、キャンサーは何度も見た事がある。

 背後から近付いてきた男に肩を組まされて、その下卑た笑みを浮かべる横顔に引き攣った歪な苦笑を返す事しかできなかった。それは、非力な少年の精一杯の処世術だ。

「まあまあ、そんな怯えんなよ腫瘍ちゃん。大人しく『治療』されりゃ良いんだからよぉ」

 治療。その男が使うその言葉は、医療行為なんていう優しいものではないとキャンサーは身を以って知っている。

 平たく言えば、ただのリンチだ。暴力行為だ。弱いものいじめだ。ただただ一歩的に与えられる苦痛であり、搾取だ。勿論キャンサーがされる側、男がする側だ。

 その名前も知らない、自分より数歳ほど年上らしき男は、ほんの数週間前に突然現れてキャンサーへの暴力を始めた。まるで抑止を突然失ったかのように唐突に、そして苛烈に。

 その数週間でキャンサーの心には恐怖という名の傷が確かに刻みつけられており、その男に対する拒絶的な意識が根付いていた。

 誰か、それこそ男の言うものとは違った意味の「トモダチ」が居ればキャンサーに救いの手を差し伸べてくれたのかもしれないが、生憎そんな人間はいない。少年が生まれ育った場所では友情なんて脆弱にすぎるものだ。

 ならば友情ではなく家族愛ならどうか、と言う話だが、実際の血縁関係にある父は種だけを植えてどこかに行ってしまって、今や生きてるかどうかもわからない。母は子を育てるのに警戒を研ぎ澄ませすぎて、庇護対象であるキャンサーすら傷つけようとした。二人とも、今はキャンサーの側にいない。

 親代わりは多忙な身であり、たまにしか顔を合わせないし、兄弟同然に育った幼馴染との仲は険悪。詰まるところ、キャンサーは孤独だった。

「はは、何固まってんだよ。お、なんか大層な物持ってんじゃん。見せてみ」

 男はそう言って片手を差し出した。ここで今抱えているCDとそのプレイヤーを差し出さなければ、キャンサーは抵抗する間もなく圧倒的な暴力に呑まれ、最終的には後生大事に抱えている物でさえ壊されるか奪われてしまうだろう。

 しかし、自分の矜持とロマンのために、それを手放す事はできなかった。愚かな選択かもしれないが、ここで殺されたのならそれまで。運が悪かったとしか言いようがない。

 返事の代わりにCDを抱きすくめたキャンサーに、男は不愉快げに眉を寄せる。

「あっそ」

 先ほどの体面の良い、好青年らしい声音が反転して、つまらなさそうな冷えた声に変わる。それがひどく恐ろしくて、背筋が凍るような心地がした。

 組んだ肩がほどかれると、どん、と暗い路地裏に突き飛ばされる。キャンサーが住んでいる地区は昼間でも薄暗いから、路地の影に入ると真夜中と見紛うほどに無気味で光が無い。

「じゃ、力づくで貰うだけだし。恨むなら自分の幸運を恨めよ、魔女に拾われたボンボン野郎」

 その言葉を聞いて、カッと頭に血が昇る感覚がした。

 確かに、キャンサーは幸運な少年だった。幼い頃に貧困に喘いでいた彼は、魔女と謳われる偉大な研究者に幸運にも拾われ、住む場所に困らず命を落とす危険が少ない生活を送ることができた。

 だからこそ親になってくれた研究者に恩義を感じている。その彼女が、明らかに悪意を含んだ蔑称で呼ばれるのは、どうしても我慢ならなかった。自分が殴られ蹴られるよりも、ずっと。

「おい、撤回しろ——」

 叫ぶと同時に、ぐらりと頭が傾いた。

 周囲の光景や舞う埃が突然スローモーションになり、ひどくゆっくりとキャンサーの周囲を巡る。

 数秒、あるいは数瞬が過ぎ去り、頬に熱を感じて、そこでようやく顔を殴り飛ばされたのだと理解した。

「あっ、ぐ……」

 声にならない悲鳴をあげて、キャンサーは地面に伏す。その衝撃で抱えていたCDが腕の中から飛んでいき、そして路地の奥の暗闇に消えていった。

「あ……!」

 そのCDを自分の手に取り戻そうと腕を伸ばして、しかしそれは踏みつけられる事で遮られる。

「いっ……!」

 容赦なく襲い来る鋭い痛みに、キャンサーは歯を食いしばった。

 大丈夫大丈夫大丈夫。だって寒くても痛くても嫌われてもキャンサーだと癌だと蔑まれても嫌われても死ぬことはなくて大丈夫だったんだから大丈夫きっと今日もぼくは。

 自己暗示のように脳内に流れる言葉の羅列。連続する苦痛を彼に耐えさせるのはその暗示と、彼が抱き続ける憧れだけだった。

「何ニヤニヤしてんだよ気持ちわりぃ……! あのチビと言いコイツと言い、魔女の子は魔物か⁉︎」

 男は叫ぶ。その顔は余裕ぶった笑みは浮かばず、代わりに戦慄が頬を引き攣らせていた。

 気持ち悪い。その言葉と同時に、頭に靴の裏が近づいてくるのを確認した。

 ああ、このまま虫みたいにぐしゃりと潰されるんだろうな。路傍に転がるゴミみたいに、そのまま見向きもされず転がされるんだろうな。諦念めいた思考を働かせながら、ゆっくりと迫る靴裏を眺めて——


「ねえ」


 と、呼びかける声に、視界に映るものが一気に正常な速度に戻った。

 自分の頭蓋を踏み抜くはずだった靴は目前で止まっており、少し頭をずらして男の顔を見てみると、彼は取り繕う余裕も無い驚愕を浮かべていた。

 その男の視線の先にあるものを、促されるようにして見る。そして、キャンサーも男と同様に驚きに震える事になった。

 そこにいたのは、少女だった。

 キャンサーよりも少し年下、十二歳ほどに見える幼い少女。くすんで白に近い色に見える金髪は膝裏まで伸びており、人外的な雰囲気を漂わせている。シンプルなデザインのワンピースは古びており、本来は白であったであろう色をクリーム色にしていた。

 俯いているせいで顔は見えないが、そんな事はどうでも良いと思えるほど、彼女の外見は異様だ。

 なぜなら、その左胸、丁度心臓がある部分に、深々とナイフのような鋭さを持ったガラスの破片が突き刺さって彼女の体を血に染め上げているのだから。

 ゆらり、と少女の体が揺れる。倒れるのかと思ったが、しかし少女は確かな足取りで歩み、ひたひたと二人に近付く。

 長い髪がふわりと靡き、そして彼女が浮かべる、無邪気であるからこそ歪な笑みと、爛々と輝く黄金色の瞳を覗かせた。

 少女は囁く。


「コロス、の?」


 それは、単純に男に対してキャンサーを殺すのかと問うているようにも聞こえるし、誰かに殺された者としての恨み節のようにも聞こえる。

 異様な、それこそゾンビのような少女に男は震え上がり、そして少女の言葉を聞いた途端に顔を真っ青にして後退りをした。

 少女が一歩近付くと、男は一歩後退りする。

 少女の口角が上がる。まるで悪戯をしようとしている子供のように。純真で無邪気で、しかし胸にガラスが刺さったままだから異常にしか思えない表情。

 そのまま少女が一歩を踏み出すと同時。緊張の糸がプツンとちぎれてしまったかのように、男は情けなく叫んで助けを呼びながら裏路地を飛び出した。ドップラー効果を引き起こしながら小さくなっていく悲鳴にキャンサーは呆気に取られて、その背を呆然と見送る。

「……え?」

状況が把握できていないまま母音を呟くと、ひどく間抜けた響きだ。男の悲鳴すら薄れて聞こえなくなって、そこでようやくキャンサーは少女を振り返った。

「……ふふ」

 少女は肩を揺らす。一瞬泣いているのかと思ったが、それは違った。

「ふふっ、あっははは!」

 少女は顔をあげて、そして大きく笑っていた。目尻に涙を浮かべて、心底おかしいと言わんばかりに。あまりに無邪気に。

「ふは、ああ、おもしろい。一度死んで見せるだけであんなに狼狽えるなんて、やっぱりこれは異常な状態なんだなぁ。それにしても、さっきまで他人に暴力を振るってた人が『殺される!』みたいな顔して逃げてくなんて、失礼だよ」

 少女は独り言にしては大きな声で、会話をするような調子で言う。キャンサーはやはりまだ状況が把握できておらず、ぽかんとして地面に転がったまま少女を見上げていた。

 少女は血がつかないように地面に置いておいたらしい古びたパーカーと三角錐の飾りがついたペンダントを付け直して、そしてキャンサーに向き直った。

「ああ、ごめんね。体痛い? 今起こすよ」

 明らかに自分より重症な少女にそう言われて手を差し伸べられそうになって、キャンサーは「だ、大丈夫!」と慌てて立ち上がった。暴行を振るわれはしたが、自分より幼く華奢な少女に支えられずとも動けはする。身体中に鈍痛が走るが、しかしそれは些細な問題だ。

 まだ立ち上がるのは辛そうにしているキャンサーの様子を見かねてか、少女は彼の肩を抑えて地面に座らせ、そして屈むことで視線を合わせる。

「初めまして、わたしはヒーラ」

 少女、もといヒーラは名乗りながら心臓に刺さったガラスを握り、そして無造作にそれを引き抜く。

 栓を失ったように傷口からはだくだくと鮮血が溢れて、その出血量にキャンサーは息を呑んだ。明らかに死んでしまうような出血量だ。傷自体もどうやら深いようで、一目でわかる致命傷。

 しかしヒーラは朗らかな笑みを崩さないまま、キャンサーの手を取った。

 ヒーラの手についた血がキャンサーの手にも付着して、動脈血と静脈血が混ざり合ったわずかに黒い血が滴る。そして、彼女は彼の手を自分の胸元まで持っていった。

 血に塗れた箇所に触れさせられて、キャンサーは反射的にそれを振り解きそうになる。しかし、その前に掌に伝わる感触に目を剥いた。

 とくり、とくり。その胸は、通常の人間と変わらない鼓動を繰り返している。まるで心臓を貫いた傷なんて存在しないように。

 まさか、と思ってキャンサーはヒーラの胸を探る。先ほどまで空いていた筈の穴、ガラスが刺さっていた穴がある筈だ、と。

 しかし、そんなものはいくら触っても確認できなかった。乾きつつある血があるだけで、そこに傷なんて残っていない。血糊をぶちまけたような血痕が残っているばかりだ。

「君は、一体……⁉︎」

 そのあり得ない事象にキャンサーは呟くように問うた。困惑しきった掠れた声で。それを聞いて、ヒーラは笑みが張り付いた顔をキャンサーと合わせる。どこか作為的で、まるで誰かを真似ているような笑みを。

 先ほど地面に放られたCDを血塗れの手で差し出して。

 そして、まるで当たり前の事を告げるように、彼に教えるのだ。


「一般的に言われる、不老不死だよ」





 不老不死。

 それは読んで字の如く、老いず死なない、生物の摂理から外れた存在。

 通常、生物とは種ごとに寿命があり、その限られた年月の中で老いながら生き、そして死んでいく。

 しかし、不老不死の存在はその枠にはまらず、身体が老い衰える事が無ければ、致命的な傷や病気を負っても死ぬ事も無い。

 まさに生物を超えたワンランク上の存在。死という概念も老いへの恐怖も持たないそれは、遍く人間の憧憬だ。

 少なくとも、キャンサーにとってはそうなのだ。


「……それで、本当に君は不老不死なんだよね」

 念を押すように問うと、目の前の少女、ヒーラは「うん」とあっさりと首肯して見せる。

 現在は暗い路地裏から移動して、キャンサーの自宅で対面するように座っていた。

 貧民街の端の端に位置するキャンサーの家は、古びてはいつつも頑丈、かつ二階建てでそれなりの広さがあるコンクリートで塗り固められた家だった。

 そこで体の手当てを終えたキャンサーはヒーラを家に招き入れ、そして助けてもらった礼と調査を進めていた。キャンサーは不老不死云々の話を目の前の紙に書き留めている。

「その通り、わたしは不死。マジックでもなんでもないよ。さっき流れてた血は本物だし、けどこの脈動も本物」

 キャンサーの問いはあくまで念押しであり、ヒーラが正真正銘の不死である事はわかっていた。不老に関しては実際に年月が経ってみないとわからないが、少なくとも不死は本当だろう。

 あの時吹き出した血の匂い、ぬるさ、色。その全てがキャンサーの知っている血液と相違なく、栓をなくした傷口からの血の溢れ方、飛沫の広がり方も不自然なところは一つもなかった。あの時、ヒーラは確かに心臓を刺し貫いていたのだ。

 もしもあれが全て偽物なのだとしたら、あまりにクオリティの高いマジックだ。絵面の問題で見せ物にはできないだろうが、少しアレンジを加えれば中央街で路上パフォーマンスにできるだろう。それこそ、彼女が今着ているような古びた服ではない新しいものを買う程度は稼げる筈だ。

「とりあえず、きみが不死なのは理解したよ。えっと、改めて、ぼくの名前はキャンサー。よろしく?」

 キャンサーは深く被っていた帽子を外してそのかんばせを露出させる。全く陽に当たらないせいで白い肌。パサついた黒い髪。瞳は少し赤色が混ざった黒色、赤黒色だ。左頬には大きなガーゼが貼られている。これは先ほどあの粗暴な男に殴られたせいだった。

「キャンサー、ね。苗字は?」

「苗字……? 今時苗字がある人なんて少ないでしょ。それこそ豊かな研究者の血筋とか。ぼくは生まれは貧民でしかないから、そんなの無いよ」

 キャンサーがそう言うと、ヒーラは少し目を丸くして驚いたような素振りを見せる。

「そうなんだ。古い知り合いは苗字があったから知らなかった」

「いやいや、古い知り合いって。ここに住んでたら常識レベルでしょ。君、一体どこらへんに住んでたの? 中央街?」

「中央?」

 ヒーラは首を傾げて、その言葉の意味が心底わからないというような表情を浮かべる。

 本当に、何も知らないんだ。その事を理解して、キャンサーは頭を抱えた。

「……もしかして、それもわからないくらいの箱入り娘? もしかして、不老不死なら中央の大規模な研究施設の被験体……? いや、ぼくと師匠以外に不死の研究をしてる人はいない筈……」

 ブツブツと呟きながら、キャンサーは混乱した様子を見せていた。目の前のヒーラという少女が一体何者なのか判断しかねる。不死である事はわかるが、それ以上の事が計りかねるのだ。そもそもの認識に齟齬があるようだった。

「それじゃ、まず確認させてもらうけど、君はこの『ビバリウム』の住人だよね?」

 これはそもそも確認するまでもない事だ。だって、ビバリウムの外から人が訪れるなんて事は絶対に、万に一つもあり得ないのだから。

 しかし、ヒーラはその思考を裏切るように、首を横に振った。

「ううん。わたしはここの人間じゃないよ。たった今日ここに入った、ただの部外者」

 ヒーラのあっけらかんとした告白に、キャンサーはたっぷり十秒押し黙った。脳内で情報を整理するための時間だ。逆に言えば、十秒もの時間を使わなければ受け止められないほど、その情報はあまりに衝撃的だった。

「……つまり、君は、このビバリウムの外で生きてきた人なの?」

「うん。不老不死なんだからできない事じゃないよ」

 飄々と認めて見せるヒーラに、キャンサーは目を爛々と輝かせる。

 不老不死。本物の。

 自分が憧れそのものの。

 暴れ狂って発露しそうになった興奮を必死に押さえつけながら、キャンサーは調書を取っていたペンを置いた。

「……つまり、ヒーラはこの世界の事情、全く知らないって事、かな?」

「全くではないけど、齟齬がある可能性は十分にあるね」

「……じゃあ、ここで会ったのも何かの縁だし、確認、しとこうか。ずっと外にいたなんて言う君に、興味あるし」

 そう言って、キャンサーは白衣を翻しながら立ち上がる。そして、部屋に影を落としていたカーテンを捲り上げて、朗々と語り始めた。

「今から約百年前、上がり続ける気温とそれにより起こる天変地異により、世界に人類は住めなくなった。森は乾き、海はせり上がり、気温は全く安定せず。砂漠地帯に生息するようなほんの僅かな生物だけが限られた地域で生き残っているが、それ以外の多くは観測される限りは全滅。生態系は大きく狂い、植物ですら津波に流され日照りに焦がされる不毛の星となったのだ」

 キャンサーはつっかえなく、教科書を朗読するように、同時にまるでその現場を見てきたように語り続ける。まるで演劇の一幕だ。先程の態度からの変わりように、ヒーラは目を見開いた。

「そこで科学技術の全てを賭して建造されたのが、人類保護都市『ビバリウム』! 世界にたった二十五軒しか建造されず、しかし今も外の世界の脅威から人々を守り続けている巨大シェルター。その中で人類は存続し、そして外の世界での暮らしを取り戻す日を今か今かと待ち望んでいる!」

 そこまで叫びきると、突然糸が切れたように肩の力が抜かれて、凛とした出立ちは一気に崩れる。ふにゃりとした笑みで、芯のない声で、キャンサーはヒーラに振り返った。

「まあ、ビバリウムって言うのは本来動植物の環境を再現した小さいケースみたいな物を指すから、飼育されてるみたいじゃないかって文句を言う人も少なくないんだけどね……」

 ぼくはそんな事思ったことないけど、と付け加えながらキャンサーは苦笑する。話の終わりを見計らって、ヒーラは控えめな拍手を彼に浴びせていた。

「うん、うん。わたしが知ってる事と相違ないよ」

 その認識に齟齬は無い。ヒーラは満足そうに微笑んで、そして立ち上がった。

「きみが言ったとおり、ビバリウムの外は生物が住める状態じゃないよ。食料は乏しい、日差しは厳しい。このビバリウムの中でしか、人類は存続できないからね」

 確認するように、そして同時に「もしかして、外に人類は住めるのではないか」という可能性を摘み取るように、彼女は告げる。

 陽の光によって与えられる熱は、温かいなんて物ではない。暖炉にゼロ距離で近づいているような、そういった類の灼熱だ。幸いここいらの地域は湿度は高くないので影にさえ入れば耐えられないほどではないが、長時間太陽の下に居れば確実に健康を害する。

 問題はこの太陽光ばかりではない。枯れた大地、不定期な自然災害。水位は上がって陸地は随分と減っている。それは即ち、人間が住める土地が少なくなっていると言う事で。

 それは人間に限らず全生物が定住するにはあまりに過酷な環境だ。食料が少なく、それを採集しようものなら太陽に焼き焦がされる。地震や津波に日々怯えながら生きていくのは、拷問にも等しい。だからこそ、人類はビバリウムなんて籠の中に籠ったのだ。

 まだビバリウムができたばかりで、人間が外の住環境の研究のために外に出ていた頃の研究者が記した本には、そう書いてあった。現在は戯れとして貴族が外に出るか、重罪人が刑罰として追放されるくらいだ。裁判という制度自体が廃れ始めている上、外に出るための扉はもう何十年も前に閉じられていて長らく使われていないので、後者もあまりあるものではない。

 しかし、今や外は流刑に代わるような追放先。その場所に存在する事自体が罰になるという事だ。それほどに厳しい場所だ。こんな、小柄な少女一人で生きていける場所では決してない。

 キャンサーは窓を開ける。人工的に思えるひんやりとした空気は、ビバリウム内全体を冷やしている冷房によるものだ。これによりビバリウム内は常に快適な気温が保たれている。

 見上げると、閉塞感のある暗い空。ビバリウムはドーム状の建築物になっており、その天頂に太陽の代わりとなる巨大照明がある。

 それはつまり、中心から近ければ近い場所ほど天井が遠くて広々としていてかつ明るい、そして中心から遠ければ遠い場所であるほど天井が近くて暗く狭苦しいという事だ。

 そしてキャンサーの家はビバリウムの最南端。中心から離れるほどに貧しくなっていく町の中で一際寂れた貧民街にある。

 ビバリウムが建設される時、同時に人が住む住宅は最大収容可能数と同じだけ建てられている。なので家に困っている者はいないのだが、キャンサーは大きな家に一人暮らしなので嫉妬を集めやすいようだった。貧民街の金を持った異端者なんて、狙われるに決まっている。今日、あの男に襲われたのもそれが理由だ。

「……それで、君はどうしたいの? ぼくを助けて、それで何を求めるの?」

「……求める?」

 キャンサーが問うと、ヒーラはきょとんとした表情を浮かべて首を傾げる。その、まるで「人を助ける見返りとして何かを求めるという発想がなかった」と言わんばかりの態度に、キャンサーも首を傾げた。

「……特に考えてなかったな。欲しいものも特に無いし」

 あっけらかんと返したヒーラに、キャンサーは思わず有り得ないと言わんばかりに詰め寄る。

「え? いやいや、そんな訳ないでしょ。だって、あんな風にわざわざ死んでみせてまでチンピラ追い払って、それで対価が要らないって逆に怪しいし」

 タダほど怖いものはない。それはキャンサーが十数年の人生の間に得た教訓だ。何度そんな詐欺に引っかかりそうになった事かわからない。困惑の表情を見せる彼に、ヒーラは常と変わらない微笑を湛えながら弁解した。

「あれ死んでみせた訳じゃなくて、たまたま死んだ時に近くにきみ達が居たから少し驚かしただけなんだけど」

 ヒーラはイタズラっぽく笑って見せるが、その話の内容はどう聞いても笑えるものではない。もっと詳しく聞けば、抜け道を通ってビバリウムに入った直後に空色の髪をした小綺麗な人と居合わせて、その護衛らしき女性に心臓を貫かれた。その後スラムでの事件に見せかけるためにガラス片を傷口に刺された、と言う話だ。

 それは恐らくお忍びで来ていた貴族様だろうね、と返すと、やっぱり、とヒーラはからころと笑って返した。一度殺されたと言うのに、ずいぶんと呑気だ。

「けど、結果的にはぼくを助けてくれた訳だし。何かを求めても文句は言わないけど」

「うーん、けど、わたしが欲しいものはきみが知らないし手に入れられないものだよ?」

 ヒーラは目の前の粗茶を啜りながら答えた。その欲しいものの詳細まで教えるつもりは無いようだった。

「じゃあ君はどうしてビバリウムなんかに入ったの」

「知りたい事があるから」

「じゃあその情報の収集のためにぼくを使えばいいじゃん」

「……なんだか積極的だね」

 訝しむような目線に、キャンサーはぎくりと肩を震わせる。

「い、イヤァ……そんな事無いけど……」

 キャンサーは思わず目を泳がして声を裏返らせる。嘘をついていますと言わんばかりの態度に流石のヒーラも誤魔化されなかったようで、苦笑を返した。

 キャンサーは、嘘が苦手だった。自分がつくのも、他人の嘘も嫌いだった。だから嘘をついてしまうと声が裏返って、反動のように態度が素直になってしまう。いかにも「自分は嘘をついています」と言わんばかりのどもり方に、ヒーラは彼の顔を覗き込んだ。

「きみ、わたしに見返りを求めさせておいてきみもわたしに何かを求めるつもりじゃない?」

 まっすぐにキャンサーを映す琥珀の瞳。磨き抜かれた玉のよう。そしてそれは、同時に何もかもを推し量り、見透かすようで。

 キャンサーは観念したようにため息をつき、両手を挙げた。降参の意思表示だ。

「……そうだね。そうだよ。うん、その通りだ。だって君は不死だから」

「わたしが不死である事と、何が関係あるの?」

「きみはぼくの、ぼく達の希望だ。ずっとずっと希求してやまなかった、正真正銘の不死。欲しくない訳がないでしょ」

 ぼくは、きみの事をもっと知りたい。

 キャンサーはそう叫んで、ヒーラの掌に自分の掌を重ねる。その体温はおおよそ同じもの。不死といえど、ぬくもりは普通の人間と大差無い。体温は常人と同じ、と頭の中のメモ帳に記録した。

「君は人類が到達していない段階にいる貴重な存在なんだ。だから君の事を知りたいし、君を手中に置きたいんだ!」

 キャンサーが叫ぶと、ヒーラはきょとりと目を見開く。

「……わたしを、きみのものに?」

「きみを、ぼくのものに」

「……残念だけど、わたしは物じゃないし。それにわたしはやりたい事があるから」

 にべもない断りに、キャンサーはがっくりと肩を落とした。

「うん……。それじゃあ、せめてしばらくここに滞在して、話を聞かせてよ。安心して、怪しい人体実験とかはしないから」

「それは助かるな。住む所ないし」

 ヒーラは花が綻ぶような笑みを見せて、そして重ねられた掌を両手で包み込むように握った。

「契約成立。わたしはきみに不死としての情報を提示する。そしてきみはわたしに住む場所を提供する。これで異論はない?」

「ない。えっと、よろしく」

「うん、よろしく」

 一方的に握られた掌は、握手とは言い難い。しかし、それが彼女なりの握手、親交を深めた証なのだろう。ブンブンとキャンサーの腕ごと上下に振られる。彼女の頬は口角が緩んでいた。

「ずっと外にいたんだよね。外は、やっぱり過酷?」

「ううん、どうだろう。わたしはずっとあそこにいたから、辛いのか楽しいかもわかんないけど……さっきも言ったけど人間が生きられる場所じゃないのと、わたしが求めるものが無いのは、確かだよ」

 ヒーラはそう言って立ち上がった。白に近い、色の抜けた金髪がふわりと舞う。両手を広げて彼女は主張した。

「ここは良いところだね。涼しいし、人を脅かす脅威も少ない。……けど、思ってたような楽園でもない」

「当たり前だよ。どこまで行ってもここは所詮は人の世だ。負の感情は渦巻いているし、貧富の差は無くならない」

「……そっか」

 感傷に浸るように、ヒーラは小さく呟いた。彼女の表情に諦念が滲む。

「それより、ぼく調べたい事があるんだ。不老不死について、もっとよく知りたい」

「……そんな良いものではないよ?」

 ヒーラが呆れたように半眼になる。しかしキャンサーはそれでも止まらないようで、ペンで紙に何かを殴り書きながら興奮した様子を見せる。

「いやいや、良いものとか悪いものとか関係ないんだ。だって不死って、ぼくの研究内容にドンピシャだから!」

 興奮した様子でキャンサーは叫ぶ。言っている内容が最初はよくわからず、ヒーラは目を丸くした。

「研究?」

「あ、言い忘れてたかな。ぼくは不死に関する研究者なんだ。……まだ未熟な身ではあるんだけどね」

 見せてあげるよ。そう言いながら、彼は二階への階段へヒーラを手招きする。

 幾重にも重なって付けられたダイヤル式の錠。それを一つずつ解いていって、最後のシリンダー錠にはポケットから取り出した鍵を差し込んだ。

 壁を伝って電灯のスイッチを探り当ててそれを押すと、数回の点滅の後にようやく光が安定する。黄ばんだ光に照らし出された部屋は、ひどく雑然としていた。

 全体的な印象としては狭く、圧迫感がある。それは壁紙などが貼られず剥き出しになったコンクリートの壁のせいでもあるし、壁を覆うように設置された本棚のせいでもあるだろう。

 本棚に収まっているものを見ると、様々な本や紙束がギチギチに入っている。試しに紙束を一つ引き抜いてみると、そこには「アンデッドの定義について」と書かれた論文のようなものだった。

 本棚以外にも作業用らしき机の上にも大量の資料や本が積み重ねられていた。その他にも映画のCDや娯楽小説、漫画までもが乱雑に置かれている。それらは全てがひどく古く、印字されているタイトルはぼやけていて判然としないが、辛うじてゾンビもののだという事がわかる。

 映画も、小説も、漫画も、全てがゾンビものの創作物。この部屋には、ゾンビに関するありとあらゆる情報が詰まっていると言っていいだろう。

「ぼくを拾い育てた師匠は、不死に関する研究者なんだ。荒唐無稽かもしれないけど。一応、ささやかながらぼくもその研究を手伝っていて、それに類する存在のゾンビ、もといアンデッドの研究をしてる」

 キャンサーはそう言って論文らしき紙束を取り出した。そこには「アンデッドとは、ゾンビとは」と主題がある。しかし、そこに記されている美しい文字は、部屋中に散らばっているメモや付箋にあるお世辞にも綺麗とは言えない筆跡と一致していない。おそらく、彼の師が書いたものなのだろう。

 アンデッド。文字通り死なない者。これはただ単純な不死者を指すのではなく、既に死んでいるのでもう死ぬことはないという意味となっている。私たちは人間を不死にしている方法を模索しているので、一度殺すことでアンデッド、つまり不死となるならばそれを使うのもやぶさかではない。現在では薄れてしまっている人権問題は、ひとまず無視する事とする。

 と、つらつらと書かれている文。表現がもっと冗長なため全部読む気にはなれないが、斜め読みをした内容を要約するとそんな感じだ。

「不死とかアンデッドとか言われてもパッとしないよね。けど、ぼく達は確かに成功に近づいているんだ。その証拠がここにある」

 キャンサーはどこか恍惚とした様子で叫ぶと、奥へと続く扉を開いた。

 その瞬間、鼻を刺激する匂いにヒーラは微かに眉を顰める。過去に一度だけ嗅いだ匂いだ。決して快いものではなく、むしろ不快な匂いだ。

 キャンサーに手招きされて、ヒーラは彼の元、部屋の中心へと歩み寄る。彼は目前にある布の掛けられた四角い物体の前に立った。

「紹介するよ。この子はレイ。ぼくの家族兼、研究の協力者」

 キャンサーはそう言いながら、掛けられている布を取り払う。

 現れたのは、ヒーラの腰程までの高さの檻。一般的に犬猫などのペットを保護する、ケージだった。

 それが現れると同時、鼻をつく異臭にヒーラは思わず口元を抑える。過去に一度だけ嗅いだことのあるそれは、死臭、あるいは腐乱臭と呼ばれるものだと、彼女は知っていた。

 ケージの中にいたのは、一羽のカラスだ。

 警戒するように身を縮こませているからか、ケージとは不釣り合いなほど小さく見える。とは言っても、それは確かにケージの中で異彩を放っており、あまりに存在感が強かった。

 ヒーラがゆっくりとそれに近づくと、レイという名を持つカラスは唸った。鳥の唸り声なんて初めて聞いたが、しかしそれは喉の中を空気が暴れ回っているような、声の出し損ないと表現した方が相応しいがさがさとした音のように思える。

 まじまじと観察してみると、その異常さがよくわかる。体は少し歪になっており、わずかに膨らんだ腹部には縫ったような跡。手足は筋肉を使っているというよりも骨と肉で支えていると形容した方が良いと思えるほど頼りない。所々から腐汁が滴っており、それを受け止めるためかケージの中にはタオルが敷かれていた。

 生気の無い目はしかし確かにヒーラの姿を映していて、まるで警戒をしているようだと思う。自分の縄張りを主張して、そこを犯されまいとしているようだ、と。

 レイを目の前にして混乱の表情をするヒーラに、その反応をされると分かりきっていたようにキャンサーは肩を竦めた。

 キャンサーはケージの扉を開け、レイを膝の上に乗せる。普通の鳥を抱き上げるかのように、優しく。

 レイは抵抗しなかった。そういう、普通のペットと飼い主のような信頼関係があるのか、それとも抵抗をするだけの体力が無いからなのかはわからない。

 恍惚に赤らめた頬を愛おしげにレイに擦り寄せながら、キャンサーは続けた。


「正真正銘の不死、アンデッドだよ」



 ゾンビって、一体どうやって定義付けられてると思う?

 ゾンビって言っても言い換えはたくさんあるよね、ウォーキングデッドだとか、アンデッドだとか。ぼくはアンデッドって言い方が一番かっこいいかつ言いやすい、しかもこの研究の本質に迫っているから好んでいて、共同研究者もそう呼んでるから、これからはアンデッドとさせてもらうね。まあ一般に浸透しているのはゾンビの方かもしれないけど。

 それで、アンデッドって一体何だと思う? そう、死なない者だね、直訳で。それがなんでイコールゾンビになるかと言ったら、ゾンビはすでに死んでいる、だからこれ以上死ぬことは無い。だからアンデッド。

 ぼくの研究の目的はそれなんだよ。アンデッドを作る。本当の意味で、死なない者を作るって事。

 ゾンビはその副産物というか、研究の結果として欲しいものでは無いけど、結果に繋がるかもしれないから研究してるみたいな感じ。

 不死って言葉、知ってるよね? 本物の不死の君が、この世界で一番不死に詳しいよね。そう、死な不。死なず。死なない。イコールアンデッド。

 ぼくの研究の本質は、アンデッドを作る事なんじゃなくて不死の存在を作る事なんだよ。

 少し話がそれたかな。それで、その不死を作るための前段階、アンデッドがこのレイなんだ。現時点では唯一の成功例だよ。

 アンデッドって言っても定義は意外と難しいんだよ。ほら、一言に死と言っても肉体の死と脳死は違うでしょ? だからぼくは、心臓が動いていないのに意識があり、体が動く状態をアンデッドとした。

 じゃあ次はどうやってその状態を作るか。

 映画とか多くの創作物では、ゾンビウイルスなんてものが伝染するっていうのが多い。寄生虫とかいうパターンもあるけど、その多くが外部の要因、プラス咬傷などで感染するものだね。けど薬で治ったり予防できるようなものはアンデッドじゃない。それはただの病の一種で、死という状態を本当に得ているとは言えないんだ。

 だから、本当に死んでいる生物があたかも生きているように活動をしていないとアンデッドとは言えない。

 そのためにぼくは、レイを一度殺したんだ。

 正確にはぼくはそれに協力してただけで、実際に殺したのはぼくの師匠なんだけどね。

 うん、心は痛んだよ。けどね、今まで世界中で行われてきた実験はね、無数の兎やらネズミやら猿やらが使われてきたんだ。愛着が沸いたからと言って実験に使わないのは、そういう無慈悲さを持てないのは、研究者として失格だと思うから。

 一度殺した上で脳の機能を止めず、体の死後硬直が始まらないようにする。そのための手術を施すんだ。人間以外の動物には人格がないから意識だとかなんだとかの検証はまだで、この技術は人間に応用はまだできないんだけど。

 けど、もう少し研究を進めれば、人間をアンデッドにする事ができるかもしれない!

 ……本物の不死である君が現れたのだから、この研究は意味がなくなるかもしれないけど。

 だって、ぼくがアンデッドの研究をしてるのは不死を作るためだ。不死を作る過程としてアンデッドを作ってるだけだ。

 けれど、本物の不死である君はアンデッドとは違う。その人格はしっかりと構成されたものだし、心臓は動いていて脈もある。アンデッドという存在を探る事で不死を探求するのは、全く繋がっていないとは言わないけど、けれどやっぱり遠回りすぎる道だったという事だね。


 そこまでを捲し立てるように一気に語り終えたキャンサーは、ふう、と自嘲のような笑みを浮かべながら両手を広げて見せた。

「皮肉なものだよね。ぼく達の研究結果を体現する人が、目の前に現れちゃったんだから」

「……」

 その長々しい話をずっと口を挟まず聞いていたヒーラは、唇を押し結んで俯いている。まるで、何かを迷っているように。

 ヒーラは何かをぶつぶつと呟くと、ペンダントの飾りをチェーンから外した。よくよく見れば、その三角錐の形をした飾りは数字が刻まれていて、四面ダイスなのだとわかる。

「奇数が出たら、言う。偶数が出たら、言わない」

 ヒーラは宣言するようにキャンサーに向かって告げると、念を込めるようにダイスを握り込み、それを机の上に放った。

 出た数値は、二。偶数だ。

「……いつか、然るべき時にまた言うよ」

 ヒーラはチェーンにダイスを取り付け直した。

 キャンサーには、ヒーラが何を言おうとしたのかわからない。どうして言うべきか言わないべきかの選択をダイスに任せたのかはわからない。

 ただ、ヒーラがあまりにも愛おしげにそのダイスを見つめるものだから、それ以上の追及はできなかった。




 ビバリウムの日暮れは、天頂の巨大電球の色と光量が変わる、ただそれだけの事象だった。

 ビバリウムは分厚く強化されたガラスでできたジオデシックドーム構造の、頑丈なドーム状の巨大建築物。そしてその外殻にソーラーパネルを取り付ける事で太陽光発電をし、そこで得た電気をビバリウム内の暮らしに使っている。ビバリウム全ての電力を賄うには心許ないため、電気代は驚くほどに高いが。

 それはつまり、ドームはソーラーパネルで覆われているから、いくら素材がガラスでできていても外殻が覆われて外の光は満足に入らない。それ故にビバリウム内に人工太陽を作り、朝昼晩を表現するしかなかった。

 逆に言えば、その巨大電球の光をいじってしまえば外が昼でも夜になるし、外が夜でも昼にできる。しかしそんな事をする意味はなく、ついでに言うのなら巨大電球のための電気はソーラーパネルで作られたものをその場で消費しているため、夜に巨大電球をつけるのなら貯めておいた大量の電力を消費しなければならなく、それは電力の無駄でしかないので行われない。

 何を言いたいかというと、ビバリウムにも外と同じような夜は来る。同じように、朝も来るのだろう。

 くあぁ、と大きな欠伸をしながらヒーラはそんな事を思っていた。巨大電球の明かりが切れ、そして電気代は高いんだとランタンが灯された薄暗い室内。

 わずかな光源を頼りに、ビバリウムの発電の仕組みが書かれた本を斜め読みして、ヒーラはつまらなさそうにそれを閉じた。

 窓の外を見上げてみると、漆黒の夜闇。しかし、わずかにチラチラと星の輝きが見える。ソーラーパネルの隙間から覗いているのだろう。

 しかし、見える光と言えばそれだけ。

 ヒーラは、こんなに暗い夜を知らなかった。

 人間の文明の灯火が途絶えた世界しか、ヒーラは知らない。見たことがない。そして地上に灯りが殆ど無いと、それだけ星々は眩く光るのだ。

 栄えた町などでは家々でつけられる明かりが明るすぎて、あるいは空気が濁りすぎて、夜空の星なんかほとんど見えないと言う事は知識として知っていた。しかしそれを実際に見た事はなかった。

 ヒーラは、人類を痕跡と知識でしか知り得なかったのだ。

 ビバリウムの夜空で星が見えない理由は町が明るすぎると言う理由とは少し違うが、さしたる違いではない。とにかく、月も星もここには無いのだ。

 今まで当然のように見えて、眺めていたものが見えない。それに、微かな寂寞感を抱く。

『見てよ名無しちゃん。星が綺麗だよ』

 その場で語られているかのように、ありありと鼓膜の内に蘇る声。若々しい、しかし砂塵に少し掠れた少年の。

『星が……綺麗?』

 無機質な声が返す。無垢な疑問だった。

『うん。綺麗じゃない?』

『何故、そう思う?』

 少年の声が、素っ気のない無機質な声に語り続ける。

『じゃあ、逆になんで綺麗だと思わないの?』

 無機質な声は少し考えるように黙り込み、そして茫漠とした答えをはっきりと吐き出す。

『……不必要だから』

 少しの思考の時間の後、返された問いの答えはやはり冷たい。たはは、と少年は笑う。確かに不必要かもね、だって干渉する事も干渉される事もできないんだから、と少年は首肯した。

 けれど、と続けられる言葉はどこか弾んでいる。心底楽しげに。

『これは父さんの受け売りだけどさ……この世には無駄なものが沢山あって、けれどそれを楽しむのが人間だ。この世界で一番美しいものは、この世界で一番無駄なものなんだ……ってさ。例外はあるかもしれないけど、概ねはおれも同意してるよ』

 愛おしげな声音。無駄なものは、美しいもの。それを楽しむのが、人間。与えられた言葉を、ひとつひとつ反芻する。

 美醜の感覚すら、生殖の上では相手を選ばなければならないという欠陥。しかし、それがなければ社会的な生活は営めない。人間とは、無駄だらけな生き物だ。けれどもそこが美しいんだ。

 彼は、そう微笑んだ。

 その後、あの無機質な声でなんと返したか。何も返さなかった気もするし、くだらないと一蹴した気もする。覚えているのは、その後ひとつしかない寝袋を譲り合って、最終的に交代制で不寝番をする事で寝袋を使い合ったという事。

 そして、寝ずの番の最中はずっと星空を眺めていて、それを彼に見られて「もしかして、おれの言葉がきみに影響与えたのかな」とはにかまれたくらいだ。

 どっぷりと浸った懐古から意識を戻すと、キャンサーが弱まってきているランタンの火を見て、「そろそろ寝ようか」と言っているところだった。

「悪いけど、来客用の寝室とか、そんな用意のいいものはないんだ。ぼくの部屋のベッド、使ってよ」

「わたしは眠る必要はないから、気にしないできみが使って」

「眠る必要がない……? それって、疲労は溜まらないの? 隈は出る?」

 興味深いと思われたようで、キャンサーはメモ帳を片手にヒーラに詰め寄る。そんな彼をいなしながら、「さぁ、今まで興味なかったから、わからないよ」と曖昧な答えを返した。

「とにかく、睡眠の必要はわたしには無いよ。だから、わたしの事は気にしないで」

 ヒーラにとって眠る必要は皆無だ。眠らなくたって活動ができなくなる訳ではないし、食事も同様に不必要。例えるならお菓子のようなものだ。必需品ではない、ただの嗜好品。非生産的な時間だ。

「……けれど、君は人だ。人である以上、休息は取れるなら取っておいた方が良いんじゃない」

 キャンサーの食い下がるような言葉に、ヒーラは目を丸くした。

「……わたしは不老不死だよ。人間じゃない」

「いいや、少なくとも姿形は人間でしかない。体を構成してる成分とか細胞とかに関しては詳しく調べないとわからないけど、ぼくは今は君を、不死という特性を持っているだけの人間に近い者と認識している。だから、なんというか……休んでくれないと、ぼくの気が済まないんだ」

 少し照れたように連ねられた言葉に、ヒーラは返事を返さない。その琥珀色の瞳を目一杯見開いて、そして、もしもの世界に浸っている。

「ヒーラ……?」

 キャンサーの言葉に我に帰って、ヒーラは驚いたような目を細めた。

「……懐かしいね。彼も似たような事を言ったから……いや、ごめん。こんな事言われても困るだけだね。聞き流して」

 ひたすらに愛おしげに、ヒーラの言葉は吐き出された。

 イフの世界を空想して、その中の存在に心酔している。その表情は、この一日で見てきたヒーラのどんな表情よりも人間臭い。

「……きみの言うとおり、寝る事にするよ。けど流石に家主のベッドを占領する訳にはいかないし、別の場所で寝させてもらうかな」

 思い出したように大きな欠伸をして、そして眠気に蕩け始めた瞳を向けて、更け始めた夜に意識を埋没させる。

 その感覚がひどく懐かしくて、ヒーラは胸が温かくなるような心地がするのだ。




 夢を見た。

 眠る事自体が随分と久しぶりで、夢を見るなんて一体どれくらいぶりかわからない。一瞬夢である事がわからなかったが、目の前に広がる光景にすぐに気がついて、ただの夢は明晰夢に瞬時に変わった。

 随分と昔の夢だ。具体的に何年前かなんてわからない。暦を数える事なんてとうにやめてしまった。

 しかし、自分の性質のせいだろうか、それとも何度も反芻しているからだろうか。遥か昔の筈の記憶は全く衰えず色褪せず、自分の中に残っている。

「きみ……名前は?」

 その問いに対する答えは持たなかった。静かに首を振ると、思案げな顔が帰ってくる。しかし、それを塗りつぶすように、彼は太陽のように笑うのだ。

「そっか。なら、名無しちゃんって呼ぶね!」

 極めて明るい声音。初めて戸惑いの感情を知る。

「なら、おれが名前つけよっか?」

 極めて楽しそうな声音。初めて困惑の感情を知る。

「それなら、きみの名前は……」

 その言葉に、期待を知って。

「きみの名前、は」

 そうして最後に落とされた言葉に、歓喜と悲嘆を知った。

 様々な事を教えてもらった。人間らしい感情、言動。自分が立ち入った事のないビバリウムという世界の事と、人間の事。

 知識は元々大量に持っていた。しかし、彼が教えてくれたのは、それとはもっと別の物。知識だけではない、大切なもの。

「当機は……いや、わたしは」

 自分が人間である自覚はなかった。ただこの世界を漂う、空気と同じものだと思っていた。

 そんな当機を人間にしてくれたのが彼。

 選択という言葉は知っていても、自分がそれをする事はなかった。けれども、実際は無数の選択によって自分が生まれていて、そして今この時も自分は選択し続けているのだと教えてもらった。

 自分が知らない全てを与えてくれた彼。

「わたしは、ヒーラ」

 彼が与えてくれた名前を抱えて、わたしは生きていく。

 人生で初めて流した涙を拭う術を知らないまま、ヒーラは歩み始めた。




 夢を見た。

 幼い頃の夢だ。

 一人称視点での記憶の反芻。帽子で遮られた視界は狭く、俯いた先にある足の爪先はひどく汚れている。衣服もありあわせしかなくて見窄らしい。まるで何かを耐えるように握られた手はひどく幼く、傷だらけだった。

 そこの、と声が聞こえた。まさか自分が呼ばれているとは思わなくて、キャンサーは俯いたままだった。

 おい、そこの、と声が大きくなる。そこで自分が呼ばれている可能性に行き当たるが、隣にいる黒髪の友人がひどく強張った顔をしていたから、キャンサーはそれが自衛だと言わんばかりに下を向く。

 呼ばれて顔を上げたら、またキャンサーと呼ばれるんだろう。この貧民街の癌だと。摘出すべき腫瘍だと。そうやって迫害されて排斥されて拒絶されて排除されて。

 キャンサーなんて名前は、忌み名でしかないのだから。お前はこの貧民街ですら居場所がない異物でしかないと、そう知らしめる名でしかないのだから。

「そこの子供達!」

 間近で叫ばれて、キャンサーははっと顔を上げた。

 見上げると、黒や白や極彩色が斑に混じり合った奇妙な髪の女性がキャンサー達を見下ろしていた。赤い右眼と青い左眼に品定めでもするかのように見つめられて、キャンサーは竦み上がる。敵意は感じなかったけれど、その特異な外見と大柄さにどうしても怯えを隠しきれなかった。

「おまえ達が、この貧民街で一番頭が回るという子供達か?」

 女性に問われて、キャンサーは視線をオドオドとうろつかせた。

 確かに、キャンサーは他の子供と比べて知恵はあるのだろう。非力な彼は、その分頭を働かせないと生きていけなかったから。

 攻撃的で気が立っている母の元から逃げて、同じような境遇の子供達と徒党を組んで。それでも、今はキャンサーを含めてたった二人しか生きていないわけだけど。

 眉を下げて、隣にいるたった一人の友人を見る。兄弟同然に育った彼に、助けを求めるように。

 友人はキャンサーの視線を受けて、そして眉を吊り上げた。担架を切るように、彼は叫ぶ。

「アンタの言う通りだったら、何? 俺らを売るの? 言っとくけど、俺やこいつに手を出すようなら容赦せずそのお綺麗な顔の皮膚、剥ぎ取ってやるから」

 意地を張るようなその脅しに女性は一瞬呆気に取られたような顔をして、次に大きく口を開けて笑い出した。その女性に、今度はキャンサー達がぽかんとしてしまう。腹を抱え、目尻に涙を浮かべながら、女性は弁解した。

「ああ、すまないすまない。皮膚を剥ぎ取られる程度は我にとってはなんのダメージにもならないのだが、おまえは本当にやりかねないと思ってな。ああ、危害を加えるつもりも加えられるつもりもないので、そこは安心したまえよ」

 そこから女性は朗々と語り始めた。次世代の育成だとか、自分ももう年寄りだからだとか、半分以上は意味がわからない言葉だったが、彼女の話を総合すると、二人を引き取りたい、と言う話だった。

 キャンサーと黒髪の少年は目を見合わせて、奇特な女性に向かって胡乱げな目を向ける。

「あやしい」

 少年が警戒心を露わにして、キャンサーを背に庇いながら女性を睨む。彼の背はキャンサーよりも小さいのに、どこか頼もしかった。

「まあ、訝しむのも当然だな。しかし、我もいい加減孤独死してしまいそうでな。有り体に言ってしまうと……おまえ達には、強制的についてきてもらう他ないのだよ」

 女性が告げると同時。何らかの薬品が入った瓶が地面に叩きつけられた。もうと気化した薬品が二人の気管に入り込む。

 吸うな、なんて友人の警告も虚しく、キャンサーは体内に取り込まれたそれに大きく咳き込んだ。友人も叫んだ時に同じく吸ってしまったようで、苦しげな呼吸が聞こえる。気管支があまり強くない彼は、口元を抑えても気体を吸う事を防げなかったようだ。そして、それと同時に女性が大きな哄笑をあげた。

「ふはは! これは即効性の麻酔でな、とは言っても創作物のようにころりと気絶する事はないが、おまえ達の小さく痩せぎすの体では十分もすれば身動きが取れなくなるだろう! その短い間で良いなら存分に抵抗したまえよ、非力な子供達よ!」

 女性が叫び終わると同時。

 目の前の人間の認識を警戒対象から明確な敵に塗り替えた友人が彼女へ襲い掛かり、そして彼の怒声に後押しされてキャンサーは貧民街を逃げ惑う事になった。

 十分に満たない女性と友人の格闘と、一時間に及ぶ女性と痺れたキャンサーのかくれんぼ。

 その熾烈な戦いの勝者は女性となり、疲弊し切った女性は二人を担いで、我が子として家に招き入れたのだった。




 目を覚ます。

 随分すっきりとした目覚めだった。

 この頃は研究やレイの経過観察で脳の大部分を占められた状態での入眠が多かったからか、眠っても眠っても睡眠をとった気がしなかった。若くして徹夜をする事も多い身だから、そのせいで睡眠の質が悪くなっているのを日々感じている。

 眠る前と比べると随分と頭が軽くなった。ベッドから身を起こし、そして瞬きを何回かする。そうすると寝起きでぼやけていた視界が明瞭になって、ここが自分の寝室であると実感ができるのだ。

 カーテンを開けると、仄かな光が差し込む。眩しくないのは、キャンサーにとってありがたい。

 夢の中の光景を思い浮かべながら、眼下に広がる貧民街を眺める。寂れた町では物乞いが活動を始めていて、貧民街から中央街に移動を始めていた。

 貧しい者が貧しい者に物を乞うても貰えるものは何も無い。簒奪するにしてもそうだ。だから多くの人は中央街で活動をしている。

 幼い日のキャンサー達も、そうだった。子供だけで生きるには大人から、豊かな者から何かを奪うか貰うかしかない。物盗りとなる子供もいたし、物乞いとなる子供もいた。キャンサーも気質的には後者になるような子供だった。しかし、貧民街に生まれたにしてはやけに快活な友人が妙にキャンサーに懐き、そして物盗りとして生きる道の方向へ腕を引いたのだ。

 それも過去の話で、現在はこうして師の共同研究者として、豊かではなくとも貧しくもない生活を送れている。親元を離れて暮らしていても、研究者の特権として豊かな暮らしを保障されているのだ。

 何故、今になって過去を夢に見たのか。そこで出てきた黒髪の少年を思い出して、キャンサーは知らず眉を顰めていた。

 所詮は夢だと、振り払うように頭を振る。そして部屋を出ると、ソファからはみ出している脚にギョッと目を剥いた。

 覗き込んでみると、ソファベッドの上ですやすやと寝息を立てているヒーラ。昨日着ていたワンピースは血まみれだったため処分して、現在はキャンサーのお古の男性用の衣服を着ている。胸元では変わらずダイスが光っていた。

 キャンサーは頻繁に作業中に寝落ちするので、リビングには大きめのソファベッドを備え付けてある。ヒーラの体に合うかという懸念はあったが、どうやらなんの問題もなく眠れているようだ。

 彼女がずっと血がつかないように気を遣っていたパーカーはハンガーに掛けている。それもどうやら、彼女が首から下げているダイスと同じく、大切に扱っている物のようだった。

 眺めてみると、随分と古びているパーカーだ。特に上質そうには見えない。一般的に売られているパーカーに年季を重ねた、ただそれだけの服だ。

「ぅ……ん」

 ソファベッドの上のヒーラが唸る。睫毛が震えて、琥珀の瞳が露わになった。

 焦点が定まり切っていない視線がキャンサーに向く。ぼんやりとした視界が明瞭になったのだろう、「ああ、おはよう、キャンサー」と少し掠れた声がキャンサーの耳を撫でた。

「おはよう。よく眠れた?」

「うん。寝袋と地べた以外で寝たことないから、ちょっと慣れないけど」

 彼女はそう言いながら柔らかくはにかむ。

 キャンサーは、一体今までどんな生活を送ってきたのか、とは訊かない。外で暮らしてきたのならまともな寝具がなくてもおかしくないのだから。そう考えると、目の前の少女が今までどれほどの苦境に居たのかを考えさせられる。

「そういえば、ヒーラには痛覚って無いの?」

 思えば、胸に大きな創傷ができた時も全く痛そうにしていなかった。無邪気に笑う余裕さえ見せて、まるで痛みなんて無いように。

 キャンサーの問いに、ヒーラはあっさりと頷いた。

「無いよ。ほら、痛みって脳が送る警鐘でしょ? けどわたしはいくら警鐘を鳴らされても失う命は無いからさ。痛みとか、邪魔なだけなんだよ」

 あっけらかんと語られた内容に、キャンサーは慌ててメモを取った。これもまた、大事な不死の情報だ。

「わたしからも聞いていい?」

「あ、うん。なんでもどうぞ」

「きみの専門分野って不死の探求なんだよね。じゃあさ、外の世界の探求が専門分野の人って、いないかな」

 ヒーラの純粋な疑問に、キャンサーは一瞬固まった。

 外の世界。それはつまり、荒廃し生物が定住できなくなった世界。

 そんな世界を研究する者。記憶の中を探り、そして親の研究室にあった論文の事を思い出す。

「いるにはいる……いや、いたよ。ただ、もう随分前に外の世界に関する研究が打ち止めになってね。その研究者の血筋がなくなったから」

「血筋?」

「うん、血筋。ビバリウムに人が入った時はね、研究者とその家族が優先されたらしいんだ。研究者だけが確固たる地位を与えられて、社会主義みたいにその一家が研究をする。それが割り振られた役目なんだよ」

 研究者としてビバリウムに迎えられた人物は、その一族全員が研究者となるように定められた。それは逆に、研究者の血筋では無い者が研究者になるのは基本的に不可能という事で。

「外の研究って事は、外に出なければ研究が始まらないって事。そして外は人間が暮らせるような状態じゃない。……外で、死んでしまったんだろうね」

 キャンサーは大量の本が収まっている本棚から、一冊の古書を取り出し、机に乗せた。件の外の研究者によって書かれたのであろうそれは、外の世界の情報や、人間が再度住めるようにするために何をすべきかなどが綴られている。約百年前に書かれた物だが、そこに書かれている思想の美しさに惹かれた覚えがあった。

「その研究者の一家って、『ラックス』っていう苗字だったり、する?」

「……いや、『プレザント』だったと思う。その本の著者名、掠れて読みづらいと思うけど『ヘレン・プレザント』って書いてあるから」

 そう、と呟いて、ヒーラは俯く。どこか落胆しているような表情に見えて、キャンサーは目を丸くした。

「どうして、そんな事を訊くの?」

 問い返すと、ヒーラは躊躇いがちに話し始めた。躊躇いがちと言ってもそれが隠すべき事であるという訳ではなく、ただなんと表現すればいいのかわからない、といった風情だ。

「……わたし、とある人の家に行きたいの」

「とある人?」

「うん。昔、外で出会った人。わたしに色んな事を教えてくれた、大事な人」

 昔。外。ヒーラは不老不死。その情報を重ねて。もしや、とキャンサーは行き当たった可能性を口に出す。

「もしかして、それって、まだ外に関する研究が打ち切られてない時代……?」

 外に関する研究は、ビバリウムが出来て十年程度で止まったと伝え聞いている。もう百年近く前の事だ。その打ち止めと時を同じくしてビバリウムの出入り口の封鎖が厳しくなり、それまで一般人でも出入りできた所ができなくなったと聞いている。

「いや……正確には、外を出る事が丁度禁止になった頃、って聞いてる。精細な事は、わからないけど」

 それでも、百年近く前の事である事は確かだ。不老不死ならばあり得ない話ではないが、それでもやはり荒唐無稽に思えてしまう。

「ビバリウム完成が二一◯◯年。ビバリウムから研究目的でも外に出る事が禁止されたのが、確か2110年。それで、今は2207年」

 ヒーラが話す人間は二一一◯年、実に九十七年前の人物となる。

 ほとんど百年だ。その途方もない時間に、キャンサーは頭がぐらつくような心地がした。

「……ヒーラ探っている人が大昔の人だってのはわかった。けど、その人について探ってどうなるの? 死人の墓を掘り起こすの?」

 キャンサーの声は、知らず刺々しくなっていた。

 過去の人間とヒーラの関係性に興味が無いわけではない。しかし、それでその人間の墓が無理に暴かれるようなら、それは死者への冒涜だと考えている。

 不死のために死者の研究をしているから、死者へ対しての敬意は持っているのだ。死体をいじってアンデッドとする方法を模索している者だからこそ、超えてはならない一線を理解しているのだ。それを越えようとしているならば、止めざるおえない。

「いいや、墓荒らしをしたいわけじゃないよ。それに……彼には掘り起こす墓も無いから」

 ヒーラは目を伏せて、淡々と語る。

 掘り起こす墓もない、という言い回しにキャンサーは首を傾げたが、それ以上は言いたくないとばかりにヒーラは口を噤んだ。

「わたしは、彼の事を知りたいからここに潜り込んだんだし、知らなければならないと思ってる。だから、協力して」

 彼の事を調べるのに、力を貸して。

 キャンサーの手を両手で握り込みながら、ヒーラは懇願する。キャンサーは目を白黒させながら、手の甲から伝わる温かい体温に縋った。

「……協力、って言ったって……もう百年も前の人の家なんて、残ってるかどうか……」

「ラックスっていう研究者の家を探してくれるだけでいいの。口ぶり的に、彼は研究者の一家だったと思うから」

「まあ、その血筋なら家は残されてる可能性はあるけど……。ラックス、ラックス……聞いた事、あるような……」

 キャンサーはブツブツと呟きながら、本棚を漁り始めるが、ラックスという名は見つけられない。確かにどこかで見たことあるんだけどな、とキャンサーは首を傾げた。

「……研究者の一族って事は、その邸宅は中央街、またはその周辺にあるはずだよ。さっき言ったように、残ってるとは限らないけど……。とりあえず、ビバリウムを見て回ってみる? ほら、案内もかねてさ」

 その言葉は、ヒーラの頼みを受ける事と同義だ。

 自分の頼みが受け入れられた。それを理解したヒーラは、一瞬その遠回りな了承に呆気にとられたような表情をして、そして次に花が咲き綻ぶような笑みを見せる。

「……! うんっ!」

 大きく頷いて、ヒーラは立ち上がった。不老不死で、百年もの時を生きているようには見えない、あどけない表情。どきりと胸が跳ねたような心地がして、キャンサーは無意識に自分の心臓があるあたりに手をやった。

「どうしたの?」

 ヒーラに顔を覗き込まれて、キャンサーは思わず仰け反る。わずかに紅潮した顔を腕で覆い隠すようにして、キャンサーは思わず語調を強くした。

「な、何でもない!」

「そう? なら良いけど……」

 ヒーラは少し怪訝そうにしていたが、キャンサーの言葉を聞いてひとまず飲み込んだようだった。じゃあ、行ける?と問われて、キャンサーは頷く。

「その前に、朝ごはんにしようか」

 言いながらキャンサーは誤魔化すようにキッチンに入る。彼の手元は絶え間なく作業を続けており、ヒーラは興味深そうにそれを眺めていた。

「一人暮らし、どれくらいしてるの?」

「うーん、三年くらいかな」

「へぇ、長いね。親御さんに反対とかされなかったの?」

 キャンサーは、とてもではないが大人とは思えない風貌をしている。身長はまだ成長途上のように思えるし、おそらくは大人サイズであろう白衣は彼の身の丈に合っておらず、わずかに大きい。顔立ちも声も幼さを残している。

 まだ大人とは言い切れない年齢であろう彼の一人暮らし。しかも始めたのが三年前となれば、当時の彼はもっと幼かったはずだ。それを彼の親は許可したのだろうか。人間社会に疎いヒーラではあるが、キャンサーほどの年齢で独り立ちしている者は少ないという知識だけはある。

「うーん、良い顔はされなかったけど……事情が事情だし、強制はしないって。完全に放任されてる訳でもないし」

 キャンサーは作業する手を止めないまま語る。薄く切った肉を焼く音と匂いが部屋に広がった。

 ヒーラはふと思い出す。かつて、料理をする手を眺めた事があった。その時焼いていたのは、トカゲやネズミといった小動物だっただろうか。それを捌き串に刺し、ワイルドに丸焼きにする彼の鮮やかな手腕に脱帽した記憶があった。

 古い思い出に頬を綻ばせていると、できたよ、と低い机に皿が並べられる。甘辛いタレで焼いた肉と少なめの野菜をパンに挟んだサンドウィッチだった。鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いに、ヒーラはすぐにソファに座る。その隣にはキャンサーが座った。食卓は椅子が一つしか無いため、ソファに肩を並べる。

 いただきます、と唱えてすぐにサンドウィッチにかぶりつくと、肉の繊維を感じつつ、鶏肉のようなあっさりとした肉にこってりとした味付けにヒーラは頬を緩ませた。パンや野菜の質はそこまで良くはないようだが、その分肉が多く挟まれているために満足感がある。

「美味しい。ビバリウムはお肉が豊富なんだね」

「うん。室内栽培が簡単な野菜とかはたくさんあるんだけど、ちょっと質素だし種類が限られててね。それに対して肉は地下空間のプラントで大量に育ててるらしくて、割と安価で手に入れられるんだ」

 主婦のような蘊蓄に相槌を打ちながら、ヒーラはもう一口サンドウィッチを齧る。

「……うん、やっぱり美味しい」

 食べ物を食べたのは、一体何年ぶりだろうか。そんな言葉は口に出したらまたキャンサーから追求が飛んできそうなので言わないままにしておく。

 舌が味覚に刺激されるその感覚は口の中が驚いて粟立つような、けれどもそれを歓喜するかのようなものだ。じんわりとした多幸感が舌から電撃のようにビリビリと脳まで届き、そして脳はもっともっととそれを欲する。ヒーラは体験はした事はないが、麻薬を摂取した時と似ているのだろう。知識の中だけにインプットされている依存症の症状と今を比べると、相似している点が多い。少なくともヒーラはそう感じている。

 あまりに甘美な、脳を蕩けさせる魅惑の蜜。ヒーラにとって料理とはそんなものだ。

 久方ぶりのその味を楽しんで、ヒーラは舌づつみを打った。

 食べ終わったその皿を物欲しげに見つめながら下げると、虚無感が襲ってくる。これもまた麻薬と同じだ。まだまだ美味の感覚を味わいたいというのに、胃という名の許容量がそれを制限する。

 食事に一喜一憂しているヒーラに対して、キャンサーは義務的に料理を口に運んでいた。食べる、と言うより、胃に詰め込む、と言う表現の方が適している。

 キャンサーにとって食事とはただの栄養補給だ。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん不味いよりは美味しい方が断然良いが、それでも彼にとって食事とは面倒なものだ。いっそ胃にチューブでも繋いで流動食を流し込みたいとすら思っている。

 昔あったとされるサプリメントやバーなどがあればそれを優先的に摂っていただろうが、残念ながら今のビバリウムでは食品を加工する手間を惜しんでいて、値段も考えると生の食材しか滅多に手に入れられない。

 交易の断絶により食材のレパートリーが少ない事や、そんな生産ラインを敷く場所的余裕がビバリウムに無い事、更には食品を加工する手間、それにかかる物資や電気を勿体ぶっているからだ。それ故、ビバリウム内で購入できる食品のほとんど何の加工もされていない食品だ。

 不便だなとは思いつつも、その代わり飢える事は殆ど無い。貧民街でも時折炊き出しなどが行われているため、餓死者はかなり少ないと聞いている。実際、幼い頃は貧民街で子供だけで暮らしていたキャンサーも、腹を空かす事があっても餓死しそうになる事は少なかった。その代わりか、地べたで眠っていたら何故か凍死しそうになった事はあるが。

 同じように食事を面倒臭がる師がおり、そのため料理をする機会があったため料理はある程度できるが、それでも彼は食事に対しての関心が極端に薄かった。

 そのため、目の前で瞳を輝かせてただの簡素なサンドウィッチを頬張る少女を見て、驚いた。そして同時に思い出す。キャンサーの同居をしていた家族は二人。一人は先に述べた、自分以上に食に関心が無い師。そしてもう一人は、ある時期から肉を極端に嫌い黒焦げに調理をしてから食べていた、偏食あるいは異食家の幼馴染だ。

 そして、ビバリウム内で一番多く流通している食材は肉である。キャンサーの家は一日に最低一回は肉が出ていたし、多くの一般家庭もそうだろう。貴族の家ですらそうであるかもしれない。そんな環境で幼馴染は肉を嫌がった。それでも食べないわけにはいかないと炭のように焦がしたそれを苦い顔をして食べていた。

 つまり、その幼馴染の食の嗜好が変わってからは、キャンサーの料理を純粋に楽しんでくれる人間はいなかったのだ。

 それが悲しかった訳ではない。彼の食への興味の無さは研究への没頭に起因するもので、その幼い頃の体験は全く関係がない。

 しかし、それでも。ただ雑に作った一品でも、こうして心底嬉しそうに楽しそうに食べられると、自己肯定感がはね上げられるような感覚がする。

 まるで麻薬のようだ。もっと食べさせたら、彼女は花が綻ぶように笑ってくれるのだろうか。物欲しげな顔をしてくれるのだろうか。もっともっと料理を、それを作る自分を、求めてくれるのだろうか。そう考えてしまって、そしてあの笑顔を思い出すたびに脳が痺れる。ゾクゾクと甘い悦楽。キャンサーはやった事がないが、麻薬中毒者はこんな感情なのだろうかと思ってしまった。

 自分の専門分野は不死の研究であるにも関わらず、それとは全く関係がない料理なんて分野で認められた気になるなんてとも思ったが、それでもやはり自分の存在価値を肯定されたような気分になる。

 その高揚感に、胸が高まった。態度には決して出さないようにはしたが。

「……ご馳走様」

 短く唱える。普段、一人で食事を終えた際は言わない言葉。言いたくないという頑なな意志がある訳ではなく、意味がないと思っているもの。

 しかし、食を全力で楽しんでいるヒーラの目の前でそうするのは、何故だか失礼な気がした。誰に対して、と問われると明瞭には答えられないが、とにかく言わなければならない気がした。それは強迫観念にも近かったかもしれないが、それほど焦りに近い感情があった訳ではないし、不思議と言った後の心情は晴れやかだ。

 皿を水場に置きながら、料理も悪くない、と思った。食べる事に対しての感情ではないのでやはり彼自身の食への関心は変わりないが、けれども料理に関心を持ったという時点で彼にとっては大きな変化だ。

「ねぇキャンサー」

「何?」

「胃の容量を増やす方法って、無いかな」

 ヒーラの表情は、いたって真剣そのものだった。真剣に胃の容量を増やしたいと、つまりもっと多くの料理を味わいたいと言うものだから、キャンサーは思わず笑みを噛み殺す。唇の内側を噛んで、吹き出そうになる笑いを必死に抑えた。

「……単純に食事量を増やし続ければ、それに適応して胃袋は広がると思うよ。長期的な話だけど、健康的に食べる量を増やしたいのならそれかな。あとは運動すればお腹が減るから自然と食べる量も増えるよ」

 そっか、とヒーラが落胆の表情をする。

「……昼と夜は、また作るから」

 そう宥めると、ヒーラはすぐに表情を明るくしてキャンサーを見上げた。期待の眼差しに刺されて、更なる自己肯定感が煽られる。

「ほんと⁉︎」

「ほんと。だからさ、外に行こうよ。案内するから」

 玄関を指差して見せると、ヒーラは上機嫌に頷いてそこまで駆けていく。ヒーラが出て行った玄関の扉を外側から施錠し、更にキープアウトのテープのように鎖を取り付けて五つの南京錠をかけた。厳重すぎるかもしれないが、彼の感覚からしたらまだ緩い方だ。彼の師の施錠はもっと厳重だった。

 貧民街は薄暗い。ビバリウムの天頂に取り付けられた巨大電球から離れた場所に位置するためだ。陽の光は常に傾いているから影も多い。

 貧民街が貧民街である所以は、その薄暗さも要因の一つだ。路地裏などは光が届かないため人に見つかりやすい。そのため、犯罪率が上がる。

 また、いわゆる社会不適合者と呼ばれる者が人の目を避けるために端まで来る事も多い。その子供も必然的に社会に迎合しづらくなる。そうしたスパイラルの果てに作り上げられたのがこの貧民街だった。

 また、治安が悪く嫌厭されるため店が少なく、物資が運ばれにくい、詐欺が多いためぼったくりの店が大半を占めている、などの要因のせいでひどく寂れている。食材は定期的に無料配布されているのだが、人の目を避けるあまり取りに来ない者も多いと聞く。そしてその配給の量も年々減っている。

 その配給も治安が悪いせいで争奪戦のようになるし、そのせいで子供に十分な食料が行き渡らなくなったり、そのせいで更に犯罪率が上がり……と踏んだり蹴ったりな状態に陥っているのだ。

 閑話休題。とにかく、貧民街は治安が悪い。窃盗暴行は横行しているし、腹を空かせた者が食料を求めて中央街に向かう事も多い。夜明けと共に飢えたものが物乞いとして活動を始めて中央に向かって歩き出すその様はまるでゾンビだ。

 逆に言えば、その歩く屍が多く出現するほど、貧民街の現状は酷いと言える。

 そして、その貧民街の状況を目の当たりにしたヒーラの反応は、キャンサーが予想していたよりも淡白だった。

 以前、ビバリウムに対して「思ってたような楽園でもない」と発言していた事から、ヒーラはビバリウムの中で構成された人間社会に対して理想を抱いていたのではないかとキャンサーは思っていた。しかし、ビバリウむの汚点とも言い換えられる貧民街をヒーラは無感情に眺めていたのだ。

「……ヒーラ」

「ん?」

 声をかけると、なんの異常もなく、愛想の良い微笑みと共に疑問符が返ってきた。

「いや、あの……失望、した?」

「え? いいや。なんで?」

 おずおずと問うと、軽い調子で答えられる。

「ビバリウムの中は理想と違ったんじゃないかって」

「うん、そりゃ違ったよ。全体的に牢獄じみてるし、治安を維持する機関もそこまで力は強くないんだろうなって思ったし。けど伝染病とかが無い事は褒めるべきだと思うな。医療機関の勝利だね。けど貧民街の様子を見てると、やっぱり福祉はそこまで行き届いてないなって思う。それは社会機構として割と致命的じゃないかな」

 指を折りながらビバリウムの悪い点を挙げていく。どれもこれも否定すべくもない圧倒的な正論だ。

「彼から聞いた話より、ずっとずっと汚くて醜くて理想的な場所とはかけ離れてるって、そう思ったよ」

 けれどね、とヒーラは息を継いだ。

「価値が無い訳じゃない。彼がかつてここに存在してたってだけでわたしにとっては何よりも美しいし、尊い場所なんだって、そう思える。彼がかつてここに脚を運んだかもしれない。かつて彼がここで呼吸をしていたかもしれない。かつて彼がここで笑ったかもしれない。それだけで、値千金なんだよ」

 ヒーラは穏やかに微笑む。懐古に浸り切っている瞳で。ここではないどこかを、目の前にはいない誰かを、見つめるように。

「……けどまあ、貧民街だけだと空気がどんより重いかな。中央街だっけ、そこも見せてよ」

 ヒーラは振り返る。その時には懐古の色はそのままだったものの、しっかりとキャンサーの姿を捉えていた。

「……わかった」

 キャンサーは小さく頷くと、北の方角に向かって進む。キャンサーの家は最南端だから、北の方角に進めば中央に辿り着くのだ。

 街の様相は通りが一つ変わる度に変化する。区域分けのためだという側溝が道を横に分けており、その側溝の下は底が見えない暗闇だ。落ちてしまったらひとたまりもない。というか、確実に死ぬ。試しに小石を落としてみても落下音は聞こえなかったため、小さな石一つが底、または水面についても音がこちらに届かないくらいには深いのだろう。

 その側溝を何十個も踏み越えると、貧民街は遠ざかる。明確な区分は無いのだが、段々と街は小綺麗になり、テナント式やキッチンカー式の店がぽちぽちと増えてきた。

 その中の一つにあった、レディースの服を取り扱っている店を前にして、キャンサーは寄ろうかとヒーラに訊く。彼女はきょとんとしたあどけない表情を浮かべて、首を傾げた。

「え、なんで?」

「だって、君が今着てるのぼくの服でしょ。男ものだし、サイズも微妙に合ってない。前着てたワンピースは血まみれだしボロボロだしで捨てちゃったから替えも無いでしょ。買っておいた方が良いんじゃ無いかなって」

「いやいや、服なんかに頓着ないし、このまま男ものでも大丈夫だよ」

「うーん、じゃあこう言った方が良いかな。単純にぼくの服がワンセット減るのは困るから、きみ専用の服を着て欲しい、って」

 キャンサーにしてやったり顔で言われて、ヒーラはぐっと身を引き、そして観念したかのように頷いた。

「それじゃあ、わたしお金とか持ってないから払ってもらう事になるけど……」

「一応、ビバリウムで一番立場が高い職業って研究者だからね。未熟な身でもそれなりのお金は持ってるよ」

 苦笑して服屋を指差し、ヒーラの手を引っ張って入店する。男一人で入る勇気はなかったため、ヒーラの手を握ったまま店員の挨拶を聞き流した。そして服に頓着が無いと言うヒーラに、最初に着ていた服と似ている白いワンピースを選びとり購入する。

 そうして真新しい純白のワンピースに身を包んだヒーラは、その健康的な小麦色の肌と親和して美しかった。

「ありがとう」

 真っ白な裾を翻しながらはにかむ彼女。頬が熱くなっていく事を自覚して、キャンサーは目を逸らす。

「……どう、いたしまして」

 顔を隠しながら述べた返事に、ヒーラは不思議そうに首を傾げた。誤魔化すように彼女の腕を掴んで、また歩き出す。

「もっと、案内するから」

 ぶっきらぼうにそう言うと、ヒーラは破顔して大きく「うん」と返事をした。




古びた雑居ビルの上。古くから伝わる子供向けの話をボソボソと口ずさむように呟く少年がいた。

「むかーし昔、とあるところに羊を飼った少年が。彼はひどぉい嘘つきで、事あるごとに言いました。『狼だ、狼出たぞ、みな逃げろ』」

 少年はまるで何かを探しているかのように視線を巡らせ、そしてそのうち、薄い金色の髪の少女と、それを連れている白衣の少年を見つけ、そして紗に隠れた笑みを深めた。

「そんなこんなをしていたら、彼のまきばに狼が。狼出たぞと知らせども、村人達は訝しげ。どうせ嘘だと謗るのです」

 そして、少年はもう一人、怪しげな人物を見つける。いかにも貧民街出身といった趣の、柄の悪い男。少年は思い出す。その男は、ここしばらく、キャンサーに手を出そうとしていた人間であると。

 ここ数週間は家から動けなかった少年だが、その間に何かがあったのかもしれない。今まで金ヅルか新たなオモチャでも見つけたような下卑た笑みをいつも携えていた男は、しかし今は怯えと敵意を露わにしているのだから。

 そして、それはキャンサーの隣の少女に向けられている。

 ——俺がダウンしてる間に何かあったかな。

 少年は帽子を深く被り直し、マントのような襤褸を翻した。無風の空間に黒と白の狭間の色をした布が広がる。

 男はバールのようなものを握って、そして少女の姿を見据えている。隠しきれていない敵愾心と殺意。あのままだと男は少女に危害を加えるだろうし、その後にはキャンサーに手を出すだろう。

 少年はひょいひょいと軽い調子でビルの屋上から屋上へと飛び移り、そして男が潜む影を作り出しているビルまで移動した。

 少年はそのまま躊躇なく空中にその小柄な体を踊らせ、自由落下を始める。

 ヒュウウ、と空気を切り裂く音と、ひゅう、と少年が吹いた口笛が重なる。少年はくるりと宙で身を翻すと——男の頭を足蹴にする形で、地面に華麗に着地した。ふぎゅっ、と間の抜けた悲鳴が男の口から漏れ出たのだが、少年は聞いていない。

「っ……何すん、だ……」

 足蹴にされ凄む男は、しかし少年の姿を捉えて言葉尻を小さくする。

 帽子に取り付けられた半透明の紗幕に覆われた幼いかんばせは、愛想の良い笑みを形作っている。しかし、男にはそれが、本当の意味の笑顔ではない事がわかっていた。

「な、ん……」

「ねぇねぇ、俺言ったよね。カニくんに関わるなって再三言ったよね。それでもそんな風に彼を狙うのって、もしかして俺にかまってほしいの? それともドエムってやつ? やだなぁ、不健全不健全。キミの性癖に俺を巻き込まないでほしいんだけど」

 捲し立てる少年が言っている事を理解するのに、男は数瞬の時間を要した。そして完全に理解しきると同時、男は頭に血を昇らせて顔を赤くした。

「っ、誰がドエムだ! ぶち殺すぞ魔女のガキ!」

 がなる男に、少年は「きひひっ」と特徴的な引き笑いを返す。

「罵倒ワンパターンすぎー! 語彙力もうちょいつけなよ。あ、もしかしてつけ方わかんないかな? 本読めよ、本」

 男は少年の口から滞りなく吐き出される煽り言葉に青筋を立たせ、そしてポケットからフォールディングナイフを取り出し、その鋭い刃を露出させた。

「うっせええええ! 俺は本買うだけの金なんてないんだよ! 恵まれた奴は黙ってろおおぉぉお!」

 男は叫びながらナイフを構え、少年に向かって突進する。考えなしのただの突撃だが、狭い路地裏では、少年がいくら小柄であれど回避するのは難しい。

 しかし、少年は振り下ろされようとする鈍色の輝きを見ても動揺をせず、真っ直ぐにそれを見据えている。

 男ががなり、口を噤んだ少年の胴を傷つけようとする。しかし、かぁん、と音がして、男の手からナイフは離れていた。乾いた音を立てて上空に跳ね上がり、そして円を描きながら落ちてきたそれは少年の手に掴まれる。

「ナイスキャッチ」

 少年は手の中のナイフを弄びながら、心底楽しそうな声音でそう呟いた。左手にはキャッチした男のナイフ。そして左手には、赤く塗られた杖がいつの間にか握られていた。

 まるで何かの警告をしているのではないかとすら思ってしまうほどに目に痛い赤色。少年はその杖を手に馴染んでいるように扱っている。先端から少し離れた場所についている真新しい傷を見つけて、あっ、と声を上げた。

「あーあ、ナイフ弾いたからかな……」

 落胆したように、少年はその傷を撫でた。塗装が剥げてしまっていて、純白が覗いている。元々は白色だったものを真っ赤に塗っていたようだった。

 しかし少年はすぐにその杖から興味を外し、ナイフを光らせて腰を抜かした男の元にしゃがみ、視線を合わせる。

「ねぇねぇ、狼少年は嘘つきだと思う?」

 唐突で今までのやり取りと何の関連性も無い質問に、男は目を丸くした。咄嗟には答えられない彼に対して、少年は退屈そうに唇を尖らせると、一方的に語り出す。

「俺はね、嘘が大っ嫌いなんだぁ! だから当然嘘つきってされている狼少年も大嫌いなんだけど、けど理解しようともせずに嘘つきって決めつけるのも、何だかフェアじゃないよね。だから俺は思ったの。狼少年を理解して、その上で嫌おうか好こうか決めようって」

 どこか楽しそうな少年の口調は弾んでいる。対照的に、男はまともに言葉も紡げない様子で唇を戦慄かせていた。

「……ぉ、狼少年は、嘘つきだろ。だって、物語で嘘つきって名言されてるんだから。へ、平和な牧場で、一人だけ狼が来たって叫んでるイカれ野郎なんだから」

 男は掠れた声で、必死に舌を動かして問いに答えた。彼は貧民街の育ちだが、その狼少年の童話の内容程度ならば知っている。記憶は大分風化しつつあったが、それを懸命に掘り起こして答えを絞り出した。なるほど、と少年は頷く。

「じゃあ、狼少年はやっぱり俺が大嫌いな嘘つきだ。俺はこれで正当に彼を嫌う理由ができたよ。ありがとね」

「お前が言うかよ、貧民街のトリックスターのお前が、魔女の家の狼少年のお前が……!」

 その長ったらしい呼称に、少年の目が細まった。蛇のように鋭く、男を睨む。

「いかにも、俺はトリックスターだからね。けどね、イタズラ好きならイタズラ好きなりに、矜持ってものがあるんだよ。まぁそれをお前なんかに理解してもらおうと思ってないし、理解しようとしなくていいよ」

 少年はそう言うと、地面に座り込んでいる男の喉元に杖を突きつけた。それは決してナイフのような鋭さは無いが、しなりがあるそれに体を叩かれれば鞭のように肌に赤い痕を残すだろうし、真っ直ぐに力をかければ、骨が無い場所であれば貫く事だって可能だ。

「なんで、お前はアイツに……」

 言いかけた所で、杖に力がかけられる。喉仏に接したそれに、男は息を呑んだ。

「……人を嫌いになる理由は『気に食わない』一つで済むけど、人を好きになる理由は複雑に絡み合ってて説明しようがないよね」

「は……?」

 急激な話題の転換に、男は目を白黒させる。そんな彼の混乱にも関わらず、少年は笑みを深めた。

「俺がカニくんの事が大好きなのも説明がつけられないし、俺がお前の事嫌いなのも気に食わないからで良いんだよ」

「カニくんが大好き……? 嘘つけよ、だったら何でお前は、あのキャンサーとか言う野郎に嫌われてんだよ」

 嘲笑するように男は叫ぶ。しかし少年の表情は全く崩れず、変わらない笑みを浮かべていた。ここまでくると、笑顔の仮面でも貼り付けているのではないかと疑ってしまう表情だ。

 少年はイタズラっぽい顔で微笑み、そして唐突に杖を振り上げた。自分に差し迫る杖の影と、上機嫌そうな、まるで何もかもが自分の思い描いた通りになっているかのような、そんな満足感が秘められた猫のような瞳。

「教えてあーげない」

 弾むような声を聞いた。そしてそれきり、男の意識は落ちた。

 たった今自分で頭を殴りつけて気絶させた男を睥睨し、少年は微笑む。雑居ビルの屋上に戻ると、まるで恋人同士の逢瀬のように楽しげにしているキャンサーと見知らぬ少女。一瞬、あの男と同じように排除すべきかと考えたが、少女に敵意は見られないし、キャンサーも少女を受け入れている。

 まぁいいか、と心の中で呟きながら、杖を取り出す。男の頭を殴った時に付着した血を拭って、そして憂鬱そうに溜息を吐いた。

「あーあ……塗り直さないと……」

 血が綺麗に拭われたそこには、ナイフを弾いたせいで塗装が剥がれた場所が強く主張をしていた。




 



 ビバリウムは、最大三万八千四百人まで収容が可能だ。

 そして人民の多くは縦に長く伸びた高層住宅に押し込められる。その例外となるのが研究者とその一家だ。

 研究者はビバリウム内で多くの特権を持ち、一軒家と研究のための設備が与えられる。その特別扱い故、貴族と呼ばれる事もある。

 そして、それよりも位が高いのがビバリウムの建設に直接携わった科学者の一家。その血筋は今も脈々と受け継がれており、王家と呼ばれることもしばしば。

 それ以外は中流階級と貧民階級に分かれている。貴族、王族のほとんどは中央街に居を構えており、そこから放射状に一般、貧民と街が展開されている。それがビバリウム内のカーストを如実に表しているのだ。

 貧民でありながら研究者に成り上がり、そして貧民街に研究所を構えているキャンサーは特例中の特例。基本的に研究者の立場は世襲制なのでキャンサーのような例は珍しい。彼の師も中央街に近い場所に居を構えている。

「それで、今からその師匠に会いに行くんだけど……」

 昨日の夜、ヒーラと出会った直後に電話で彼女についての報告をした。しかし、キャンサーの師は噂話は聞いても自分の目で確認するまでは信じない質の人間だ。実際に彼女とヒーラを会わせて、不死である事を証明して見せなければ信じられないだろう。

「……気乗り、しなさそうだね?」

 ヒーラが言うと、キャンサーは慌てて顔を上げて首を横に振る。

「いや、師匠に会うのが嫌って訳じゃないんだ。……だけど、中央街には会いたくない奴がいるから……。あと、今日は雨が降る予報だし」

「雨、かあ。ビバリウム内に雨なんて概念あるんだね」

 ヒーラは窓越しの空を見つめて言う。

 ビバリウムは分厚いガラスで作られたドーム状の巨大建築物だ。ドームが屋根となっているため、外で雨が降っても中はなんともならない。

「あるよ。外で雨が降ると、それと連動するから。外での雨とは違うんだろうし、実際に見た方が良いと思うよ」

 キャンサーは荷物を詰めた鞄と、腰にウォレットチェーンのように下げた鍵束を確認するように撫でて、キャンサーは石畳を踏みつけた。

 ビバリウムの中は、薄暗い。普段から場所によっては暗いのだが、今日は全体的に暗いのだ。ドーム外殻のソーラーパネルの隙間から覗く光は淡い。外は曇っているのだろう。太陽を模しているとか言う天頂の巨大電球も、前日より光量が少ないように思える。

「低電力モード入ってるね。雨が降るならいいけど、曇りの日は憂鬱だよ」

「雨より曇りの方が嫌なの? 逆じゃない?」

「いや、外で雨が降るとこっちでも一応恩恵があるんだよね。というか、外では雨って嫌なもの?」

「うん……わたしは嫌いかな。だって降ってほしい時には降ってくれないし、いざ降ってみれば災害級の大雨だったり、竜巻を伴ってたりするし」

 ヒーラは嫌悪を露わにして眉を顰める。恨めしげに天を見上げるが、そこに存在するのはビバリウムの天井とソーラーパネルの裏側だけだ。

「……中央街まではしばらく歩くよ。徒歩の他の移動手段はとんでもなく金がかかるから」

 ビバリウム内では、車はあまり使えない。単純に道が最低限の広さしか取られておらず運転がしにくいというのもあるし、空気が汚れるからと周囲の人々に嫌厭されるという要因もある。

 そこからは、二人は無言で歩いた。特に喋ることも無かったから、ヒーラはキャンサーに先導されるままに歩いた。特に喋る事も無かったから、キャンサーは時折ヒーラがついてきている事を確認しながら歩いた。

 貧民街は廃れている。立ち並ぶ高層住宅には蔦が這い、殴った跡や血痕がついている。その影では見窄らしい格好をした大人が項垂れていた。いかにもスラムと言ったような風情の場所だ。

 しかし、数時間歩いて貧民街から離れて中央に近くなってくると、その様子も段々と変わってくる。

 街の全体的な雰囲気が煌びやかになり、道を歩く人々の格好も貧民街のものと比べて小綺麗になっている。

 テナント式の店が増えて、どうやら買い物を楽しむような暇や娯楽もあるらしかった。荒廃した貧民街との歴然な差にヒーラは街を見回しながら目を丸くする。

 同じビバリウム内でも、こんなにも差があるのだ。貧富の差を明確にした風景の違いがあるのだ。

 やはり、どこまで行っても人間は人間だ。ヒーラは人間社会を知識でしか知らないけれど、そう思ってしまうほどにビバリウムは人間社会の縮図だった。

「……君は、中央街を見たらどんな反応をするんだろうね」

 表情に出ていたのであろうヒーラの感情に、キャンサーは苦笑を浮かべた。

 彼が言った通りだった。人間の社会はどこまで行っても人間の社会でしかなく、その良いところも悪いところも決して変わりはしないのだ、と。

「……」

 ヒーラは口を噤む。ビバリウムに入って、嫌なものばかり知っている気がした。もしかして、「彼」にも何か嫌な事実があるのでは、という気がして、鬱屈とした気分にさせられる。

 その暗い感情に身を任せていると、キャンサーはふと足を止める。それと全く同時、突然天頂の光が消え、ビバリウムが闇に包まれた。

 完全な停電。その他の光は、ソーラーパネルの隙間から漏れ出ている光程度だろうか。

「えっ、何?」

「雨だよ」

 困惑を見せるヒーラに、キャンサーは極めて冷静に答えた。まるでよくある事とでも言うように。

 電気が消えて数秒後、ビバリウム中にアラームと機械音声のアナウンスが鳴り響く。

『これより雨が降ります。野外にいらっしゃる方は屋内、または雨が届かない場所へと移動してください。繰り返します……』

 それと同時に、モーターが動くような微かな音を耳が拾った。ざわざわと人々が騒めき、しかしすぐに平静を取り戻して何事も無かったかのような穏やかな会話が始まる。

「雨……?」

 目を凝らして周囲を見てみるが、誰一人として傘を用意するような素振りはない。それはもちろん、キャンサーも同様だ。

 モーターの音が一層大きくなったと同時。ビバリウム内に、幾つもの水の紗幕が降り注いだ。

 どう、と音を立てて、滝のように、カーテンのように。

 区画分けでもしているように等間隔に降り注ぐそれは、外の世界の雨を知っているヒーラの目にはひどく異常に映った。

 なるほど、傘など必要ないわけだ。丁度直線状に伸びた側溝に落ちるようになっている水のカーテンなんて、屋根に潜れば簡単に回避できる。そもそもその雨が降っていない場所に居れば、そんなもの関係ない。

「これが、こんなものが雨……?」

 ヒーラは呆然とその雨を見て、震える声で呟いた。

 頼りない足取りで水の紗幕に近づいて、それに触れた。

 ひどく冷たい。冷蔵庫で冷やされた水であるような、人工的な冷たさ。ヒーラが知っている雨はもっとぬるくて、こんな無機質なものではない。

「なんだよ、これ……!」

 「彼」と居た時、いや、彼を失った時。ヒーラは、雨を求めていた。雨さえ降れば、彼は死ななかったかもしれない。彼があんな風に死ぬことは無かったかもしれない。もっと、彼に「ヒーラ」と呼んでもらえたかもしれない。

 だからヒーラは、雨を求めていた。

 外の世界でも、雨が降る度に彼の事を思い出して、あの時に降っていればと思った。

 けれど。これは。このビバリウムの中の雨は。

「雨じゃない、こんなの雨じゃないよ……!」

 こんなものを求めていたのか。そう思うほどに、必死に雨を求めていた自分がバカらしくなる。同時に、バカにされた心地になる。

 ただの被害妄想に等しいけれど、やるせなさが彼女の胸の内に募るのだ。

 自然界に降るものとはかけ離れた、冷たくて、それが心地よい雨。

 こんな雨があの時に降っていてくれれば。いや、彼は自分で選んでビバリウムを出たのだから、そう思う事彼に対しての侮辱で、いや、わたしは彼に死んでほしくは無かった。水。そう、水が必要だった。雨、雨があれば。けれども、こんな雨ではな雨がほしい訳ではなくて。

 錯乱した思考が、頭の中でぐちゃぐちゃと乱立する。悔しいやら、悲しいやら、複雑な感情が胸を燻る。

「ヒーラ……?」

「……わたし」

 気遣わしげに声をかけたキャンサーに背を向けたまま、ヒーラは今にも泣き出してしまいそうに囁いた。

「わたし、ここが嫌いだ」



 血を吐くような悲痛な声音で、俯いてそんな事を言うものだから、キャンサーはヒーラに伸ばしかけた手を空中で止めた。

 背を撫でようとしたのだ。けれど、この場所が嫌いだと吐露しているその姿は、キャンサーを拒絶しているようだった。

「ずっとずっと外にいたわたしが、バカみたいじゃん……」

 ヒーラは、顔を見せようとしない。泣き出してしまいそうな声だったが、本当に泣いているのかはわからなかった。

 とうとう蹲った彼女の背は、百年もの時を生きる不老とは思えないほど小さくて、頼りなくて、外見の年齢相応に幼く見える。

 小さく震える肩。キャンサーは少し離れた場所からそれを見る事しかできない。

 ヒーラがどんな悲しみを背負っているのか、キャンサーはわからなかった。何故雨を見ただけでそんなにも嘆くのか。何一つ、理解ができない。

 立ち尽くしていると、視界の端で白衣が翻った。

「全く、そんなものでは子孫繁栄が思いやられるな、我が馬鹿弟子。泣き崩れる少女一人慰められないようでは番を作るなぞ夢のまた夢だぞ」

 すれ違った長身の女性。白や黒や極彩色が混ざり合った奇妙な色をした髪は、襟足のみが長く伸ばされている。清潔な白衣がふわりと舞った。

 女性はポケットに両手を入れたままヒーラに歩み寄り、そして彼女の顎に指を添えて上を向かせた。

 強制的に女性と目を合わされたヒーラは、涙が滲んだ瞳に、赤と青の色彩を認識する。その奇抜な色彩は女性が纏う老成した雰囲気と噛み合っていないように思った。

「ふむ、君がキャンの報告にあった不老不死かね? 外見は変哲のない少女、年齢は十二ほどか。……その年齢の者がいる事自体、異常なのだがな。なるほど、確かに君は、少なくとも異端者ではあるようだ」

 切れ長の双眸は興味深そうに繁々とヒーラを観察する。ジロジロと精査してくる女性に、ヒーラはわずかに息を呑んだ。怯えに揺れる琥珀の瞳を観察して、女性はパッと手を放した。そして豊かな肢体をくゆらせて、艶美な女性はヒーラに囁く。

「まぁまぁ、そう怯えるでない。我はただ、君という存在を詳細に研究し未来の発展に繋げたいだけなのだよ。とりあえず我の研究所がすぐそこだから是非来てくれたまえ。あぁ、勿論ここで蹲っていたいのなら存分に蹲っていて良い。泣き明かしたいのなら胸を貸そうか。よいよい、子供は嫌いではないからな」

 口角を捻じ上げるように笑う女性は、胸を強調しながら、ヒーラに手を差し伸べる。

 ヒーラが呆然と女性を見上げていると、女性は小首を傾げて、そして、あぁ、と呟いて自分の胸に手をやった。薄い縫合跡のある頬が緩やかに上がる。


「申し遅れたね。我は不死の研究者にしてキャンの師匠兼保護者、カースだ。よろしく頼むよ、不死者君」




 誘導された場所は、キャンサーの家を彷彿とさせるコンクリートで固められた味気のない建物だった。罅一つない外壁は無機質なグレー。まるで監獄のような雰囲気に、ヒーラは異質さを感じて密かに息を呑んだ。

 塀に書かれた名前は削り取られたように抉れており、読めない。不思議そうにしていると、カースが横から「研究者の家は物盗りに狙われやすくてね。身分を隠すために名前を露わにしていないのさ」と説明を加えた。鎖がかけられ十の錠がかけられた扉の開錠を済ませるのには数分の時間がかかっていた。キャンサーがやっていたのと全く同じ、しかし厳重さを増した施錠だ。似ているとキャンサーを見てみると、気まずそうに顔を逸らされる。

「入ってくれたまえ。まぁしばく茶もまともに無い家だがな」

 そう言えば、キャンサーの家に入った時も「出せる茶はないけど……」と気まずそうに言われた。師弟は似るのかとキャンサーを見てみれば、居た堪れないように顔を逸らされる。

 その家は、無機質さと生活感が奇妙に合わさっていた。本棚に並んだ書物や論文は整然としていて研究者らしさを感じさせるが、壁に引っ掻き傷のようなものがあったり、ハードカバーの本に混ざって俗っぽい雑誌が混ざっていたりしている。

 壁についた浅い引っ掻き傷をなぞると、横からカースが顔を出す。

「ああ、それは我が息子を保護した時につけられた傷だよ。手負いの獣のようにひどく暴れられてな、他にも本棚で隠れているが皿がぶつけられた跡も残っているぞ」

「息子って……キャンサー?」

 他ならぬカースの口から、キャンサーの保護者であると名乗られたばかりだ。思わず彼を見返すと、断じて違うとばかりに首を横に振られた。

「はは、もう一人いるのだよ。キャンサーと同い年で、拾う前から兄弟のように身を寄せ合っていた子がな。拾ったばかりの頃は所構わず威嚇をする猫のような子だったもので、抵抗が激しかったものだよ。キャンサーも涙を目一杯に溜めて情に訴えるような抵抗をする子だったな。懐かしいものだ」

 饒舌に語りながら、カースは台所に入っていく。「飲み物を用意するから適当にかけていたまえ」という言葉を最後に、長い話は途切れた。

 促されたままに、食卓に揃った三脚の椅子のうち一つに適当に腰を下ろして、ヒーラは台所に入ったカースを待つ。キャンサーも慣れたように、そこが定席であるかのように椅子に腰を下ろした。

 数分して、カースが三つのコップを抱えてまた定席に腰を下ろした。コップの中身は、なんの変哲もない水だ。

「さて、待たせたね。キャンの話が正しければ、君は外を旅してきた不死者なのだろう? 質問には何でも答えよう。ビバリウムの事でも、我の事でも、キャンの事でも」

「えっと、保護者って言っていたけど、親ではないんですか……?」

「……不明瞭な問いだな。親というものが血縁関係を指すのなら我は親ではない。しかし親が関係性、縁を指すのなら、我は確かにキャンの親だ。我は幼いキャンを保護して弟子として育ててね。産んだ訳ではないが育てたから、あえて言うのなら育ての親、または養母と言うのか一番適しているかもしれないな。一応養子縁組はしているから、戸籍上では正式な親だがね」

「師匠、その独善トークにヒーラを巻き込まないでください。困惑してるじゃないですか」

「え? ああ、すまないねヒーラくん。我はどうも長く研究所に篭りすぎていたせいで人との会話が不得手のようでね。まあその自覚は我自身には無く、よって我の話が下手か上手いかを決めるのは会話相手という事になるのだがな。それは会話というのは他人と交わすものだからその巧拙は実際に他人と会話を交わさねばわからない。つまり会話をしなければ会話が下手か上手かわからない、つまりシュレディンガーの猫状態になるのだが……」

「あーもう、そうやって言葉を発展させる癖が会話下手の要因ですよ!」

 あまりに冗長に喋り続けるカースを見かねて、キャンサーが叫んだ。このままでは何十分も、関係のない所まで話題を発展させて語り続けそうな調子だったものだから、途中で止められてヒーラは内心安堵の息をついた。

「師匠、それよりもアイツは……?」

 ヒーラの意識を逸らすための意味も含めてか、しかしどこか落ち着かない様子でキャンサーがカースに問う。彼女は嘆息して、呆れた様子で答えた。

「安心したまえ。あの親不孝者は今は不在だ。用を頼んでいてね、あと数時間は帰らない予定だ」

 親不孝者。新しい人物の呼称らしきものが出てきて、ヒーラは混乱を見せる。それを見て、カースはリビングの棚に飾られた写真立てを指差した。

「親不孝者と馬鹿弟子、そして我で写っている家族写真だ。先ほど伝えたが、我はキャンと共にもう一人子供を引き取ってね、それが例の親不孝者だ」

 ヒーラが見てみると、キャンサーらしき幼い少年が写っている。年齢の頃は、五歳から六歳の間といったところか。彼の隣には黒い髪の、キャンサーより一回り身長が低い子供。そしてその二人の肩を抱えるようにして、淡い笑みを浮かべた、現在と一切姿が変わっていないカースが写っている。端に小さく書かれている年は、現在より十年前のものだ。

 三人とも、笑顔だ。少し困ったような、不慣れなような、それでも穏やかで朗らかな。

「さて、不死者君。君はキャンサーが発見した正真正銘の不老不死と聞いたのだが、その情報に相違は無いかね?」

「え、あ、はい。ありません」

「はは、何もそう硬くならなくていい。気軽にしてくれたまえよ。不死だからと言って解剖なんてしないのでな。我は確かに研究者ではあるが、マッドサイエンティストではない。仮に解剖するとしても許可は取るし一筆書かせるよ」

 カースは朗らかに笑って、水が入ったグラスの淵を指先でなぞる。

「話を戻すが、不死に違いは無い、それを証明する術はあるかね?」

「師匠、ぼくは彼女が致命傷を負い、しかし生命活動が続いていた事を確認しました。電話でも話しましたよね?」

「我は不死者君に訊いているのだよ。少し黙っていたまえ、キャン」

 口を挟んだキャンサーに、カースは視線を鋭くして言った。咎められたキャンサーはすぐに口を噤む。

「あの、わたし、不死者なんて名前じゃないです。わたしはヒーラです」

「あぁ、すまないねヒーラ君。それで、不死の証明はできるかね?」

「……はい」

 ヒーラは渋々といったように頷き、そして立ち上がった。簡素なキッチンでナイフを取り出すと、それで掌に傷をつける。

 赤い線が走った傷口からは血の球が浮かび上がり、そして表面張力が崩れて掌に溜まる。

「なっ、何を……⁉︎」

 突然の自傷にキャンサーは目を剥き、そしてティッシュを数枚取って慌てて傷口に当てる。みるみるうちに白が赤に染まっていった。

 しかしヒーラはその手を払いのけ、傷ついた掌を見せつけるように差し出した。

 キャンサーとカースが見たのは、まるで映像の逆再生のように傷が癒着し、何も無かったかのように跡ひとつなく治っていく掌。超人的な再生。

「これで、証明になりますか?」

 すっかり元通りになった掌を突き出して、残った血の跡を見せつけながら、ヒーラは問うた。

「……ほう。ほうほうほうほうほう」

 カースは瞠目し、そしてヒーラの手を掴むとまじまじと観察をする。傷があった場所をなぞり、そしてそこには滑らかな肌しか無い事を確認して、更に興味深そうに精査を始めた。

「なるほど確かに細胞が完全に再生しているな。いや、正確にはもっと細かく見ねばならないが……少なくとも外見上は再生しているな。常軌を逸した再生能力を持つ事は確認した。しかし、それが不死の証明とはならないな。……と、言いたい所だが、ひとまず君が不死であるという事は仮定しよう。そうしないと話が進まないのでな」

 カースは知った内容を紙に書き留め、調書をとる。そのすぐ横にはカースの綺麗な字とは全く違う、汚い筆跡で何事かをつらつらと書かれた紙。昨日キャンサーが書いた調書だ。その内容を確認し直しているらしかった。

「それでは、次だ。ずっと『このビバリウムの外に居た』というのは本当かね?」

「はい、本当です」

「……キャンは質問の仕方が下手だな。少し訊き方を変えよう。この『ファースト・ビバリウム』のみならず、世界に点在する二十五のビバリウム、そのうち一つも入った事が無い、という認識で合っているかね?」

 その奇妙な質問に、ヒーラは首を傾げる。

「ファースト・ビバリウム……?」

「二十五軒の中で最初に作られたビバリウムさ、ここは。全てのビバリウムのプロトタイプで、原型。故に『ファースト』。そして先の質問の意図は、『このビバリウムの外に居たからと言って、ずっと野外に居たとは言っていない。別のビバリウムから来ただけかもしれない』と思っての事だ。この調書では、そこが曖昧だったのでな」

「そういう事ですか……。わたしは世界のどこのビバリウムにも立ち入ったことも住んだこともありません。ここ……ファースト・ビバリウムに入ったのが初めてです」

「ふむ。ならば、外からの部外者ではなく、元々からここに住んでいた、という事は?」

「無いです。疑うようなら、外に関する事を詳しく話してみせましょうか」

 調書を取り続けていたカースの手が止まり、そして興味ありげに輝いたオッドアイがヒーラに向けられる。しかしそれはすぐに自制され、こほん、と咳払いで遮られた。

「……今の質問は意地悪だったな。すまない」

「良いですけど……いじわる? どこがですか?」

 先程の質問は抱いて当たり前の疑問だと思う。それがいじわるとは、何事だろうか。

「君がこのビバリウムの住人でないという事は君の姿を見た時からわかっていたのだよ。それなのに無駄な質問をしてしまったと思ってな」

「ま、待ってください師匠! なんで見ただけでわかるんですか?」

 今まで黙っていたキャンサーが立ち上がって叫ぶ。それに対してカースは極めて冷静に答えた。

「まず、ヒーラ君。君の容姿は十二歳前後だ。不老不死という仮定から実年齢は違うだろうが、それでも外見年齢は十二なのだよ」

「そうですね」

 ヒーラの外見はキャンサーよりも幼い十二歳程度の子供だ。それに異論はない。

「そして、キャンサーは十五歳だ」

「うん」

 キャンサーは頷く。詳しい誕生日はわかっておらず、成長具合から仮定した誕生日しか彼にはないため境目は曖昧だが、キャンサーは確かに十五歳である。

「キャン。……おまえは、自分より幼い子供の姿を見た事があるか?」

「……え?」

 その問いに、キャンサーは目を見開いた。自分より幼い子供を見たことがあるか、だなんて。もちろん見た事があるに決まっている。

 そうして記憶を掘り起こそうとした時に、キャンサーは気がついた。

 カースに一緒に引き取られた彼は、外見こそ幼いものの、キャンサーと同い年だった。

 拾われる前に生き残るために組んでいた、子供達だけの徒党。あそこでは、キャンサーと幼馴染の年代が一番年少だった。

 中央街の薄闇の中にいる物乞い。彼らは全員、大人だった。

 現在の自分より幼い子供姿は、古い記憶の中にしかない。そしてその幼い子供達は全員自分より年上で、現在も生きているなら成人しているほどの年齢のはずだ。

「見た事、ない……?」

 自ら口に出しておいて、そのあり得なさに慄いた。

 自分より幼い人間が存在しないかもしれない、なんて。

「……研究者の特権でね。ビバリウムが完成して以来の出生率と言うものを調べたのだよ」

 カースは少し重い口調で語る。

「ここ数十年、貧民街の赤子の死亡率は九十パーセントを超えていた。そして、キャンサー。ちょうど君のすぐ後の代で、赤子の死亡率が百パーセントになったのだよ」

 それは、つまり。

 キャンサーは顔を青くしながら、その事実を口に出す。

「ぼくより年下の人間は、全員死んでいる……」

「あぁ。中央街の貴族も、そもそも子供の数が少なかった上に数十年前の段階で死亡率は五十パーセントを超えていた。……丁度君の代のあたりから、新たな子供は産まれていない上に育っていないのだ」

 キャンサーが、このビバリウムで一番若い人間だ。

 その事実を唐突に明かされて、キャンサーは混乱したように立ち尽くす。

「……なるほど、キャンサーよりも若い人間は本来このビバリウムにはいないはずで、けれどわたしはキャンサーより若い容姿をしてる。だから、わたしは本来ここにはいないはずの存在、部外者だと一目でわかった、訳ですね」

 ヒーラも表面上は冷静だが、内心は驚愕が占めていた。

 彼女は今までビバリウムに関する情報を得られなかったために、人類の現状だなんて知る由もなかった。だから、人類が緩やかに窮地に追い詰められている事だなんて、知ることはないのだ。

 十五年も前から赤子がいないという事は、新たに赤子が生まれない限り人口が増えるという事はないという事。再生産される事なく、減るばかりという事だ。

 砂時計のように時間と共にすり減らされていくばかり。

 そのまま、新しい命が生まれないまま時間が経ったら。

 人類は、ゆっくりと滅亡の一途を辿る。

「人類滅亡という危機は今の議題ではないのでひとまず置いておこう。とりあえず、そんな事情があって我は君が部外者だと一目でわかったのだ」

「……なんだか、ここの闇が垣間見えた気がするんですけど」

「はは、気にしないでくれたまえ。所詮ここは人の世だ。人が治世し人が蔓延り人によって構成される世界だ。所詮人間の世界から社会問題が消える事なぞ、ないのだよ」

 カースはどこか諦念を滲ませながら言った。年若い女性に見える割には、随分と達観した事を言う。

「少し話が逸れてしまったな。今までの情報を整理すると、君は再生能力が異常に高く、不死である可能性がある。ファーストビバリウムの住人ではない。確定的な情報はこれだけだな。それ以上は証明できない」

「わたしが今ここで死んで見せれば不死の証明はできますよ?」

「はは、我はプライベートな空間を血で汚す趣味はなくてな。研究に協力してくれると言うのなら今すぐに手術室に案内しよう。以前使ったのは四年前だが、道具の手入れは欠かしていないからな」

「あはは、わたしは死っていうのが異常な状態だって知ったので、わざわざそれをする趣味は無いんですよね」

 カースはカラカラと笑って見せた。ヒーラの冗談なのかそうじゃないのか判別しづらい言葉に、キャンサーは苦笑いを浮かべる。

「不死についてはまぁ、我が弟子の話を信じる事としよう。ヒーラ君は不死である、その情報を前提に頼ませてもらうよ」

 頼む。おそらくは研究の協力、つまりは被験体になってくれと言う頼みだろうかとヒーラは身構える。嫌と言う訳ではないが、どういった事をされるのかくらいは聞いておかねばならないと思いながら。

「……人を不死にする方法を、教えてもらいたい」

「……え?」

 その声は、ひどく弱気だった。哀願するような、頼りの綱がそれしか無いような、そんな細い声だった。だから、ヒーラは一瞬呆気に取られる。

 今までのカースの様子からして、手でも掴まれて「是非とも我が研究に協力してもらいたい」と強制力を含んだ力強い声で言われる事を想像していた。だから、ゆっくりと頭を下げる彼女を見て、驚愕するしかなかったのだ。

「ま、待って!」

「師匠⁉︎」

 カースの態度にキャンサーも目を見開き、困惑の様子を見せている。

「その様子だと、実験の協力を申し出される事は予想済みだったのだろう? しかし、その依頼の際、我がこうして下手に出る事は考えていなかった」

 図星を突かれて、ヒーラはぎくりと体を強張らせた。

「君がそう考えたのは、ひとえに情報不足の為だろうな。考えてみたまえ。君の予想は正しい。こんな状況でなければ我はこんな風に頭など下げはしない。普通ならばな。しかし、今は普通では無いのだ。そんな事を言ってられる状況では、無いのだよ」

 頭を下げたまま、カースは重々しく語る。頭を下げているせいで垂れた前髪が彼女の表情を隠している。

「我にもあいつにも、もう時間が無いのだ。だからいち早く不死になる方法を見つけねばならないのだよ」

 そう言ってカースは顔を上げて、本棚から随分と古い紙の束を取り出す。何かの論文だろうか。軽く数百ページはあるそれを机の上に置かれて、ヒーラとキャンサーはそのタイトルを覗き込んだ。

「人類……不死化計画……?」

 その荒唐無稽な文字列を読み上げて、ヒーラは静かに呼吸を呑み、キャンサーは訝しげに眉を寄せた。

 読んで字のごとく、人類を不死と化する計画。

 あまりに非現実的なものだが、事実本物の不老不死がいる状況では、絶対に無理とは言い切れない。

 キャンサーがそう思ってヒーラの顔を覗き込んでみると、彼女の顔は青ざめていた。ひどく動揺しているようで、口元を手で抑え、焦点が合っていない瞳で、しかし一点を見つめている。

 何かと思って、ヒーラの視線の先を見る。そこにあったのは、論文の著者名。

 掠れている上に紙が日焼けしていて読みづらいが、そこにある名前は、ジョージ——

 その時、ジリリリリリリ、とけたたましい音が鼓膜を揺さぶった。

「うるさっ……⁉︎」

 反射的に耳を塞いで音源を睨むと、そこにあるのは十年以上の年季がある古い電話機。微かに振動しながら鳴らされるサイレンのような音は、誰かから電話がかかってきている証拠だ。

 キャンサーは訝しむ。彼は幼少期をこの家で過ごしたが、あの電話機が鳴っている所など一度も見た事がない。それはつまりカースに連絡を取り合うような人物が存在しない事を指していた。

 しかし、今は鳴っている。キャンサーが貧民街に移り住んだ数年の間に新たな交友関係ができたのかと思ったが、それは考え難い。カースは滅多に自分の家を出ない引きこもりであり、そして人を寄せ付けない奇特な容姿と奇妙な喋り方をするから。

 家族と言えどプライバシーはある。カースのプライベートに踏み込む気は無いが、一体誰だろうかと思っていると、カースが受話器を取った。先程のベルの音が嘘のようにしんと静まり返る。

「もしもし。……あぁ、どうした? 何か様子が……」

 カースの頬に冷や汗が伝った。そして数秒何かを聞くように黙り込み、そして一気に顔を青ざめさせる。

「……何⁉︎ 本当か……いや、おまえにそんな事を訊くのは愚問だな。忘れてくれ、おまえがそう言うのなら真実なのだろう。詳細を……。ふむ、そうか。……ああ。キャンにも言っておくさ」

 カースは受話器を置くと、キャンサー達に向き直る。彼女が纏う空気はどこか緊迫しており、見ているこちらに焦燥感が伝わってしまう。

「キャン、今すぐに帰るんだ」

「え……? 待ってください師匠、何があったんですか」

「今、トリ……信頼できる者から情報が届いた。怪しい人物に嗅ぎ回られていて、更には襲撃を受けたと」

 表情を強張らせた彼女に、その異常さを感じ取ったキャンサーまで顔を青くする。

 このタイミングで、カースの縁者が襲撃に遭う。そして彼女の反応から察するに、キャンサーの家に何かがある可能性が高い。

 ただの強盗なら良い。いや、良くはないがマシだ。しかし、最悪の場合を考えるなら。

「それって、ぼく達の研究が目当てで……?」

 キャンサーは背筋が凍るような心地がした。もし、自宅にある研究の為の道具、論文の類、カースに渡すはずの報告書……そして、アンデッドの研究の最先端であるモルモット、レイ。

 もしそれらに何かがあったら、不死の研究は後退せざる負えない。

「その可能性は十分にある。前々から視線は感じていて、調査を頼んでいたのだがな……。よもやこのような強硬手段に出るとはな」

 そう淡々と、しかし確かに焦りを滲ませながら、カースも外出の準備を進めており、最低限の荷物と大量の鍵を引っ掴んで扉を押した。

「さぁ、今すぐ帰ってレイの安否を確認するのだ。何が起こっているかわからんのでな。我は襲撃されたと言う協力者の所に行ってくる」

「……わかりました。ヒーラ、行こう」

 カースに促されるまま、キャンサーはヒーラの手を握って飛び出した。

 みるみるうちに小さくなる二人の背中を見送って、カースは玄関を施錠し直す。

「……さて、無事でいてくれよ、親不孝者めが」



 カース宅からキャンサー宅まではそれなりの距離がある。何十キロメートルもの距離を走り切る事は不可能で、家の研究所に篭り切りのキャンサーは尚更だった。ヒーラはずっと外に居たと言うだけあって体力があるようで、途中からキャンサーを引っ張るような形で二人は走った。途中で二人を追い越した珍しい車を恨めしく思いながら、ひたすらに。

 そしてようやく貧民街に到着して、コンクリートでできた家の玄関に立った時、思わず呆然と立ち尽くす。

 錠が、壊されていた。

 扉を強固に閉じさせていた、そして今は見るも無惨にバラバラになった鎖と五つの南京錠。シリンダー錠も壊され、扉は半開き。

 確実に、何者かに侵入された痕跡。キャンサーとヒーラは密かに息を呑む。扉に耳をつけてみるが、物音はしないし人の気配もしない。しかし、二人とも扉越しの人間の気配を察知できるほど鋭い人間ではない。この中に誰かが潜んでいる可能性は大いにある。

 少し迷う素振りを見せて、ヒーラはおもむろにペンダントのダイスを地面に転がした。出た目は、四。

「……よし」

 ヒーラは意を決したように扉を見据えた。

「ヒーラ……?」

 不安げに彼女を見つめるキャンサーに、ヒーラは微笑みかける。

「迷った時は、ダイスを振るんだ。今回は、奇数が様子見すべき、偶数が突入すべき。偶数が出たから、わたしは入るよ」

 その琥珀色の瞳には、固い意志が宿っている。

 なんで、たかがダイスにそんな意思決定を任せられるんだ。キャンサーは叫びたくなって、寸前で押し留めた。

 ヒーラは壊れたドアノブに手をかけ、きみはどうする、と言わんばかりにキャンサーを見つめる。

 恐ろしい。けれど、彼女の自信のような信頼のようなものが見える瞳に、なぜだか背中を押される心地になった。

「……行こう、か」

 一つ深呼吸をして、そう言った。ヒーラが頷いて、そしてドアノブに体重をこめる。

 二人は、一気に部屋に突入した。そして、部屋に満ちる異様な雰囲気に足を止めた。

 室内は暗闇と静寂に満ちており、やはり侵入者がいる様子は無い。しかし暗闇に潜んでいる可能性は十二分にある。

「誰か……いるか……?」

 意を決したような声音でキャンサーが語りかけるが、返事は無い。ヒーラが警戒心を高めたせいで、室内にはピリピリとした空気が漂った。

「……何事?」

「わからない……とりあえず、電気つけるよ」

 キャンサーは手の感触で電灯のスイッチを探り当てると、一つ息を呑んだ。体が石になってしまったかのように動かなくて、全身の体重をかけるようにしてそれを押す。

 数秒のタイムラグの後、チカチカと点滅を繰り返した電灯が安定し、ようやく部屋の全貌を照らし出す。誘蛾灯のように頼りない光だった。

 ようやく確保された視界に飛び込んできたのは、ひどく荒れた部屋だった。とは言っても汚いわけではない。ゴミなどが散乱している訳ではなく、物は多いもののそれを収めるだけの収納は確保されている。

 ならば、何故「荒れた」などと表現したか。それは、その収納にあるべき物が全てそこからこぼれ落ちて床に散らばっているからだ。

 何かの研究資料やら、論文やら、本やら、そういったいかにも研究者然とした物品から始まり、日常生活に必要な物や私物に至るまで、全てがひっくり返されている。それも地震などによるものでは明らかに無い。明らかに故意に撒き散らされているのだ。シリンダー錠がついており自然には開かないようになっている引き出しが丸ごと床に放ってあり、更には錠に破壊の痕跡がある事から何者かがこれを行った事は明白だ。

 ソファは無惨に切り裂かれ、床には雨のせいか泥だらけの足跡。その明らかに異常な様相にヒーラは目を見開き、そして次にキャンサーの様子を伺った。

 ここの家主はキャンサーだ。家がこのように荒らされていて、精神的なショックが大きいのは彼の方だろう。そう思い、ヒーラは僅かしか残っていない足の踏み場を辿って彼に歩み寄ろうとした。

 そして当のキャンサーといえば、その家の様子に体を強張らせ、しかし意識が一箇所にしか向いていないような覚束ない足どりで、二階へと登っていく。そこはキャンサーの研究設備がある部屋であり、レイがいる場所でもある。

「キャンサー……?」

 ヒーラの気遣わしげな声は、彼の耳には届いていなかった。うわごとのように唇からこぼれ落ちた「レイ」という名前。

 部屋の真ん中の、レイがいるはずのケージ。

 キャンサーはそれに頼りない足取りで歩みより、そして中を確認する。そこには、死臭が漂っていた。それも、何日も何ヶ月もかけてこびりついたような悪臭だ。ヒーラはそれに眉を顰めながら、キャンサーの背に立つ。

「レイ……!」

 その小さな、猫が一匹入るだろうかという大きさのケージを見て、キャンサーは慟哭していた。荒らされた部屋よりも、そのもぬけの殻となった動物の棲家を見て心を痛めていた。

 理解できない。ヒーラが一番に思ったのはそれだ。

 何故動物がいなくなった程度で啜り泣くのだろう。何故人間でも無い、心も通わせられない愛玩動物なんかに心を砕けるのだろう。

 その答えを、ヒーラは知らなかった。

 同時に、泣いている人間に何をすべきなのかも、知らなかった。

 遥か昔の光景が、フラッシュバックする。

 地面に伏した少年。その顔は赤く、人間が生命活動を維持する上で障害になるのでは無いかという顔色だった。

 少年は重いのであろう腕を無理やり上げて、そして頬に撫でるように触れる。愛しむような、悲しむような、惜しむような、そんな手。

 その手に込められた感情が愛であると理解するまで、暫くの時間を要した。

 そして、頬に寄せられた手に自分の手を重ね合わせて、その厚みのある掌の感触を記憶する。砂でざらついた肌が触れる僅かな痛みと、その温かさを。

『……ごめんね』

 少年はカサついた声で詫びる。乾燥しているのであろう、掠れた声で。発音の後でひどく苦しそうに咳き込んで。

『おれ、もうきみとはいられないや』

 その時少年の目尻から溢れ出した涙。彼の命を巡らせる最後の一滴。それをどうすべきなのか。拭うべきなのか、放っておくべきなのか、それを知らなかった。そしてそれから長い時間が経った今でも、その答えを彼女は、ヒーラは知らない。


 だから、背中を丸めて嗚咽を漏らすキャンサーを見ても、一体何をするべきなのか全く分からなかった。


「レイ、レイ……!」

 ぼたぼたと床に落ちる涙。それを拭い取るべきかという思考すら、ヒーラには無い。

 小刻みに震えている背に言葉を投げかけるか、それとも触れるべきか、それとも無干渉を貫くべきか。ヒーラは胸元のダイスを手に取って、そして床に投げようとしていた。

 しかし、その行動を止めるかのようなタイミングで、悔恨の泣き声ばかりが満ちる空間に、幼く聞こえる声が落ちた。

「……うわぉ、思ってたより酷いね、この惨状」

 ヒーラが振り返ると、入り口に一人の少年が顔を出していた。非常に小柄、かつ細身な少年。パサついたグレーの髪は雑に伸ばされており、目元が見えづらい。しかし、碧眼は荒れた部屋の様子により驚きに見開かれている事がわかる。

 身長百四十センチほどしか無い矮躯もだが、顔のパーツや表情、仕草など、その全てが幼い印象を抱く。その肌は生まれてから一度も陽の光を浴びていないかのように白い。長めに伸ばされた髪と帽子に取り付けられた黒い紗幕などに隠されて見えないが、とにかく色素が薄い事はわかる。深い青の碧眼は猫のような縦に長い瞳孔が特徴的だった。

 マントのような襤褸を羽織っていて肌の露出が少ない。緩急の無いシルエットが、その少年の幼さをより引き立てている。

「あれっ、カニくんが女の子家に連れ込んでるー。……って、ふざけてる場合でもなさそうだなぁ」

 少年はひどく荒れている部屋の状態を一瞥すると大きな瞳を鋭く細めて、「逃げた方が良いよ、まだ襲撃者が残ってるかもしれない」と声をワントーン低くした。

「……うるさい」

 その少年に返されたのは、地を這うような声だった。少年然とした少し高めの声をしていたキャンサーの喉から吐き出されたのだとは到底信じられないような、おどろおどろしい声。

「またお前だろ、お前のせいだろ。お前が何もかもを知っていて、手を引いてるんだろ、トリックスター!」

 キャンサーは弾かれたように顔を上げ、隠す気も無い憎悪が満ちた目を少年に向けた。トリックスター、というのが少年の名である事は、呆気に取られているヒーラにもわかる。

「やだなぁ、それはあらぬ疑いだよ。俺は今ここに来たばっかなんだからさ」

 トリックスターはヒラリと両手を挙げて、自分は無実だというポーズをして見せる。しかしキャンサーの敵愾心の目は止まず、がなり続けた。

「もうぼくに関わるなって、何度も言っただろ。なんの用でここに来たんだよ!」

 へらへらと掴みどころの無い笑みを浮かべるトリックスターに、キャンサーは容赦なく苛烈な言葉を浴びせた。それにすら慣れたような、何も感じていないような変わらない笑みを見せるトリックスターに、ヒーラは怖気が立つような心地がした。

 打てど響かず、受け流される。そんなのらりくらりとしている印象のトリックスターと、それに対する恐れを懸命に隠そうとして語調を荒くしているキャンサー。その関係性を、二人の短い応酬でヒーラは感じ取った。

「まあ、タイミング的に怪しまれるのも当然だし、俺がカニくんに絶交宣言されてんのは事実だけどさぁ、流石にその言い草は傷ついちゃうなぁ。だってボクってば、カニくんが大好きなんだし」

「もう黙れよ、嘘つきめ……!」

 敵愾心が籠った瞳に睨まれても、トリックスターは全く怯まず、むしろ家の中に歩を進める。

「きひひっ、黙らないよ。だぁいすきな人と一言でも言葉を交わしたいと思うのは当然じゃない?」

「……よくわからないけど、仲良し、いや、一方的な感情……?」

「嘘だよ、ヒーラ! まともに取り合っちゃだめだ!」

「へえ、ヒーラって名前なんだ。可愛いね」

「ありがとう。気に入ってる名前だから嬉しいよ」

 トリックスターとヒーラが和やかに会話を交わしている所を見て、キャンサーは一層敵意を増した目で自分よりずっと小さな彼を睨んだ。ヒーラを背に隠すようにして、二人の間に立つ。

 キャンサーとトリックスターの身長差は二十センチ以上ある。トリックスターから見てキャンサーは壁のように大きく見えており威圧感があるだろうが、しかし彼の態度は全く変化しなかった。

「それじゃあ、一つジンクスについて話してみようか。世紀の大嘘つきが『俺は嘘つきだー』って言ったとします。それじゃあ、そいつは嘘つき? それとも正直者?」

「その言葉が嘘だとしたら、大嘘つきは正直にものを話しているね。けど本当だとしたら、嘘つきだっていう前提が覆るね」

 つらつらと答えを述べたヒーラにトリックスターは一瞬あどけないきょとんとした表情を見せ、次に心底楽しそうに口角を釣り上げる。

「それじゃあ正解はっぴょー! だららら……だん! 大嘘つきは、結局どこまでいっても大嘘つきなのでした! きひひひひっ」

「へえ、なんでかな?」

「だってさだってさ、大嘘つきとは言ったけど、その言葉の全てが嘘だなんて、俺一言も言ってないよね? つまり、この話のどこにも矛盾なんて無いんだよ、嘘でも本当でも。けど大嘘つきっていう前提条件だけは本人の発言によるものじゃないから揺るがない。結局そいつは大嘘つき以外の何者でも無いって事!」

「トリックスター、もう黙れって……!」

 恨めしげな声を上げて、キャンサーはトリックスターに詰め寄る。眼前に立った彼にも関わらず、トリックスターが浮かべている笑みは軽薄さを失わなかった。

「なぁにカニくん、少しぶりの幼馴染の言葉なんだから聞いてくれてもいいんじゃないの? しかもその反応、まるで『そこの女の子に近づくなー』って言ってるみたいじゃん。庇護欲? 恋慕? 妬けちゃうなぁ」

 その言葉と同時、キャンサーはとうとうトリックスターに掴み掛かった。「いっ……!」と、噛み殺したような小さな悲鳴。襟首を掴まれ、衣服に皺が寄る。僅かに踵が浮き、キャンサーも彼を睨め付けるように少し屈んだために二人の目線はしっかりとかち合った。

 しかしトリックスターは余裕綽々といったような笑みを崩さず、キャンサーを見上げている。そのあまりの変わらなさに、それが彼にとっての無表情なのでは無いかとヒーラは一瞬思う。

「き、ひひっ、やっぱりらしくない。んで、その焦りとこの部屋の状態、どう関係してんの? ただの空き巣なら、こんな貧民街ならよくある事って割り切るよね? そこの女の子が関係してる? それとも、モルモットちゃんにでもなんか——」

 モルモット。その単語が出た瞬間、キャンサーが纏う怒気が変質した。

 苛立ちに近い燃えたつような怒りから、絶対零度の背筋まで凍りつくかのような静かな憤怒へ。しかしそれは感情が弱まったのではなく、むしろ押し込めた分だけ苛烈さを倍増させている。

 キャンサーはトリックスターの襟首を掴んだまま、彼の体を持ち上げて壁に押し付けた。握り上げられた服により首元が締まったのか、トリックスターが苦しげに唸り、その笑みがようやく少し崩れる。

「きひっ、図星……?」

「お前、もう、黙れよ。お前みたいな嘘つきが、ぼくは一番嫌いなんだ」

「きひひっ、趣味が合うね。俺も嘘は嫌いだよ。……ああ、勿論ボクはキャンサーみたいな直情的なひとは大好きだけど……ねっ!」

 トリックスターが叫ぶと同時、彼は胸ぐらを掴んでいるキャンサーの両手の親指を掴み、軽く捻る。それで手の力の一部を失ったキャンサーはトリックスターの体重を支えるほどの力をなくした。

 力が緩んだところを見計らってトリックスターは身を捩ってキャンサーの手から逃れ、そのまま数歩たたらを踏みながらも距離をとる。

「ゲホッ、ごほっ……。あのさぁ、俺だって一応人間なんだし、首を絞められたら苦しいし死ぬよ。それとも殺す気なのかな? カニちゃんは俺の事も、不死の研究に使うつもりなのかなぁ?」

 口角を捻じ上げているかのような歪な笑み。無邪気ではあるが、その無邪気さ故の残酷さや酷薄さを孕んでいるような。例えるならば、蟻を何匹も一度に踏み潰す事に心底から愉楽を見出しているような、そんな顔だった。

 そんなトリックスターとは対照的に、キャンサーはやるせないような複雑な心境をそのまま表したような顔をしていた。困難に直面しているもその対処法が無い、そんな追い詰められているような、狼狽と憤懣が入り混じって燻っているかのような面相だった。

「……トリックスター、お前はもうどっか行けよ」

「はいはーい。……カーさんに、報告はすんの? モルモット——レイちゃんがどっか行ったってさ」

 キャンサーはぎくりと体を強張らせる。露骨な反応をしてしまったものの、彼は一度もレイが行方不明だとは言っていない。トリックスターは何を知っていて、何を察したのだろうか。その計り知れなさに、キャンサーは息を呑んで虚勢を張った。

「それをお前に教える必要は、無いだろ」

「きひひっ、そりゃそうだ。んじゃ、バイバイ。ヒーラちゃん、また会おうねぇ」

 トリックスターはどこか覚束ない足取りでふらりと立ち上がると、ヒーラ達に手を振りながら消えていく。彼が浮かべていた笑みは無邪気なものに変わっており、まるで何事も無かったかのような飄然とした態度だった。

 嵐のような少年が去り、部屋に静寂の帷が落ちる。ヒーラは呆然としながらトリックスターが出て行った扉を眺めていた。

 彼女の意識をそこから逸らしたのは、壁を殴りつける、しかし悲しいほど情けない音だ。見ると、コンクリートの壁に拳をつけ、腕の骨を軋ませているキャンサーが立っていた。

「……くそ、クソッ!」

 隠しもしない激憤。

 繕われない憎悪。

 そして、精神を苛む自責。

 それがキャンサーの体を動かし、壁を殴りつけさせていた。まともな筋肉もついていない細腕で。それが八つ当たり以外の何者でも無いと分かりながら。

「……キャンサー」

 その感情を、ヒーラは知らない。

 トリックスターのような軽薄な人間が存在する事を知らなかった。連ねられた言葉だけで心がこんなにも煮え立たせられる事を知らなかった。

 何も知らない無垢な少女は、知らないことばかりの光景に、頭がパンクしたかのように、暫し立ち尽くしていた。

 数分して、キャンサーが顔を上げる。ゆらりと、幽鬼のように、その尋常ならざる雰囲気に、ヒーラは息を呑む。

「きゃ、キャンサー?」

 名を呼ぶと、彼は緩慢な動きで振り返った。瞳はギラついていて、先程までのキャンサーとはまるで別人のようだ。

「……ゼッタイに、ゆるさない」

 低く、冷たい声だった。地の底を這うように、氷山の只中のように。

 その、あまりにも冷徹な声に、ヒーラは竦み上がる心地になる。

「……ヒーラ」

 静かに呼ばれて、ヒーラは「はいっ」と返事をした。妙な緊張感が、二人の間に漂う。

「……ぼくさ、レイを攫われたの、許せないんだよ。だってレイはぼくと師匠の研究の結晶なんだ」

 うわごとのように、キャンサーは語る。ブツブツと、まるで何かに取り憑かれたように。

「レイの存在は、人を不死に導くはずなんだ。だから……絶対に、取り戻さなきゃ。素性も知れない奴らに任せておく事なんてできない、よね?」

 向けられた赤黒色の瞳は、妄執に囚われている。

 レイは、キャンサーにとって何にも代え難い存在なのだろう。人類を不死にする。それはキャンサーとカースの悲願なのだ。だから、こんなにも強い執念が彼の中に根付いている。

「……」

 ヒーラは、そんな彼の姿を見て何も言えなかった。何を言うべきかわからなかった。自分の知っている事実を伝えても良いものか、わからなかった。

 ヒーラは、そっと胸のダイスを地面に転がす。

 奇数だったら、言う。偶数だったら、言わない。そう自分の中で決めて、そして四面ダイスの目を確認した。

 出た目は、二。偶数だ。

「従うよ……デヴィッド」

 小さく呟いた名前は、発音するのは随分と久しぶりな気がした。

 愛しい響き。懐かしい響き。ダイスを握って、懐古に浸る。

 言わない。言わないよ。言うべきじゃ無いんでしょ。

 これが一番、正しいんだ。

 ヒーラは祈るように、心の中でそう言った。

 日が暮れてゆく。いつの間にやら曇り空は立ち去り、夕暮れの太陽の色をもした巨大電球と、外殻のソーラーパネルの隙間から漏れ出るオレンジ色の光が、薄暗い室内を照らしていた。



「いっつつ……」

 体に走る痛みに呻きながら、トリックスターは地面にへたり込んだ。呼吸がしづらい。必死に息を吸って吐いてを繰り返す。

「ごほ、グ、え、ゲホ……ッ」

 掌で口元を押さえつけて、堪えるような咳をした。蹲って、背中を丸めて。全身がジクジクと痛む。

 キャンサーとカースの周囲を嗅ぎ回っている人間がいるのは、随分昔から気がついていた。ただ、それはただの監視だったし、それが危害を加えてくる事は一度もなかった。だから、油断してしまっていたのだろう。

 もっと単純な、財やら家やらを狙うチンピラを注視していたせいで、背後から忍び寄る襲撃者に気がつけなかった。なんたる失態かと、トリックスターは自分の不甲斐なさに歯噛みをする。

 そのまま丸くなって、小さな体をさらに小さくして、痛みに耐える。ようやく波のように襲い来る痛みが治まってきた頃、その薄暗い路地に彼女は現れた。地面に落ちた車のキーを、拾う事もせず。

「……何故このような事をした、トリスタ」

 強張った声音に顔を上げれば、渋面を浮かべたカースが立っていた。息切れをして、少し乱れた髪と服で。何も言わないけれど、探してくれたんだな、という事がわかる。

 笑みを形作って、そして飄々とした態度で答えた。

「特に意味はないよ、カーさん」

「意味が無いなら療養しろ。もうキャンサーには関わるな」

「きひひっ……それはどだい無理な頼みかなぁ。あぁ、レモンタルト食べたいなぁ。それくらいしてくれないと働きに見合わないよ」

 トリックスターが浮かべる笑みはどこか弱々しい。それを見てカースは更に眉を顰める。声は咎めるような響きを帯びてきていた。

 数秒の睨み合いの後、先に折れたのはカースだった。

「……まぁ、そうだろうな。切っても切れない縁だからな。タルトは……お前の次の誕生日に作ってやろう。ほら、帰るぞ」

 諦めたように、呆れたように吐き出されたため息。差し出された、継ぎはぎの跡とペンだこが目立つ掌。「いじわるだなぁ、きひひ」と笑いながらトリックスターはそれを取る。それを見てカースは憎々しげに眉を顰め、そして人差し指をトリックスターに突きつけた。

「親不孝者。嘘つき。自己矛盾野郎」

 連ねられた軽い罵倒に彼は一瞬面食らったように目を見開き、そして次にはにんまりと笑って、カースと同じように人差し指を突きつける。

「外見年齢詐欺。研究馬鹿。会話下手」

 二人で顔を睨み合わせて、思いつく限りの蔑称を並び立てる。ひとしきり言い終わって、互いの語彙がなくなった事を確認して、そして二人で吹き出した。

「くは、はははっ……!」

「きひ、ひひひひひ」

 カースの悪役のような低い笑い声と、トリックスターの引き攣ったような笑い声が、薄暗い路地裏に響く。

 笑い終わって、立ち上がって、二人は並んで歩き始めた。大柄な女性と小柄な少年。その二人の影はまるで親子のようだ。

 中央街に向かって、その二つの影は夕焼けの色を模した光の中に溶けて消えていった。



 家はひどく荒らされていた。まるで空き巣に入られたかの様相だが、それとは少し様子が違う。まず、金品や貴重品が入っている金庫にはこじ開けられた痕跡があるのだが、その中の金、または金に代えられる物に手が付けられていなかった事だ。もし財産を狙った犯行ならば、それはおかしい。

 次に、不死に関する資料や情報をまとめたノートなど、ついにはゾンビの研究のためにカースから譲り受けた映画のCDとそのプレイヤーが軒並み盗まれていた事。カモフラージュを諦めたのか、あまりに露骨に不死の研究に関する物だけ無くなっているのだ。

 これはキャンサーを、正確にはキャンサーの研究内容を狙った犯行。

 あまりに露骨で、喧嘩を売っていると捉われても仕方がない行いだった。

 キャンサーは激しく憤っている。論文やら何やらを盗まれただけならば、まだ仕方がないと割り切れたかもしれない。しかし、レイまで攫われたとなれば話は別だ。

 レイはキャンサーとカースの研究の精髄。同時に、カースからの信頼の証。恩義を感じる師のためにも、放っておけはしなかった。

 キャンサーは玄関を覗く。チェーンはチェーンカッターで、シリンダー式の南京錠はハンマーか何かで破壊された痕跡がある。しかしその内のいくつかは傷が無い状態で転がされており、おそらくピッキングで開けられたのであろう事がわかる。五つもの南京錠をピッキングしている内に同行者が痺れを切らし、錠を破壊した、と言った風だろうか。

 その後土足で入り込まれ、部屋が荒らされた。物が散らばっていない階段に泥の足跡。

「雨が降ったからかな、泥がしっかり残っちゃってる」

「泥、ね……」

 生乾きの泥。

 ビバリウムの雨は自然界に降るものとは違い、地区を区切るように降る。この足跡が雨が降った場所の土を踏んだのだとしたら、それはこの貧民街の外の地区から来た者だと言う事だ。雨水はそのまま側溝に降り落ちる構造になっているが、それでも地面が全く濡れない訳ではない。僅かな泥濘みを踏んでしまって、その痕跡が残されたのだろう。

「……」

 キャンサーは小さくため息を吐く。貧民街の住人による犯行であれば、豊かなキャンサーに対する逆恨み、という事で簡単に納得ができる。しかし外部の者の犯行となると、カースにまで危害が及ぶ可能性があるのだ。

 カースに優秀な護衛が居れば話は別なのだろうが。そこまで考えて、キャンサーはがっくりと肩を落とした。

「よりにもよって、あいつじゃなあ……」

 脳裏に浮かぶのは、とんでもない嘘つきの幼馴染の少年、トリックスター。彼はずっとカースの家に居着いている。彼が護衛になるのなら良いのだが、彼は荒事を他人に見せる事はしなかったので実際に護衛についたらどんな動きをするのかはわからない。しかも、ちゃんとカースを護るかすらも怪しい。少なくともキャンサーにとっては信用ならないのだ。そんな奴に背中を守らせるなど無理な話だ。

「……あれ」

 ヒーラの呟きに振り返ってみると、彼女は扉の前で首を傾げていた。

「何かあった?」

「いや、この扉だけ開かなくて……」

 そう言いながら彼女が指さしたのは、キャンサーの寝室の扉だった。研究資料も何も置いていない、ベッドだけの質素な部屋。それだけに、犯人がそこに何か仕掛けをする事は考え難い。キャンサーは訝しみながら扉に近付く。

 扉に耳を当ててみると、微かに何かが聞こえる。緊迫した音楽のようなものと、人間の叫び声。しかし、悲鳴にしてはやけに小さい。

「……とりあえず、師匠にも勧告をしておかないと……。ヒーラ、電話をかけて。番号はすぐ側の壁に紙に書いて貼り付けてあるから」

 そう頼むとヒーラは素直に頷いて、そして設置された電話機に番号を打ち込み始めた。

 キャンサーは一つ息を呑むと、扉を思いっきり押してみる。しかし、軋んだ音をあげるだけだ。

「ぐぐ……。何かつっかえてるのか?」

 まるで、自分が押す方向とは逆の方向に力がかかっているかのような重み。

 キャンサーは再度扉に全体重をかけ……しかし、扉を開けなくしていた力が急に消失し、突然開いた扉にキャンサーは地面に倒れ込んだ。

「いたた……」

 彼は呻きながらも顔を上げると、寝室のベッドの上に何かが置かれている事を確認する。

 それは、モニターだった。暗闇の中で煌々と光るそれは、血みどろの悲劇のシーンを再生している。

「ゾンビ映画……」

 床に座り込んだまま、呆然と呟いた。

 モニターの側には、カースから借りたCDプレイヤー。ゾンビ映画を流されているのだと理解した。

「……なんで?」

 思考が停止する。モニターもCDもプレイヤーも、リビングに置いておいたものだ。キャンサーはそこから動かしていない。つまり、ここに移動させてわざわざ映画を流しているのは犯人の犯行だ。盗むならまだしも、被害者本人の家でこうして流す意味がわからなかった。

 ぎゃあああ、と映画の中で男性が叫ぶ。きゃあああ、と映画の中で女性が悲鳴を上げる。赤黒い血液がスプラッタに飛び散り、記号的な「惨劇」を上映する。

 その耳を劈くような絶叫に目を眇めて、耳を塞ぎたくなったその時。

 何かがごしゃりと潰れるような音と、自分を覆った影に、ほぼ反射的に振り返った。

「……え」

 呆然とした声が唇を滑り落ちる。

 視界に入ったのは、細長い棒状のものを目一杯に振り上げる覆面の男。そしてその後ろ、部屋の外。受話器を持ったまま頭から血を流し床に頽れるヒーラの背。

 視界がスローモーションになる。

 振り下げられる棒は、容赦なくキャンサーの頭蓋を割らんと襲いかかり。

 そして、脳を揺さぶられる感覚と激痛に、キャンサーの意識は暗闇に落とされた。



「……何をしているんですか」

 ぽつりと、小さく、しかし威圧的で有無を言わさずに質問に答えさせるような強制力を含んだ言葉が落とされた。

 その声に振り返った覆面の男と、その傍らのメイド服を纏った女性が訝しげに眉を顰める。口減らしをするつもりなのだろう、それぞれの武器を持ち臨戦体制に入る。

 その二人組の足元には二人の子供がぐったりと倒れ込んでいた。その姿を見て、闖入者は僅かに眉を顰め、静かに溜息を吐いた。向けられる容赦の無い殺意にも全く怯まず、毅然と背筋を伸ばして。

「……我が主から役目を仰せつかっています。その邪魔をするならば……殺しはしません。消えてください」

 闖入者はそう言いながら、今まで希薄だった感情を突如膨大に膨れ上げさせる。二人組に向けられるのは、「殺しはしない」と言いながらも殺しを厭わない、そういった頑強な覚悟の気配。

 「殺す」では無い。「殺してもいい」なのだ。ほんの数文字が増えただけだが、そこに含まれる意味は全く違う。殊更、闖入者が放つものは違いが顕著だ。

 「殺す」は、殺す事を目的として殺す事を主軸に置く行為だ。

 対する「殺してもいい」は、殺す事が最終目的では無い。何か、全く別の目的があって、それに立ちはだかる障壁は全て破壊する。つまり殺す事は通過するもので、到達するものではないのだ。

 つまり、殺しという行為に対して何の感慨も無い。ただの通過点でしかなくて、当然に乗り越えられるもの。容易に飛び越えられる壁。その分、躊躇というものが削ぎ落とされる。例えるのなら跳び箱だ。最終目的が七段を跳ぶ事としたら、殺す事は五段程度。前戯にしかならないのだから、最終目標より簡単なのは当然だ。

 「殺してもいい」はそれだけ殺しのハードルが低いという事なのだ。実際に殺せるか否かは置いておいて、心理的ハードルが極端に低い状態。

 二人組はその希薄な殺気にこそ空恐ろしさを感じた。不気味に思った。ぞわりと背筋を蛇が這うような感覚に怖気を覚える。

「そのお二人を引き渡して頂けるのなら、これ以上干渉はしません。……ですので、お引き取りください」

 闖入者の女が床に倒れる少年少女を手で示しながら、そう言った。そこに含まれる感情は全く漣立たず、淡々としている。その不動さが機械のような印象だった。

 メイド服の女はギリギリと歯を軋らせて、明らかな敵愾心の瞳で闖入者を睨みつける。そして、負け惜しみかのような言葉を言い放った。

「……いずれ、邂逅するでしょう。その時はあなた達に深い深い絶望が襲いかかる時です。……覚えておきなさい」

「ご忠告、痛み入ります」

 恨めしげに表情を歪めたメイド服の女に対して、闖入者は一礼を返した。皮肉っぽさが全く無いのが、逆に皮肉だ。メイドはまた歯軋りを一つ鳴らすと、闖入者の横を素通りし家から去っていった。後に覆面男も続く。

 二人の背が見えなくなった事を確認して、闖入者は残された少年少女に駆け寄る。頭部を殴られた痕跡はあるが、瞳孔の様子を確認する限り脳に障害は無さそうだ。ただ気絶しているだけらしい。

 簡易的な診察を済ませると、闖入者は携帯を取り出す。工場のスペースが取れなくなり生産が停止されたため、今では入手困難な通信デバイス。

「……もしもし」

『ああ、聞こえてるぞ、チュトラリー』

 答えたのは、若い男の声だった。相手が通信環境が悪い場所にいるのか、途切れ途切れで音質も悪い。しかし事務報告には事欠かない程度だ。

「例の二人組を保護しましたが、既に襲撃に遭っており頭部に傷を負って昏倒しています」

『頭か……出血量は?』

「負傷した箇所にしては少ない方かと」

『そうだな……頭の怪我は後になってから響くリスクもある。一旦こっちに連れて来れるか? こっちの設備で診察する』

 男の声が淡々と答える。まるで医者のような口ぶりだった。声に命じられたままに闖入者は二人の子供を担ぎ上げ、外に停めた車に乗せる。そのまま発進した車は、中央街へと消えていった。



「……了解しました。はい。はい」

 声が聞こえる。女性の声だ。誰かと話しているようだが、その会話の相手の声は聞こえない。

 意識が朦朧としていて、視覚、聴覚、触覚、取得できる情報全てが曖昧だ。ゆっくりとした瞬きを繰り返す。それは瞬きと言うより、瞼を上げて下げる動作と言った方が良いほどに緩慢な動きだった。

 霞む視界は少しずつ明瞭になる。キャンサーが意識を取り戻した事に気がついたのか、覗き込むような体勢の女性がぼんやりと映った。

「おはようございます」

「……あ、おはよ、ございます?」

 起きたばかりだからか、絞り出すような声は掠れていた。目を擦って起きあがろうとすると、手を差し出される。目の前の女性の手を借りて、キャンサーは上半身を起こした。

 少し警戒心を強めて女性を観察する。赤みがかった茶髪を肩につかないほどの長さに切り揃えている、年若い女性だ。目つきは鋭く、色は涼やかな、冷え冷えとする深い青。一瞥されただけですくみ上がってしまいそうになる。その柔らかい体のラインや身の丈から女性である事はわかるが、身につけているのは執事服。男性用のものだ。

 次に周囲に視線を巡らせる。薄暗くて判別がつきにくいが、随分と無機質な部屋だった。病院のような印象を抱く、ベッドと小さな棚しか置かれていない部屋。

 キャンサーの警戒が伝わったのか、女性が少し眉を下げる。

「警戒なさらないでください……と言うのは、無理な話でしょうね。信用できないかも知れないですが、私は貴方がたの敵ではありません」

 女性の平坦な声音にキャンサーは顔を上げた。そういえば、自分は何も拘束がされていない。手も足も動かせるし、口も塞がれていない。更には頭部には丁寧に包帯が巻かれて、頭を殴られた傷の処置がされている。触ってみると、後頭部に固定されたガーゼの感触。

「……ぼく達を誘拐した理由は?」

 何か求めているものがあるならば差し出そう。命には代えられない。そう思っての発言だった。しかし目の前の女性は表情を変えず、淡々と返す。

「まず、勘違いなされているようなので説明させていただきますが、私は貴方がたの頭部を殴って誘拐した犯人ではありません。主の命により奪還、保護させていただきました」

「主……? って、それよりヒーラ! ヒーラは⁉︎」

 あの強盗の狙いは、間違いなく不死についての情報だ。ならば不死そのものであるヒーラがどうなっているか。想像をしてしまって顔を青くするキャンサーに、女性は部屋の奥のベッドを指差した。

「あちらです。まだ眠っていますが、命に別状はありません。……いや、確か彼女は不死でしたね。けれどまあ、大事はありません」

 見てみると、薄暗かったせいで気が付かなかったが、そのベッドにはヒーラが眠っていた。キャンサーと同じように拘束はされていない。頭部に包帯は巻かれてはいないが、それは彼女が持っている再生能力により傷が塞がったからだろう。

 その瞼は硬く閉ざされているが、耳を澄ませると小さな寝息が聞こえる。安らかな、普通の寝息。異常なところは無い。

「ヒーラ、良かった……」

 その正常な呼吸を聞いて、思わず安堵の声を漏らす。ベッドに近寄り体を揺らすと、薄く目を開けてキャンサーの姿を捉える。

「あれ、キャンサー……? ここは……っそうだ! いきなり頭殴られて……!」

 ヒーラは意識が覚醒するなり叫んで跳ね起きる。そして周囲の様子と敵意の無い様子の女性を見て首を傾げた。

「おはようございます」

「え、あ、おはようございます」

「お二人は仲がよろしいのですね。起きた時の反応が似通っていらっしゃって」

 女性はそう言うと、初めて無表情を崩して頬を緩めた。今までずっと仮面を張り付けているようだったが、いざ表情が変わると普通の少女のように見える。

「ひとまず、信用していただけたでしょうか」

「……あなたが誘拐犯でもそうでなくても、ぼく達は囚われている事には違いないですよね……。それとも、帰してって言ったらすぐに帰してくれますか?」

「申し訳ありませんが、それは出来かねます。我が主が貴方がたに用があるので」

 女性は申し訳なさそうに少しだけ眉根を下げる。仮面のように表情が変わらないのに、その纏っている雰囲気でなんとなく彼女の感情がわかる。無表情なのに表情豊かという矛盾した印象だ。

「用?」

「はい。なんでも、不死の者……ヒーラ様、でしたか。彼女に興味があるようで。お迎えにあがったところ、誘拐の場面と出くわしたので今こうして保護させていただいております。詳しくは、是非会ってから」

 ヒーラとキャンサーは目を見合わせる。目の前の女性には強制するつもりはとりあえずは無いようで、それだけ言い切ると口を噤んで二人の返事を待っていた。

「どうすべきかな?」

「その人が誘拐犯だろうがなかろうが、とりあえず交渉はしてみるべきじゃないかな。ぼくらをどうこうするつもりなら、とっくにしてるだろうし……」

 女性の様子を盗み見る。彼女は不干渉を貫いており、二人の話も聞いてはいるだろうが、何も反応を寄越さない。

「……要望を叶えなかったら何をされるかわからないし、とりあえず会ってみても良いんじゃない、かな」

 キャンサーはそう言って扉の方向を睨んだ。その前に女性が佇んでいるため、脱出はできない。実力行使に出られるほど、キャンサーは戦闘はできないし武器も無い。ヒーラは言わずもがな。ほとんど人間と会った事の無い彼女に対人戦闘ができるとは到底思えなかった。

「……わかりました、従います」

 キャンサーの返事に、女性は頷いた。ありがとうございます、と礼を言って、彼女は扉を開ける。

「主の元へ案内します。ついてきてください」

 廊下もまた室内と同じように、いや、室内よりも暗い。かろうじていくつもの扉が並んでいる事がわかるが、それだけ。扉に付けられたナンバープレートも、暗すぎて目を凝らさねば判読不可能だ。後ろを振り向いて先ほどまで自分達がいた部屋の扉を見てみると、医務室と書いてあった。

 廊下に出て、すぐに気がつく。随分と気温が低い。冷房で人工的に冷たくしたような空気の温度が肌に触れて、二人は小さく身震いをしていた。ヒーラは古びたパーカー、キャンサーは白衣によって肌の露出面積は少ないのだが、それでも明らかに寒いとすぐに感じてしまう。

「申し訳ありませんが、この室温は我慢していただきます。応接室はマシなのでそこまで歩いていただきますが、我慢ならないようならばすぐに毛布をお持ちしますのでお申し付けを」

 女性は振り返らないままそう説明した。それからはキャンサーもヒーラも無言で、女性の先導により無機質な廊下を進む。

「主って、一体誰ですか?」

 沈黙の空気に耐えかねたのか、ヒーラが切り出す。

「それは、私の口からは言えません。実際に会っていただきませんと、なんとも……」

 女性は少し申し訳なさそうに視線を下げた。

「……それじゃあ、あなたの名前は?」

「申し遅れました。チュトラリーと申します」

「チュトラリー……。カースさんの時も思ったけど、なんだか直接的な名前が多いような……」

「直接的?」

 ヒーラの呟きに、キャンサーは首を傾げる。ほら、とヒーラは付け加えた。

「カース、呪い。チュトラリー、守護者。キャンサー、癌。わたしが言うのもなんだけど、あんまり名前っぽくないというか……」

「……そうだね。師匠についてはよくわからないけど、ここ最近は苗字の概念が薄くなった事もあって、名前で立場とかどんな人間かを表す事が多いんだよ。単純に生みの親が名前をつけてくれないって事もあるし。トリックスターも……ぼくも」

 キャンサーの声音が落ち込む。それに気がついたのか、チュトラリーが「私の名は主から賜ったコードネームのようなものですがね」と肩を竦めた。

「コードネーム、ですか」

「ええ。そっちの方がこのビバリウムでは暮らしやすかろう、と」

 少し緩んだ口角。初めて彼女が仮面のような無表情を崩した。彼女が主を心から慕っている事が、それだけでわかる。

「……苗字を持つ事による暮らしづらさって、わたしはよくわからないけど……けど、良い主人なんですね」

「ええ、とても」

 チュトラリーは微笑む。人形のように凝り固まった相好が人間らしく崩され、その頬は僅かに血の色に赤らんだ。まるで懸想する少女のような穏やかな表情。

「つきました。こちらです」

 チュトラリーは一つの扉の前で足を止める。飾り気のなく無機質な扉だが、両開きの構造だけは他の扉とは異なっていた。ドアノブも、扉自体も、全て他の扉と同じ。先ほど出された応接室という単語とその扉の印象が噛み合わなくて、キャンサーは訝しむ。

 チュトラリーがその扉をゆっくりと開いた。分厚い扉は重々しく、軋んだ音を立てる。

「お連れしました、リーガルー様」

 チュトラリーがそう言いながら、部屋の奥にいる人物に恭しく礼をして、そして扉の横に立ってキャンサー達を通す。

 そこは、応接室と言うには質素な部屋だった。印象だけで言うのなら、刑務所の面会室と表現した方が近い気がする。

 リノリウムの床と壁は青白く、何かの研究所か病院かのような冷たさと硬質さ。部屋の真ん中に長机と、二つ並んだ椅子。机も椅子も装飾など何一つついていないシンプルなプラスチック製だ。

 廊下と違う所と言えば、暖色の電球がついているため明るい事と、肌寒く思えるほどの寒さがなく、逆に暖房がつけられていて暖かい事くらいだろうか。

 廊下の延長線を多少過ごしやすくしたかのような、そんな簡素な部屋。第一印象はそれだった。

 そして、その無機質な部屋の真ん中で一人だけ異彩を放つ人間がいる。

 生まれてから一度も光を浴びた事がないのではと思ってしまうほど青白い肌。全体的に色素が薄く、髪は紺黒が白濁したような空色だ。服装は、手入れがよくされている、古くはあるけれどすり減ってはいない古い革靴に、シンプルなパンツ。ベージュ色のベストの上に白衣を羽織っている。顔の上には薄い本が乗っており、それがアイマスクのように男の顔を隠していた。

「ああ、ご苦労、チュトラリー。部屋に控えていろ」

 バリトンボイスに命じられて、チュトラリーは言われた通りに部屋の隅に控える。そのまま人形のように動かなくなって、その男が彼女の主である事はすぐに理解した。

 男の顔の上に乗っているのは、安っぽい雑誌だった。オカルトだとか都市伝説だとか、荒唐無稽な噂話が特集され載っている薄い本。そう言った出版社も今は片手で数えられる程度しかなく、しかも内容の薄さの割に高価だ。しかし他の本よりは安いので、一般人に手が届く本は雑誌くらいのものである。男は気だるげで緩慢な動きで顔から雑誌を退け、そしてキャンサー達に視線を向ける。

 纏う色彩の全体的な淡い色の印象に反して、瞳だけが鮮烈な赤色。ビビッドに近い、目が痛くなるような深紅。そのナイフのように鋭い動脈血の色の三白眼に射抜かれるように一瞥されて、キャンサーとヒーラはごくりと息を呑んだ。

 細身で長身の男。長い足を行儀悪く机の上に乗せて、そして男はギザギザとした形の歯を覗かせてニヒルに笑う。

「お前が不死か」

 短く問われて、ヒーラはゆっくりと頷く。室温は適温なのに、頬に冷や汗が垂れる感触がした。キャンサーも自分が問われているわけでは無いのに変な緊張感を覚えて、背筋を強張らせる。

「あー、噂通りなのな。いっそ作り話だったら平和にちゃんちゃんと終わったのによ。不幸だな、俺様もお前らも」

 男は机から足を下げる。そこでようやく確認したが、男が座っているのは椅子ではなく、車椅子だった。それも電動式ではない、自分や他人の手を使わねば動かない古い形式の。

 男は車椅子を軋ませて足を組んだ。頬杖をつき、そしてその血赤の瞳で真っ直ぐに二人を見る。それだけで威圧感が部屋に満ち、頭を垂れた方が良いのだろうかとキャンサーに思わせた。男は重々しい声で名乗る。

「俺様の名は、リーガルー・バンパス=カルフーン」

「カルフーン……⁉︎」

 その名、正確にはその苗字に、キャンサーが息を呑み驚愕に目を瞠る。

「え、何?」

 ヒーラはその名を知らない。一人愕然としているキャンサーの肩を揺さぶると、未だ同様から立ち直りきれていない様子でキャンサーは説明を加えた。

「カルフーンの一族は……約百年前にビバリウムの建設に一役買った研究者の一族。このビバリウムの、実質的な王族だよ……!」

「王族……⁉︎」

 研究者の一族が貴族のような位置にいるとは、以前聞いた。そして、王族は貴族より上に立つ。それほどの権力者。それが、今目の前にいるのだ。

「俺様がお前らを此処に招来したのは……まあ、説明しなくてもわかるよな?」

 リーガルーの手が上げられ、そして人差し指で二人を指差す。そして、命じるように冷たい声音で告げた。


「お前らには、死んでもらう」




 帰宅までの道のりは長い。中心街からビバリウムの南端まではかなりの距離があり、数時間の帰路をカースとトリックスターは歩き続ける。

「おい、お前! このチビガキ!」

 随分と乱暴な言葉に、トリックスターは振り返った。認めるのは癪だが、身長が低く痩せぎすな自分は年齢以上に幼く見られる事も仕方がない。自分の中でそう割り切りながらも、少し不機嫌さを滲ませて、彼は背後の人物を睨みつける。

 彼の童顔が子供らしからぬ冷徹な色を浮かべる。大きな瞳が細められ、明らかな敵意を帯びて睨みつける。ただそれだけで人は怯える。この表情は、トリックスターにとって鎧のようなものだった。

 感情をおおよそ剥落させた顔で相手を睨みつければ、背後の人間はヒッと引き攣った小さな悲鳴をあげる。トリックスターより数歳年上と思しき青年だった。そして、トリックスターは彼に見覚えがある。

「あれぇ。カニくんにちょっかいかけようとしてたチンピラくんじゃん。どうしたの、俺に何か用?」

 ぱっと表情を無邪気な笑みに変え、声音もまるで親しい友人に話しかけるような明るいものにする。その態度を取るだけで、その豹変ぶりを見せるだけで、人々は簡単に彼から去る。これもまた、自身を守る方法の一つだ。

「用も何もねえよ……。お前がとあの化け物がようやくいなくなったと思えばなんだよあいつはぁ⁉︎」

 男は顔面を青白くしながら喚き散らす。恐慌状態一歩手前のようで、体は痙攣するように震えているし、血の気がどんどんと失われていた。

「なぁに、化け物だとかあいつだとかって。俺知らないけど。カーさん知ってる?」

「いいや、知らないな。まず化け物だなんて曖昧な言葉を使わずに具体的に話して欲しいものだが。まずは化け物の定義から説明してもらいたい。指示語に関しても、もっと示唆するものを明瞭にする事だな」

 隣で静観していたカースは首を横に振った。続けられた言葉に彼女の悪癖が露呈しているが、トリックスターはスルーする。

「要領を得ないな、イラつく。っていうか俺に文句言われてもさぁ、先にカニくんに手ぇ出そうとしてたのはそっちじゃん。自業自得ってやつだよ。俺が言ってる言葉の意味、わかる?」

「だっ、だだだぁだ黙れ! お前みたいな恵まれたヤツに俺の気持ちがわかってたまるかよ!」

 男の絶叫に、トリックスターは一瞬固まる。俯いて、しかしすぐに顔を上げ、「きひひっ、そうだね」と笑った。

「……そうだよ。俺ってば超恵まれてるからさぁ、恵まれてないヤツの事なんかわかんないんだよ」

 トリックスターは言いながら男の元まで歩み寄り、そして目も止まらぬ速度で男の顎を掴み、歯に指を噛ませ喋る事を不可能にさせる。

 目つきを鋭くして、下から睨め付けるようにしながらトリックスターは囁いた。先程の明るい声音が嘘のような、低い声で。

「理解されてぇならそれ相応の態度ってモンを見せろよ。恵まれてるヤツ嫌い、関わりたくない、その癖恩恵は貰いたい。そんでもって自分の事を理解しろ? どんなガキの我儘だよ」

 男が抵抗し、顔を掴まれている手を握る。するとトリックスターはすぐに手を離してみせて、後退りするようにたたらを踏んだ男は無様に尻餅をついた。

 カチカチと歯を鳴らしている男にしゃがんで目線を合わせて、トリックスターは追い討ちをかけるように言った。

「人間である以上相互理解なんてできるわけねぇだろ。俺はお前を理解できないしお前は俺を理解できない。それで片付けられねぇようならもっと分別のつかないガキみたいにギャアギャア喚いてろよ。自分は世の道理も理解できない頭の悪い子供ですって、そう言ってろよ。一丁前にこましゃくれてんじゃねぇ」

 畳み掛けるように言い切ると、トリックスターは立ち上がった。その童顔には、先程まで荒々しい言葉を使っていたとは思えないほどに邪気のない笑顔が張り付いている。

「んで、化け物とあいつって誰なのか教えてよ」

 仮面をコロコロと変えるように、トリックスターは無邪気な笑みを男の眼前まで近付けて問うた。明るく幼い印象の声は、先ほどの粗暴なものとは全く異なっている。その豹変ぶりに、男は歯の根が噛み合わない様子で必死に頷いた。

「化け物、は……あっ、あの血の女だよ……」

「血の女? 何その物騒な名前」

「……もしや、ヒーラの事か?」

 後ろで口を挟まないでいたカースが初めて口を開く。彼女キャンサーの報告で、ヒーラは出会った時には胸にガラス片が刺さって血まみれの状態で立っていたと聞いていた。

「ああ、ヒーラちゃんね。血まみれってのは気になるけど……まぁいいや。じゃ、続けていいよ」

 いいよ、と傲慢にいってのけるトリックスターに、男はもつれる舌を必死に動かす。

「な、なんとか報復出来ねぇかって、そう思ってあいつの家にい、行ったら……かか鍵が開いてて。入ったら、血、血みてぇな目をした女が……」

「女が?」

「お、襲ってきたんだ! 鉄パイプみてぇな槍を持ってて……あの目は、あの目は殺してくるやつの目だったんだ!」

 男は体の震えをより一層ひどくする。瞳に浮かぶのは、生命を脅かす脅威に対する、本能的な恐怖。かつてキャンサーを襲っていた時のような、自分の力への陶酔は無い。あるのは、自分は搾取される立場にある弱者だと教えこまされた脆弱な人間の精神だ。

「ふぅん。赤い目の女ね……そいつがカニくんの家を襲ったと。覚えておく」

 トリックスターは得心がいったとばかりに頷いて、そして笑みを男に向けた。それは人好きするような愛嬌のある笑顔だったが、男にとっては死刑宣告を告げる無慈悲さを内包した作られた笑みにしか見えない。

 実際、それは本心ではない笑いだった。その口角の上がり方、頬の色づき方、眉の角度、どこをとっても作為的。ごくごく自然だが、一度そうではないと気付いてしまったのなら、もう内側に何か悍ましいものを孕んだ、そしてそれに不用意に触れてしまおうものなら破裂してしまう水風船のようなものにしか見えない。

 そして、親しげな声音とは裏腹にどこか酷薄さと冷淡さを秘めた声で、トリックスターは告げた。

「んじゃ、もうキミ用済みだから。もう俺達に関わらないでよ」

 薄く開いた瞼の隙間から鋭い眼光を覗かせて、明るい声音で告げる。

 深淵を覗き込んでいるかのような、未知数への恐怖。男を震えさせるものの正体は、まさにそれだった。人間は通常、解らないものを恐れる。それは根源的な恐怖と言ってもいい。

 つまり、トリックスターは他人に理解を及ばせないのだ。だからこそ恐れられ、怖れられ畏れられ虞れられ懼れられ怯れられ。

 だからこそ、男は今、心臓に水を差し込まれたかのような感覚を抱いているのだ。彼は頷く事もせず、出来ず、無様に喘ぎながら駆けて消えていった。

 その情けのない背中をニコニコを見送って手を振って、トリックスターは男を見送る。しかし、彼の姿が消えると同時に彼の顔からにこやかさは一瞬で落剥し、呆れ返ったような辟易としているような冷淡な表情を浮かべた。

「……ふぅ」

「……相変わらず、その嘘で塗り固められた仮面は恐ろしいな」

 カースは労るように、しゃがみ込んだトリックスターの頭を押さえつける形で撫でる。彼女が浮かべた微苦笑に、トリックスターはいたずらっぽく口角を上げる事で返した。

 先ほどの荒々しい言葉使いも、トリックスターが用いる防御策の一つだ。外見は幼く可愛らしい彼の態度が豹変し、露悪的な言葉と仕草で振る舞う。それは人々にとって恐ろしく、嫌厭し離れる理由となるのに十分だった。つまり、彼は自分に絡む人間に、逃げる理由を作って提示しているのだ。

 また、それは生きる術、彼の武器でもある。それは、幼い頃に貧民街で生きていた頃からのものだ。無邪気な言葉の皮は哀れな物乞いとしても、油断をしている者を噛みつく牙を隠す蓑としても使えていた。

 これは彼の一生涯で使い続けられる、彼にしか使えない武器なのだ。

「やだなぁカーさん、恐ろしいなんて言わないでよ。否定された気になって悲しくなっちゃうでしょ」

 よよよ、とトリックスターは泣き真似をして見せる。カースはその態度に慣れきったかのように苦笑を浮かべた。

「はは、すまないな。気にしないでくれ」

「いーや気にするね。俺、受けた恩と恨みは絶対に忘れないから」

 トリックスターはからからと笑いながら歩き始める。中央街のはずれ、カースの家へと。

 その道中は二人とも無言だ。カースは元々興味のあるものが無ければ積極的に会話をする質ではない。トリックスターも、誰かに話しかけられれば饒舌に答えるものの、自分からはあまり話し出さない。

「ねぇ、カーさん」

 しかし、今日は違ったようだ。トリックスターは静かな声でカースに語りかける。

「何かね」

「俺の事、嘘つきだと思う?」

 カースはトリックスターを見た。随分と身長差があるせいで見下ろす形になり、髪でその表情は伺い知れない。

「……あぁ。おまえはとんでもない嘘つきだ」

「きひひっ……だよねー。俺もそう思う」

 彼が浮かべる笑みは、どこか覇気が無いように感じた。カースは密かに眉を顰める。

「トリスタ?」

 それは、十年もの時を共に過ごした故の勘だろうか。異常な何かを、感じ取った。

「ねぇ、もう良いよ、サボディネートさん」

 トリックスターはカースに背を向け、そしてどこかに向かってそう言った。それと同時、建物の間の薄闇から、ぼんやりと人影が浮かび上がる。

 現れたのは、紺黒の髪を一つに結い上げた、目つきの鋭い女性だった。身に纏っているメイド服は黒とグレーの配色で、暗闇に溶けて認識がしづらい。しかしその白い面相だけが夜闇の中で溶け込まずにぼんやりと浮かび上がっている。

 血のように赤い瞳が闇の中でギラリと光り、鋭い刃のような凶暴さを感じさせた。

 彼女は視線を二人の間に巡らせ、そしてカースを見て僅かに眉を眇める。しかしすぐに無表情に戻ると、トリックスターに向き直った。

「よろしいのですね、プレザント様」

「うん。さっさと連れてってよ」

 メイド服の女性に手を差し出される。そしてその手を、トリックスターは取る。二者の間にしかわからないやり取りがなされて、カースは凝然とする事しかできなかった。

「トリックスター……⁉︎」

 名前を呼ぶと、彼は振り返った。そこに浮かぶのはどこか寂しげな、しかし同時に清々としたような、晴れやかさと曇りが同居した微笑。

 それは果たして、心からの笑みなのだろうか。いくら十年もの付き合いだといっても、彼の嘘は巧妙すぎてカースでも中々判別はできない。

「さよーならぁー」

 歯を見せて笑って、どこか冗談めいた響きを帯びながら、その別れの言葉は吐き出された。笑みが紗幕に隠される。

「っ、待て、説明を……!」

 カースは聡く賢い女だ。しかし、それでもこの急な展開はすぐには受け入れられない。トリックスターが羽織る外套を掴もうとして、しかしその手はトリックスター自身によって無慈悲に振り払われる。

 手をひらひらと振りながら、彼の小柄な体は女性によって抱き上げられた。そしてそのまま踵を返し、カースを撒こうとするかのように雑然とした路地裏に駆けていく。

 待て、と叫んで追いかけようとするも、ビキリ、と脚から異音がした。罅割れたかのような鋭い激痛にカースは悲鳴を噛み殺し、しかしそれ以上動くことはできずにその場にしゃがみ込む。

 こんな時に。

 若さを保っている代償の痛みに、彼女は歯噛みをした。

 暗闇に消えていくシルエット。地面に崩れたカースの姿を見たトリックスターは一瞬目を見開いたが、まるで未練を振り切るように目を逸らした。

「……トリックスター……!」

 その名を叫んでも、返事は返ってこずに夜闇の中に虚しく反響するのみ。

 自他ともに認める嘘つきな少年は、今日この日、この時間、この夜を以って姿を消した。



「……それで、王様は俺をお呼びなんでしょ? なんで今更?」

「不死が現れたからです。だから、あなたが必要なんです」

 台本を読み上げるかのように感情が乗っていない声に、トリックスターはふぅんと生返事を返した。

 案内された先は、中央街。その真ん中も真ん中、ビバリウムを照らす巨大電球の真下。

 そこには、このビバリウムの王族が住まう屋敷。彼らの保護のために公には明かされていないが、ビバリウムの実質的な支配者が住む屋敷だ。

 玉座の間のような部屋へと続く両開きの扉を開けて、トリックスターは挑戦的に微笑む。

「そんで、何か用? カルフーン様」

 部屋の最奥にある荘厳な椅子に腰掛ける長身細身の男は、緩慢に顔を上げる。逆光に透ける白衣に、空色の髪。ナイフのように鋭い眦。トリックスターを真っ直ぐに見つめる三白眼は、動脈血のような深紅の色。

「やぁやぁ、トリックスター・プレザント様」

 彼は大きな口からギザギザとした歯を覗かせ、にんまりとニヒルな笑みを浮かべながら、告げる。


「お前には、死んでもらう」




「……なーんてな! 冗談だよ、冗談」

 死んでもらう、なんて物騒な発言からたっぷり十秒固まったキャンサーとヒーラに対して、急に声音を柔らかくして、ギザギザとした歯を見せて笑いながらリーガルーは言った。

 悪かったな、なんて軽い調子で詫びる彼にもう殺意は感じられない。二人は顔を見合わせて、そしてほっと息をついた。急激に解けた緊張感に肩の力を抜く。

「まさかそこまで本気にするとは俺様も予想外だったぜ。最近のガキってのは素直なモンだな」

 リーガルーはカラカラと笑いながら両手を合わせて謝る仕草を見せる。先ほどまでの重々しくて威厳溢れる様子から一転、ただの悪戯っ子のような印象に早変わりした。

「えっと……」

「何突っ立ってんだ、座れ。話をするために此処に呼び寄せたんだからよ」

 リーガルーはそう言いながら手招きをする。二人はリーガルーとその背後に侍るチュトラリーに注意を向けながら、リーガルーに向かい合う形に設置された椅子に腰をかけた。

「さぁてさて、確認するが、そっちの金髪がヒーラとか言う不死、んでももって黒髪のガキ……キャンサーだったか。が不死の研究者で合ってるか?」

「合ってます」

 リーガルーの問いにヒーラが答える。

「改めて、俺様はリーガルー・B=カルフーン。そこのガキの言った通り、ビバリウム建設に際して主立ったカルフーン家の血筋の研究者であり、長子だ。まあ固くならなくていい。今ここにいるのは王族のカルフーンではなく研究者のリーガルーだからな。立場的にはお前と同等だよ」

 彼は目つきが悪く、表情や言葉使いこそ胡散臭いものの、話す内容や仕草はいたって普通の好青年と言った印象だ。何故車椅子に座っているかと疑問を抱かせるほど、彼はにこやかで楽しげで、肌が異常に白い古ろ以外は身体的異常は感じさせない。

「カルマ婆さんは元気か?」

「え? カルマ?」

「あ? ああそっか、普段は偽名使ってるんだったか。えーと、お前の師匠だよ」

 キャンサーの師。それはたった一人しかいない。

「カース師匠の……?」

「ああ、そうそう。そんな名前だったか」

 確かに彼女は出会った当初からカースと名乗っていたが、本名がカースだとは言ったことは無かった。本名が刻まれているはずの家の表札も、研究者という立場である事がバレないように潰されている。

「あの婆さんの本名はカルチノーマ。略してカルマだ。弟子なのに知らなかったのか」

「……」

 知らなかった。言われなかった。その事に対して、少なからずショックを受ける。自分は敬愛する師の本名すら知らなかったのか、と。

「あー、まあ気にすんなよ。婆さんは立場が立場だったから、本名をずっと隠してきたんだと。カースって名前の方が定着するくらいに長い間な。そろそろ耄碌してもおかしくねぇし、教え忘れたんだろ」

 ショックを受けている様子のキャンサーを見て彼の心情を何となく察したのか、リーガルーは苦笑いを浮かべながらもフォローした。ヒーラが慰めるようにキャンサーの背に触れると、「大丈夫」とか細い声が返る。

「それで……その話と師匠がどう関わるんですか」

「……だって、カルマ婆さんしかいないだろ」

「何がですか」

「不死の情報を流した奴」

「は?」

 不死の情報。それは即ち、ヒーラやキャンサー達の研究の情報を横流しした者。キャンサーの家が襲撃にあった遠因だ。

「考えられる可能性は数通り。一、カルマ婆さん自身が流した。二、カルマ婆さんの研究所に侵入した何者かが流した。三、カルマ婆さんの縁者が流した」

 リーガルーは指を一本一本折り曲げながら数える。

「二つ目はあり得ないな。時系列から考えて、キャンサーが不死を発見、電話で報告、それからカルマ宅に訪れ調書をとる、その時間差があまりに短い。流れ的に、カルマ婆さんが報告を受けてすぐ流されないと無理なスピードだ」

 キャンサーがヒーラを発見してすぐにカースに報告し、その翌日にカース宅にて詳しい情報が伝達されて、調書が研究室に置かれる。しかしその直後にキャンサー達は帰宅するように促され、帰宅時には既にキャンサー宅は襲撃を受けていた。カースの家に滞在していたのは一時間ほど。

 本人がいる家の調書を一時間で盗み見て、即座にその情報を流布し強盗を手配するなど不可能に等しい早業。よって、情報を流した者は電話での情報を持っていたという事だ。

「待って、どこまで知って……?」

「さっき電話でカルマ婆さんと話してな。ある程度の情報はチュトラリーからも得てる。話を戻すぞ」

 異様に状況を詳しく知りすぎているリーガルーにキャンサーは訝しむが、一刀両断された。その質問はまるでなかったかのように、彼は話し続ける。

「そうなると、現実的に可能なのは一つ目か三つ目だな。しかし、カルマ婆さんは秘密裏に不死の研究を行っていた。それこそ、俺様のような王族などごく一部にしか研究の概要を明かさかったくらいだ。彼女自身が情報を不用意に流すとは考え難い。何らかの意図があったならまだ納得できるが、それは俺様には計りかねるな。だからとりあえず一番目は除外とする」

 それなら、とリーガルーは目を光らせる。

「最後に残った三つ目の可能性。カルマ婆さんの縁者……つまりお前らが情報を流した説、なんてどうだ?」

 リーガルーはニヒルに笑う。犯人を追い詰めた探偵かのように。指を指されたキャンサーとヒーラは少なからず動揺を見せる。

「え、いや、そんなはずは……」

「無いですよ。だって、キャンサーは自分の家を襲われて、レイだってどこかに連れて行かれた!」

 困惑して声が小さくなるキャンサーの代わりに、ヒーラが叫んだ。

「情報を流した結果、思わぬ結果として強盗に入られたかもしれねぇだろ。それか、そうやって疑いの目を逸らすためにどっかのチンピラに依頼して襲わせたのかもしれねぇ」

「待って! あなたが情報を流した可能性はないの?」

「無いな。俺様が持っている不死の情報は、時間帯的には全部お前らが気絶してる時間帯にカルマ婆さんと通話して得た。チュトラリーが車でお前らをここまで運んでる最中くらいだな。あり得ない。信じられないなら実際にカルマ婆さんから聞けよ、電話線は貸してやる」

「待ってください!」

 淡々と告げられる言葉に口を噤んでしまったヒーラの代わりに、今度はキャンサーが叫んだ。存外大きな声が出てしまって、慌てて口を塞ぐ。

「……ぼく達の縁者は、もう一人いるんです。師匠の家にずっといるから電話での報告を盗み聞く事も、何なら師匠本人からも聞き出すことも可能な人が」

 そこまで言われて、ヒーラは一人の人間の顔を思い浮かべる。

 トリックスター。キャンサーに「嘘つき」と呼ばれていた、あの少年だ。

「……マジか。チュトラリー。カルマ婆さんの家系図を」

「承知しました」

 命じられてチュトラリーは部屋から出ていく。その数分後、彼女は腕にノートパソコンを抱えて現れた。携帯電話と同じく、現在では生産が停止していて現存するものは値段が高騰しており、滅多に手に入れる事のできないものだ。リーガルーはそれを開き、小慣れた様子で何かのファイルを開く。

「……トリックスター……。貧民街育ちの子供、年齢は十五歳か。確かに可能ではあるな」

「そいつ、昔から意図の読めない嘘つきなんです。貧民街にいた頃はただのイタズラ好きだったんですけど、師匠に引き取られて少ししたくらいから奇妙な嘘をつくようになって……」

「奇妙な嘘? どんなだ?」

「えっと、確か……人類はじきに滅ぶんだ、とか、俺達が食べている肉は食べちゃいけない悍ましいものなんだ、とか。荒唐無稽でとてもじゃないけど信じられなくて、陰謀論じみていて……リーガルーさん?」

 キャンサーの話の最中、リーガルーの顔色がみるみる内に悪くなっている事がわかった。元々から青白い肌は更に血色を失って真っ白になり、頬には冷や汗が伝っている動脈血色の瞳は、動揺と焦燥に揺れていた。

 彼の元に駆け寄るチュトラリーに大丈夫だと言いながら、リーガルーはパソコンのキーボードを叩いた。荒々しい手つきで、ダカダカという音が室内に響く。

 忙しなく動いていた視線が一つに固定され、そしてゆっくりと瞠目する。次の瞬間、彼は笑い出していた。可笑しい、と言うより、自嘲のような哄笑だ。

「はっははははははははは! まさかこんなにも長くあの一族の呪いが続くとはなァ! 皮肉だ、皮肉だよ!」

 激しく笑い、途中で咳き込んで背を丸める。しかし彼が笑い止む事はなく、ずっと狂ったような笑みを続けていた。

「何ですか……?」

「ははは、そうだな、話さないわけにはいくまい。話してやろうさ、このビバリウムの呪われた歴史をな!」

 額に脂汗を滲ませながらも、リーガルーは語り出す。

 それは、約百年前のとある家族の話。

 犯してはいけない罪を犯そうとした、とある女の話だった。



 むかーし昔、あるところに、プレザントという家があった。その家の長女はヘレンと言って、とても聡く賢い女だった。

 彼女は研究者としてとても優秀で、同じ分野の研究者の元に嫁入りし、そしてその夫と息子と共に研究者としてビバリウムに住む事になった。

 しかし、彼女はビバリウムの中で行った実験で、人類は遠からず全滅する事を予見した。そこで彼女は考えた。考えてしまったのだ。

 どうやったら人類は、苦しみなく滅ぶ事ができるのだろうか、と。

 彼女は持てる限りの財を全て使い、とある計画を練る。それはそのまま、人類を救済する計画。人類を安楽死に導き、苦しみなく平穏に終わらせる計画。

 即ち、「人類安楽死計画」。

 それは実行される直前まで行ったものの、直前になって研究者の界隈に、ひいては王族として台頭したばかりのリーガルー家に露見し、ヘレン・プレザントは罪人として追放の処罰を受けた。

 彼女の息子も彼女の遺志を継いでいる可能性があるとされ、処分された。彼女の夫は計画が練られ始めた段階から離縁していたが、彼女の追放後間もなくして自殺。

 かくして反逆の芽は摘まれたが、一族が根絶やしにされた訳ではない。賠償金などにより貴族としては両家は没落はしたものの、その後の経過を観察する事は必須であると判断されたが、それは百年の内に有耶無耶になった。

「……っていう、このビバリウムを滅ぼそうとした罪深ーい一族が居た訳だ。それがプレザント。正確には罪人はヘレン・プレザントだけなんだが、連帯責任で一家と夫の一家が衰退したって訳だ」

「……まさか、そのプレザント一族に関する人間が、身内にいるって……」

「そのまさか! お前が言っていたトリックスターとやらのフルネームは『トリックスター・プレザント』。忌まわしきプレザント家の末裔だ」

 一度ビバリウムを滅ぼそうとした一家の末裔。それはつまり、その人類を滅ぼそうとする思想を、彼も受け継いでいるかもしれないという事で。

「……けど、それと不死の情報を流す事にどんな関係が……」

「わからないのか?」

 リーガルーの目が細められる。血の色がギラついて、ヒーラを睨む。

「不死ってのはな、人類が縛られてる命って名のルールから逸脱した存在だ。不死は即ち不滅。滅びないって事はな、新たな人類の種になるって事なんだよ」

 それは、ヘレン・プレザントの思惑を破壊し得るたったひとつの存在。人類を全て、安穏とした世界で安楽死させるという計画の中での不穏分子。

「……それは、つまり」

 わたしが、邪魔?

 その言葉は喉元につっかえる。青ざめていくヒーラの表情を見て、彼女が気付いた事に気が付いたリーガルーが、苦虫を噛み潰したように眉を顰めた。

「トリックスターとやらはな、お前に何かをするつもりの可能性がある。俺はそいつを書類上の情報でしか知らないから、実際はどうなのか知らんがな」

 不死の排除のために。

 不死を殺す事はできないから、ビバリウムの追放は、それか完全に行動不能にするか。何にせよ、排除という穏やかでない言葉を使う以上、それなりに物騒な事になる事は明確だ。

 重々しく告げられたその事実に、キャンサーは思わず立ち上がった。

「まっ、待って、待ってくれ!」

「何だよ」

「人類安楽死計画? トリックスターがそれを? 唐突すぎてついていけない!」

「ついていけなくても理解してついてくるんだよ。それができねぇなら黙ってろ。今話してるのは嘘でも捏造でもなく、純然たる確定した過去なんだからな」

「っ……証拠、証拠は⁉︎ ただの同姓の他人って可能性もあるし……」

「瞳孔」

「は……?」

「そいつ、猫みたいに縦に細長い瞳孔してねぇか」

 言われて、思い返す。あの深い碧眼。確かに、明るい場所にいる猫のように縦長の瞳孔が特徴的だった。

「そ、れは……」

 その反応を見て、察したのだろう。リーガルーは話は終わったとばかりに頬杖をついた。

「その瞳はプレザント家の証だ。そのトリックスターとかいうガキの容姿を知らない俺様が瞳の特徴だけを言い当てられた事が証明になる。納得したかよ」

 リーガルーの言葉は冷ややかだった。突き放すような物言いに、キャンサーは何も言い返せなくて歯噛みをする。まだ何かを言いたげな彼に対して、リーガルーはため息を吐いた。

「お前さぁ、本当はそんなに頭良くないだろ。聡くも賢くもない、しかも研究者としての素養も無い」

 キャンサーは俯く。そんな事は無いと反駁してしまいたかったが、できなかった。心のどこかでその言葉を肯定し、納得し、受け入れている自分がいたから。しかしそれを素直に認めるのも悔しくて、ただ自分の爪先を見るだけ。

 ああ、そういえば、師匠に拾われた日もこうして爪先を見ていたな、なんて。現実逃避のような事を考えながら。

「理解できないのは罪じゃねぇ。それはただ頭が足りないだけだ。けどな……理解しようとしない事は研究者として大罪だぞ」

「キャンサー……?」

 下を向く彼に、ヒーラは気遣うような視線を向ける。それが刺すように痛かった。

「それじゃあ何……トリックスターは最初っから、師匠に取り入るために行動してたって事……⁉︎」

「落ち着けガキ。そこまでは言ってねぇ」

 錯乱状態に陥りかけて絶叫するキャンサーをリーガルーが至って冷静に宥める。

「そいつがプレザント家の者なのは確実だが、それだけだ。意図も目的も俺様は知らん。それはそいつと家族のお前の方がわかるんじゃ無いのか?」

「……わかる訳……無いじゃないか……!」

「理解しろと言ってるんじゃない、理解できるかもしれないのはお前だけだと言ってるんだ。言葉の本質を捉えろガキ」

「キャンサー、どうしたの? きみ、ずっとあの人は嘘つきだって言って嫌ってたじゃん」

 ずっとずっと、ヒーラにも。警告するように。自分自身に言い聞かせるかのように。

「……確かに、ぼくはトリックスターが嫌いだよ。けど……信じたくないんだ。一応は、同じ貧民街で一緒に暮らしていたから」

 彼がそんなにも悪辣な人間であったと、思いたくない。

 確かに彼は嘘つきで、変人だ。信用ならない軽薄な人柄だ。

 しかし、彼と過ごした時間全てが不愉快なものであったかと訊かれると、そうではなくて。その全てが嘘の上にあったなどとは、そしてそんな彼と家族であったとは、考えたくないのだ。

「まあ、感情で否定をするなと言いたいところだが……トリックスター・プレザントが本当に黒幕かの証明はできない。そこらへんはまだ様子見だ」

「発言をお許しください、リーガルー様」

「なんだ、チュトラリー」

「様子見と仰いましたが、それほどの時間的余裕はあるのでしょうか」

 チュトラリーの淡々とした問いに、リーガルーは項垂れる。

「……微妙な所だな。ヘレン・プレザントが企てた人類安楽死計画については、未だ不明瞭な箇所が多い。当時も計画を止める事最優先でその詳細を詳しく調査できていなかったらしいしな。俺様逹は自分の状況すら確定させられていないんだ。 速やかに行動を起こす必要もあるかもしれない」

「承知しました」

「それで……ぼく達は、何をすれば良いんですか」

「ああ、カルマ婆さんにこう伝えてくれ。『プレザント家の罪が再来するかもしれない。ラックス家の協力を乞う』とな」

 今まで出ていなかった苗字に、キャンサーが首を傾げた。

「ラックス、とは?」

「ああ、説明してなかったか。ヘレン・プレザントが嫁入りした研究者の家だ」

「ああ、衰退したって言っていた……」

「そう。巻き込まれた形だから哀れなモンだがな」

 先ほど説明にあった一家。ヘレン・プレザントを嫁に迎え入れ、その彼女が国家反逆罪に等しい大罪を犯したために衰退した。夫は自殺まで追い込まれ、息子は処分されたと説明を受けた家。完全なるとばっちりにしか思えなくて、同情を禁じ得ない。

「……今」

 その声は小さかった。キャンサーもリーガルーも気が付かないくらいに。

「今、ラックスって言った……⁉︎」

 ヒーラはうわごとのように呟いて、机に身を乗り出した。目の前のリーガルーが突然距離を詰めた彼女にギョッとした顔をする。

 そして同時に、部屋の隅に控えていたチュトラリーが動き出し、ヒーラを瞬時に組み敷く。腕を後ろ手にまとめ、背を押して机の上にうつ伏せになるような体勢になるような拘束。ぐ、と肺から空気を搾り出すかのような小さな悲鳴に、キャンサーは何を、と叫んだ。

「ラックス、ラックス、ラックスって、今言った……!」

 ヒーラは興奮状態にあるようで、琥珀色の瞳をギラつかせる。そこに浮かぶのは、何十年も煮詰められたようなドロドロの執着の色。

「デヴィッドの事知ってるの⁉︎ どうして外に出たのか、どうして死んだのか知ってるの⁉︎」

 力の限り抵抗しているのだろう。彼女を抑えるチュトラリーの額には薄く汗が滲んでいた。半狂乱になっているあまり、ペンダントの細いチェーンが机の角で擦り切れて千切れ、四面ダイスが床に転がった。拾い上げてみると、出た目は四。

「ねえ! デヴィッドは! デヴィッドはどうして死んだの、死なないといけなかったの⁉︎」

「落ち着けガキ! 誰だよデヴィッドって!」

「デヴィッドは、デヴィッドは……! わたしの全てでわたしの人生でわたしの……」

「チュトラリー! 鎮静剤はあるか!」

「承知しました!」

 命じられるとチュトラリーはヒーラの首に注射器を打ち込む。中身の薬剤が入り込むが、創作物のように一瞬でころりと落ち着く訳ではない。暴れ続けるヒーラを抑え込みながら、リーガルーが叫んだ。

「何突っ立ってんだ。お前も手伝え!」

「えっ、あ、はい!」

 怒鳴られて、キャンサーはようやく茫然自失の状態から戻った。少し気が引けながらも。ヒーラの体を上から押さえ込む。

 数分して、鎮静剤の効果が出始めたのだろう。ヒーラは徐々に落ち着き、最終的に気を失った。

「デ、ヴィッド……」

 渇望するような声音で、そう言い残して。




「初めまして、おれはデヴィッド。デヴィッド・ラックス」

 突然目の前に現れた少年は、ビバリウムを背にして立って、そう名乗った。

 猫のような瞳と眦が特徴的で、短く切られた茶髪が熱風に靡いている。気温が非常に高いというのに羽織られたパーカーは、日差しよけのためのものだろう。首元では三角錐の飾りがついたペンダントが陽の光を反射して輝いていた。

 人間を、初めて見た。ただそれだけで、当機は彼に反応した。その眩しく人懐っこい笑み。口角が上がっている。

「きみは?」

 当機の名を問われているのだと判断する。問われたからには、答えなければならない。声帯を震わせ、声を出すのは初めてだった。

「当機に名はありません」

 少年は小首を傾げた。

「無い? なんで?」

「必要が無いからです。個を識別する記号は当機には必要がありません」

「なんで?」

「当機は唯一なので」

 必要最低限に、短く答える。会話はキャッチボールだとよく言われるが、その場で繰り広げられているのはバッティングだった。問いが投げられ、それを打つ。ただそれだけ。

「そっか。ねえきみ、おれと一緒に来ない?」

「その必要はありません」

「え、なんで? おれ水とか食料とか沢山持ってるよ?」

「必要ありません」

「水飲まなきゃ死んじゃうよ」

「死にません」

「……きみは不思議だね」

「当機にとっては貴方の方が不可解です」

 不死だから水を飲む事なんて水分の無駄だ。水を飲まなくても死なないのだから。

 不死だから食べ物を食べる事なんて食料の無駄だ。何も食べなくても死なないのだから。

 だと言うのに、デヴィッドは諦めず食い下がる。最終的に折れたのは当機だった。

 皮袋に入れられた温い水を最低限だけ啜って、彼に差し出されたパサつく携帯食料を最低限だけ齧って。

 彼に腕を引かれて、ともに歩いた。炎天下の中、靴のゴム底が溶ける灼熱の中。当機は靴なんて履いていなかったが、布で作った簡易的な靴を彼に無理矢理履かされた。

 乾いてひび割れた地面。津波に流された家の残骸。何の動物のだろう、とデヴィッドが首を傾げていた白骨。山の上から眺めた、半分以上が海に沈んだ街。

 枯れた木々やわずかに残った建物の影、コンクリートジャングルの木陰に入りながら、ビバリウムから離れるように歩き続けた。

 その最中、様々な事を話された。

 ビバリウムの中の事。

 小さい頃に見て、わずかに覚えていた外の世界へ憧れていた事。

 母が外の世界の住環境を調べる研究者で、人類がまた外で暮らせるように努力していた事。しかし外で行方不明になって、帰ってこなかった事。

 母の死のショックのせいで父はおかしくなってしまった事。

 自分が小さい頃に離婚した両親だけど、父が狂った事は母への愛情の証明のようで、不謹慎だけれど嬉しくなった事。

 母から教えられた事。

 母が遺した本に教えられた事。

 父から教えられた事。

 父が母を想って流した涙。

 母が遺したダイスを信じていて、これがきっとより良い方向に導いてくれる事。

 知らなかった事を、沢山、たくさん。

 それは知識ではなかった。知識ではないけれど、それは覚えるべき事に値した。それほどまでに、当機の中にある価値を測る機能はおかしくなってしまった。彼との出会いで、おかしくされた。

 しかし、気がついた。それはおかしくなったのではない。当機がただ、わたしになっただけ。人間になっただけ。

 名前の無い不老不死の放浪者が、名を与えられてヒーラになっただけなのだ。

 名前が無いと聞いて、最初は名無しちゃんと呼ばれていた。おれが名前をつけてあげよう、と言われて、しかし名無しちゃんという呼び方が定着して。その約束は、てっきり忘れられてしまったと思っていたけれど。

 その朝、また今日も歩こうと立ち上がった。いつもは彼女の手を引くデヴィッドだったけれど、その日は寝転がったまま動かなかった。体温が異常に熱かった。しかし排出されている汗の量は異常に少ない。

「ごめんね、名無しちゃん」

 吐き出される声は、ひどく乾いていた。そういえば、と見てみれば、デヴィッドが持っていた水は底をついていた。時折まだ生き残っている野生生物を捕まえて、その血を濾過して飲み水にしていたりしたが、それでも尽きるものは尽きる。

 水分を摂取できなくなった人間がどうなるかなんて言うまでもない。

 死ぬ。

 ただそれだけだ。

 デヴィッドの症状に熱中症と同じものを見つけた時、彼のそばに座り込んで「死ぬんですね」と確認した。あまりに無慈悲だったけれど避けられようもない事実で、それを目前に晒されて彼は悔しげに唇を噛んでいた。

「おれ、まだ生きたい。生きていたい。きみと一緒に、ずっと……」

 彼はもうまともに動かないであろう腕を動かして、当機の頬に触れた。砂塵にざらついた、皮膚の分厚い掌。

「名無しちゃん……いや……」

 彼の猫のような瞳は視線がぶれている。死が近い事を察知して、自分でも理由はわからないが、彼の頬に触れた。彼は安らかに微笑む。

「きみの名前は……ヒーラ。ヒーラだ。かわいい、でしょ」

 そんな、カラカラに乾き切って掠れた声で言われて、当機には、わたしには、名前が付けられた。

 その言葉を最後に、彼の体は緩やかに生命活動を停止した。掌は地面に落ち、痩せた頬は人間らしい柔らかさを失う。

「デヴィッド……」

 その名を呼んで、しかし彼の笑みは返ってこない。なぁに、名無しちゃん、と嬉しそうに振り返る彼の姿は無い。

「ヒーラ……」

 ヒーラ。それがわたしの名前。

 たった一度しか呼ばれなかった。けれども確かにわたしの名前。

「……はじめまして、わたしはヒーラ」

 その名乗りも、挨拶も、聞いてくれる人はもういないけれど。

 その口調や喋り方の癖は、全てデヴィッドの模倣でしかないけれど。

 それでもヒーラは、デヴィッドにはじめましてをした。

「……ちゃんと、話したかったな」

 当機ではなく、わたしとして。ヒーラとして。

 デヴィッドと共に、生きたかったな。

 その日、初めて涙を流した。涙腺から塩水が流れるだけの事象を悲嘆という感情と共に行った彼女は、その時点で人間と言って差し支えない存在だった。




「不死だからと言って薬が効かねぇ訳じゃないんだな。良いことを知ったぞ」

 床に倒れ込んだヒーラを見て、リーガルーは安堵のため息を漏らす。彼女の目尻には涙が浮かんでいて、悲壮感が漂っていて、そしてキャンサーはそんな表情を見ていられなくて目を逸らした。

「言ってる場合ですか。誰ですか、ヒーラが言ってたデヴィッドって」

「さあな……。少なくとも俺様の知ってる研究者の中にはいないが……」

 リーガルーはヒーラの拘束をチュトラリーに命じると、パソコンを探り始める。

「とりあえず家系図から探る。ラックスって苗字に反応してたから、ラックス家の一族のは……」

 リーガルーのキーボードを叩く手は、すぐに止まった。そして苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。

「……おいガキ、これを見ろ」

 キャンサーを手招きし、そして卓上のパソコンを彼に見せた。液晶画面に写っているのは、家系図だ。しかしそれはラックス家のものではなく、プレザント家のもの。

「……見せる図、間違ってませんか?」

「間違ってねぇ。ヘレン・プレザントの名前があるあたり、よく見てみろ」

 視線を下に流し、ヘレン・プレザントの名を見つける。その隣には婚姻関係を示す横線。繋がっている名前は、「ジョージ・ラックス」。ヘレンの夫の名前がこれなのだろう。

 そして、その二人をつなげている横棒に垂直になるように、下に線が一本伸びている。これは夫婦間に生まれた子供を示す棒だ。リーガルーの話の中にも息子の話は出ていた。その息子が、ここに示されている。

 そして、その息子の名前が目に入る。見ようとしたのではない、自然に視界に入ったのだ。

 しかしその文字列を人名だと認識した瞬間、どっと冷や汗が吹き出るような心地がした。それを何度も読み返す。もしかしたら自分の読み間違いかもしれないと思いながら。けれども何度読んだって文字列もその文字列が指し示すものの意味も変わらない。無慈悲な事実が克明に映し出されているだけだ。

 D、a、v、i、d。

 デヴィッド。

 ヒーラが喉が張り裂けんばかりに叫んでいた人物の名前だ。

 彼の父はラックス。フルネームは、デヴィッド・ラックス。なるほど、ヒーラが彼の姓を知っていたのなら、ラックスという言葉に反応するのは当然だった。

 そして同時に、思い出す。ほんの数分前にリーガルーによって語られた内容。

『彼女の息子も彼女の遺志を継いでいる可能性があるとされ、処分された』

 デヴィッドの母はヘレン・プレザント。つまり、処刑されたという息子は、デヴィッドに他ならない。

 処分。その不吉な単語に、背筋が冷える心地がした。

 ヘレン・プレザントには『処罰』という言葉が使われていた。しかし、デヴィッドに使われているのは『処分』。似たような言葉だが、それが指し示すものは明確に違う。

「デヴィッド・ラックス……」

 そのフルネームを口に出し、そして口の中で転がす。

 デヴィッドの名にカーソルを合わせてクリックしてみると、彼についての詳細な情報が映し出された。

 デヴィッド・ラックス。二◯九五年、五月十八日生まれ。父はジョージ・ラックス、母はヘレン・ラックス。旧姓プレザント。

 五歳時にビバリウムに入居。七歳時に両親は離婚。その際親権は母に。苗字はラックスからプレザントに変更された。

 八歳時に母死亡。父の元に戻ったため、苗字はラックスに戻る。

 研究者である母、ヘレンに強い憧れを抱いている模様。ヘレンに続き危険因子になる可能性あり。人類安楽死計画については徹底的に隠す事。

 研究者間で、年端もいかぬ子供を処刑するのはいかがなものかと意見が出た。また、何か濡れ衣を被せて処罰しようにもまだ子供である彼には難しい。確かに危険な兆候は見られるとはいえ、まだ何か問題行動を起こしたわけではない。しかし、母の思想を受け継がないという保証もない。不安の芽は摘まなければ、百年後も二百年後もこの場所を守り続ける事はできない。

 せめて、無垢な憧れを抱いたまま死に向かわせてやろう。せめて、自分の死に納得しながら死んでもらおう。

 ヘレン・プレザントについての情報を捏造。彼女は外の世界の住環境を良くするために活動していた研究者、そして外に出向き、そのまま行方不明となったという扱いにする。

 ヘレン・プレザントの書籍を捏造。彼女は確かに理想に殉じた。しかし、その理想だけをすげ替える。デヴィッドが憧れを抱くような理想に。

 デヴィッド、現在十歳。ジョージ・ラックスは精神を病みつつあるが、その要因も相まってか亡き母に興味を示している模様。彼の処分は順調と言えるだろう。また、ビバリウムの出入り口を封鎖し、研究者であろうと外に出られないよう規則を改定。実際にそれが施行されるまで数年の時を要する。

 デヴィッド、現在十五歳。出入り口封鎖の施行の前日より姿を消している。また、付近の監視カメラにはデヴィッドと断定できる人物が出入り口から外に出ている事を確認。


 二一一◯年。これにて、デヴィッド・ラックスの処分を完了とする。



 感想すら、出てこなかった。

 悍ましいも、嘆かわしいも、何も言えない。そこにあったのは、絶望感のみ。呆然とその文字列を眺める事しかできなかった。その情報は脳内でまとめるにはあまりに濃く、重い。

「なんだよ……これ……」

 やっとの事で絞り出されたのは、ひどく掠れて情けない声だった。

 ひどい。こんな事があってたまるか。いや、実際にあったんだ。認めたくない。政治家の賄賂を目の前にしてしまったかのような気分だ。気持ち悪い。

 こんな、子供に。

 十五歳。キャンサーと同じ年齢だ。同じ性別で、同じ年齢。それだけでつい、自分と重ね合わせて考えてしまう。

 もし、母の死が重い罪によるもので、それをひた隠しにされていたら。

 自分の憧れが捏造されていて、最初から無いものだったら。

 偽りの憧憬を用意されて、それに向ける感情すら、処刑のために操られて。

 そして、操られたまま、偽物の理想に殉じる。

 母の罪のとばっちりで。なんの罪も無い少年が。

 そんなの、人間としての尊厳を無視されているどころの話では無い。

 吐き気がした。もしかして、このビバリウムはこんな事の積み重ねで守られてきたのではないか。無意識のうちに信じ込んでいた無謬性は、最初から存在しないものなのではないか。そんな事を考えてしまって。

 もしそうだとしたら、この巨大建築物の基幹にはどれほどの死体が積み重ねられているのだろう。どれほどの失意があるのだろう。そして、その失意に絶望する事もできないまま壊された命が、どれほどあるのだろう。

 この資料を作成した人物の名前が記されている。姓は、B=カルフーン。ビバリウムの王の名前。

 液晶画面を引っ掻く。傷ができるが、それだけ。煌々と光るそれは未だに凄惨な少年の人生を映し続けている。

「ふざけるなァああぁッ‼︎」

 キャンサーはノートパソコンを机の上から放り落とした。薄型のそれは簡単に画面に罅が入り、暗転して沈黙する。惨憺たる現実を見せつける物がなくなっても、彼の心は晴れなかった。

 こんなものが、あの少女が希求していた少年の正体だというのか。彼女が執着していた少年の人生だと言うのか。

 子供の癇癪のように、キャンサーは叫んでいた。認めたくなかった。こんな虚しい人生を歩んだ者がビバリウムにいたという事も、ヒーラが探していた真実がこんなにも酷いものだったという事も。

「こんな……こんな……!」

 キャンサーが鬱積とした感情を喚き散らしても、リーガルーは何も言わない。チュトラリーさえも、ただ悲しげに眉を下げて黙り込んでいた。まるで、何もかもを諦めてしまっているかのような顔で。そのあまりに汚い真実を、とうの昔に受け入れてしまっているような。

 その表情が、まるで、「そういうものだ」と言われているようで、視界が歪む心地がした。腹の中をぐるぐると何かが渦巻いている。気持ちが悪いのに吐き気はしない。ただ違和感と不愉快さが蟠るだけ。

「嘘、だ……」

 認めたくない。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘嘘だ嘘嘘嘘嘘嘘だ嘘嘘嘘嘘嘘嘘。

 嘘だと、思いたい。


 痛嘆に喉が渇れそうになりながらも、キャンサーはひたすらに現実が嘘になることを願い続けた。




 ヒーラが目覚めると、すぐ側にキャンサーがいた。同施設内の医務室で、暗い中表情は見えない。

「キャンサー……」

 名を呼ぶと彼は緩く反応して、数秒の間を置いて「……ヒーラ」と名を呼び返される。

「……ダイス、は」

 胸元を探っても、慣れ親しんだ三角錐の感触はない。動揺して、しかしそれを表に出さないようにしていたら、キャンサーがベッドサイドの机に置かれたダイスを彼女の手に乗せた。

「……デヴィッドがね、ダイスを振ったんだ」

 ヒーラは静かに語り始める。記憶の中の少年の姿を掘り起こしながら。懐かしむように、愛おしむように、悼むように。

「『おれは、憧れに辿り着けますか』って。奇数が肯定で、偶数が否定で。それで、信じた賽を振った」

 ころころと地面を転がって、そして、出目は出たはずだった。

「どっちでもなかったんだよ」

「どっちでもない……?」

 彼女が所持しているダイスは、キャンサーも何度か見ている。出目は一、二、三、四の四つだけ。一と三が奇数で、二と四が偶数だ。どちらでもないという事はあり得ない。

「出目はね、ゼロだったんだ。奇数でも偶数でもないゼロ。存在しないはずの目。……それを見て、デヴィッドは絶望していたよ。すぐに持ち直した……少なくとも、そんな風に見えるように、振る舞ってたけど」

 それは、もしかして。

 「お前の言う憧れなんて、最初から存在しない」という事を示唆していたのではないか。

 その可能性に血の気が引く。

 造られた、偽物の憧れ。それをヒーラは知らないし、デヴィッドも知らなかったはずだ。

 しかし、デヴィッドがその出目で、真実を察してしまったのだとしたら。

「わたしは……あのダイスが指し示したものが一体何なのか知りたい。デヴィッドはちゃんと悔いなく逝けたのかを、知りたい」

 贋作の憧れに命を賭したと知ってしまっていたなら、デヴィッドは一体どんな気持ちで死んでいったのだろう。

 どんどん顔を青くしていくキャンサーに気が付かないまま、ヒーラは続ける。その言葉は、彼にとって追い討ちに等しかった。


「彼が語った憧れを、わたしも知りたいんだ」


 ヒーラは、朗らかに微笑む。

 ぐらりと視界が歪む。

 ああ、なんて残酷なのだろう!

 ただの夢見る少女に向かって、真実を告げる事ができようか。少なくとも、キャンサーには無理だ。この場では絶対に言えない。口が裂けても、絶対に。

 デヴィッドが抱いた憧れは、君が抱こうとしている憧れは、たった一人の少年を死に誘う誘蛾灯なのだと。

「そっ、か……」

 瞳を憧憬に輝かせるヒーラに、かける言葉が見つからない。結果、掠れた声で曖昧に頷く事しかできない。

 暗闇の中、少女が思い描く夢。それを壊す事も守る事もできないキャンサーは、ただそれを聞いていた。



「……ままならねぇなぁ」

 医務室の閉じた扉。そこから漏れ出る会話に、リーガルーは項垂れる。車椅子の肘掛けを強く握りしめ、そのやるせなさに唇を噛み締める。

「トリックスター・プレザントは如何しましょうか」

「放っておけ。もしソイツが本当に人類安楽死計画を実行しようとしているなら……アイツが黙ってねぇだろ」

 それから口元に手を遣り、考えるような素振りを見せる。

「いや……アイツに任せるのはダメだな、何をするかわからん。やはり指名手配をしておけ。猫のような瞳で特定はできるだろ。あんな眼、そうそう見られるもんじゃねぇ」

 猫のような縦長の瞳孔。それは捏造しようもないプレザント家の証だ。

 リーガルーは表情を強張らせたまま、呻くように呟いた。頭の中に浮かぶのは、一人の人物の顔だ。年にほんの数回程度しか見ない、けれども顔を合わせた際は必ず無邪気で、それ故に不気味に思える笑みを浮かべている存在。

「……このビバリウムの存亡がかかってるっつーのに、何をしてんだアイツは……」

 数時間前の、カースとの会話を思い出す。電話での通話で、リーガルーが今いる空間の特質ゆえに電波の繋がりが悪くいつ切れるかわからない不安定な状態で。

『それが、トリックスターはサボディネートとか言うメイド服の女について行って、いなくなったのだ……』

『サボディネート……? チッ、アイツ……!』

『心当たりがあるだな?』

『その通りだ。くっそ、外に出れねえのが歯痒い……!』

『……まあ、その人物に関しては我は知らないが、その反応でおおよそ察しはついた。お互い身内には苦労するな。そうだ、それと言っておかねばならない事がある。トリスタの眼は……』

『……それ、マジかよ』

『ああ。それも我が預かり知らない所で、事後報告をされたんだ』

『クッソ、厄介な事しやがって……。けど展開によってはそれで事態が好転するかもしんねぇな……。もしかしてそれを考えてそんな事をしたのか? だとしたらソイツ、頭は回るな……』

『あぁ。我が息子ながら、本当に食えない奴だ』

『……随分落ち着いてるな。その息子が超ド級の戦犯になるかもしれねぇんだぞ?』

『何があろうと、息子は息子だからな。お前にとって家族の縁も血筋の縛りも消せないものである事と同じだ。そうだろう、リーガルーよ』

 トリックスター。厄介な存在だ。プレザント家の証の瞳を持っている時点でこのビバリウムという閉じた世界では異端であり危険人物であるというのに、それなりに頭も回るのだろう。というより、自分の状況と立場をよく理解していると言うべきか。

 カースによって伝えられた、彼が張った予防線の存在。カースの管理外にあるというそれの存在に、リーガルーは一瞬胃が痛むような心地がした。

 時は戻り現在。車椅子にもたれこんで、リーガルーは天井を仰ぐ。

「……とにかく、策は練らねぇとな」

「無理はなさらないでください、リーガルー様」

「これからもお前には頼りきりになる。悪りぃな、チュトラリー」

「いいえ。我が命は貴方様に救われたもの。貴方の脚となると決めた以上、それを曲げる事はありません」

「……ああ」

 リーガルーの表情は晴れない。苦々しく歪められた口元に、チュトラリーは苦笑した。

「お部屋に戻りましょう。新しいパソコンも手配しなければいけませんね」

 彼女はそう言って、リーガルーが座る車椅子を押し始める。暗く長い廊下で、車輪が鳴らすカラカラと乾いた音が反響した。

 医務室では、未だキャンサーとヒーラの話し声が聞こえる。それを振り返って、そして、チュトラリーは祈るように口の中で言葉を転がした。


 ……そこで折れてしまうような心なら、もう関わらないで。




 この場所は『ノアの方舟』だと、リーガルーは言った。

 一体どこにあるのか、何のための施設なのかの説明はなかったが、リーガルーという王族がいるので中央街のどこかだろうとあたりはつける。

 そこは、カースが所持する研究施設兼家よりも広く、しかし閉塞感があった。刑務所のような雰囲気すら漂わせているコンクリ仕立てのカース家よりもだ。

 電灯は常に最低限。薄暗くて一寸先すら危ない。窓ひとつなくて自然光も入ってこないから、息が詰まるような重苦しさに常に満ちている。

 そこに足音を響かせながら、チュトラリーの先導で二人は廊下を歩いていた。彼女の執事服の背を追って、規則的に続く足音に耳を澄ませる。

 ひんやりとした空気が漂っている。何故かはわからない。必要以上に冷やされているが、しかし廊下で冷房がつけられている訳ではない。等間隔につけられている扉から冷気が漏れ出ているようで、廊下を寒くしているのはそれによるものらしかった。

 部屋の中はどれほど冷やされているのかと思うが、その扉を開いたら自身も凍りついてしまいそうで、その扉を開く勇気はなかった。

「そうだ、これを渡しておきます」

 ふと振り返ったチュトラリーはポケットから何かスイッチのようなものを取り出すと、キャンサーの手に握らせる。

「これは緊急事態に陥った時に押してください。すぐにリーガルー様へと通知が行きますので、私が伺います」

「……リーガルーさんは、来ないんですね」

「あのお方は、体が弱いのです。それだけならここで暮らす程度ならば支障は無いのですが、骨が弱い事が深刻で。ですので不用意に外にお出しする訳にはいきません」

「骨……」

「はい。骨が損傷しやすくなる病気です」

 チュトラリーが淡々と話す内容に、二人は納得する。あの車椅子は移動の際の怪我などをなくすためのものなのだろう。脚にぱっと見は異常は無さそうだったが、それも当然だ。疾患があるのは外見に出ない内部、骨にあったのだから。

「そうですか……」

 彼女の語り口が悲壮感を感じさせないものだったからだろうか、それともリーガルー本人が飄々としていたからだろうか、不思議と同情はあまり湧かなかった。チュトラリーも憐れみが欲しかった訳でも無さそうで、事実だけを伝え終わるとすぐにまた前を向く。

 案内されて、ひとつの大きな扉の前に出た。装飾が全くついていないのにどこか荘厳に感じる。それはただサイズが大きい以外に、地面に擦ったような跡がある事に由来するだろう。

 それはこの扉が何度も開け閉めされた痕跡で、扉にそれなりの重量がある事の証明で、そして他の扉と何かが違う事を肌で感じさせる。

「ここからはお二人には目隠しをさせていただきます」

「目隠し……? なんで?」

「ここは仮にも王族たるリーガルー様が住まわれる場所。申し訳ないですが、一般人に場所を知られてはいけないのです。いや、皇居の場所は秘匿の甲斐なく広まっているのですが、ここがその敷地のどこにあるのかは、知られたくありません」

 チュトラリーの手には真っ黒なアイマスクが握られている。布は目が詰まっていて、隙間から様子を見る事も難しそうだ。

「……わかりました」

「アイマスク、初めてつけるかも」

 二人が目隠しに了承すると、チュトラリーは二人の目元をそれで覆い隠す。視覚情報の一切が遮断されて固唾を飲むが、手首の温かい感触に緊張は僅かに解けた。

「失礼します。ここからはこうして手を握って案内させていただきますので、ご了承ください」

 恭しく一礼したのだろう、僅かに聞こえる衣擦れの音。次いで重々しい扉が開く軋んだ音が聞こえて、少し温い空気が頬を撫でた。手首が緩く引っ張られ、その力に誘導されるように歩き出す。

 扉の奥は何らかの機械が動き続けているようで、常にモーターの駆動音のようなものが聞こえた。チュトラリーに引っ張られるまま歩き続けて数分、モーター音が鳴り止むと同時に足裏に伝わる感触が消える。

 どこか凹凸があるように感じた床がつるりとして硬質な、まるで大理石のような感触に変わっていた。その変化にキャンサーは思わず下を向いたが、そうしたって足元なんて見える訳もない。

 それからまた歩いて数分。足裏の感触は何度か変わり、ふかふかとした絨毯、さくさくと心地の良い芝生に変わって、最終的に整ってはいつつもどこか無骨な石畳になった。

「つきました」

 チュトラリーが二人の目隠しを外す。久方ぶりに浴びた気がする光に目が眩んで、一瞬瞼を閉じた。

 ようやく光に慣れて視界がのフラッシュアウトがなくなる。そこで見えたのは、随分と多く行き交う人々と彼らによって栄える街並みだった。

 寂れた貧民街とは比べるべくもない。テナント式や移動販売の商店が多く存在し、多くの取引が交わされる。このビバリウムで一番活気に溢れている場所。太陽を模した巨大電球の真下に位置する街。

「中央街だ……」

 キャンサーが呟き、ヒーラが瞠目する。キャンサーは何度も来たことはあるが、ヒーラはない。人の多さに驚いているのだろう、視線が忙しなく動き続けている。

 ふと振り返ってみると、そこにあったのはビバリウム内で一、二を争うほどに大きな屋敷の門の前だった。この屋敷は小さいながらも庭がついている。ほぼ全ての建物が上に積み上げられ何とかスペースを作り出しているビバリウムでは贅沢な土地の使い方だ。

 表札には知らない名前が書かれている。おそらくは偽の名前だろう。この屋敷はカルフーン家のもので、それがバレないように防犯目的で名を偽っていると考えるのが自然だ。

「何か御用があればここに来てください。『ゾーイ・チェンバレンに用がある』と言えば通りますので」

「ゾーイ・チェンバレン……。苗字があるって事は、貴族?」

 キャンサーが興味本位で問うと、チュトラリーは困ったように眉を下げて苦笑を浮かべる。

「ノーコメントです。私も訳ありですから」

「どうして本名を明かしてくれたんですか……? 文脈的にチュトラリーさんの名前、ですよね」

 彼女は静かに首肯する。

「確かに、チュトラリーという名は私自身を守るための鎧です。しかし、それは貴方がたには必要ないので。カルフーン様は緊急用のボタンを貴方がたに渡しました。それはあの方なりの、協力者の証なのです。主の協力者に誠意を見せず、一体どうしてあの方の従者と名乗れましょうか」

「……随分、リーガルーさんへの信頼が厚いんですね」

 意識はしなかったが、キャンサーの声には敵意が滲んでいた。少し目つきを鋭くすると、チュトラリーは鼻白んだ様子で肩を竦める。

「当然です。私はあの方に命を救われましたし、これからも多くの命を救う方なのです。せめてもの恩返しとして手伝いをしたいと思うのは当然かと思いますが」

 キャンサー達は気が付かない。そう語るチュトラリーの顔に、一瞬影が差した事に。

「……トリックスター・プレザントに関しては、これから指名手配が行われます。貴方がたも、見つけ次第連絡をお願いします」

「わかりました」

 門が、少しずつ閉じている。もうこれ以上告げることは無いとばかりに、チュトラリーは口を噤んだ。

 ひらひらと振られる手を振り返して、柵に遮られる彼女の姿を眺めた。

 そして、その背後で自分の脚で立ち、同様に手を振るリーガルーの姿も。



「……何の用でしょうか」

「僕様は君に話しかけちゃいけないってー?」

「そうは言っていませんが、私は貴方の使用人ではありませんので」

 チュトラリーはリーガルーを……正確には、リーガルーと瓜二つの容貌をした男を睨む。

 色の薄い空色の髪は、リーガルーの色素が自然に抜けたものとは違う。人工的に色を抜いて染めたものだ。鋭く真っ赤な三白眼。王族と呼ぶに相応しい美貌はニヒルな笑みを携えている。丈の長い白衣のデザインも、リーガルーのものと全く同じ。しかし、その肌の色はリーガルーよりも健康的だ。その相似と相違に、チュトラリーは不快げに眉を顰める。

「ツレナイねー。……リー兄さんはどうしてる?」

「いつも通り、ノアの方舟にいらっしゃいます」

「そういう事訊いてるんじゃなくてー。……不死とプレザントの末裔をどうしようとしてるのかって訊いてんの」

 その言葉に、チュトラリーは表情に出さないまでも体を一瞬強張らせた。しかしすぐに平静を取り戻して見せて、「それは私から言える事ではありません」と淡々と返した。

「じゃあ、リー兄さんにこう伝えといてよー。『プレザントの末裔は無力化した。不死はまた今度貰い受けるよー』……ってね」

 男はそうとだけ告げると、ひらひらと片手を振って屋敷の玄関へ歩いていく。その背中を忌々しげに見つめ、チュトラリーはため息をついた。

 キング・B=カルフーン。

 カルフーン王族の一家の男児であり、長子ではないものの数年前に若くして王位を継いだ、現在のビバリウムの統治者。そして、リーガルー・B=カルフーンの双子の弟。

 彼の消えていった後ろ姿を睨み続ける。彼は一体、何をしようとしているのか。

 その真意を測る事ができるほど、チュトラリーは賢くなかったのだ。



「……ヒーラ」

「なに?」

 中央街から、貧民街への道すがら。呻くような呼び声に、ヒーラは緩く反応する。

「今、何考えてる?」

「……デヴィッドの事、かな」

 小さく答えたヒーラの横顔は、まるで懸想する少女そのもの。

「……そう」

 キャンサーの胸の内に、知らない感情が渦巻く。

 ぐるぐると燻って燃えるような、しかし激しく立つ事はなく、静かに静かにその温度を高めているかのような。そんな、不快で未知数な感覚。

 そのパーカーを引き裂きたい。そのダイスを踏み躙りたい。汚い感情。唾棄すべき感情。それが自分の中にあるという事実に、頭がぐらつく心地がした。この感情は一体何だろうか。

 ヒーラの執着がこれから彼女に牙を剥いてしまうであろう事を、キャンサーは知ってしまった。知ってしまったからには、もう無視はできない。

 彼女のデヴィッドへの想いを、どこか別の場所に逸らせたら。

 しかし、そんな事はできるだろうか。百年間ずっとデヴィッドを追いかけてこんな所まで来たヒーラの志を、今更変えられるものなのだろうか。

「キャンサー?」

 俯いて考え込んでいた彼の顔を、ヒーラは覗き込む。

「っ……!」

「どうしたの?家族のルーツを知ってショックみたいだけど、そんな様子じゃ転んじゃうよ」

 ヒーラはどうやら、キャンサーの様子がおかしい事はトリックスターに起因していると思っているらしい。

 トリックスターや親代わりのカースや兄弟同然のキャンサーの共同研究、命に代えてもいいと思うほどに大事な情報を横流しし、キャンサー達が襲われる原因を作ったかもしれない、というのも衝撃的ではあった。

 自分はまだ良い。けれど、嘘つきな彼を自分と平等に育てたカースに牙を剥くのは許せなかったし、信じられないと思う。

 けれど、それ以上にデヴィッドの件がショッキングだった。

「ヒーラ……ヒーラはさ……」

 囁くように喋る彼に、ヒーラは不思議そうに首を傾げた。あどけなく、無邪気に。

「もし、そうだな……憧れてるものが、全部全部まやかしだったりしたらさ、どう思う?」

「まやかしって、憧れのものが実際はそんなに良いものじゃなかった、とか?」

「……うん」

「うーん……」

 ヒーラは口元に手をやって唸り、考える素振りを見せる。

「信じたくないって思う、かな。それから、依存先みたいなの探しちゃうかも。それを誤魔化してくれるひとを、探すかも」

 ヒーラは薄く笑っているものの、その瞳は全く笑っていない。それをキャンサーに見せて、「なんで?」と問うた。まるで、その質問の意図を見透かすように。

「……ぼくは、不死が憧れだって言ったでしょ」

「うん」

 その言葉に偽りは無い。不死を目指しているのは本心だ。

 何故か、自問自答する。

 不死の存在は、カースの研究対象で。それについて詳しく知るうち、興味を持った。

 カースは言った。

『人類は未だ、命という枷に縛られている。それを解き放つのが不死だ。我はもう随分と長い時を生きたが、お前達はまだまだ若い。その若い芽を守り、育て、そしてその瑞々しさを永遠のものとするための研究なのだよ。……興味があるのなら、我の論文を読んでみるか?』

 彼女が浮かべた穏やかな、同時に憧憬に溢れたどこか幼い笑みは、網膜に焼き付いている。

 本を読む事が得意でも好きでもなかったのに、彼女に差し出された論文を手にしたのは、最初はカースの気を引きたかっただけなのかもしれない。しかし、知れば知るうちにのめり込んでいった。

 不死。それは文字通り決して死なない存在。

 人類を超越し、一歩前の段階に進んだ新たな種。

 それはきっと、この閉じたビバリウムの世界から、自分達を解放してくれる。

「……そうか」

 そこで気がつく。

 もしかしたら、ぼくは、外に出たかったのかも知れない。

 不死になって、外に出ても死なないようになりたかったのかも知れない。それに自分で気がつかなくて、ただロマンと憧れを違えていただけなのかも知れない。

「……ぼくは、思っちゃったんだ。不死ってそんなに良いものなのかなって。ヒーラを見てると、ただの人間に、ただの女の子にしか見えなくって。不死ってそんなに尊いものなのかなって」

 ヒーラが死んだ場面を見たのはたった一度きり。出会った時に心臓を貫かれていたのを見ただけだ。

 それ以外だと彼女が不死であるとわかりやすい場面は見ていない。痛覚が無いのは人外じみているが、それだけだ。普通の人間と同じで身体能力が高いわけではなく、急所である頭を殴られたら気絶する。薬だって普通に効く。

 ヒーラは、今までキャンサーが思い描いてきた不死とは全く異なっているのだ。

 勿論それで失望しただとか、ヒーラに対して悪印象を抱いたわけではない。むしろ普通の人間として親近感を感じたほどだ。

 しかし、それでもやはり彼女は不死らしさを感じさせない。

 キャンサーの目の前に現れた、たった一人の不死者。その彼女が不死らしく無いのなら、そう思ってしまうのなら、自分は一体どこへ向かって行っているのだろう。

 自分が求めているのは、単純な不死ではないのかも知れない。

 自分の中で、憧れが揺らぐ感覚。何年かも指針にしていたものが歪み、信じられなくなる。それは自己否定にも等しい。自分を構成する基幹の部分を揺るがす事に等しい。アイデンティティの喪失にも似ている。

 そこで、重ねた。虚構に憧れを見出すヒーラと、憧れが不確定なものだと眼前に突きつけられているキャンサー。全く違うとは言い切れない。両者の違いは、それに気がついている否か、それだけだ。

「ぼくは……君と自分を切り離して考えられないんだと思う。憧れの対象として、同じ人間として」

 ヒーラの手に触れる。滑らかな小麦色の肌。傷跡一つ無い。それは一度も傷ついた事が無いという事ではなく、何度どんな傷がついても治るという事。

「ごめんね。ヒーラ……」

 デヴィッドの事は、言えない。言えるわけがない。彼女の憧れを摘み取れるわけがない。

 懺悔の言葉を脳内で繰り返しながら、二人は歩く。



 ——……変、だな。

 自分の手を握るキャンサーの姿を見て、ヒーラは思った。

 ——わたしと自分を切り離せない? 彼は、わたしに何か共感をしている?

 頭の中に疑問が立ち並び、それを解消させるためにそれに答えていく。

 何故。わたしの何が彼の琴線に触れたのだろう。態度が急変したのはわたしが気絶して、目覚めた後。その間に何かがあったと思うのが妥当。

 例えば、何かわたしが知らない何かを知った、とか。

 その情報は、不死に関するものか? 先ほど「不死が尊いものとは思えなくなってきた」といった旨の発言をしていた。不死を貶める内容の文書を見た、などか。

 いいや、だとしたら親近感ではなく嫌悪感を抱きはしないか?

 親近感が湧く情報。しかも、彼がヒーラに謝るような事実。

 ……わからない。

 淡々と考え続けるが、そのぶつ切りになった情報をかき集めても無理があるような、あるいは違和感がある推論が立つだけだ。

 まず、彼は何に謝った? 親近感をもった事? 自分と彼が対等に近くなる事に罪悪感を持つほど、彼は殊勝、あるいは卑屈な性格だったか? ヒーラに関する何らかの情報を知ってしまったからか? あそこで見られた情報は際限がない。頼めばリーガルーに何でも見せてもらえるだろう。しかし、あの場でプレザント家やラックス家以外の情報を得ようとするのは不自然だ。

 そもそも、このビバリウム内でヒーラが関わりを持っているのは、直接的ではないがラックス家に関わりがあったくらい。それもデヴィッドという個人と一時期関わりを持っただけだ。

 ……もしかして、それだろうか。デヴィッドの情報を、得たのだろうか。

 彼は元々このビバリウムに住んでいたらしいから彼の情報があっても何ら不思議ではない。加えて、ラックス家はプレザント家と関わりがあった。そしてリーガルーはプレザント家の血を引くトリックスターの情報をあのノートパソコンで得ていたのだから、それを使ったとすればキャンサーがデヴィッドの情報を得る事については、不自然な所は何もない。

 仮にキャンサーがデヴィッドについての情報を得たと仮定しよう。ならば、彼は何を知ったのだ?

 ヒーラに親近感と罪悪感を持たせる、デヴィッドについての情報。

 いいや、このビバリウムで知れるのは外に出る前のデヴィッド、つまりヒーラに出会う前の彼の情報だ。それにヒーラは絶対に含まれない。ならば親近感は抱きようもない。

 ならば、デヴィッドについての情報で、彼はわたしに罪悪感を持った。

 しかも、それを隠す。いや、情報自体というより、情報を隠した事に対しての罪悪感と考えた方が自然だ。

 つまり、自分に話せない情報で、けれども隠し続けているのは罪の意識が沸いてしまうような事。

 しかし、ここまで考えたは良いものの、それ以上はわからない。そもそもここまでもあくまで推論であって確定ではない。仮定はしているものの、確定事項として扱う事はできないだろう。

 そこでヒーラは一旦思考を止める。これ以上考えても結論は出ず、無駄なだけだと判断したのだ。

 百年前のただの不死だった時のように、無機質にそう考える。

 喋り方や思考はデヴィッドのおかげで人間じみたが、それと演算は関わらない。彼女の思考回路自体はまだ合理的にしか考えられないままだ。そこに少し、省かれるべき無駄が混入しているだけで。

 ああ、そうだ。こんな時こそダイスを振ろう。それで確かめよう。この脳内で組み立てた推論が合っているのか。奇数が肯定、偶数が否定だ。

 ヒーラは素早く胸元からダイスを取り出し、それを歩いたまま宙に放り出す。片手はキャンサーに掴まれたままだ。キャンサーはキャンサーで考え事をしているようで、少し青い顔をしながら俯いて思考に耽っている。そのため、ヒーラがダイスを投げた事に彼が気がつかなかった。

 大きく空に放たれたダイスは放物線を描き、そしてヒーラの額の上に落ちる。出目を確認してみると、一。奇数だ。

「肯定、ね……」

 思わず漏らした呟きにキャンサーが反応して、彼は振り返る。何でもないよ、と誤魔化しながら掌のダイスを見せると、納得したような顔をして彼はまた前を向いた。

 肯定。

 つまり、キャンサーは何かを隠している。それもデヴィッドに関する何かを。そして、隠している事に罪悪感を抱いている。

 ヒーラは首を捻った。生憎、他人が隠したがっている事を無理矢理暴く趣味は無い。しかし、デヴィッドの情報を聞かないわけにもいかない。

 どうするべきかまたダイスを振ろうと、それを上に投げる準備を整えたその時。それを遮るように、今までずっと変わらないペースで歩き続けていたキャンサーがいきなり止まり、後ろにいたヒーラは彼にぶつかる。幸いダイスは落とさなかったが、ヒーラは非難がましい目でキャンサーを見た。

「……」

「キャンサー……?」

 いつの間にやら貧民街に入っており、もうキャンサーの家も見え始めている。そんな中、キャンサーは裏路地の奥を凝視して固まっていた。それに誘導されるように、ヒーラも彼と同じ方向を見る。

「……や、お二人さん」

 薄闇に紛れるようにそこに立っていたのは、小柄な少年。薄墨色の髪が特徴的な幼顔の彼を、ヒーラは一度見た事がある。

「トリックスター……!」

 キャンサーが忌々しげに彼の名を呼んだ。それに対してトリックスターは感情の読めない笑みを浮かべている。作為的に上がった口角。目元は帽子と紗幕のせいで見えない。

「なんの用だよお前。もう指名手配されてるから、人類安楽死計画をやろうとしてるなら諦めろ」

「へぇ。そんな所まで知ってるんだ。俺が隠してた意味無いなぁ」

 トリックスターはまたも「きひひっ」と特徴的な笑い声を上げる。無感情に無感動に。自分が指名手配されている事だとか、計画は既に知られてて阻止されるかもしれないとか、そういった全てを心底どうでもいいと思っているような。

 まるで、真の目的は全く別の場所にあるようだ。ヒーラはそう思う。

「お前、本当に人類安楽死計画なんてものをやろうとしてたのか? そのために師匠に近付いたのか?……家族として過ごした日の全部が、嘘だったのか⁉︎」

 キャンサーは叫ぶ。目尻に涙を浮かばせて、悲痛な声で。それは問いの形をとっていたが、明らかに否定をして欲しがっている言葉だった。

 どうか、そんな馬鹿げた事はしようとしていないと否定してくれと。そう切に願っている声だった。

 しかし。

「きひっ……きひひひひひひひひひひひひひひッ」

 その懇願は一笑に付される。

 意地の悪い笑みだった。喉と空気が引き攣れるような奇妙な笑い声。唇は弧を描き、奇妙な笑い顔を作り上げている。

 滑稽な笑劇を前にしているような、歪で、けれども心底おかしいと思っている、そんな爆笑だった。

「きひはははっははははははは! なぁにカニくん、面白い事を言わないでくれよ。俺を笑い殺す気かなぁ」

 それは、肯定の意味としか取れない言葉だった。キャンサーが望んだものとは真反対だった。

 キャンサーの言葉の裏に隠された願いは、汲み取れなかった訳ではないのだろう。しかし、トリックスターはそれを簡単に踏み躙る。願いを勝手に抱いたのはキャンサーの方だが、それをあまりにもあっさりと切り捨てたトリックスターに苛立ちを覚える。

 キャンサーは血の気が引いている様子で、しかし明確な敵意が露わになっている目でトリックスターを睨みつけた。

「ああ、そうだ。指名手配とか無駄だよ。顔が映ったビラとか貼るかもしれないけど、俺ってば変装は得意だからさぁ」

「何言ってんだ、その縦長の瞳孔はコンタクトレンズをつけても誤魔化せないぞ……⁉︎」

「きひっ、誤魔化せないなら隠せば良いじゃん」

 トリックスターは帽子に取り付けられた紗幕を摘み上げ、顔を露わにする。

 目元には真っ黒で厚手な布が巻かれており、彼の瞳を隠していた。その上に更に紗をかけるのだから、目なんて見えようもない。更には顔まで隠れる。

 その他にも彼の身体的な特徴は幾つもあるが、グレーの髪は染めるなりウィッグを被るなりすればわからない。小柄な体も、シークレットブーツなどを履けば簡単に誤魔化せる。実際、彼は今は以前見た時よりも底が厚いブーツを履いていて、ヒーラよりも少し小さい程度の身長になっていた。元々童顔で中性的な顔立ちの彼だ、性別を偽る事すら可能だろう。

 つまり、指名手配をした所で逃げられる可能性が高い。完全に逃亡されるとまではいかずとも、手をこまねいている間に人類安楽死計画が施行されたら、一巻の終わりだ。

 それを理解したキャンサーは更に顔を青くする。指名手配なんて、トリックスターを縛る枷にすらならない。彼の行動を少し阻害できれば御の字、その程度の効果しか持たないものなのだと、理解させられたから。

 ならば、この場で取り押さえてしまえば良いじゃないか。そんなキャンサーとヒーラの思考を読むように、おっと、とトリックスターが声を上げた。

「近づかないでね? 俺ってばひ弱だからさぁ、多分二人がかりなら捕まっちゃうよ。けどそうなるなら俺も本気で抵抗する。ボク、大好きなカニくんを傷つけるのは本意じゃないからさ」

 そうして彼がマントから抜き取ったのは、全体が真っ赤に塗り込められた杖だった。曲がらない硬質さを持ちながらも木製の鞭のようなしなやかさと鋭さを湛えているような印象のそれは、銃やナイフのように簡単に人の命を奪い取るほどの威力は無いが、しかし人に傷をつける事に関しては特化しているように見える。

 しかも、鞭というのは拷問に使われる道具でもある。失血を抑え、しかし効率的に痛みを与える。鞭とはそういった武器だ。それに似通っているものを二人に突きつけて、それを用いて抵抗すると言っているのだ。行動するのは憚られる。

 ヒーラには痛覚はない。それを利用して確保しようかと考えたが、生憎ヒーラは非力、かつ対人戦闘は経験した事がない。逆にやり返される可能性が高いとみて、ヒーラの動きをキャンサーが制した。

「……お前は、なんで人類安楽死計画なんて」

「ノーコメント。っていうか、ここで本当の事を話してもカニくんは認めないでしょ? 信じたくないって喚き散らすんでしょ?」

「は……?」

 論点ずらしのようなトリックスターの挑発に、キャンサーはつい乗ってしまった。ニタリ、とトリックスターが悪辣に笑う。

「カニくんは昔からそうだもんね。自分に都合の良い情報ばっか信じてさぁ。簡単に陰謀論とかに引っかかりそうで危なっかしいったらありゃしないよ」

 ほら、あの時だってそうだったじゃん、とトリックスターは杖を突きつけたまま話し続ける。

「昔……ええっと、カーさんの所で暮らしてしばらくしてからだから、六歳くらいの時? 俺の自称親がカーさんからお金とか騙し取ろうとした事あったじゃん」

 キャンサーの脳裏に、その時の光景がフラッシュバックする。

 血溜まりに沈む、二つの肉塊。それがちょうど大人の女性と男性ほどの大きさをしていて、血まみれの中でも、衣服や毛髪と確認できるものを見つけて。

 そして、赤黒く染まった鋭いナイフを握ったトリックスターが、ちょうど狩りを終えた後の獣のように息を荒げながら、その真ん中に立っていた。

 元々猫のように縦長だった瞳孔は更に開いて細くなり、そしてその獰猛な瞳がぐるりとキャンサーに向く。能面のように色が抜け落ちた顔で凝視されて、ヒッ、と空気が引き攣るような悲鳴を上げた覚えがあった。

「あの時さぁ、カニくん何言ったか覚えてる? 『トリックスターは殺してないんだよね』だよ? キミはさ、どう見てもどう考えても俺が加害者だったっていう状況を頑なに認めなかったよね? 質問じゃなくて確認の形なのがタチ悪いよ」

 そうしてさ、自分は関係のない第三者でありながら、悲壮な皮を被って被害者ぶってられるんだから。トリックスターは笑みを変えないままそう言う。

「結局キミはそういう人間なんだよ。自分にとって都合が良いものだけで周囲を固めて、それで防御壁を作って。ああ、その生き方自体を否定する気はないよ。だってそれがカニくんの生き方なんだもんね。キミは自分の劣等感を助長させるカーさんから離れたんだもんね。キミは嘘つきの俺が都合が悪くなったから、簡単に切って捨てたんだもんねぇ!」

「——やめて!」

 トリックスターを止めるように、絶叫が響いた。それは、ヒーラの声だった。

「……やめて、やめてよ」

 哀願するような声音。今までずっと饒舌だったトリックスターが喋る事をやめて、固まったような笑顔が落剥する。残ったのは、紗に隠れつつある、恐ろしいまでの真顔。

「……ごめんね。俺だってカニくんもヒーラちゃんも傷つけるつもりはないよ。けどさぁ、ちょっと心折らないと二人は俺の邪魔するでしょ、多分。それだとさぁ、困るんだよね」

 トリックスターはそうとだけ冷淡に言うと踵を返した。古びたマントが翻り、闇の中に溶け込む。カァ、と濁ったカラスの声が耳朶を震わした。

 そのまま、彼は路地裏の奥の暗がりへとその身を沈めた。底が厚いブーツの底には鉄板か何かが仕込まれているのか、響く足音はやけに硬質だ。杖を地面に打ち付ける音とその足音はどんどん小さくなっていって、やがて聞こえなくなる。

 またね、だとか、じゃあね、だとかの別れの言葉は無かった。それが、あくまで親しげであった今までの彼の態度と乖離していた。

「…………」

 トリックスターが去っても、ヒーラの心は曇ったままだ。見てみると、キャンサーは顔を真っ青にして地面にへたり込んでいる。自分という人間の性質を語られて、理解させられて、目尻から溢れた涙が静かに彼の頬を濡らしていた。

 ああ。

 にている。

 ヒーラは直感的にそう思う。

 似ているのだ。あの時、ゼロが出たダイスを目の前にしたデヴィッドと。

 いや、あの時、一瞬だけしかデヴィッドの顔は見えなかった。しかし、そこに果てしない絶望が覗いていた事は、確かに覚えている。

 今のキャンサーは、あの時のデヴィッドほど絶望した顔をしていない。一時的なショックに立ち直れていないだけだ。

 彼がもっと、どうしようもない事実に直面したら。

 そんな事を考えて、しかしあまりにも物騒な思考なので頭を振って振り払う。

 彼の背に手を添えると、そこは冷や汗でじっとりと湿っており、かわいそうなくらいに小刻みに震えていた。汗のせいか血の気が引いているせいか、ひどく冷たい。

 大丈夫だとか、わたしがいるだとか、そんな無責任な事は何も言えなかった。ヒーラはキャンサーの過去なんて何も知らない。だから、過去の事を引き合いに出されて傷つけられた彼の傷を癒すには不適格だ。

 震える彼の背を撫で続けて、ヒーラはやるせなさに唇を噛んだ。痛くはないが、滴る血の味と匂いが不快で、しかし驚異的な再生能力のおかげですぐに治る。それがやけに、虚しかった。

 心ここに在らずといった様子のキャンサーは数十分ほどそこに座り込み、そして虚な瞳で地面を眺めていた。

 ヒーラは、そんな彼を見ていられなかった。つい先ほど、彼とデヴィッドを重ねたばかりで、それなのに彼が失意に塗れてしまう様は、見ていて心苦しい。

「キャンサー……」

 彼は緩く反応し、ヒーラを見上げる。

「えっと、えっと……キャンサーは……」

「図星なんだ」

「えっ」

 唐突に、キャンサーは語り出す。先ほどまでの上の空の様子とは全く異なり、いきなり饒舌に。

「図星だ、図星なんだよ! 全部全部全部!」

 頭を振り乱して掻きむしって唾を飛ばさん勢いで、キャンサーは絶叫する。

「だってだってだって、仕方ないじゃないか! ぼくは頭が良くなくて、体を動かす事も苦手で、全部全部師匠とトリスタに劣るんだ!」

 彼の師匠であるカースは、特定の分野において類を見ないほどの才能に恵まれていた。

 彼の兄弟であるトリックスターは、他人にすぎない者を他者を切り捨てて当然の貧民街で慈しんだ。そしてリーガルーに「頭は切れる」と言わしめて、身体能力もキャンサーよりずっと高い。

「これ以上あの場所にいたら二人を嫌いになっちゃうから、これ以上嫌いになんてなりたくないから! だから離れて何が悪いんだよ! 劣等感から逃げる事の何が悪いんだよ! ぼくなんか……ぼくなんかぼくなんかぼくなんかぼくなんか」

「キャンサー、落ち着いて」

「トリックスターは良いよなぁ! だってその外見だから人に好かれやすいし、イタズラをしても嘘をついても許されて、師匠にも許されて愛されてるんだもんなぁ!」

「キャンサー!」

 ぱしん、と乾いた音が響いた。

 ヒーラはキャンサーの頬を両手で挟み込むように叩いたせいだった。頬に広がるヒリヒリとした痛みに引き戻されたように、キャンサーは目を丸くした。

「落ち着いて。嫌いになりたくない人を、そんな風に言っちゃだめだよ」

 ヒーラの落ち着き払った声で、キャンサーがヒートダウンする。しかしその目にはぐるぐると狂気が渦巻いており、彼は未だに要領を得ない発言を小さく呟き続けていた。

「あ、あぁ……そうだ、トリスタは……トリスタはぼくを、キャンサーって呼ばないから……癌だって、腫瘍だって言わないから、殴らないから、罵らないから……」

「きゃ、キャンサー?」

「ひッ……ぼ、ぼくは、まもっ、守られてばっか、りで……ご、ごめなさ……」

「キャンサー……いや、キャン。大丈夫だから。誰もあなたを害さないから」

 キャン、と呼んだのは、カースの真似だった。キャンサーという名に何かのトラウマがある事にようやく気がついて、宥めるように頭を撫でながらそう呼んだのだ。

「キャン。カニくん。平気だよ。わたしはあなたを肯定するよ。わたしはあなたを認めるよ。わたしはあなたを……愛するよ」

 愛する、だなんて。

 愛を知らない自分が、言う事ではないけれど。

 けれど、愛を知りたいと思ってるのもまた事実だから。

 ヒーラは心の中で自嘲する。

 しかし、彼女は気が付かなかった。

 もしヒーラがキャンサーを愛する事があっても、それはデヴィッドの代わりにしかならないと。ただの、代償行為にしかならないと。

 賢くも愚かな少女は、気付かない。




 数十分の狂乱の後、キャンサーは虚脱状態になりながらもヒーラに頭を下げた。見苦しいものを見せた、としょげかえる彼を宥めながら、ヒーラはなんとか彼を立ち上がらせる。

「もう大丈夫?」

「うん……ほんと、ごめん」

「もういいよ。わたしは許したから、謝らないで」

 そんな会話を交わしながら、二人は貧民街に向かって歩いた。今まではずっとキャンサーがヒーラの手を握っていたが、今度はヒーラがキャンサーの手を握っている。じんわりと伝わる温もりが、キャンサーの精神安定剤になっていた。

 この数日ですっかり見慣れた、コンクリートの塊のようなキャンサーの家。その玄関に立ってみると、相も変わらず鎖も錠も全て壊れている。

 もう襲われた後なんだし、誰もいないだろう。そうたかを括って扉を開いたのだが、その予想は実に呆気なく外れた。

「おかえり」

 リビングのベッドソファに腰掛けながら二人を出迎えたのは、カースだった。ひらひらと片手を振って、ぐちゃぐちゃに荒らされた部屋の中で至って平静に。

「……なんで、師匠」

 ヒーラの後ろから顔を出して、呻くようにキャンサーは問うた。

「リーガルーから報告を受けてな。ここでこうしてお前達を出迎えている」

 短く答えた後は凄惨になっている部屋をぐるりと見渡して、これはひどいな、と呟いた。どうやら彼女もこの家に着いたばかりらしい。

「その、師匠……」

「ああ、状況はおおよそ聞いている。レイの事も今は大丈夫だ、我に任せておけ。……我が今ここに来たのは、これを渡すためだからな」

 カースは机の上に瓶のようなものを置く。鉄製の蓋で厳重に閉められており、側面は緩衝材に包まれている。

 試しにキャンサーが手にとってみると、内部からはちゃぽんと音がした。どうやら粘性の少ない液体が入っているらしい。

「これは……?」

「鍵だ」

「鍵?」

 帰ってきた予想外の答えにキャンサーは目を丸くして、ヒーラはその瓶をまじまじと眺める。緩衝材と蓋のせいで、内部は全く見えない。

 音から液体が入っている事はわかるが、それ以外はわからない。固いものとガラスがぶつかるような音もしない事から、液体しか入っていないのではないのかと思う。そんな中に鍵が入っていると言われても、信じられはしない。

「……」

「まあ、そう訝しむな。詳しくは言えないが、中身が気になるなら『鍵』というものの定義から覆して考えるのだよ。それと、それを開けるのならその鍵が必要になった時のみにしたまえ」

「……もし、必要ないところでこれを開けたら?」

 ヒーラが興味本位で問うた。その瞬間、部屋の空気が一気に冷え込み、絶対零度のような冷たさを帯びる。

 その空気の発生源は、カースだ。彼女はその左右で色が違う瞳をギョロリと二人に向けた。まるで、その瞳は彼女のものではないようだ、と思う。

「……そんな事をしてみろ。その鍵を無下に扱ってみろ。我はお前達を不死にする」

 不死に。それはキャンサーが求めてやまない事だが、捲し立てるように続けられた言葉に二人は再度凍りついた。

「無論、痛覚は残す。それから、体毛を一本一本毛根から根こそぎ抜き取り、全身を巡る血にボツリヌス菌を混ぜる。全身の感覚を過敏にする薬を注射してから、丁寧に丁寧に爪を切り刻んで剥いでやろう。そうした後は指から一本一本丁寧に神経を抜き取……いや、これはやめよう、痛みを感じなくなったら無意味だからな。皮膚はヘラでこそぎ取って目の前でなめそうか。露出した肉に塩を塗りこんでやる。骨はトンカチで叩いて、その欠片を肉に埋め込んでやる。それを不死の再生能力とお前達の精神が許す限り続けて……最後に、その眼球を抉り取ってやる」

 つらつらと続けられた、拷問の内容。それを無表情で語るカースの声音は、決して冗談のものではない。

 本気だ。

 鍵を必要のない場所で使おうとしたり無駄にしたら、本当に彼女の言う通りの拷問が行われるだろう。想像しただけで身震いをしてしまうような、純粋な暴力が。不死であるがゆえに「殺さない」という一種のリミッターが外れた、際限の無い責め苦が。

 それを感じ取ったキャンサーとヒーラは息を呑み、冷や汗を垂らした。

 痛覚がないため痛いとはどんな感覚か知らないヒーラでも、想像しただけで総毛立つ。肌が粟立って、幻の痛みに手足の末端がひりひりと痛んだような気がした。痛覚がわからないのでそれが痛みかどうかも判別不能だが。

 二人は、カースから脅しの言葉が連ねられているから怯えているのではない。その言葉があまりに真に迫っていて、本当にそうされると思わされてしまったからこそ、恐怖しているのだ。

「し、しょう……」

 いつの間に、彼女に潜む地雷に触れてしまったのだろう。殺意と呼ぶにはあまりに生やさしいし、敵意と呼ぶにはあまりにぬるい。そんな形容のし難い負の感情が詰め込まれた赤と青の瞳が、絶対にそれをするなと語りかけるのだ。

「わ、わかった。わかりました」

 キャンサーがどもりながらも答えると、カースはすぐにその感情を霧散させた。

「なら良い。冗談でもそんな事は二度と言うなよ。その鍵は絶対に、必要に駆られた時以外使うな。……それを使うような状況にならない方が、本当は良いのだがな」

 先ほどまでの態度が嘘のようにあっけらかんとしているカースは、果たして先ほどまでの彼女と同一人物なのかと疑ってしまうほどだ。

「リーガルーからある程度の事情は聞いたな?」

「はい……。トリックスターが昔人類滅亡を企てたプレザント家の一員だとか……」

「その通りだ。ならば、今すべき事はわかるな?」

 カースに問われて、キャンサーは静かに頷く。

「……トリックスターの無力化と拘束」

「正確には保護だ。危害を加えないように、穏便にな」

 冷静なカースの言葉に、キャンサーの歯軋りがヒーラの耳に届く、覗き込んでみると、彼はもどかしげに歯を食いしばって、拳を握り込んでいる。そのまま、激情のままに彼は叫んだ。

「なんでですか! あいつは人類安楽死計画を行おうとしているんですよ⁉︎」

「まだ疑いの段階だ。トリスタが本当にそれをやろうとしてるかはわかない。推定無罪、というやつなのだよ。仮とはいえ無罪の人間に危害を加えて良いはずがない」

「推定無罪でも黒に近い! 多少の強行突破は許されるはずです!」

「これだから昔から変わった価値観は……! なんでも良い、とにかくあいつに傷をつけてはいけないんだ、絶対に」

 まるで癇癪のように叫び散らすキャンサーと、淡々とそれに返し続けるカース。その温度差に、キャンサーの苛立ちは募るばかりだ。

「……師匠は、なんであいつの肩を持つんですか」

 耐えられないとばかりに吐き出された一言。思っても見なかっただろう言葉にカースは目を丸くした。

「……肩を持っている訳ではない。もしトリスタとお前の立場が逆でも我は同じ事を言っている。我は俯瞰的な視点で公平に判断を下しているつもりだが、お前から見て違っていたか?」

「公平……? どこが! 小さい時から、師匠は全く公平なんかじゃない!」

 いきなりキャンサー達が小さい頃の話、つまり何年も前の話を持ち出されて、カースはあからさまに不機嫌そうな渋面を作った。しかしそこで正論で反論しても意味はないと判断したのか、その議題に乗る。

「我はお前達の扱いに差をつけたつもりはないが」

「どこが……どこがですか! ならどうしてあの嘘つきを、穀潰しを、家に置いておくんですか」

「家を出たのはお前の希望だろう、キャン。元々二人ともが持っていてお前が手放したものを、あの親不孝者が持っているからと言って嫉妬をするのか?」

「そういう事を言ってるんじゃなくて……! あいつは悪人なんですよ⁉︎ プレザント家の計画に携わってるんですよ⁉︎」

「だから推定無罪だと……!」

「それでもあいつがプレザント家に関わる厄災でしかない事には変わりない!」

 プレザント家は、今よりずっと昔に人類安楽死計画を実行しようとして、処罰された。それはその息子にまで及んだ。ただの、厄災の種だ。

 もし、トリックスターがいなかったら。存在しなかったら。そうであれば、もっと話は単純だった。キャンサーがこんなにも思い悩む事はなかった。劣等感に苛まれる事も、劣後感に苦しむ事もなかった。

 あんなやつ。


「あんなやつ、最初からいなければ!」


 吐き出された、触れるもの全てを傷つける言葉。それが切り裂いたのはカースだけでなく、言葉を吐き出した本人、キャンサーもまた同様だった。

 言っておきながら、ひどく後悔した。自分は、自分が嫌いである理由を他人に押し付けてしまった。トリックスターに、押し付けてしまった。自己嫌悪が加速する。

 しかし、そのキャンサーが浮かべている被害者面に苛立ったように、カースは一歩前に出た。

「お前にあいつの何がわかる⁉︎」

 カースが叫ぶ。彼女らしからぬ苛烈さと、激しい感情をさざなみ立たせて。振り上げられた平手にキャンサーは一歩後ずさって、次に来るであろう衝撃に目を瞑った。

 しかし、予想した痛みは一向に襲って来ず。恐る恐る目を開いてみると、振り上げられたカースの手は空中で止まって、震えていた。何も殴っていないというのに、何かを殴った痛みを感じているかのように。

「……すま、ない。子供に手をあげようとするなんて、親失格だな」

 意気消沈した様子で、カースは拳を下げる。それきり俯いてしまって、その表情は窺い知れない。しかし、声からは悔恨とやるせなさが滲み出ていた。

 さっと血の気が引く心地がした。八つ当たりの言葉を吐きつけておきながら、カースに罪悪感を抱かせてしまった。

「いや……ごめんなさい。ぼくも、言ってはいけない事を、言ってしまいました。……ありがとう、止めてくれて、怒ってくれて」

 キャンサーも彼女と同じように頭が冷て、肩を落としながら頭を下げる。

「……お前がトリスタに対してコンプレックスを抱いていたのは知っていた。だからお前が研究というものに没頭し始めた時、我は嬉しかったのだよ。アイデンティティを見つけたのだなと、トリスタが持っていないものを、お前は持てるようになったのだなと」

 カースはぽつりぽつりと語る。それに横から何かを言う気には、キャンサーもヒーラもならなかった。

「一方で、トリスタに対する罪悪感もあったんだ。キャン、確かにお前は、自分が嫌いかもしれない。劣等感に押しつぶされそうになっていたかもしれない。けれども、自由だった。自由だったんだよ」

 まるで、自分は、あるいはトリックスターは、そうではないような口ぶり。

「お前は何者にでもなれる。研究に飽きたら、そこで学んだ事を別の分野に生かす事もできるし、全く新しい事を初めてそこで自分の才能を探る事もできる。お前は、いくらでも自分の道を進む事ができたんだ」

 カースは唇を噛む。滴った鮮血が、ツギハギの皮膚を流れていった。

「我も、トリスタも、縛られている。血筋という名の、決して千切れない荒縄に」

「血筋……? もしかしてカースさんもプレザントの……?」

 ヒーラは思わず口を挟む。話の流れ的に、そうであるという可能性が浮上した以上、看過はできなかった。

「いいや、違う。我はプレザント家の者ではない。証拠に見たまえ、この瞳を。奇特な色と組み合わせではあるが、これは我自身で行った実験の結果によるもの。瞳孔の形は幼い頃から変わっておらん」

 そう言ってカースが見せつけたのは、ビビッドな青い左目と同じく鮮やかな赤い右目。その瞳孔は常人と同じ丸いもので、猫のような縦長ではない。プレザント一家の証は彼女には無いのだ。

「……じゃあ、あなたを縛ってきたって言う血筋って、なんの……?」

「お前達も、リーガルーから多少は聞いているのではないか?プレザント家に……ヘレン・プレザントに関わった研究者の家の話を」

 リーガルーからの話が脳内で呼び起こされる。ヘレン・プレザントの伴侶の話。

「それって、まさか……」

 キャンサーは、言わないでくれと願った。とてつもない嫌な予感に、指先が痺れるような心地。しかし、無慈悲にもその名は告げられる。


「カルチノーマ・ラックス。それが我の本名だ。我は正真正銘、ラックス家の最後の人間なのだよ」




 カルチノーマとは、癌を指す言葉だった。

 貧民街に潜むトラブルの元。貧民からは高貴な血筋を持つ者として忌み嫌われ、貴族からは没落した下賤の者と蔑視された。このビバリウムの腫瘍。癌である。

 幼い頃から親もなく、名前など持たなかった彼女はカルチノーマと呼ばれた。これがまだ人権意識が強く残った、ビバリウム完成から十年と少しの時代の話なのだから驚きだ。

 ラックス家としての居場所がなかったカルチノーマは、貧民街で生まれ育った。

 当時の貧民街は、現在よりもずっと貧民街らしかった。今まで外で暮らしてきていた人間が持ち込んだ財がそのまま社会的地位として反映されたため、貧民街に住んでいたのは外にいた頃から貧しかった者ばかり。昨今は時間が経過しすぎて財という概念が薄れつつあるが、昔はもっと酷かったのだ。

 そんな過酷な環境で、カルチノーマは生きてきた。一人きりではなく、彼女に一応の居場所を与えた老人と共にだ。その老人はどうやら盲目であるらしく、目には常に布を巻きつけていた。

 老人はカルチノーマをカルマと呼んだ。ただ単に長いからかもしれないし、彼女がそう呼ばれる事を嫌がったからかもしれない。しかし、略したところでカルマは「業」という意味だ。癌が業になる、それだけだ。

 カルチノーマと共に暮らした老人は、彼女と同じ没落貴族らしかった。同じ穴の狢、というやつだろう。二人は傷を舐め合うかのように寄り添い、しかし互いにその傷を癒そうとは考えなかった。二人は生きるために同じ家を共有していただけの、いわばルームメイトだったのだ。

 最初こそ、彼女は老人を親のように、無邪気に慕っていた。しかし老人がそれを嫌がっている事を知ると、すぐにそれをやめた。カルチノーマは聡い子供だったから、彼女は自分に求められているのは「一般的な子供」ではなく「自分の立場を理解している子供」である事を理解した。

 その押し付けられた子供像に従ったのは、やはり老人に対して恩義や愛情を持っていたからだろう。カルチノーマは、荒れた街の荒んだ家でひっそりと暮らしていた。

 その状況が変わったのは、カルチノーマが幼女から少女と言ってもいい年齢になった頃だ。老人はその頃、家から全く出ない生活を続けていた。カルチノーマもあまり外に出たがる質ではないため、ほとんどの時間は家の中で本を読んでいた。老人が没落する際、僅かに蔵書の中から持ち出したものだった。質素で、貧しい生活でも、彼女は現状に満足していた。

 老人はある日突然、カルチノーマがラックス家の人間である事を明かした。

 そして、中央街に近い場所にあるコンクリートで固められた家の地下室に案内された。人が追い出され、閑散とした家だった。

 老人はそこで初めて、目元の布を外した。露わになったのは、猫のように縦長の瞳孔。老人は、プレザント家の人間だった。プレザント家の者しか開けられない扉を開けて、カルチノーマは全ての真実を知った。

 最初は、人類安楽死計画を受け継ぐべきかと思った。自分はプレザントの血を継いではいないが、研究を引き継ぐ事はできるだろう、と。

 しかし、カルチノーマにはそれはできなかった。

 老人は病魔に侵されていた。それも、カルチノーマと名を同じくしている、癌に。彼を救うため、カルチノーマはラックス家が没落する前に行っていた研究を引き継ぐ事にした。

 その名は、「人類不死化計画」。

 ジョージ・ラックスが主導となって行っていた、その名の通りビバリウムに住まう人類を不老不死にする計画だ。

 その老人も、しばらくして研究と看病の甲斐なく死亡してしまうのだが、カルチノーマは一人きりになっても研究を続けた。

 老人の遺言通り、不当に奪われたラックス家の財産を取り戻し、研究者としての地位を確立し、住処を中央街の外れの、元々カルチノーマの家が所有していた私財である家へと移動し。

 不死の実験を何度も自分の体で行った。自分をいつまでも若く保たせるために様々な人間や動物の皮膚や内臓、髪などを移植し、研究に没頭し続けた。

 いつしか、外見の年齢が全く変わらず、しかしツギハギの手術痕が増えていくその体を見て、人々はカルチノーマをこう呼ぶようになった。

 魔女だ。呪われた魔女だ。不死の呪いにかけられた魔女だ。

 その嫌悪は、彼女に新たな名前をつけた。

「カース」

 呪い。

 彼女は、呪われた存在である、と。



「かつて人類安楽死計画と共に闇に葬られた人類不死化計画。その延長線上プロジェクトの主導者がこの我、カルチノーマ・ラックスなのだよ」

 淡々とした名乗りに、キャンサーとヒーラは目を剥いた。

 人類不死化計画。以前カースの家に訪れた際に見た名前だった。

 そして、不死という単語にラックスという苗字。キャンサーは、ヒーラを見た。彼女は目を見開き、瞬きすら忘れてしまったように言葉を失っている。

「ここまで言えばわかるだろう、ヒーラ……いや、ラックス家の不死者。お前は元々ラックス家が作った、唯一の不死の体現者なのだ」

 宣告のように言われたそれに、ヒーラが肩を震わせる。

「我もな、ラックス家の財産と同時に研究内容も知った。その際、不死者の存在も認知していたのだ。やむなくビバリウムの外に置いてきた、未完成の不死の存在についての資料をな」

 カースはひどく古びた紙束を取り出す。日焼けや虫食いこそないものの、湿気を吸って乾いてを繰り返してきたであろうそれは紙としてのしなやかさを失っていた。

 表紙には、不死者について、とシンプルに書いてある。著者名は、ジョージ・ラックス。キャンサーは知っている。それはデヴィッドの父の名前であると。

「ここには、その未完成の不死者のどこが未完成なのか記してある。未完成であると言うより……完成が確認される前に研究が打ち止めになった、と言った方が正しいな」

 カースはペラペラとそれを捲り、ふとした時にそれから視線を外してヒーラを見た。

「……『不死者に知識のインプットを完了。しかし知識欲はあるものの、それ以外に対する外部からの刺激に対しての反応が希薄である。まるでロボットのようだ。これより一般常識を教える事で、より人間に近づける事を試みる。二一◯◯年、ジョージ・ラックス』……これは、丁度ビバリウムが建設され人が入った年だな」

 つまり、ヒーラは不死者としてラックス家に研究されていた。しかし、人間性を学ぶ前にビバリウムの外に置いて行かれた。カースはそう纏めると、呆然とした様子のヒーラを一瞥した。

「厄介な事にな、ラックス家は我に『不死に関する資料』は残しても『不死を作る方法』は残さなかった。……揉み消されただけかもしれないがな。だからヒーラ、話してくれ。君は一体どうやって不死になったのか。他の普通の人間を、どうやって不死にするのか」

 カースの哀願するかのような声音に、ヒーラは怯えたような反応をする。肩を微かに震わせ、そして顔を真っ青にして両手で口を塞いだ。

「……どうした? 忘れたのか?」

「いや、覚えてる、覚えてるんです……けど……」

「何か、言えない事情があるのか」

「言えない、言えない。けど……」

 ヒーラは震える手で胸元のダイスを手に取り、そして躊躇しながらもそれを床に転がした。出た出目は、一。

「……そう、だよね。これ以上先送りにしてたって、みんな辛いだけだよ」

 言い聞かせるようにヒーラは呟く。震えた声音はあまりに頼りない。

 そして、彼女は自分の腕を殴りつけて震えを抑えて、薄く涙が滲む瞳をカースとキャンサーに向ける。


「……この世界に存在する人類は、不死にはなれないよ」


 それは、あまりに無慈悲な言葉だった。

「……は?」

「な、にを……」

 二人は揃って困惑しきった声でヒーラを凝視した。信じたくない。そんな感情が滲み出ている。

「わたしは、生まれつきの不老不死だから……」

「生まれつき……?」

「わたしは……特殊な細胞を人口培養する事で作られた人造人間。いわば、人工の不死。普通の人間が後から不死にされた訳じゃない。元々不死としてデザインされた存在」

 ヒーラの一番古い記憶は、培養液の中から始まっていた。人工的な母体の中で体を丸めて、それを覗き込んでくる白衣の人間たちの興味深そうな表情。

 彼女は後天的な不死なのではない。この世に生まれ落ちたその時から、不死と定義されて鼓動を始めた生物なのだ。

 猫は生まれつき猫だ。人間が猫になる事はできない。

 それと同様に、ヒーラは生まれつき不死なのだ。人間が不死になる事は、現時点では不可能なのだ。

「わたしは、不死の作り方は知っていても、不死のなり方は知らないんだよ……」

 カースが望むような情報は、持っていないのだ。

 そう語る彼女は、自分の無力さに打ちひしがれていた。自分の無力さに、不甲斐さなに。キャンサー達が求めるものを何ひとつ持っていない自分自身に。それをキャンサーもカースも理解していて、ヒーラを責める事はできなかった。

「はは……ふはははは!」

 唐突に、カースが笑い出す。諦めたような、開き直るような、純粋ではない哄笑。狂ったような、けれども事実を事実として捉えているかのような。

「間に合わない、間に合わないのか! ……我は、誰も彼も救えないのか……?」

 カースは頭を掻き毟り、ガリガリと皮膚を爪で削る音を鳴らした。千切れた髪が床に落ちる。

「いや、まだだ……まだ死んでない……いや、間に合うのか?我も、あいつも、残された時間は少ないのに……くそ、くそ、また……!」

 カースの目は血走り、ここではないどこかを見ているように泳いでいる。爛々と輝く瞳に映るのは、焦燥と狂気。彼女の意識の中には、キャンサーもヒーラもいなかった。

「し、師匠……?」

 名を呼んでも、彼女は反応を示さない。ただ狂熱に浮かされてブツブツと何かを呟き続けている。その異様な姿に後退りしたくなりながらも、キャンサーはカースの肩を掴んだ。

「師匠! 落ち着いて!」

 叫んで、無理やり顔を上げさせる。焦点の定まっていない瞳は数秒してからようやくキャンサーの姿を捉えて、そしてその瞳から涙をこぼした。

「すまない……。すまない、我のせいだ、何もかも……。すまない、ごめんなさい……」

 少女のような頼りない立ち姿。か細い声音。揺れている瞳。カースはキャンサーに抱きつき、そしてそのままへたり込む。彼女の体重に押さえつけられるような形で、キャンサーも同様に座り込んだ。

 涙をキャンサーの白衣に押し付け、そして静かな嗚咽を漏らす。ヒーラは罪悪感を抱きながらも、カースの頭を宥めるように撫でた。そうしているうちに正気を取り戻したようで、鼻をぐずらせながらも語り始める。

「我は、大事なんだ。お前達が。たった二人しかいない息子達が。だから、守るために、生かすために……我が死ぬ前に、不死を完成させたかった」

「死ぬ……?」

 その言葉に、キャンサーは狼狽を隠せない。まるで、自分の死期がわかっているような言い草ではないか。

「そうだ。我はもう長く生きすぎている。お前も疑問に思った事があるだろう? 十年前から我の容姿が一切変わっていない事に。我は我自身を改造し続け、こんなツギハギの姿になってまで永らえ続けた。……そのツケが、回ってきたのだよ」

 カースは乾いた笑みを浮かべる。あまりに悲しい、別れを告げるような笑みだ。脚を押さえつけて、彼女は嘆息する。

 皮膚、臓器、骨の何百回にも渡る移植手術。頭皮も移植したから髪の色も部分的に変化している。

 彼女の若々しい外見は、そういった方法によって作られた偽りの姿だ。彼女が本当に若かった頃の外見と今は、随分と乖離しているはずだ。写真などは残ってはいないために確認はできないが、彼女は確かに老う代わりに人外的に変貌していた。

「我はもう生きすぎた。我自身が不死になろうとは思っていない。けれどな……我にとって、お前達は唯一無二だ。お前達には生きていて欲しいのだよ」

「お前達って……ぼくと、トリックスター?」

「そうだよ。人類安楽死計画だとか、そんなものに関わらない生き方をお前達に提示したかった。永遠に生き続けるという選択肢を与えたかった。お前達の未来を、作りたかった」

 懺悔するように、囁くように、カースは告白し続ける。

「作りたかったんだ……不死を、何があってもお前達が生きていける道を……」

 肩口から沁みた涙。その濡れた感触。

 キャンサーは、何をするべきなのか分からなかった。自分の育ての親がさめざめと泣くなんて今まで見た事がないし、想像をした事もない。慰めるべきなのか、そのままにした方が良いのか。

 困惑をしながらも、必死に頭を動かしてキャンサーは言葉をゆるりゆるりと紡ぎ出す。

「師匠……ぼくは、不死に憧れを、抱けなくなってきたんだ。ヒーラっていう本物の不死を見て、けどヒーラは普通の女の子だったんだ」

 ヒーラが背後で目を見開く気配がわかった。カースに言い聞かせるように、キャンサーは続ける。

「ぼくにとって不死は、超人的で人外的で畏怖と敬意のと未知の象徴だった。けど、それはヒーラに覆された。ヒーラが、ぼくの今までの価値観を変えたんだ。変えてくれたんだ。ぼくはもう……不死を探求、しないよ」

 不死であるヒーラは、あまりに普通の少女だった。多少世間知らずな所はあるけれど、出された料理を純粋に楽しんで、新しい服にはしゃぐ。

 喜怒哀楽もわかりやすく、その花が綻ぶような笑みは無邪気な子供そのもの。

 デヴィッドという少年を懐古し、過去にいる彼を見つめる瞳も、恋焦がれる少女のものだった。

 彼女を見ていたら、不死に執着する事がバカらしくなった。キャンサーの価値観はもう、ヒーラによってひっくり返された。

 彼はもう、不死を研究するつもりは無いのだ。

 その決意の表情を見てカースは、安堵した表情を浮かべた。

「そうか……それなら、それがお前が選んだ道ならば、我は止めない。好きに生きなさい」

「うん……ごめん、師匠」

「謝る事は無い。我は最初から、お前の道を強制などしていなかった。好きに選べと、協力は惜しまないと言ったんだ。途中から道を変えても、それは変わりないさ」

カースの温かな言葉に、涙が滲みそうになる。けれども母のような彼女の前で涙を見せるのは気恥ずかしくて、必死に袖で拭った。

「キャンは、これからどうするのだ?」

「……まだわかんない。劣等感なんて持たないような、自分に向いてる道に進みたいとは思ってる。けどその前に……今はヒーラを手伝いたい、かな」

「手伝いとな」

「わたし、昔ビバリウムの外で会ったデヴィッド・ラックスっていう人について調べてるんです」

「デヴィッド・ラックス……」

 カースは表情を若干険しくして呟いた。彼女はラックス家の人間であり、ラックス家がヘレン・プレザントと関わったせいで没落した事も知っているのだろう。ならば、デヴィッドの事を多少知っていても違和感はない。

 彼女は意見を求めるようにキャンサーに視線を遣る。それに対して、彼は目をうろつかせた。デヴィッドの情報を隠しているのはキャンサーの独断だ。彼女に彼の話をしても良いのか、分からない。

 懇願するようにカースを見つめていると、彼女はその視線に気がつき訝しげにキャンサーの様子を見る。ぶんぶんと首を横に振っていると、何かを察したのか「あー……」と何か迷うような素振りを見せた。

「一応、家系図などを探ってみよう。ただ、同姓であるだけのなんの縁もない人間の可能性も大いにあるから、あまり期待はしないように」

 カースは表情一つ変えずに流暢に嘘を吐く。ヒーラは落胆したように肩を落として、「わかりました……」と沈んだ声音で答えた。

「ところでヒーラくん。レイがいたという部屋で探してもらいたいものがあるのだが、取ってきてもらっても良いか? 三センチほどの厚さの資料なのだが」

「いいですけど、キャンサーの方が詳しいんじゃ……」

「キャンと我はここでどんな資料が盗まれていて、どんなものが盗まれていないかの確認をする。取ってきてもらえると助かるのだが」

「それなら、わかりました」

 カースに命じられて、ヒーラはぱたぱたと二階への階段を登る。「急がなくて良いぞ」とカースが声をかけたものの、あの様子では聞かないだろう。

 さて、とカースはキャンサーに向き直る。ヒーラに席を外させたのは、これからの会話を聞かれないためだろう。

「説明してもらおうか、キャン。デヴィッド・ラックスについて、お前は何を秘めている?」

 カースは目つきを鋭くしてキャンサーを一瞥した。話を合わせてもらったからには、説明をしないわけにはいかない。そういった強制を含めた目。

「……師匠は、デヴィッドと同じラックス家なんだよね」

「ああ。ついでに言うのなら、デヴィッドは我の従兄弟にあたる人物だな。我が産まれるほんの数年前に行方不明になったと聞いているが」

 キャンサーは違和感を感じた。デヴィッドは約百年前に死んだ少年だ。正確に数えるのなら、リーガルーの元で見た資料では彼がビバリウムの外に出たのは二一一◯年。そして現在は二二◯七年。九十七年前だ。その彼の死亡の数年後という事は、少なくともカースが生まれたのは九十年ほど前となるのではないか。

「師匠って今何歳……」

「シャラップだキャン。女性に年齢を訊くのはマナー違反というものだろう」

 質問を言い終わる前に食い気味に静止され、鋭く睨まれる。どうやら年齢の話は彼女のタブーらしい。彼女は年若く見えるために年齢を気にした事がなかったが、以降も絶対に触れないようにした方がいいと心のメモに刻み込む。何年も家族として時間を共にしていても、案外わからない事はあるものだ。

「話を戻すが、その行方不明事件に関して手慰みに軽く調べた事があるのだが、不可解な事がいくつもあるのだよ。だからデヴィッドの名は覚えている」

 曰く、デヴィッドは行方不明直後にほとんど捜索がされていない。ヒーラの話によると外に出ていたらしいから、それがわかれば危険を鑑みて捜索はされないだろう。しかし、彼がビバリウム内にいる可能性の模索がほとんどされていなかったのだ。最初から、彼は外に出ている事がわかっているかのように。

 それだけできな臭いというのに、彼の母であるヘレンの不審死に父であるジョージの狂死。

 カースがラックス家の主として財産を取り戻した際、特定のもの……ヘレンの研究設備や資料だけが謎に紛失されている事。カースは最初から人類安楽死計画については知っていたためヘレンに関しての不可解な点はわかるのだが、何も知らない人間がこれを見たなら訝しむ事は必至だ。

 ヘレンについてもジョージについてもデヴィッドについても、掘れば掘るほど怪しくなる。不審がるなという方が難しいくらいだ。

「しかし、ラックス家に残ったものの全ての情報を組み合わせてもヘレンが外の研究者であり、それがきっかけでデヴィッドが外の世界に憧れを持っていた事。それからヘレンと別れた後からジョージは狂い始めた事しかわからなかったのだ。ジョージの研究資料は非常に有用だったが、ヘレンのものは生憎見つけられなくてな」

 カースがつらつらと語った内容に、キャンサーは苦虫を噛み潰したような苦々しい表情を浮かべる。それを見て取ったカースも、自分が述べた情報に何かがあると悟ったのだろう。いよいよ思考に深く沈み始めたのをキャンサーは引き止めた。

 キャンサーは事情を一通り語った。

 リーガルーの所で見た、おそらくは機密情報であるデヴィッドの身に起こった事の全て。

 そして、ヒーラがその偽りで塗り固められた彼の憧憬に縋ろうとしている事。

 沈痛な面持ちで語られる内容に、カースもどんどんと表情を険しくしていく。彼女も血が繋がっていないとはいえ、キャンサーとトリックスターの二人の親である。だからこそ、その無惨さに彼女ら叱らぬ激情を滲ませているのだろう。

 唇を噛み、自分の中で沸騰する何かを抑えているように、カースは長く細く息を吐く。

「そうか……」

 短い言葉ではあったものの、それは万感が込められている。

 その話と同時にキャンサーの苦悩までもを感じ取ったのだろう。彼女は緩慢な動きでキャンサーの頭を軽く撫でた。

「これ、ヒーラに話すべきか迷ってるんだ。このまま黙ってて、隠し通せたならいいんだけど、もしバレたらヒーラはきっと深く傷つくし、ぼくは信用されなくなるかもしれない。だからと言って、こんな残酷すぎる事を面と向かって話す勇気もない」

「我は……話さない方が良いと思う。嘘は時に、残酷な真実の刃を覆い隠す鞘となる。真実ばかりが人を救うわけではない。その嘘が彼女の救いになる目算があるのなら、我は反対はしないぞ」

 ただし、と彼女は付け加える。目つきを鋭くして、人差し指をキャンサーに突きつけた。

「つくなら徹底的に騙せ。それが真実であると思い込ませろ。半端な嘘は、誰も幸せにならないからな」

 不思議と、やけに実感が籠った言葉だと思った。

 どうせつくのなら、完璧な嘘を。

 その通りだ。もしヒーラに知られたら、なんて想定をする前に、ヒーラに知られないための努力をすべきだ。もしもの世界を考えてウダウダと停滞するよりかは、よっぽど有意義になる。

「……我が言えるのはここまでだ。その鍵はお前に託す。あとは好きにいきなさい」

 突き放すような一言だが、カースは親として彼を放る事はしない。あくまで、キャンサーの自由意志を尊重するという事を伝えるための言葉だ。

「うん……ありがとう、師匠」

「礼を言うことはない。……トリックスターの事も、始末をつけなくてはな」

「そうだね。あいつ、今どこで何をしてるんだろう」

 トリックスターの事を思い出す。数時間前に邂逅したばかりだが、嫌な指摘をされてその記憶を遠くに封じたいと心底で思っているのか、その記憶は少し古いように感じられた。

 そのふとした問いに、カースは口を噤んで俯いた。何かを知っている素振りにも見えるが、キャンサーには判然としない。無理して追及する理由もないのでそのままにしておいた。

「カースさん、これで合ってますか?」

 ヒーラがぱたぱたと足音を立てて階段を下り、そして手に持った書類を掲げてみせた。カースはそれを受け取ると頷いて、ヒーラに礼を言う。

「さて、今後の事なのだが、ひとまず今日は休息をとろう。明日は我は中央街に行こうと思っているのだが、ついてくるか?」

「中央街? なんでですか?」

「トリックスターの諸々の調査に心当たりがあるのだ。事情聴取だよ」

 中央街という単語で、頭に浮かぶのはチュトラリーとリーガルーの顔だ。カースはリーガルーと知り合いだという旨の発言をしていたし、中央街では案外顔が広いのかもしれない。

「……ついて行く。他にできることもなさそうだし」

「そうか。ヒーラは?」

「わたしも、キャンサーと同じくです。プレザント家の事がわかったら、デヴィッドの事もわかるかもしれないし」

 ヒーラがつらつらと述べた理由に、キャンサーはひっそりと肩を落した。やはり、彼女の中の優先順位はデヴィッドが一番で、キャンサーは二の次のようだ。

「わかった。それでは、今日はひとまず休もうか。歩く気力も体力も残っていないので、泊まらせてもらうぞ」

「え、それはいいんですけどベッドの余りは無いし、それに……」

 部屋を見回す。片付ける時間も無かった部屋は強盗に荒らされたまま、棚は全てひっくり返されていて、足の踏み場も少ないのが現状だ。もう日も暮れ始めているので今から片付けをしても視界が悪くなる。電気をつけるのは電気代がもったいない。

 更に言うと、この家にはキャンサーの自室のベッドとリビングのソファベッドくらいしかまともに眠れる設備は無い。毛布はいくつかあるが、寝台が無いのは割と深刻だろう。

「……とりあえず、ご飯にします?」

 たっぷり十秒、ひどい有様の室内を見渡してからのキャンサーの提案に、他二人は頷くしかなかった。

 キッチンも例のごとく荒らされていたが、元より料理にはあまり凝らない質で調理器具は必要最低限しか取り揃えていなかったために比較的ダメージが少なかった。棚に収まっていた非常用食料や携行食は床にばら撒かれていたが冷蔵庫の中身は一度引っ掻き回された痕跡があるだけで入ったまま、無事だった。

 床を覆おうとしている携行食を足で隅によけ、冷蔵庫から肉と適当な野菜を見繕って取り出す。キャンサーも疲れているし、簡単なものでいいだろうとそれらをフライパンで炒め、軽く味付けをしてから皿に盛り付けた。

 リビングに運んでみると、簡単な掃除をして食卓を座れる状態にしていたカースとヒーラが待機をしている。ヒーラは爛々と目を輝かせてキャンサーが持つ皿を食い破らんばかりに見つめていた。

 結果から言うのならばその料理の味は実に平凡で、不味くはないが美味しくもない、特筆すべきこともない味だった。しかしヒーラは例のごとくその料理を絶品であるかのように味わい、頬を綻ばせる。

 そのあまりの食べっぷりにカースも感嘆していたし、料理を作った身としてキャンサーもどこか誇らしげな気分になった。

「……キャンは健啖家な女子がタイプなのか」

「なっ……ち、違います!」

 二人が交わしたそんな会話は、ヒーラには見事に聞かれていなかった。

 時間は移ろい夜になり、就寝につく。キャンサーは自室で、ヒーラはソファベッドで以前のように眠る事になったのだが、ならばカースはどこで眠るのか。答えは、床だった。

 床に本を何冊か重ねて寝台を作り、あろうことかカースはそこに身を横たえた。本はハードカバーのものも多くあって固く、お世辞にも寝心地が良いとは言えないだろう。

 しかしそこでカースは「紙の匂いが落ち着く」などと言って薄い毛布を体に巻きつけ、すぐに眠り始めた。

 確かにカースは前々から研究に没頭して机に突っ伏して眠ったり本に埋もれて眠ったりはザラにあった。ちなみにそれを揺り起こして寝ぼけた彼女をベッドまで連れて行くのはキャンサーとトリックスターの仕事だ。

 そんな事だから明らかに眠りづらいであろう場所で眠る事にも慣れているのだろう。そのまま彼女はこんこんと眠りに落ちた。

 そんなカースに呆れの視線を向けながら、キャンサーとヒーラもまた眠りに落ちたのだ。



 夢を見た。誰かが、泣き叫ぶ夢だ。

 こんな場所、こんな世界、早く滅んでしまえば良いんだ。そう慟哭する誰かの夢だ。

 それはヘレン・プレザントだったかもしれないし、ジョージ・ラックスかもしれないし、デヴィッド・ラックスかもしれない。カースのようにもヒーラのようにもキャンサーのようにもトリックスターのようにも思える。リーガルーのようにもチュトラリーのようにも。

 名前も知らない誰かのような気もするし、姿や声が全て一秒ごとに変化していって、それは果たして名や定形を持った個人なのだろうかという疑いすら持ってしまう。

 あえて例えるのなら、人間という概念そのもの。それと相対しているような、奇妙な感覚だ。

 こんな場所で永らえたくはないと、それは哭く。ぼろぼろと涙を零して、ひたすらに叫び続ける。

 何故生きる事が嫌なのか、もっと正確に言うのなら、何故ビバリウムの中では生きていたくないのか。問おうとしても体は動かず、喉は錆びついたかのように何の音も吐き出さない。呼吸音すら無いその異様さに息を呑んだが、それすらも無音のままだ。

 金魚のように口を何度も開いては閉じを繰り返す。呼吸は問題なくできているはずなのに、なぜだか息苦しい気がしてきた。

 意識が霞んで、夢が映らない深い眠りに埋没しようとしたその瞬間。誰かに後ろから温かく柔らかく抱き止められて。

 それは耳元で囁く。


「きみも、そうでしょう?」




 キャンサーは目を覚ました。確かに見たはずの変な夢をぼんやりと記憶していて、しかしそれは目覚めから毎秒毎にどんどんと薄れて消えていこうとしている。

 どうせ忘れてしまうようなものなら大事でもなかったのだろう。幸福な甘い夢でも、悪い意味で記憶に残る悪夢でもない。覚えておく価値なんて無いものだ。

 キャンサーはベッドから身を起こして、大きな欠伸をひとつした。目覚めは良好。鮮明になりつつある意識は現時刻をはっきりと認識した。ちょうど良い時間だな、とキャンサーは服を着替えて扉を開ける。

 リビングではソファベッドの上にヒーラ、床に積み重ねられた本の上でカースが眠っている。眠りはそれなりに深いのか、ほんの少しならば物音を立てても問題はなさそうだった。

 二人が寝ている間に簡単な朝食を作り、食卓に並ぶ。その調理音でか、完成の頃には二人ともすっかり起きており、三人で食卓を囲って舌鼓を打った。

「さて、行くとするか」

 腹を満たして満足げにしたカースがそう言って立ち上がる。行く、というのは前日に打ち合わせた通り、中央街にだろう。

 ここ数日で何度も往復した道筋は、最早慣れたものとなっている。三人は特に会話もなくそこを歩いた。カースが先導し、その後ろをキャンサーとヒーラがついていく形だ。

 数時間の徒歩の道を終えて、カースは足を止める。その視線の先にあるのは、キャンサーにとっても見た覚えがある建築物だった。

 土地に困っているビバリウムでは珍しい芝生の庭。その真ん中に聳え立つ巨大な屋敷。以前ここで会った人物、チュトラリーの顔が頭をよぎった。

 カルフーン邸。ビバリウムの王族が住まう皇居。答えに迷ったようにカースに視線を向けるが、ここで間違いないとばかりに彼女は屋敷を見つめていた。

 門の向こう側には剪定用の鋏を抱えたメイドがおり、いかがしましたか、とカースに声をかけた。しかし彼女はそんなメイドに関わらず、屋敷を見上げて空気を吸う。

「キング! おい、キング! リーガルーの件で話がある、顔を見せろ!」

 キャンサーは、カースのそんな大音声を聞いたことが無かった。基本、研究以外では節エネルギーで生きているようなカースは、基本的に叫ばないし怒鳴らない。しかも今は昨日のような激情により叫んでいるわけではない。だから付き合いの長いキャンサーでも、彼女のそうした大声を聞く事は初めてで、思わずぎょっと目を剥いた。

 メイドは慌てたようにぱたぱたと屋敷の方に駆けていき、それから間もなく扉が乱暴に開かれた。

「リー兄が何だって⁉︎」

 顔を出したのは、満面の笑顔を浮かべた痩身長身の青年だった。

 その空色の髪とナイフのように鋭く釣り上がった眦、血の色をそのまま反映したかのような赤い瞳は、あまりにも見覚えがある。

「リーガルーさん……?」

 自らの脚で立って歩いたその男は門を開いて三人を招き入れる。にんまりとした笑みには無邪気さが滲んでいて、少しばかり幼いような印象を抱いた。

 リーガルーは確か骨が悪くて立ち歩けないという話だったが、目の前の彼は普通に立って歩いている。その顔に浮かぶ表情もリーガルーらしくない。ドッペルゲンガーか何かかと疑ってしまう。

「あれ、後ろの二人は……ああ、前来てたリー兄さんの客人だよね。僕様はキング・B=カルフーン。よろしくする気はないから覚えないでいいよ」

 男、改めキングはへにゃりとした笑顔を見せながら、しかしどこか冷淡に聞こえる声で名乗った。

 リー兄さん。リー、とはリーガルーの事なのだろう。つまり、キングはリーガルーの弟という事になる。

「……弟⁉︎」

 案内されて庭を歩きながら、キャンサーは思わず叫んだ。後ろではヒーラも同じように目を丸くしている。

「そ、弟。僕様、あのリー兄の双子の弟なんだよ。おんなじ卵子から分たれておんなじ胎から産まれた、ね。羨ましいでしょ、あのリー兄の弟って、最ッ高に名誉だよね!」

 キングはどこか飄々とした様子で語る。身振り手振りがやたらと多く、手足が長いために余計に大仰に見えた。

 彼は両開きの玄関の扉を通り抜けて、豪奢なホールの階段を登る。一度通った事がある場所だが、キャンサーは少々萎縮してしまう。ヒーラは悠然と歩いていた。

 キングが案内した先は、大きな広間だった。最奥には玉座が据えられており、背後の大きな窓から差し込む後光が玉座を荘厳に飾り立てて、螺鈿細工を輝かせている。

 豪奢で清潔に整えられた部屋なのだが、真ん中には赤茶けた液体をこぼしたかのような薄い汚れがあり、それだけが異彩を放っていた。

「これは……?」

「ん? 血溜まり」

 首を傾げたキャンサーに、キングは平然と答える。血溜まり、という事は誰かがここで怪我をしたという事だ。玉座の間で怪我人とは、一体何者なのだろうか。キングは怪我をしている様子は無いから、彼のものでは無いのだろう。

 彼は慣れた様子で玉座にどっかりと座り込む。白衣と細長い体躯の割に、その姿はやけに厳粛で椅子の雰囲気に馴染んでいた。

 いや、彼が玉座に馴染むのではない。玉座の方が彼に馴染んでいる。そう錯覚させるほどの、王としての姿。

「少し待ってて」

 キングの言葉はやはり王らしくない、剽軽なものだ。しかし、ただの一声で生唾を飲み込ませる緊張感が走った。

 どこからか現れた、メイド服を纏った赤目の女性がキングの側に侍る。鮮血のような瞳に見とめられて、キャンサーは密かに息を呑んだ。

 それからどれほどの時間が経っただろうか。おそらくほんの数分。しかし、体感では何十分にも感じられる。それほどに、玉座の間には緊迫した空気が漂っていた。

 ぴりぴりと電流が走っているかのような沈黙に耐えかねて、キャンサーが口を開こうとしたその時。両開きの扉が、ゆっくりと開かれた。

「お連れしました」

 扉を開いて一礼したのは、チュトラリーだった。以前と全く変わらない執事服に、立ち居振る舞い。彼女は車椅子を押して玉座の間に入り込む。その車椅子に座っていたのは、やはりと言うべきかリーガルーだった。

 彼は明らかに不機嫌と嫌悪を表情に露わにしており、その鋭く吊り上げられた眦もあって話しかけ難い雰囲気を全身に纏っている。以前会った時の冗談を言う軽妙さは、欠片たりとも残っていない。そしてその敵意や警戒心は、全てがキングに向かっているものだった。

「あは。久しぶりー、リー兄さん」

「黙れ。さっさと要件を言え」

 心底嬉しそうに破顔して見せるキングに対して、リーガルーは厳しい渋面のまま彼を睨んでいる。顔は全く同じだが、そこに浮かぶ表情は全く違うものだった。

「要件って、そんなの言わなくても兄さんならわかるんじゃない?」

「……ビバリウム存続派の希望を、不死計画派のお前が摘み取る。それしか考えられないな」

「ビバリウム存続派……?」

「その名の通り、このままのビバリウムを存続させようと考えている派閥だ。人類不死化計画にもビバリウム存続派にも傾倒しない大多数だな」

 キャンサーの疑問にリーガルーが答える。それに代わるようにキングが饒舌に語り始めた。

「今ビバリウムに関する派閥は三つに分かれてて、多い順から『ビバリウム存続派』『人類安楽死計画派』『不死計画派』に別れてるんだ。リー兄さんはビバリウム存続派、僕様は不死計画派」

 その説明にカースがあからさまに眉を顰める。

「そんな派閥、初めて聞いたぞ」

「カルフーン家のみで昔からある区分分けだから、一般はおろか他研究者もほとんど知らない筈だからね」

 それを聞いて、キャンサーは納得した。リーガルーの元で見たデヴィッドについての資料はカルフーン家の者によって書かれていた。つまりカルフーン家は何もかもを知って、記録しているのだろう。

 そんな彼らがヘレンが企てた人類安楽死計画の事も、ジョージの狂死によって凍結された不死化計画の事も知らないはずがない。ビバリウムの、人類の未来に関わるその計画の存在を把握していない訳がないのだ。

「ああ、それでねリー兄。さっき言ってたリー兄の予想、ハズレなんだよ」

 キングは楽しそうに笑みを浮かべながら、今日あった嬉しい事を報告するように言う。リーガルーは苛立ったように眉を吊り上げた。

「じゃあ何だ。よりにもよってお前が、まともな理由で俺様を呼び出すとは思えないんだが」

「あっははぁ。ひどいなぁ、信用ないなぁ僕様。けどさけどさ安心してよ。それは合ってるよ。これ言ったら、多分リー兄さん怒るから。優しい優しいノアの方舟の王であるリー兄さんは、絶対に怒るから!」

 高揚している様子のキングの瞳は、ギラギラとした狂熱が瞬いている。鮮血の色の瞳が、明らかに正気ではない様子で。

 その瞳を見て、背筋が凍りつくような心地がした。それはどこまでも冷たく、熱く、まるで火山の奥底で幾年をもかけて煮え立つ溶岩と、遥か北の海に浮かぶ氷山が同居しているかのような、そんな矛盾した瞳。

「不死の君は、デヴィッドとか言う人の憧れを求めてるんだっけ」

 急に話題が一転し、ヒーラに話が振られた。彼女は「えっ、わたし?」と目を丸くし、キャンサーはリーガルーが「なぜ知っている」と言いたげな胡乱な視線を向ける。隠す気もない、あるいは隠す余裕もない、図星の反応。キングはからからと笑いながら続けた。

「僕様にはさぁ、優秀なメイドがついてるんだよね。ねぇサボディネート」

「恐縮です」

 キングの側に侍っていたメイドが頭を下げた。赤い瞳は冷め切っており、感情がないような能面めいた表情は全く動かずに謙遜の言葉を吐き出す。

 チュトラリーは人形の皮を被った人間といったような印象だった。冷淡なようで、その実氷のような瞳に熱を宿している。対するサボディネートは、人間の皮を被った人形だ。血潮の色をした瞳は冷え冷えとする無感情が奥底にあり、得体の知れない不気味さを感じさせる。キングやリーガルーと色はよく似ているものの、そこに含まれている感情のみが明確に異なっていた。

 キャンサーの隣で、カースが何かに気がついたような表情をした。視線だけで疑問を呈すると、「お前の家を襲撃した奴の一味だ」と耳打ちをされて、凝然と彼女を見つめてしまった。

「んーで、デヴィッドの事知りたいんでしょ? いいよいいよ、教えてあげる」

 にやにやと、無邪気でありながら奥底に厭らしさを孕んだ笑みを見せながら、キングは言う。キャンサーは内腑を内側から煮焦がすような焦燥感を覚えて、思わずヒーラの方を見た。

 彼女は、まるで救いの手を差し伸べられたかのような顔をしていた。瞳は輝き、キングの姿を見つめている。

 だめだ、と思った。根拠なんてなく、直感で。ヒーラの耳を手で塞ごうとして、しかし一寸遅く、キングの言葉は吐き出された後だった。

「デヴィッド・ラックスはね、謀殺されたんだよ」

 その瞬間、空気が凍りついた。

 優しく叩きつけられた事実に、ヒーラの瞳がひび割れる。喉から、え、とまともに発音できなかった言葉のなりそこないがこぼれ落ちた。

 そこに追い討ちをかけるように、キングは叫ぶ。真実という名の鋭く光るナイフをばら撒いて、狂気を孕んだ笑みをにたりと浮かべて。

「彼の親の咎を彼自身が背負わされて死んだんだよぉ。彼の憧れは全部彼を合法的に殺すための刃だったんだよぉ。彼の憧れは全部全部贋作で、彼はなぁんにもない人間だったんだよぉ‼︎」

 ヒーラは床にへたり込む。諤々と全身が震えている。何を言われたのか把握しきれていないようで、琥珀色の瞳は困惑に満ちていた。彼女の縋るような目線に射止められて、キャンサーの胸は罪悪感にきゅうと痛む。

「デヴィッドの母のヘレンは人類を根絶やしにする事を考え、実行に移そうとした大罪人! デヴィッドはその息子。彼は母が犯した罪を一緒に償わされて、偽物の憧れを抱かされて外に出るように差し向けられた。彼が抱いた憧れなんて最初っから存在してない!」

「……うそ」

 彼女の願いが頭の中を駆け巡る。

 彼の憧れを知りたい。彼の憧れを、自分も抱きたい。

 そう語った、ヒーラの無邪気で輝いた瞳。

 その光が、どんどんと失われていく。彼女の憧憬が、それを抱く心が、小枝のように容易く折られていく。

「嘘じゃなぁい! 彼は有りもしない憧れに殉死した哀れな少年なのさ。自殺するように差し向けられた、そのためだけに成長した少年なのさぁ!」

「キング、やめろ!」

「なんで? 僕様本当の事言ってるだけじゃん。彼女が探し求めてた真実だよ。隠す方が残酷じゃないの。こんな悲しくて哀れで悲劇的な過去を隠しておいて、そんなものにひたむいていく方がよっぽど残酷じゃない? 悠久の命を持つその子なら尚更さぁ!」

 リーガルーの静止にも関わらず、キングはつらつらと語り続ける。息継ぎすらも最小限で捲し立てるように喋り続けるキングに空気が呑まれて、全員が口を開けない。

「ああ、そうだ。そこのへっぽこ研究者もどき」

「え、もしかしてぼく……?」

「そうそう」

 唐突に指名をされて、キャンサーは思わず瞬いた。背筋に氷を差し込まれたかのような悪寒に、身震いが治らない。

 言わないでくれ、と切に願った。何を言われるのかわからないのに、露悪的な物言いで何かが叩きつけられるという予感だけがあった。しかしその願いは簡単に切り捨てられ、キングが口を開く。

「きみ、お肉は好き? 好きでしょ。安いし、多く市場に出回ってるし。好きだよね。庶民の味方だよね」

 それは問いの形は取ってはいるものの、キャンサーに答えさせる気がないものだった。もちろん好きだが、それを言うのはなぜだか嫌な予感によって憚られた。

「それじゃあさ、きみ、今まで食べてきたお肉が何の肉だか知ってる? わかる?」

「……! やめろキング、それだけは!」

 にたりと口角を吊り上げたキングに対して、リーガルーが叫んだ。元から青白い彼の顔色は更に血の気を失って蒼白になっている。静止の声も虚しく、キングの口は続きを紡ぎ出した。


「あれさぁ、人間の肉なんだよ。ノアの方舟で眠っている人間の肉」


 気軽に吐き出された言葉を、キャンサーは一瞬理解できなかった。その言葉を認識して、脳の中で情報を処理するのに数秒の時間を要した。

 そんな風にしてようやく噛み砕けた言葉を、今度は感情が拒否をした。

 人肉。今まで、食べてきたものが。

 頭が真っ白になって、そこにその文字列が浮かび上がる。ゆっくりとそれを咀嚼して、それでようやく理解して。その瞬間。

 キャンサーは激しい吐き気に襲われて、悲鳴をあげながら嘔吐いていた。

「ゔぉええぇえええ……!」

 床に這いつくばって、美しい模様が描かれている大理石の床に胃液と未消化物をびたびたと吐きつける。呼吸が詰まり、喉に熱い何かが滞っているかのような感覚。胃がひっくり返るような心地になりながらすっからかんになるまで吐いて、そうなってからも口に指を入れて吐こうとした。

 そんな事をしても過去に食べたもの全てがなくなるわけではない。消化されてその身に取り込まれたからには、もう取り返しがつかない。そんな事は理解していた。けれども、吐かずにはいられなかった。

 自分が吐き終わっても嘔吐く声がぼんやりと聞こえて視線を巡らせると、カースが壁に手をついて背中を痙攣させていた。彼女も先程明かされた事実を知らなかったようだ。

「あーあー。何やってんの」

 そんな呆れたようなキングの言葉は、今は耳に入らない。頭がくらくらと歪んで、真っ白になる。内臓がそのまま喉まで迫り上がるような錯覚を覚えて、キャンサーは口を抑える。

「ビバリウム地下の巨大設備、『ノアの方舟』。そこにはね、ビバリウムっていう狭い世界に収まりきらなかった何億人もの人がね、未来の人が発展させる技術に自分の命を託してコールドスリープをしている設備なんだ。ビバリウムに入り切る人口は三万八千四百人。そっからあぶれた人をまさか見殺しにする訳に行かないから、眠らせて保管してるんだよ」

 ただし、コールドスリープとは未発達な技術だ。人を凍らせる事自体は可能だが、そこから蘇生をする方法は確立されていない。つまり将来蘇生方法が見つかるまで眠り続けるという、未来の人間の技術に頼った、行き当たりばったりでその場しのぎの生存方法だ。

「そっから百年以上経った今でも蘇生の方法は見つからなくって、けど人間は氷漬けにされてても一応は生物だから、足りない栄養とかによってどんどん死んでいくんだよねぇ」

 ね、兄さん、とキングはいやらしい笑みを浮かべてリーガルーに語りかけた。リーガルーは聞きたくないとばかりに頭を降るが、その耳にねじ込むようにキングは続ける。

「ノアの方舟の管理者にして、その眠り続ける死にゆく人達の最後の希望がリー兄さんなんだよねぇ。時間的にそろそろ危なくて、死ぬ人がどんどん多くなってる。その一方で、ビバリウムの食料問題はどんどん深刻化。目覚める見込みがない人や死体を喰らおうってのは、ものすごーく合理的だねぇ。何十年前かな、百年前かな、それを考えついた人は天才だけどとんでもない馬鹿だよねぇ」

 リーガルーが深く俯く。その隣でチュトラリーが唇を噛んだ。

「赤ん坊の頃から冷凍庫の主として、何億もの人の命を救わなければならないという重圧をかけられてきた哀れな兄さん。まともに地上に出る事も、陽の光を浴びることもできずにそんな病を患ってしまった可哀想な兄さん。僕様が兄さんを不死にして、救ってあげるから!」

「そんな事……望んでない!」

 キングに反駁したリーガルーの言葉に、しかしキングは答えない。熱に浮かされた様子で、今度はキャンサーに向き直る。

「ねぇねぇ、クソッタレだと思った? おんなじ人間の肉を喰らわないとまともに生きていく事もできないこの世界に心底嫌気が差した? だよねぇ! 僕様もそう思うよ! だってリー兄さんを地下世界に閉じ込めて役目を全部押し付けたこの家が仕切る世界とか、どうしようもないくらいクソだもんねぇ!」

 広い玉座の間に、彼の大声が反響していた。それがぐるぐると脳を巡った。

 あぁ、本当にクソったれだ。

 人の肉を、食べさせられていた。

 デヴィッドが謂れのない罪で殺された。

 そんな事をしなければ生きていけないのなら。

 そんな事をするような奴らが王族として君臨して、取り仕切る世界なんて。


 滅びてしまえばいい。


 その考えが頭をよぎる。同時に、ひどく絶望した心地になった。キャンサーもヒーラも呆然と床を見つめて、破壊思想に身を委ねそうになる。身を包み込む絶望感に、支配されそうになる。

 みんな安らかに死んでしまえば、こんな想いはしないのに。

 そう思った瞬間、彼らの考えが、限りなく人類安楽死計画に傾倒した。

 しかし。

「そうはさせないよぉ!」

 キングが叫び、手のひらに載せられた何かを掲げる。逆光でよく見えないが、卓球の球ほどの大きさの丸いものだ。カースが凝然と息を呑んだが、それは二人の視界と意識の外だった。

「絶望した? ビバリウムを壊したくなった? こんなところで生きていたくないって、そう思った? 残念! ここはどうあろうと君たちが生きる世界だ! 逃れようもないそれが現実だ! そんな君たちが救われる方法はただ一つ、人類安楽死計画の施行!」

 その言葉に、キャンサーとヒーラは緩く反応した。

 二人の間では、これまでにはなかった破滅願望が渦巻いている。だから、それに反応してしまうのも当然の事だった。

「人類安楽死計画の施行に必要なのは? かつてのプレザント家が地下に作った研究施設。そこに計画実行のトリガーがある。ならそこに入るには? 鍵になるのは虹彩認証。つまりプレザント家の者の眼!」

 キングは息を一つ吸う。「これ、なーんだ」と嫌らしい声音で言って、その掌に包まれたものを露わにした。それを見て、全員が息を呑む。

 キングが手にしているのは、眼球だった。

 ころりと丸い、卓球のボールほどの大きさのタンパク質の塊。鉛筆で精緻に書き込まれたような血管と虹彩が生々しい。

 瞳の色は深い青の、碧眼。そしてその瞳孔は、明るい場所にいる猫のように細長い。それは紛れもなく、プレザント家の証だ。

 現在生存しているプレザント家の人間は、トリックスターのみ。

 つまり、それは。

「トリックスターの、眼球……」

 カースが呻くように呟いた。彼女の目は愕然と見開かれ、真っ直ぐにその眼球を見つめている。なぜそんなものを持っているのかと問いたげな目だった。キングはにこやかなまま答える。

「前さあ、プレザント家の生き残りを殺そうとここに呼びつけたんだよねぇ。僕様は優しいから遺言を残す時間だけ与えてね。あの子供は賢いねぇ。要件を言わずとも自分が殺されようとしてる事を予想してたし、その理由が目である事もわかってた」

 キングは眼球を手の中で弄びながら、トリックスターに掛け値のない賞賛の言葉を贈っていた。それがとてつもなく悪趣味に思えて、キャンサーはまたもや吐き気を催す。

「抵抗もしなかったし、大人しくついて行くって言ってくれて。その代わり、数日の猶予が欲しいってね。本当に従順でいい子だったよぉ」

 ギリ、と歯軋りをする音をカースが鳴らす。「いい子」という言葉の前に「都合のいい」という枕詞がついているように聞こえて、キャンサーも不愉快を隠せなかった。

「それでねぇ、目さえなければ命を狙われる事はないって、僕様の目の前で両目を抉り出したんだよ。自分でね。ほら、そこの血痕が残ってるあたりで。片方はその場で踏み潰されたんだけど、片方はほら、引き渡してくれたんだよねぇ」

 宝石を見せびらかすように、キングはその眼球を掲げた。そして床に残された血痕を指差す。トリックスターが己の眼球を抉り出し、踏み潰したのがそこなのだろう。

 昨日会ったトリックスターは、目元に布を巻いていた。あれは指名手配から逃れるために瞳を隠していたのではなく。

 そもそも、露出できる眼球がなかったから。

 何も嵌まっていない虚ろな眼窩を想像してしまって、キャンサーの喉からぐぷりと音が鳴った。もう吐けるものは吐き尽くしたのに、悪心だけが腹の中で蟠る。ヒーラも、自身の眼球を抉り出すという行為の悍ましさとそれをしなければならない状況にまでトリックスターを追い込んだキングに、戦々恐々としていた。

「……う、うぅうううう」

 気がつけば、ヒーラの瞳からは大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちている。琥珀色の瞳は蜂蜜のように溶け出してしまいそうだ。溢れてやまない涙を乱暴に拭いながら、ヒーラは呻いていた。

 キャンサーは口を押さえて、ひたすらに込み上げる吐き気を抑えつけていた。自分では気がついていないが、彼の瞳からもまた、細々とした涙が落ちている。鳩尾を宥めるように腕で覆いながら、彼は無音で嘆いていた。

 デヴィッドに関する真実。人肉を食べていたという真実。他人に眼を抉らせて平然としていられる者がビバリウムを統治していたという真実。次々と突きつけられる真実に、脳に無理矢理押し込まれた情報に、二人の精神はもう限界だった。

 ビバリウムなんて壊れてしまえば良い。そんな事を、本気で思ってしまうくらい。

「けどねぇ、ビバリウムが壊されるのは、僕様とリー兄さんが生きる世界を壊されるのは、ダメなんだよねぇ」

 その時キングが浮かべていたのは、いっそ恐ろしいくらいの笑顔だった。邪気なんてなく、愛想は良く、人好きしそうな穏やかな笑み。そうとしか見えないのに、そうとは思えなかった。

 彼はトリックスターの眼球を、見せつけるように掲げる。柔和な笑みのまま、微笑んで。


 くしゃり。


 それは、もう使わない紙を握りつぶす仕草に似ていた。

 酷く残酷に、無邪気に、当たり前のように、自然に、キングは手のひらの中のものを握り潰した。

 赤い水が入った水風船を割ったように、どろりとした赤黒いものが溢れて。

 それが血で、トリックスターの眼球がいとも容易く、ゴミのように潰された事を二人が理解した頃には、もう遅かった。

「はぁい、これで鍵はなくなりました。もう人類安楽死計画を実行する手立てはありませぇん」

 キングの笑みは相変わらず。しかし、涙で霞む二人の視界に、それは酷く悪辣で醜いものに映った。視界が急激に霞んでいく。

「とり、すた……」

 カースがひどく情けない声で、トリックスターの名を呼ぶ。愕然と、まるで現実を拒絶するように。彼女の瞳から涙溢れないが、それはただ単に、彼女の悲嘆の感情に涙腺が追いついていないだけだった。

「これが……これがお前の狙いかよ、キング!」

 床に伏す二人の子供に気遣わしげな目線を向けた後、明らかな敵意が籠った瞳でキングを睨んで、リーガルーは叫んだ。

 まだ中立の立場、つまりビバリウム存続派にいる二人を、不確定要素にならないように一度人類安楽死計画派に傾倒させる。

 そして、彼らの目の前で人類安楽死計画への足がかりを潰してみせて、自分にとっての邪魔な不確定要素は潰す。

 心をべきべきにへし折って、人類安楽死計画派を絶やす。

 それが、キングの狙い。

 そのためだけに、サボディネートにありとあらゆる情報を収集させ、トリックスターの眼球を入手し、全員をこの場に呼び寄せた。

 なんて用意周到なのだろう。なんて悪辣なのだろう。一体、なんのために。そんな疑問を持つのも当然だった。

 疑念を見透かしたように、キングは玉座から立ち上がって心底楽しげにくるくると回りながら喋り続ける。

「不死計画の実行。それが僕様の狙いだよ。そのためにはそこの……カルチノーマ、だっけ。彼女にも生きていて貰わなきゃね。なんせ、不死の研究の第一任者なんだからさ!」

 あくまでにこやかに、キングはカースに歩み寄る。目の前で家族であるトリックスターの眼を潰された彼女は、愕然と目を見開いたまま床にへたり込んでいた。キングを見上げる瞳は、凍りついて動かない。

 彼は、カースの頬に触れた。眼球を握りつぶして、そのトリックスターの血が滴っている手で。赤黒いそれが彼女の頬にこびりつき、グロテスクなメイクを施す。

「なん、の……ために……」

「愚問だねぇ。そんなの、リー兄さんのために決まってるでしょ」

 平然と、何を当たり前の事を訊いているんだとでも言いたげに、彼は答えた。急に名前を呼ばれたリーガルーは屹と唇を引き結んだ。

 チュトラリーは彼を背に庇おうとするが、それはいつの間にか迫っていたサボディネートにより遮られる。邪魔するな、と赤い瞳に牽制されて、チュトラリーは一歩後ずさった。

「兄さんは可哀想だよねぇ。双子なのにリー兄さんだけ地下世界に閉じ込められて、凍りついて眠っている人達を生き返らすための研究に没頭させられてさぁ」

 リーガルーとキング。二人は一卵性双生児であり、その生まれは同じ。しかし、赤子の頃からリーガルーはノアの方舟の王者にしてそこで眠る人々の救世主であれと育てられてきた。対するキングは、地上世界ビバリウムの王者たれと言われてきた。

 双子なのに、その在り方は徹底的に異なっている。

「そのせいでリー兄の体こうなっちゃって、普通に動いただけで骨折れるんでしょ? 僕様はね、リー兄を助けたいんだよ。この世の人々が全員不老不死になったら、地下世界の人も不死にできたら、兄さんも役目から解放されて万々歳でしょ?」

 キングはくるくると舞って白衣の裾を翻しながら、歌い上げるように語る。頬は僅かに紅潮し、夢を語る子供そのものの表情。

 彼はずいっと顔をリーガルーに近づける。真紅の瞳の最奥にゆらめく妄執の炎。リーガルーは背筋に氷を差し込まれたかのような悪寒に襲われて、車椅子を僅かに後ろに下げた。

「ね、リー兄。兄さんも死にたくはないでしょ? リー兄さんだって、陽だまりの中で生きたいでしょ? その権利が、兄さんにはあるでしょ? あるなら主張しようよ。現状に甘んじちゃダメだよ。ノアの方舟は放ってはおけないって言うなら、全員を不死にしちゃえば良いんだからさぁ」

 キングは甘く囁く。

 兄さんだって、生まれついて縛られてきた役目から解放されたくない訳じゃないだろう。

 だったらもう、放棄しても良いんだよ。

 甘い甘い、誘惑の蜜。

 リーガルーは、車椅子の肘掛けを強く握りしめた。脆くなった自分の骨が軋んでしまうくらい、強く。

「そんな事の、ために……」

「そんな事? 兄さんは僕様の片割れでしょ? 自分の一部とも言える人を助けたいって、救いたいって思うのは不自然な事かな?」

 キングの赤い瞳は、純粋に無垢に染まっている。そこにあるのは、きっとありふれた、けれどもどこか異常な家族愛。ただそれだけなのだろう。

 キングの感情を突き詰めたら、そこにあるのは兄を救いたいという感情、ただそれだけなのだから。

「まぁなんにせよさぁ、もう人類安楽死計画への道は絶たれちゃった訳だし?諦めて着々と進んでいく不死計画を見てなよ。カースさんも、協力してくれるよね?」

「いや、我は……」

「いいの? 息子さん、もうすぐ死んじゃうんでしょ?」

「……は?」

 拒否しようとしたカースへのキングの発言に、キャンサーは反応した。自分は死ぬ事はない。誰かに殺されるのなら別だが、死に繋がるような病気や怪我は負っていない。

 困惑を見せたキャンサーに関わらず、キングは続ける。

「トリックスター・プレザントは余命幾許かって、彼自身の口から聞いてるよぉ。いいの? 愛する我が子をみすみす死なせて」

 いやらしい声音。いやらしい笑み。新しく出された情報にキャンサーは固まった。

 カースは屹とキングを睨んで、何も答えない。その態度が気に食わないのか、彼は少し声を低くして「フゥン」と鼻白んだ。

「ま、いーや。全員選んでよね。不死の研究に協力するか、それとも僕様へのささやかな反抗として存続派に傾くか。僕様は優しい王様だから、それくらいの選択肢は与えるからねー」




 気がついた時には、キャンサーは車の後部座席に座っていた。ぼんやりとした視界が鬱陶しくて目を擦ると、隣には同じように心ここにあらずといった様子のヒーラと、運転席にカースの背が見える。

「……師匠」

「なんだ、キャン」

 カースは普段とあまり変わらない様子で答える。表情こそ見えないものの、声音は常通りだ。

「……師匠は、どれ?」

 随分と曖昧な問いだったが、意図は伝わったようで、淡い苦笑が返ってくる。

「我は、ずっと不死計画派だよ」

「あれを、知っても?」

 不死計画派の首領と言ってもいいような立場にあるキングの醜悪さを知っても、尚?

「ああ。我はもう、家族を失いたくないのでな」

「……それは、トリスタのため?」

「いいや、お前のためでもある」

 カースは淡々と答える。その声に、迷いは無い。

「確かに、今まで知らなかった事を叩きつけられて、少なからずショックだったさ。一瞬、ほんの一瞬だけ、滅んでしまった方が良いのではと思った事も事実だ」

 しかし、とカースは言葉を区切る。

「確かに、汚れた世界だ。不浄な社会だ。汚濁に塗れた人類だ。……しかし、我が子達の価値の方が、我にとっては高い」

 人間社会とは常に清濁を併せ持つものだ。それは人間という生物が統治をしている以上は仕方がない。天秤が良い方に傾きすぎる、清いことばかりの世界だったら、それはもう人間ではない生命体が住まう場所だろう。

 逆に天秤が悪い方に傾きすぎると、それは明かな悪政。改革され淘汰されるべき悪だ。

 今は、その均衡が崩れている。少なくともキャンサーの目にはそう映っている。

 しかし、カースにとってはその天秤がどうなっていようとどうでも良いのだ。

 もちろん、我が子に危害が及ぶようならばその改正に努める。しかし、その世界を我が子達が受け入れるならば何もしない。子供達が生きていく世界なのだから、守らなければならない。

「……前々から思ってたけど、どうして師匠はそんなにもぼく達の優先順位を高くしているんですか?」

「母が子を思うのは当たり前だろう」

「当たり前ではないです。血の繋がりなんて無いし……あったとしても、そうやって親が子供を庇護するのなんて、当たり前では決して無いです」

 キャンサーは、実の母に捨てられた。正確にはキャンサー自身が母から逃げた。母は子供であるキャンサーを守ろうと攻撃的になるあまり、キャンサーにまで危害を及ぼしていたのだ。貧民街は子供という金と食料を食い潰す存在を抱えられるほど裕福さも精神的余裕もない家庭で溢れていた。キャンサーも、その家に生まれた一人なのだ。

 トリックスターに関しても多くは語らないが、きっと同じような事があって一人で生きていたのだろう。どこもかしこも、子供を守って当然と言えるほど豊かな訳ではない。血の繋がった父が子供を放棄し、血の繋がった母が子供を殺す。それが珍しくない時代だ。

 だというのに、血の繋がりも無いただの子供であるキャンサーとトリックスターを溺愛し、守ろうとするのか。その理由がわからなかった。

「……おまえもわかるだろう? トリスタが我を『カーさん』と、呪いを意味する名を愛称として変えて呼んでくれて、同時に母と呼んでいるとも取れるような愛称を使ってくれた事が、どれほど嬉しかったか」

 カースは車のハンドルを切りながら続ける。僅かに見えた横顔は、口角が僅かに上がっている。

 わかる。キャンサーなんて名前を「カニくん」と茶化してくれたのは、トリックスターが最初だったから。

「おまえはわからないだろう? おまえが師匠と呼んで慕ってくれて……我がかつて、あの老人に向けいてたような感情を、我に向けてくれて、どれほど救われた心地になったか」

 つまり、カースは二人の息子をかつての自分に重ねていたのだろう。

 慕われる事で、かつて自分が老人にできなかった事をしている気になっているのだろう。

 もちろん、家族愛が無い訳ではない。彼女が二人を拾った時に言った、「寂しい」などの理由も嘘では無いだろう。しかし、代償行為の意図が全く無かったかと問われると、それもやはり否なのだ。

「最低だと思うか? 我は純粋な親では無いのだから。純粋に無償の愛を与える母では無いのだから」

「……親としての気持ちも、代償として他の人を救う事で救われた気持ちになるってのも、ぼくにはよくわからない。けど……あのまま貧民街で暮らすよりは、幸せだったと思う。多分、トリスタも」

 それを聞いて、カースが少し頬を緩めたような気配がした。あくまで気配だけで、その表情は窺い知れないし、横顔も見えない。バックミラーも角度の問題で見えなかった。それでも彼女が笑んでいるとわかるのは、十年の間の付き合いのお陰なのだろうか。

 会話の間に少し気分が落ち着いてきて、安穏とした微睡みが襲ってくる。隣で寝息を立てているヒーラは、未だに起きる気配が無い。

「ついたぞ」

 カースは短く告げると、カース宅の閉塞感に満ちたガレージに車を収める。キャンサーはよろよろと車から這い出る。地面を踏む感覚が、とてつもなく重くのしかかった。まるで重力が何倍にも膨れ上がったかのように。

 ガレージからリビングに直結している扉を開けると、そこでキャンサーは自分の目を疑う。

「やぁ」

 片手をひらりと振って、短くにこやかに挨拶をしたのは、トリックスターその人だった。目に巻かれた分厚い黒い布は相変わらずで、その下の虚ろな眼窩はきっと、キャンサーを見ていない。

「……トリスタ」

 カースがキャンサーの後ろから、呆然と彼の名を呼ぶ。その声で彼女の存在に気がついたのか、「あ、カーさん。家族全員揃うのっていつぶりかな」とあくまで冗談めかして言う。キャンサーよりも長身で、後ろに居れば頭が突き出す形になるカースの存在に気が付かなった事が、トリックスターの視力が失われた事の何よりの証明だった。

「……おまえ達は積もる話もあるだろう。我はヒーラくんの様子を見ている」

 カースは早口になりながらそう告げると、踵を返して車の元に戻る。扉を閉める瞬間、「互いに訊きたい事は訊いておけ」と囁かれた。

「……カニくん?」

 少し訝しげに名前を呼ばれて、キャンサーは慌ててトリックスターに向き直る。淡い、穏やかな笑みの気配がした。

「はい」

 トリックスターが、古びた木で作られた何かを手渡す。どちらが受け取るか少し迷って視線を交わした後、ヒーラがそれを手に取った。

「……!」

 息を呑む。渡されたそれは、写真立てだった。

 幼い顔立ちのキャンサーと、現在と変わらない姿をしているカースと、なぜだか髪が黒いトリックスターが写っている。しかし、よくよく見ればその裏に何かが隠されていた。もう何年前のものかもわからないくらいに古く黄ばんだ、もう一枚の写真。ヒーラはそれを震える手で写真立てから取り出して、そして驚愕に目を見開いた。

「なんで……これ……」

「感触的に写真立てでしょ、それ。俺じゃなくて、俺の盲導犬……いや、盲導鳥が見つけたんだけど。……それに何かあるの?」

 トリックスターの問いは、耳に入らなかった。愕然としたキャンサーの頬に伝った汗が一滴落ちて、その百年前の写真に染みを作る。

 それは、家族写真だった。

 ただの家族写真ではない。かつてのラックス家……幸せそうな笑みを浮かべている夫婦と思しき男女と、その二人の面影がある少年が映った写真だ。背景は大きな家で、そして限りなく続く紺碧の青空とそこに浮かぶ純白の雲が映し出されている。古さ故に色褪せて日焼けていたが、それでも百年ほどの年月を思えば保存状態は良いだろう。

 外だ。

 写真の裏を見てみれば、『二一◯◯年 デヴィッド五歳 外での最後の写真』と女性らしい綺麗な文字で書かれている。そして隅には、小さく『怯むな。これは救いだ。ここの地下で、全て終わる』と書かれている。

 幼い頃のデヴィッドだ。恐らくは、ビバリウムに移り住む直前に撮った写真。幼い五歳のデヴィッドは母であろう女性の腕に抱かれて、無邪気で楽しそうで、幸せそうな満面の笑みを浮かべている。

 まだ、偽りの憧れを植え付けられる前の。母の罪も、父の狂気も知らない。純真無垢な。

「……知ったんだ」

 トリックスターが静かに言った。主語がない言葉だったが、それが何を指しているのかは、なんとなくわかった。

「……お前が、ある時から普通の肉を食べる事を頑なに嫌がり始めた時期があったよな」

「うん」

「肉を原型がなくなるくらいになるまで焼いて」

「うん」

「炭みたいになってボロボロに崩れて、そうなるくらいまでにならないと食べなかった」

「うん」

「それは違った。……食べないんじゃなくて、食べられなかった。そうして肉である事をわからないくらいにしないと」

「……うん」

 一つ一つ確かめるように、トリックスターは肯定する。布で隠された眼窩には、もう何もない。

 プレザント家の証明である瞳。ありとあらゆる景色を見てきた瞳。キャンサーをまっすぐに見つめた瞳。それはもう、無い。代替の効かない、唯一無二は失われた。

「真実は、痛いでしょ」

 トリックスターは顔から表情を消して言う。小さいけれど、なぜだかひどく耳に残る声で。

 彼は、何もかも知っていたのだ。

 自分が罪人の一族の末裔である事も。自分の瞳が災禍しか呼ばない事も。眠り続けている人を、仮死状態だから殺人にはならないと捌かれた人間の肉を喰らわないと生きていけないくらい、ビバリウムの状況は困窮している事も。

 何もかも、わかって。

 抱えるにはあまりに痛い、棘だらけの真実を受け止め続けた。

「言うべきか、何度も迷ったんだよ。嘘を吐き続けるのは本当にキャンサーやカーさんにとって良い事なのかって。全部洗いざらい話した方が良いんじゃないかって」

 それは、幼い子供が抱えるにはあまりに重い懊悩だった。

「無理だったんだ。肉を食べて、それが人肉かもしれないって思うだけで、吐き気が込み上げて。吐き続けた後、思ったんだよ。カニくんやカーさんにまでこんな想いをさせちゃいけないって」

 胃液で喉が溶けそうな心地になりながら、それだけを明確に思った。

 要らない重荷は背負わなくていい。

 こんな風にトイレで吐き続ける可哀想な子供は、自分一人でいい。

 真実を知っているのは、自分一人でいい。

 勢い余って吐露してしまった人肉の件は、嘘という事にしよう。自分が知っている一切合切は、全て嘘という名のオブラートで覆い隠してしまおう。

 そうして、家族の平穏を守っていこう。

「真実は何も救わないんだよ。正しい事を知ったって、それは俺達に牙を剥くんだ。嘘だ。嘘だけが、俺達を救ってくれるんだよ……」

 トリックスターは、不器用に笑った。泣き笑いにも見えるけれど、眼が無い彼は泣けない。口の端が歪んだ、悲壮感が漂う笑み。

 詰まるところ、彼はただの無力な子供だった。あまりに残酷すぎる真実はその小さな手には余った。

 しかし、彼は賢い子供だった。だから、嘘という手法を使う事を思いついて、それを誰にも漏らす事なく、漏らしたとしても嘘つきに徹する事で誤魔化したのだ。

「俺は嘘つきなんだよ。誰にも真実を明かさなかった、嘘つきなんだよ……」

 その声音は、悔恨のようで、懺悔のようで、吐露のようで、告白のようで。

 泣く事すらできない彼を責める事は、誰にもできなかった。

 キャンサーは、己を恥じる。こんなものを抱え続けていた彼を、嘘つきだと罵って蔑んでいたのだから。

 トリックスターにそう思うように誘導されてたとはいえ、それで無罪とはならない。トリックスターが赦しても、何よりキャンサー自身が自分の事を赦せなかった。

 キャンサーは恥いるように俯いてしまう。ヒーラも写真を胸に抱いて自分の足の爪先を見ていた。

「壊せ」

 ぽつりと落とされた一言。聞き返す前に、続けられる。

「カニくんが望むなら、全部壊してよ。そのための鍵は、もう託してある」

 トリックスターはキャンサーを見上げた。眼球を持たない彼が顔を向けているのは、キャンサーの顔がある位置よりも少し下だ。

 ずれているだけかと一瞬思ったが、すぐに違うとわかった。十二歳の、キャンサーがトリックスターとカースと別れて別居を始めた頃。その時のキャンサーの背丈は、ちょうどこれくらいだった。今の自分よりも頭ひとつ分ほど小さな。それに対してトリックスターの背丈はほとんど変わっていないから、こんな差が生まれた。

 その十数センチの差が、キャンサーがトリックスターを拒絶していた期間の分の隔たりだった。

 嘘つきなのだと、そう言って関わる事を拒絶していた間の隔絶だった。

 胸を掻きむしりたくなるような衝動に襲われる。過ぎてしまった時間はもう戻らないのに、もし、その時に戻れたらを空想してしまった。それはきっと、トリックスターも望んでいない事であろうに。

「……死ぬ」

「え?」

「もうすぐ死ぬって、本当なのか。もう、余命幾許かって」

 トリックスターは眉を眇める。目がないのでそこからは感情は見えないけれど、確かに彼は今訝しんでいた。しかし、すぐに感情が読めない笑みを浮かべ、飄々と言う。

「さぁね」

「さあねって……お前の事だろ⁉︎」

「俺、自分の命に興味とか無いから。けど、あえて肯定か否定のどちらかをしなければならないのなら……うん、そうだよ。けどこの言葉が嘘かどうかわからないよね」

 これは嘘でしょうか、真実でしょうか。無邪気に、まるで些細なイタズラを仕掛けているかのような口調で。本人にしかわからない問いだ。嘘でしょうかと言う言葉が嘘かもしれない、そうでないかもしれない。前みたいに、彼の言葉を全て嘘と決めつける事は、キャンサーはもうしたくなかった。

「ヒントを言うとね。実は俺、嘘なんて大っ嫌いなんだ。ほら、昔自称俺の親が親権とカーさんの財産騙し取ろうとした事件あったでしょ。殺しちゃったけど。あれ以来ね、嘘ってものに対する嫌悪感が拭えなくて。……この俺の所感も、嘘かもしれないけどね」

 あまりにも軽い口調で、彼は喋り続ける。それは、あまりに重々しいカミングアウトをした後の空気を中和したいがためだろうか。それともこれが彼の常なのだろうか。

 わからない。

 もう十年以上も共にいた兄弟同然だと言うのに、キャンサーはトリックスターの事が全くわからない。

 その不理解は、先ほどの身長と同様に二人の間を分つあまりに大きな懸隔だった。いや、わからないようについている嘘なのだから、わからないのが当然なのかもしれない。しかし、それを受け入れるのはどうにも癪に障る。

「じゃあ、本当なのか」

「さぁねー」

「……」

 いつまでものらりくらりとかわし続けているトリックスターの態度に、今までなら覚えていただろう苛立ちは無かった。その代わりに虚無感のようなものが胸を支配する。

「……トリックスター」

「なぁに?」

「……お前はこれからどうするんだ?」

 もうすぐ死んでしまうなら、これからどうするんだ。

 こんな世界で、これから何を選択するんだ。

 トリックスターは笑う。無邪気に、柔らかく。それは、五歳の時に共に貧民街で暮らしていた時の、イタズラを無邪気に仕掛けて成功させた時の笑顔と全く同じだった。

「生きるだけだよ。死ぬまで生きる、ただそれだけ」

「……その先にあるのが死でも? 苦しみでも? ただ辛いだけの時間でも?」

 絶望しか無い一生でも、それでも生きると言えるのか。

「あのさ、理由ってそんな重要? 死にたくないから生きる訳でもなくて、生きたいから生きる訳でもない。ただ、自分が命として存在しているから生きる。それじゃあ不十分?」

 命だから、人間だから、生きるものとして存在しているから、ただ生きる。そうデザインされたから生きる。

 ヒーラの言葉が胸裏によぎった。彼女は、自分が不死としてデザインされた存在だから不死として在ると、そう言っていた。ならば、トリックスターはどんな事があっても生きる者として、そういった強い生命として設計されてこの世に生まれたのだろう。

 そうだとするならば、キャンサーはその対局に位置する生命だ。弱く、脆く、他に影響を受けやすい。トリックスターほど強く生きれない。目の前の絶望に向かい合えないのだ。

「けど、それで足りないなら……あえて理由をつけるなら」

 キャンサーの後ろ向きな思考を察しているかのように、トリックスターは付け加える。

「死に顔はもう嫌だ、だからかな」

「死に顔……?」

 呆然と繰り返すキャンサーに頷いて、トリックスターは続ける。

「うん、死に顔。見せるのも見るのも嫌なんだよ。ほら、昔両親を殺した事あるでしょ、俺。あの時の顔がね、ちょっとトラウマで。だから死に顔は誰にも見せたくないし、カニくんとカーさんの死に顔も見たくない」

 死にたくない、とは少し違う。そんな漠然としたものではない。そうであるからこそ、根拠づけられたその嫌悪は生きる理由に値する。

「ボクは大好きな家族の死に顔を見たくないし、大好きな家族に死に顔を見て欲しくない。それが生きる理由。死なない理由。この世界で生きていける理由だよ」

 トリックスターはそう言いながら外套を翻し、そして扉へと向かっていく。

「どこに……」

「ん? 死にに行くの」

 ひどくあっけらかんとして、トリックスターはそう言った。あまりにもなんの感慨もないように言うものだから、キャンサーは思わず言葉を失う。

「だってさ、これからビバリウム滅ぶかもしれないし。病気とか関係なく、これからのカニくんとヒーラちゃんの選択次第で、全てが終わるんだよ。言ったでしょ、死に顔は見るのも見せるのも嫌だって。だから一人になれる場所に行くよ」

「……猫みたいなだ、お前は」

 その、あまりにも悲壮感のない、むしろ楽しそうにすら見える態度に、いつの間にか体の緊張は解けていた。自然と、表情が緩まる。

「きひひっ、いいね、それ。そうだよ、猫だよ。イタズラ好きで気まぐれな猫だよ、俺は」

 二人は顔を見合わせて、そして互いに笑い合った。

 トリックスターが見ているのは未だに十二歳の頃のキャンサーだけれど。三年間分の隔絶は決して埋まらないけれど。

 けれど、ようやく友人として、家族として、兄弟として、久しぶりに笑い合えた気がした。

 いつだったか、貧民街の隅で蹲っていた頃の事を思い出す。まだ物心がついたばかりで、自分一人の生き方もわからなくて、冷えた地面に身を預けていた。そうして、自分に刻一刻と訪れる死を思って。そうして、静かに目を閉じた。

 しかし、口にパンがねじ込まれる感覚に目を覚まして。

 飛び起きると、目の前には明らかに栄養が足りていない痩せぎすの、同じ歳の頃の少年がパンを持って、視線を合わせるように座り込んでいた。

 いい驚きっぷりだね、と少年は笑った。そして、キャンサーに手を伸ばした。二人で共に生き始めた頃は、きっと二人で無邪気に笑えていた。

 もう十年以上も前の事で記憶も朧げなのに、それだけは確かだ。

 ひとしきり笑い合って、そして白杖を持って立ち去ろうとするトリックスターの小さな背に、なんと言葉をかけるべきだろう。

 ありがとう? ごめん? さようなら?

 何年も溜まりに溜まった言葉が脳裏をよぎっては消え去っていく。そうして、ぐるぐると様々な言葉が駆け巡って、ようやく口をついて出たのは。

「——おかえり!」

 自分でも、なぜその言葉を言ったのかはわからない。

 しかし、それを告げられたトリックスターは一瞬振り返って——


「——ただいま」


 そう言って、笑った。



 トリックスターが去った後に残ったのは、果てしない虚無感だった。

 彼の存在が、言動が、キャンサーとヒーラ両名の心に迷いの影を落とす。二人揃って立ち尽くしていると、ガレージに続く扉からカースが顔を出した。どうやら、トリックスターとキャンサーの会話を見守っていたらしい。

「仲直りは、済んだか?」

「……最期の会話とは、言わないんですね」

 問いの形で質問に返したのは、ヒーラだった。デヴィッドの家族写真を胸に抱いていた。

「最期とは限らんからな。これからお前達が本当にこのビバリウムを壊すのなら、確かに最期の会話だろうが、壊さない選択肢もあるだろう?」

 余裕ありげに笑みを浮かべながら、カースは言った。対照的に、ヒーラは胡乱げに眉を顰めている。そんな選択肢なんてある訳ない、とでも言いたげな目だ。

「まあ、なんにせよ、我のやるべき事は後一つだけ。お前達を選択の場へと案内する事だけだ」

 カースはそう言いながら、家の中の部屋の一つ、書斎に入る。

 部屋の中心に机と椅子。それを取り囲むような形で本棚が設置されている。床には煤のような色をしたカーペットが敷かれており、全体的にモノトーンで彩度を失っている。なぜだか足元がひやりとして、温度が低いように感じる。

 埃や紙の独特な匂いが充満した部屋だった。本の日焼けを防ぐためだろう、窓には遮光カーテンが引かれていて、真っ暗と言っても差し支えない。電気のスイッチを押すと、ずっと使われていなかった古い蛍光灯がチカチカと明滅して部屋を照らした。

 本棚は一つ一つがアンティーク風な木彫りの飾りが施されており、棚板が随分と分厚い。それこそ、ハードカバーで大判な本と同程度の分厚さだ。

 キャンサーとヒーラは何故書斎に案内されたのかわからず首を傾げる。カースはおもむろに、壁際の本棚の一つに近寄り、一番下の段から分厚いハードカバーの本を一冊取り出す。随分と古い本で、タイトルは掠れていて判然としなかった。

 カースはその本を脇に挟みながら、その本があった文の空白に手を突っ込む。

 やけに分厚い棚板に仕掛けが施されていたらしい。カースが何やら手を動かすと、カチリと小気味の良い音が鳴った。

「よし、久々だったから不安だったが、無事に開いたな」

 カースはそう言いながら立ち上がると、白衣についた埃を払いながら今度は部屋の真ん中の机に近寄り、またしゃがんだ。先ほど埃を払ったのが無意味になり、「あ」とそれに勘づいた声もしたが、どうやら諦めたらしい。

「キャン、ヒーラくん、こっちに」

 手招きをされて、机の下を覗き込む。薄暗くて分かりづらいが、よくよく目を凝らしてみると、煤色のカーペットに不自然な切れ込みが入っていた。試しにつまんでめくってみると、それは金属で固められている地下への扉だった。

 この家は全体的にコンクリートで固められており、部屋に関しても二階部分とリビングなどのフローリングに張り替えてある場所以外は床まで無機質なコンクリートになっている。しかし、この部屋は完全に金属で造られていた。

 どうやら、この部屋に入った瞬間に感じた足元の冷たさは、この金属が冷えてしまっているかららしい。カーペットはこの金属の床と、机の下の隠し扉を誤魔化すために敷かれているようだった。キャンサーはこの部屋にほとんど立ち入った事がないので、全く気が付かなった。

「うーん……ここを開けるにはさっきの本棚のギミックを解除する必要があるんだが、いかんせん仕掛け自体が古いからな。正常に発動するかどうか……」

 カースが唸りながら扉の小さな取手を掴んで引っ張ると、どうやら錆びついていたらしい扉が軋みをあげた。それでも引っ張り続けていると扉は唐突に開き、その勢いのせいでカースは尻餅をつく。

「いてて……開いたぞ、二人とも」

 扉の先にあるのは、地下に続く梯子だった。随分と深いようで、底が見えない。しかしカースが壁面をいじるとそこにスイッチがあったらしく、梯子を照らし出すように電灯が一気に灯った。

「この先だ」

「何が、ですか」

「お前達の選択の場。全ての命運を分ける場所。行き方はもう示されている。行きなさい」

 促されるようにして、梯子を見た。深く続いているが、灯りがついているおかげで底が見える。

「……師匠は?」

「この先に行くのはお前達だけだ。我は老い先短いからな、共に行っても意味のない事だ」

 どうやらカースは、その梯子を下る気は全く無いようだった。

「……本当に、良いんですね?」

「ああ」

 本当にいいのか。

 全ての選択肢を自分たちのような若者に託して。キャンサーとヒーラに、託して。

 そんな意味を込めた問いだったが、カースはあっさりと首肯する。

「老いぼれは若者に様々なものを託すのだ。生前贈与だ、受け取れ」

 その身も蓋も無い物言いに、空気が和らいだ気がした。

「ありがたく」

 キャンサーが少し冗談めかして言うと、カースは微笑む。

 ヒーラが梯子を数段降りて、その後に続くようにキャンサーも地下に潜る。

 梯子を降りる直前に見えたのは、晴れやかな笑顔のカースが、ひらひらと振った掌だった。




 梯子を下り切ると、そこにあるのは長い長い階段だった。一段一段が低く、踏面が大きい。光源である蛍光灯は省電力なのか、ただ単純に古いせいかわからないが、光が弱くて薄暗かった。階段は中途半端にしか照らし出されず、不気味な空気を演出している。さらには、それを助長させる要因がもう一つあった。

「寒……」

 キャンサーは思わず呟いて、白衣ごしに肌をさする。ヒーラも同じように、パーカーの袖を握った。

 快適な気温の上と比べて、体感で八度ほど空気が冷たいように感じる。ノアの方舟よりは寒くないが、突然気温が下がったように感じるから順応に時間がかかりそうだ。

「長いね、階段」

「……そうだね」

 ヒーラの声音に温度はない。二人を包む空気よりも冷ややかだ。駄弁る時間を無駄にしたくないと言っているような、急かしているようにも聞こえる声だった。彼女の琥珀色の瞳は真っ直ぐに階段の下に向かっていて、そのまま無言で歩み始める。キャンサーもそれ以上は何も言わず、彼女についていった。

 一体何段下りただろうか。それもわからないほどにずっとずっと下っていく。等間隔の足音が二つ重なり、地下空間に反響させていく。下がる度に、温度が一度下がっていくような肌寒さが肌を刺していた。・

 階段が終わると同時に現れたのは、数メートルの廊下。薄暗く照らされたその先に、機械によって守られた扉が存在している。室温はノアの方舟よりも低く感じた。分厚い金属で守られた扉だが、熱伝導率が低い金属で作られているのか、冷ややかな印象はなかった。

「もしかして、あれが……」

 キャンサーとヒーラはその扉に走り寄る。扉を取り巻く壁ごと厳重になっている。こんなにも防護されているのだから、重要なもの……つまり、ヘレン・プレザントの遺産に違いない。

 そこにあったのは、虹彩認証のために取り付けられた機械とパスワードを入力する入力装置、そしてそこから簡単に外せる鎖で繋がれた百面ダイスだった。

 虹彩認証は、例のプレザント家の者を判別するためのものだろう。試しにキャンサーは自分の目をかざしてみるが、画面が赤く染まるだけで扉が開く反応はない。更には、聞いた話にはなかった百面ダイスと三桁の認証コード。

 コードに関してはたったの三桁なので虱潰しでもできないことはないが、間違ったコードを入力し続けた場合どうなるかわからないため、不用意な行動は避けた方が良いだろう。

「虹彩認証、は……」

 震える手で、トリックスターから託された瓶を取り出した。その中に入っているものを薄々察しながら、その鉄製の蓋に手をかける。いや、察してしまっているからこそ、そこには躊躇が滲んでいた。

 固唾を絶えず飲み込み続けながら、蓋を回す。長らく開けられていないらしいそれは、ひどく固かった。自分の非力さに歯噛みをしながら、しかし決して中身を零してはならないと手汗でぬるつく側面を握りしめながら、いっぱいに力を込めた。

 蓋が回る確かな感触。一度緩んだのならそこから開けるのは苦ではない。ゆっくりと、慎重にそれを回しきった。

 あとは、その蓋の意味を成していない蓋をどければ、中身が見えるようになる。

 瞬間、指先から痺れのような戦慄が走る。見たくない。開けたくない。感情がそう喚き立てて、しかし開けねばならないと己を叱咤し震えを無理矢理に押さえつけようとする。

 手からは温度が失せ、冷え切ってしまう。それは蓋をあまりに強く握りしめて血の流れが滞っただけなのもしれないが、そうでないかもしれなかった。

 死体のように感じられる冷たい温度。それに、横から割り込んだ温かな体温が覆い被さる。それは小麦色の肌の手だった。

 見ると、ヒーラが横から手を伸ばして手を上から重ね合わせている。まるで、キャンサーは一人ではないとでも伝えるように。

 その温かさに、勇気をもらう。一つ息を吸って、蓋を払い除けた。

 中にあるのは、白い球体だった。無色透明の液体の中に沈んでおり、一見は水のようだが、鼻を突く刺激臭にその液体は何らかの薬品だとわかる。

 そしてその薬品の正体は、瓶の中身、その球体を知っていれば想像はつく。

 球体が薬品の中を静かに泳ぐ。キャンサーの手により揺らされて、回転。方向が変わり、そしてそれが見える。

 瞳だ。薄墨色の虹彩で、瞳孔は猫のように細長い。紛れもないプレザント家の証。その眼球のみが、ごろりと薬液に浸っていた。

 トリックスターの目だ。虹彩の色。特徴的な瞳孔。全て、彼固有のものだ。

 彼の両目はキングの目の前で抉られたのだと語られた。片目はトリックスター自身に踏み潰されて、もう片方はキングに握り潰された。

 よくよく見てみると、瓶の内側に文字が読めた。どうやら瓶の側面に貼り付けられている紙に書きつけられているものらしい。それを剥がして広げると、小さめの達筆で書かれた手紙のようだった。文字は小さくはあるものの、それは紙面全体に字が詰まっているという事ではなく、ただ単にそういう癖の字という事だけだった。

 キャンサーはそれを淡々と読み上げる。


 やぁ。これを読んでいるという事は、多分俺はもう死んでいる、または死に近い状況にいるんだろうね。

 なーんて。一度言ってみたかったんだよ。けど、これを読んでいるキミが最悪の状況になっているのは間違いないと思う。だってこれは保険だから。ビバリウムを滅ぼすための。保険とはつまり、最悪の状況に陥った時の救済措置、という事だからね。

 本当はその最悪な状況にならないのが一番、この保険が全くの無為に帰すのが良いんだけど、俺が何かしくじる可能性も、はたまた他の人が何かをする可能性もあるからね。せいぜい抉り損になる事を願うとするよ。

 ここから語る事は完全に個人的な事だから、知らない固有名詞が出てきてもスルーしてね。かつて存在した俺の家族だと認識していて。

 さて、俺はいろんな事を知っている。このプレザント家の者しか入れない研究室でね。これを読んでいるキミも、少なからずこのビバリウムに失望しているんだと思う。俺は祖先のヘレン・プレザントと同じ思考にならなかったのは、幸いと言うべきなのかな。こんな保険をかけてる時点で完全に違うとは言い切れないけど。

 それで、どうしてこんなビバリウム滅亡への足がかりを残したのかって言うと、この世界が滅亡するに値するって知っちゃったから。

 存続するだけ存続して、けれども未来はない。俺はあと数年すれば死ぬけど、そんな世界に家族を遺すのは、ちょっと心残りなんだよ。もしカニくんが全てを知ってしまったとして、そしてビバリウムを滅ぼしたいと願ったなら、未来ない俺はその意向に沿うよ。その時に、もし俺の目が事故だとかで使い物にならなくなった時のための保険。潔く滅ぼしちゃって。

 この瓶に入ってるのは俺の左目だよ。俺は現在十二歳。自分で眼を抉る前にこれを書いてる。この後は、事後報告にはなるけどカーさんに頼んで義眼を作ってもらおうと思ってる。義眼だってわからないようなリアルな、可動性義眼にしようかな。その上に帽子やら紗幕やらを被ったら、多分バレない。カニくんは俺達との関わりを断ちたくて家を出たばっかりだしね。バレないよ。うん。バレないでほしい。

 そんなこんな纏めちゃうと、俺自身はビバリウムを滅ぼしたいとかは思ってないけど、滅びる可能性の芽を潰したくないからこんな保険を用意したのでした。家系図とか確認したけど、プレザント家の残りは俺だけだよ。両親も死んだしね。

 だから、この眼球が正真正銘、唯一の鍵だ。どうか丁重に扱ってほしい。あ、中身の液体は劇薬のホルマリンだから、触れないでね。これからこの世界を滅ぼすかもしれないかもしれない人にこんな事を言うのは変かもしれないけど、障害とか残るかもしれないから。もし素肌で触れちゃったりしたらすぐに入念に洗い流すんだよ。

 それから、最後に。ここまで顔も知らない誰かに向けて書いてきたけど、これを読んでいるのがカーさんかカニくんである事を願うよ。このビバリウムを滅ぼすか否かの決断は、酷かもしれないけどどちらかにしてほしいんだ。だって、俺が今しているのは二人の未来の選択肢を狭めないための行為だからね。二人が滅ぼさなかった世界を全く関係のない第三者が滅ぼすのは、俺の望んだものじゃないから。

 長々とごめんね。

 けれど、よく考えてほしい。このイカれた世界と、それを知らずに安穏と生きる人々。それを天秤にかけて、その価値を測るんだ。その上での決断なら、俺は肯定するよ。尊重するよ。

 決めたのなら、あとはもう賽を投げるだけだ。どう転んでも俺は知らないけど、せめてキミにとって良い結果が待っている事を願っているよ。

 追伸。百面ダイスとパスコードは連動してるよ。ダイスを振って、その出目を打ち込めばそれは開く。どうやら、ヘレン・プレザント、またはその伴侶は運命論者だったんだね。もしかしたら、ヘレンがこのビバリウムを滅ぼそうとしたのも、ダイスの思し召しがあったからだったりして。


 この軽妙な語り口調、話している内容から、これを書いたのはトリックスターなのだろう。

 どうやら、この状況はトリックスターが予期していたものだったらしい。予期というより念には念を重ねた予防線なのだが、そのために自分の眼を自分で抉り出すとは酔狂な事だ。

 手紙を撫でるように触れて、トリックスターが味わったであろう痛みや自分の指を自分の目に近づける感覚を想像してしまって、キャンサーは苦虫を噛み潰したかのような顔をする。

「ぼく達は、託されるだけだね」

 ビバリウムに関する事実も、デヴィッドについても、キャンサーは何一つとして知らなかったし、ヒーラと関わらなければ知ることもなかっただろう。知ろうと思う事すらなかったかもしれない。

 それはキャンサーがトリックスターによって守られていた結果とも言えるし、リーガルーの存在が秘匿され続けていた証明であるとも言える。

 思えば、キャンサーはいつも誰かに守られてきた。貧民街で過ごした幼少期は、同じ立場であるはずのトリックスターによって手を引かれた。

 カースに拾われてからは彼女の庇護下でぬくぬくとした穏やかな生活を送り、その裏ではトリックスターによって真実をひた隠しにされて守られてきた。剣山のような真実から、徹底的に。

 リーガルーからも人肉についての事実は教えられなかったし。何もかもを知っている立場である彼がキングのように全てをひけらかす事がなかったのだから、きっとそこでも守られていた。

 いつだって、守られてばかりだ。

 きっと、ヒーラもデヴィッドに守られてきたのだろう。

 彼を心の支えにして生きてきたのだろう。百年もの時を生きてきた彼女の拠り所となって、きっとこれからも悠久の時を生きる彼女の支柱となる。

 彼女はデヴィッドという名の薄い羽衣に覆われて生きてきたのだ。それが奪い去られてしまったのなら、そこにいるのはただの物知らぬ子供だ。たった一つの宝物を収奪され、泣き叫ぶ幼な子だ。

 今ここにいるのは、ずっとぬるま湯の世界にいた子供が二人ばかり。そんな者が、ビバリウムに住まう何億もの命を背負っている。

 キャンサーは白衣のポケットからビニール手袋を取り出す。鴉のアンデッドであるレイに触れる時、何があるかわからないから念のためにつけていて、そのままポケットに突っ込んでいたものだ。それ自らの手にはめて、瓶の中の眼球に優しく触れた。

 ぐにゅりとした生々しい感触。もう抉り出されてから三年も経っているはずのそれは、たった今、目の前でくり抜かれたかのような、生きているかのような気配を纏っている。

 それを割れ物でも扱うように掬い上げ、そして虹彩認証の機械にかざした。随分古い機械だが正常に作動し、トリックスターの眼球をプレザント家のものだと認めた。次いで、その下の電子画面が瞬き、三桁のコードを打ち込むように催促する。

 鎖で吊り下げられている百面ダイスを手に取ったのは、ヒーラだった。きっと、ダイスについて何か思うことがあるのだろう。彼女の胸元では、四面ダイスが揺れている。彼女を今まで導いてきたものが、ビバリウム滅亡の、言い換えるのなら大量虐殺の鍵になっているのだから。

 彼女は唇を引き結び、何も言わない。鎖を外すと、それをゆっくりと床に転がす。

 出た目は、百。

 その数字をそのまま入力すると、電子音を鳴らして画面が緑色に染まる。同時に隣の扉からカチリと解錠音が鳴り、寄木細工のように編み込まれた鉄が少しずつ解け、扉が開く。

 現れたのは、一部屋だった。強烈に効いた冷房に冷やされたリノリウムが冷たい印象を出しているが、部屋の壁を覆いつくさんばかりにダンボール箱が積まれており、それが妙に所帯染みている。無機質さと生活感が同居した。奇妙な部屋だった。

 部屋の真ん中には木製の机と、三脚の椅子。それがなんのために設置されているのか。何故三脚なのか、想像してしまった。

 三脚。そして、この部屋の主はヘレン。そして彼女の家族は、ジョージと、デヴィッド。彼女を含めると三人。彼女の家族の人数と一致している。これに意図がないはずがない。

 壁に沿うように積まれている段ボールも、どうやら全て保存食や水だ。相当な量が積み込まれており……三人程度がしばらく暮らすほどなら、しばらく困らなさそうな量だ。

 そしてその部屋の最奥。壁に埋め込まれる形で設置されているのは、掌ほどの大きさのボタンだった。誰に言われずともわかる。あれが、人類安楽死計画を実行するトリガーだと。

 あれを押せば、このビバリウムに住まう人類は滅びるのだと。

 それを見て、キャンサーは固唾を飲む。ボタンはガラスによって守られているが、それは殴ったりするだけで簡単に壊れる脆い障壁のようだ。三脚の椅子に囲まれている机の上にメモが置かれている。随分と古びた紙だが、この時が止まったかのような部屋にずっと置かれていたからか、年月の割に劣化は激しくない。

『このボタンを押すと、ノアの方舟の空気に生物の活動をゆっくりと止めて殺す安楽死の毒が気化して混入する。ノアの方舟の冷気はそのまま地上の冷房として流用されているため、毒が混ざった空気が地上にも流れる。また、毒が流れると同時にビバリウムの空気の循環装置を一時的に狂わせ、空気を漏らさずにより効率的に循環させるようにした』

 どうやらこれは、ヘレンが遺したメモのようだった。長々と書かれているのにも関わらず書き損じ一つなく、修正痕も全く見当たらない。機械的な文字だった。

『この部屋だけは個別で外から空気を取り入れているので毒の影響は受けない。つまりここに居れば死ぬことはない。電力は人が死んでも作動し続けるソーラーパネルのシステムで供給されるし、ある程度の食料水も確保してある。まぁ、扉を開けたらすぐに死ぬが』

 淡々とした語り口調の文字。その歯に衣着せぬ物言いは、どこかカースの喋り方を連想させる。

『空気循環システムがストップして毒が蔓延し、自動復旧により喚起がされてビバリウムが無毒化されるまで。計算上では一ヶ月。その間の時間をどうするかは自由だ』

 その続きから、理路整然として語りや文字自体の雰囲気が少し違う。文字はやはり、タイピングをして打ち込んだかのようなもの。しかし、そこから感じ取れる印象が、どこか焦っているように思えた。


 もし。

 もし私が何かを仕損じて、計画が遂行されなかったのなら。

 そして、私と同じようにこの箱庭を壊そうと考える、近い、あるいは遠い未来の誰かがこれを読んだのなら。

 どうか、頼む。

 私の代わりにビバリウムを滅ぼしてくれ。

 この未来なき世界に、終焉をもたらしてくれ。


 それは、読むだけで書いた人間の切々たる想いを我が事のように想像させた。

 確かに、未来なんてない。同じ人の肉を喰らわねば生きていけないこの箱庭は、逆に言うと人を食べていなければとっくに滅亡しているという事だ。

 人間らしい生活なんてそこにはない。閉じられた箱庭の中にあるのは、ただ同族を素知らぬ顔で喰らい形ばかりの文化的生活を送ろうとする、人の模倣をした畜生なのだ。

 ヘレンが生きた時代ですでにそれが行われていたかはわからないが、それでも、彼女がビバリウムの未来を科学的に予見し、そして失望した事は事実なんだろう。

 キャンサーは机と椅子を見回す。もしかしたら、彼女は家族を守ろうとしたのだろうか。狂いつつある世界で、自分の夫と息子は生かそうとしたのだろうか。

 その二人を人間として生かし、人間として死なせようとしたのだろうか。

 キャンサーは瞑目する。トリックスターにもヘレンにも、滅ぼすという選択肢を出されている。リーガルーもカースも、止めはしないだろう。

 つまり、未来はキャンサーとヒーラの手に、完全に委ねられているのだ。

 細く息を吐いた。そして吸い込んだ空気は、無機質に冷たい。肺腑が冷やされるような心地がして、けれどそれに不快感はなかった。喉にねっとりと絡みつく自分の生暖かな息が、自分の体で感じられる唯一の温度だ。

「ヒーラ。腹を割って、話そうか」

 キャンサーは椅子に座り、その反対側にある椅子を促す。ヒーラは苦々しい表情をしたままそれに従った。彼女も彼女で、ヘレンの遺したものを見て考えているのだろう。

 二人は対面して座る。唯一残された上座の空白が寒々しい。

 ヒーラの琥珀の色の瞳は、迷うように揺れている。ああ、彼女は自分と同じだ。様々な人の想いに触れて、こんなに重い選択肢を選び取らんとしている。彼女とキャンサーの相違点といえば、彼女の根幹を生成した人間は既にいなくて、その想いに触れる事はもうできないと言う事だろう。

 だから、自分が選ばなければならないのだ。

 背中に幻の体温を二つ感じた。二人の家族に、背を押されているような。

「……ぼくは、まだ少し迷ってるよ。あのボタンを押すべきか。ビバリウムを、そこに住む人々を、真綿で包むように終わらせるべきか」

 安楽死は、ある意味での救いだ。なんの苦しみもなく、眠りにつくように終わらせる事は必ずしも苦ではない。もちろん、必ずしも救済であるとも言えないのだが、それでも、安楽死を求めている人間というものは一定数いるのだから。

 けれど。


「今のところ、ぼくの意向はあれを押さない方向に傾いてるよ」



 その言葉に、ヒーラは瞠目した。

 ずっと、自分と同じ意志だと思っていた。

 自分と同じく、ビバリウムを滅ぼしたがっているものだとばかり思っていた。

 しかし、それは違った。彼の口から、違うと断言された。

 彼はずっと思案げな顔をしていて、迷っている事はわかってはいたけれど、それでもやっぱり自分と同じ選択肢を取るのだと、何故だか無条件に信じ込んでいた。

 けれど、やっぱり二人は違う人間だ。同じものを見ても、二人の考え方は全く異なる。経験を同じくしていないのだから、当たり前と言えば当たり前だが。

「……どうして?」

 どうして、そんな風に考えたの。

 今まで人肉を食べていたと知った時のショックは部外者のヒーラより、生まれてからずっとビバリウムで生きてきたキャンサーの方がずっと大きいはずだ。だと言うのに、どうしてここに絶望せずにいられるのだろう。



 どうして、というヒーラの問いに、キャンサーは苦笑した。そんなもの、自分でもわからない。

 キングに様々な事を明かされて、吐き戻すほどに嫌悪感を覚えたのは事実だ。露悪的な色眼鏡をかけさせられてはいたものの、悍ましい事実に相対した事には変わりない。また、デヴィッドの事に関しても、その腐り切った内情に辟易とした。やっぱりそれも揺るぎない事実だ。

 だと言うのに、何故ビバリウムを存続させようと考えるのか。何故こんな世界で生きていこうと思えるのか。

「強いて言うのなら、家族がいるから、かな」

 キャンサーには、カースがいる。トリックスターがいる。

 どちらも自分の劣等感の自己嫌悪を助長させる存在だったけど、それでも嫌いではなかった。嫌いになる筈がなかった。

 いくら彼らと自分を比べて、自分の不出来さに苦しんでも。

 いくら彼らと自分を比べて、自分ができることを見つけてそれに惨めに縋って、そしてその醜さに自分自身で呆れても。

 それでも、彼らはどうしようもなく家族で、どうしようもなく愛しいのだ。

 共に暮らした十年以上もの時。好きなところも嫌いなところも沢山あるけれど、やはり彼らは殺したくない。生きていてほしい。

 カースもそう思ったから不死の研究に精力したのだろう。

 トリックスターもそう思ったからたった一人で戦い続けたのだろう。


 生きていてほしい。ただそれだけだ。それ以外に、理由はいらない。


「それでも……二人とも、いつかは死んじゃうんだよ?」

 トリックスターは病魔に蝕まれ余命わずか。カースも寿命が迫っている。

 二人とも、遠からず死ぬ未来だ。きっと、健康体であるキャンサーを一人残して。

 ならば、三人で心中するのも一つの手ではないか。

 病で苦しむ彼を、老いゆく体に苦しむ彼女を、安楽死に導いてやるのも一つの優しさだ。明日苦しんで死ぬのなら、今日安らかに死ぬ事を選びとる人間だって、いないとは言い切れない。

 生かす事ばかりが優しさではない。それはむしろ、苦しみに変換されるかもしれないのに。

「生きる事だけが救いじゃないんだよ。そりゃあ、満足するまで生きて、安らかに死ぬのが一番かもしれないけど……どちらかしか選べないなら、今安楽死を選ぶ事だって救いになるよ」


 叫ぶヒーラを、キャンサーは静かに見つめた。確かに、そうかもしれない。結局の所何が救いかなんて当人にしかわからない事だ。これが救いなのだと勝手に決めつけて、それを他人に押し付けるのはただの傲慢だ。それをわかっていたから、トリックスターは選択肢を残すに留めたのだろう。

 けれど。

「ヒーラは、デヴィッドにもそう思ったの?」

 目の前で衰える彼を見て、安楽死させる事が彼の救いだと思ったのか?

 外の世界で死んだ彼。その死因はある程度推測できる。ヒーラの語りからも。

「デヴィッドの死因は熱中症。……違う?」

 ヒーラの肩が跳ねる。凝然と、恐れるような目を向けられて、やはりかと嘆息した。

 外の世界は厳しい世界だ。食料も水も限られている中で、少年一人が生きていられる日数なんてたかが知れている。

 熱中症は即死をしてしまうような病ではない。じわじわと体の機能が狂っていって、やがて死ぬ。そういう病だ。

 その病によって衰弱していくデヴィッドを見て、彼女は何を感じたのだろうか。安楽死をさせてやったのだろうか。

「彼をそうやって『救う』事を、ヒーラはしたの? その思考が、一片でも君の中にあったの?」



「……して、ない」

 そう、してないのだ。

 ヒーラはそれをできなかった。それをできるほど、彼女は自分の思考を、意志を、確立できていなかった。

 彼を安楽死させる事なんて全く考えもしなかった。死にゆく彼にかけた言葉は、「死ぬの」という確認。ただそれだけで、それ以上も以下もなかった。

 救いだとか、そんな事は、全く。

「だからこそ、だからこそだよ」

 ヒーラは頭を振り乱しながら、錯乱したように言葉を続ける。色の薄い金髪はほつれ絡まり、ひどい有様だ。

「だからこそ、今わたしはこの選択肢を考えてるんだよ」

「違う。……違うだろ」

 きっぱりとした反論だった。

 反駁にぽかんとした表情を浮かべたヒーラに、キャンサーは追い討ちをかけるように続ける。

「きみは、救いだなんて考えてないだろ。きみがやろうとしている事は復讐だ」

 救いだとかなんだとか、それはキャンサーに当て嵌めた話だ。ヒーラはビバリウムの内情やそこで暮らす人々の事なんて知ったこっちゃない。

 彼女が人類安楽死計画への意向を固めたのは、デヴィッドの死の真相を知ったからであって、ビバリウムに対しての失望はあれど、それは自分が抱いているものとは全くの別質なのだ。

「救いだとか耳心地の良いもので誤魔化さないで。別に復讐が悪いだとか言うつもりはないんだ。大事な人があんな風に、尊厳すらなく死んでいったならそりゃ復讐もしたくなる。滅ぼしたくなる。それを否定はしないよ。けど……」

 けど。

 本当に、それで良いのか。

「デヴィッドは、それを望んでいたの?」

 デヴィッドは、ビバリウムの滅亡を望んでいたの?

 キャンサーに投げかけられた問いに、ヒーラは答えを詰まらせる。

 デヴィッドは死ぬ直前にダイスを振った。それが指し示したのは、彼の憧れは存在しないという真実。それを見て彼が何を考え、どう思ったのかは、ヒーラにはわからない。彼の考えは彼だけのものだ。

 ビバリウムに殺された彼が復讐心を持つのなら、それは正当だ。

 けれども、ビバリウムにデヴィッドを殺された自分が、そこに住まう人類を滅ぼすほどの怨讐に囚われるのは、果たして正当なのだろうか。

 自分自身はなんの害も受けていない。ずっと、無関係で生きてきた。そんな第三者が、こんな決断を下していいと?ビバリウムを、滅ぼしても良いと?

 問われて、ヒーラは惑っていた。いや、惑わなければならなかった。

 これはそういう論争だ。

 自分の過去と、未来と、意志と、徹底的に向き合っていく。そうしなければならない。

 ヒーラも、自分も、向き合わなければならないのだ。

 まるで物知らぬ幼子のように、ヒーラの瞳は揺れ動いていた。彼女はきっと、今までデヴィッドに依った生き方をしてきたのだろう。本来人間の根幹とは幼い頃の経験や対人関係により構成される。様々なものを見て、聞いて、触って、感じて。そうして子供は成熟する。

 それがデヴィッドたった一人によって作り上げられている彼女は、きっと、自分が思っているよりもずっと幼くて、脆いのだろう。

「……わたしは」

 ヒーラは俯き、そしてひどく掠れた頼りのない声で言う。

 これは、復讐なのだろうか。きっと、復讐なのだろう。自覚はしていなかったが、キャンサーに言われてようやく気がついた。

 わたしは、デヴィッドを殺したこの世界がどうしようもなく憎くて、どうしようもなく息苦しくて、どうしようもなく嫌いなのだ。

 確かにこれは復讐だ。同時に、キャンサーの言う通り、これには正当性なんてないのかもしれない。所詮、わたしとデヴィッドはビバリウムの外で奇跡的に出会っただけの、ただの他人だから。ほんの一時を共に過ごして、様々な事を教えてもらった、それだけの一方的な関係にしか過ぎないのだから。

 けれど。

 わたしは叫ぶ。胸の中で燻る激情を、必死に抑え込みながら。

「理不尽に与えられた罰に理不尽な復讐をして何が悪いの⁉︎ それじゃあ、何もせずにデヴィッドが殺された事実を従容と受け入れればいいの……?」

 そんな事、出来る訳がない。

 大切な人を殺された。その憤懣を、やるせなさを、それではどこにぶつけたらいいと言うのだ。

 押し込めろと言うのか?何も恨むなと言うのか?

 それができるほどに、デヴィッドの存在は軽いものだったとでも言いたいのか?

 これは、ただの復讐ではない。デヴィッドがヒーラにとっての全てであるという証明でもあるのだ。

 復讐なんて、きっとデヴィッドは望んでいない。だって、彼は死の間際でも尚、その笑みを崩さなかったのだから。あの眩しい太陽のような笑顔を、死ぬまで、死んでからも、ずっと浮かべていたのだから。あんな安らかな死に顔の彼が、怨恨なんて抱いていた筈がない。

 けれど。

 ヒーラがゆるせないのだ。

 ヒーラがゆるさないのだ。

 最早そこにデヴィッドの意志は介在しないのかもしれないけど。

 どうしようもなく、ヒーラはビバリウムを滅ぼさないと気が済まないのだ。


「……そっか」

 沸々と湧き立つような怒りだった。深い深い火山の最深部で、何十年にも渡って煮やされ続けてきた溶岩が噴き出るような、憤怒だった。

 これ以上は、平行線だ。キャンサーもヒーラも、これ以上は一歩も譲らない。

「ならさ……それに訊いてみる? ぼく達がどうするべきか」

 キャンサーが指差したのは、ヒーラの胸元。デヴィッドの遺品の、四面ダイスだった。

 今までヒーラは、様々な判断をそのダイスに任せてきた。ならば、今回も同じだ。

「簡単な話だよ。もし奇数が出れば、ヒーラにはぼくと一緒にこの部屋を出てもらう。そして偶数が出たなら、ぼくはこの部屋を出ていく」

「ま、待って! 何も外に出なくても……死ににいかなくても!」

「じゃあ訊くけど、ぼくだけここで生き残ってどうなるの? ぼくはきみみたいに不死じゃないから外に出たってすぐに死ぬよ。それに、ぼくはずっとここに骨を埋めるんだって思って……いや、考えるまでもなく、それが当たり前だと思って生きてきたから」

 それに、こう言っては悪いが、熱中症で死にたくはないし、それに暑いのは苦手なのだ。常に適温が保たれている環境に慣れてしまったため、極端に気温が高い、または低い環境は得意ではない。幼い頃凍えた経験から断言できる。

「それと、もう一つ。これはビバリウムが存続するか、それともきみ以外の全員で心中するかの二つだよ。それで良心の呵責を感じるようなら、最初からこの賭けは成立しないよ」

 きみか、きみ以外か。それを選択する賽の目なんだよ、と。

「……そっ、か」

 キャンサーは、それほどに覚悟を決めているのだ。ビバリウムに住まう人間と共に、このガラスの棺で眠りにつく覚悟を。

 ならば、ヒーラにこれ以上言う事はない。これ以上何かを言い募ろうとするならば、それは逃げだ。

「わかった、ダイスを振ろう」

 ヒーラは胸元からダイスを外し、手のひらの上のそれを屹然と睨む。

 掌に十分収まり切る大きさのそれが、ここに住まう何億人もの命を背負っているのだ。

 それから手を離そうとすると、まるでへばりついているかのようにダイスが手から離れなくなった。いや、それは気のせいだ。実際は、ヒーラの汗ばんだ手がダイスを握りしめて離さないだけだ。

 どうしてこの手はダイスを手放さないのだろう。

 どうしてわたしの手は震えているのだろう。

 どうして、こんなにも顔から血の気が引いていく感覚がするのだろう。

 どうして、どうして、どうして。


 どうして、わたしはこんなにも怖がっているのだろう。


 その思考を中断させるように、手が伸びる。ヒーラよりもずっと白い肌の、キャンサーの手だった。痙攣するように震えるヒーラの手を温めるように包み込む、手の甲からじんわりと伝わる体温に、冷えた体の芯が徐々に平温に戻っていくようだった。

 ほう、と息をつく。キャンサーは手を離さない。

「……いくよ」

「……うん」

 二人の重ね合わせた手から、ダイスがこぼれ落ちる。机の上を転がったそれはころころと音を立てて、やがて止まった。

 机の真ん中でビバリウムの未来を示しているそれを、ヒーラは直視できなかった。目が痛くなるほどに瞼を硬く瞑って、まるでその結果を見たくないと言っているように。

 けれども、賽は投げられた。

 どうしようもなく、投げられた。

 ならば、あとは見るだけだ。

 そこでヒーラは再度自問自答した。どうしてわたしは、こんなにも怖がっているんだろう、と。

 薄く目を開けて、キャンサーの姿をみる。彼も同様に、現実を直視する事を恐れているかのように目を硬く閉じていた。

 それを見て、妙に納得した。腑に落ちた。

 このビバリウムは、人類という種の保存のために人倫を捨てた悍ましい箱庭だったけれど。

 それでも、この中には笑顔があった。文化があった。そこに生きる、人々がいた。きっと、デヴィッドもその中の一員で。

 それは薄い嘘の膜で覆われた仮初の平穏だったけれど。

 けど。

 わたしは案外、ここが嫌いじゃなかったのかもしれない。

 ワンピースを握りしめる。キャンサーが買ってくれた、真っ白の。

 キャンサーの手を強く握って、それを合図にしたように、二人は同時に目を開けた。

「……あー」

 その、落胆したような、けれどもどこか納得したような、妙な満足感と虚無感が含まれた息を吐いたのは、一体どちらだっただろうか。

 出た目は、四。

 偶数……つまり、ヒーラの勝ちだった。

 キャンサーはこの部屋を出て、ヒーラはここに残って、人類安楽死計画を決行する。ダイスの神様が選び取ったのは、そういう未来だった。

「……おめでとう、ヒーラ」

 キャンサーは拍手もなく、どこか諦念めいた賞賛の言葉を贈る。

 自分の望みは叶わなかったと言うのに、それは晴れ晴れとしていた。哀切も含まれてはいるが、それはヒーラへの惜別の念だろう。

「どうしたの。きみの望みは叶うんだ。もうちょっと喜んでくれないと、敗者のぼくが惨めになるなあ」

「わたしは……どうすれば良かったのかな……デヴィッドが生きていれば……」

 もし、デヴィッドがこの場に居れば。彼は死んでしまっているから、考えても栓のない空想でしかないけれど。

「ありえないよ。だってデヴィッドが生きていたのは、九十七年前でしょ。例えこのビバリウムで平穏に生きていたって、とっくに天命を迎えているよ」

 その無慈悲な言葉に、ヒーラは俯かせていた顔を上げた。キャンサーは、穏やかでいてどこか悲しげな微笑を浮かべている。

「それにさ……もしデヴィッドがここで普通に暮らしていたならって空想をするなら、デヴィッドがビバリウムから出なかったって事で」

 それはつまり、きみとデヴィッドが出会わなかったって事なんだよ。

 言い含めるような言い方をされても尚、ヒーラの脳はそれを拒絶した。

 デヴィッドに出会わなかった自分。デヴィッドに何も与えられなかった自分。何かを与えられるよろこびすら、知らなかった自分。

 いやだ。

 感情的に、そう思った。今まで何も思ってこなかった過去の自分が、とてつもなく悍ましい過去のように思えて、頭を掻きむしりたくなる。今すぐ記憶の中から消去したくなる。

 デヴィッドに出会う前の自分に。ひたすらに無感情で無感動で、無垢と言えば聞こえはいいけれどもその実無慈悲な機械のようだった自分になって、それを当たり前に思って疑問に抱くこともない、そんな存在になるなんて。

「いくら空想でもさ、自分が傷ついてしまう世界なんて考えない方がいいよ」

 キャンサーも、夢想しなかったわけではないだろうに。

 カースはもっと長い間、母として生きられて。

 トリックスターは病を患うことなく、嘘という防御壁を用いる事もないただのイタズラ好きな少年で。

 リーガルーは普通に街の往来を歩き、チュトラリーはそのすぐ側を微笑を湛えながら追従する。

 きっと、キングもサボディネートも、そんな二人の手を引いて走るのだ。

「夢は、夢でしかないからさ」

「けど……夢であろうと、そこに救いを見出すのは悪いこと?」

「悪いことじゃないよ。けど、だからって現実に在った人の想いを、蔑ろにしちゃいけないんだよ」

 カースは子のために余命を賭した。トリックスターも同様に。

 リーガルーは文字通り人生を使って何億もの人々を救う使命を背負っていて、チュトラリーもそれを補佐していた。

 キングとサボディネートも、きっと、兄への想いが行き過ぎただけなのだ。あるいは、彼自身がビバリウムが作り上げてしまった歪みそのものか。

 全員が、それぞれの意思を持っていた。空想をする事を否定はしないが、それは現実に生きた彼らの尊重無くしてはただの侮辱だ。


「きみは不死だから。だからその分、ここで出会って、ここで生きていた人達の記憶を、抱えなきゃいけないんだと思うよ」


 ずっとずっと生きて、記憶ができるきみだから。

 だから、滅びゆくぼくたちを、覚えていて。

 キャンサーは柔らかい微笑みを浮かべる。もうすぐ死んでしまうとは、その覚悟を決めたとは思えないほどに穏やかで、平静だった。

「じゃあね、ヒーラ」

 キャンサーはヒーラの頬を撫でる。ペンだこと薬品の荒れが目立つ、細い手。それはなぜだか、最期に自分を撫でた、砂が纏わりついたデヴィッドの掌を彷彿とさせた。

 離れていくそれに、思わず追い縋ってしまいそうになって。けれどもそれを寸前で引っ込める。もう、賽は投げ終わったのだから。これが、わたしが望んだ結末なのだから。

「覚えてるよ……キャンサー」

 その言葉をようやく吐き出せたのは、扉が閉じ切って部屋の中に残されたのがヒーラ一人になった後だった。




 いつ死んでも、いつ意識が途切れても、いつこの心臓が止まっても、いつこの脳が動きを止めても、おかしくはない。

 もうヒーラはボタンを押しているかもしれないし、押していないかもしれない。それはもう、扉を閉じてしまったキャンサーにはわからない事だった。仮に既に押しているとして、どれくらいでここに毒が到達するのかわからない。

 何もかもがわからない。もう安楽死の毒がこの身を蝕んでいるかもしれないと考えてしまって、指先がひりひりと痛む気がした。

 けれども、なぜだが胸を満たすのは充足感だった。目的は叶わなかったけれど、やれる事はやった。そういった、心地の良い充足。

 一つ悔いを残すとするならば。

「ぼくは結局、きみを変える事はできなかったなぁ……」

 二人で過ごしてきた時間でも、最後の最後の、二分の一の決別も。

 その理由を語るとするならば、一つだけ明確に言える。

 デヴィッドが、羨ましかったのだ。

 彼女の根幹を作り上げて、その死後も尚彼女の中に居座り続けて。

 そうして彼女に想われ続けるデヴィッドが、焼けこげてしまいそうなくらいに羨ましくて、妬ましい。

 こんなダイスによる賭けなんかをしたのも、きっとそれが原因だ。キャンサーは、残りたかったのだ。ほんの少しこびりついた錆のような、彼女の心に確かに影響を与えるものに。

 『きみは不死だから。だからその分、ここで出会って、ここで生きていた人達の記憶を、抱えなきゃいけないんだと思うよ』……だなんて、あまりにずるい言い方をした。それを義務付けるような、彼女に責任を負わせてしまうような。けれども、そうやってでも、覚えていて欲しかった。

 彼女に述べた家族についての話もまた事実ではあるけれど、それ以上に、キャンサーは彼女に巣食う腫瘍に……癌になりたかったのだ。

 ああ、最初から気がついていた。

 あの時。赤黒い鮮血を纏いながらにこやかに笑う彼女の笑顔を見た時から。振る舞った料理に頬を綻ばせ、無邪気に咲った時から。

 彼女が、普通の少女にしか見えなくなった時から。


 きっと、どうしようもなく恋をしていた。

 



 幼い時、水滴を纏った蜘蛛の巣を見たことがある。

 狭い路地裏の隅に出来上がったそれは、真珠のような艶やかな宝石をいくつもその糸に通していた。差し込む光を反射させてきらきらと輝く。それは、薄汚い貧民街で生まれ育った少年にとって、生まれて初めて見る美しいものだった。

 物心もつくかつかないかの幼い頃。親も保護者もなく、あえて名にするほどの個性もまだ身につけていない純粋で無垢な子供。自我が形成されたばかりの彼にとって、その美しいものはあまりに鮮烈に記憶に焼きつく。それこそ、彼の人格の根幹に根付く程度には。

 少年はその繊美な蜘蛛の巣を眺め続けていた。ビバリウムに降る雨では蜘蛛の巣がこんな風に濡れる事は絶対にないのだが、どこかの誰かがいたずらでジュースでも吹きかけたのだろうか、僅かに赤みがかった雫は、むしろ宝石のようだと思った。勿論宝石なんて見た事はなく、本能で感じた感覚に成熟した後で比喩をつけただけなのだが。

 そして、惹かれたのなら所有欲が湧いてくるものだ。その蜘蛛の巣が、子供の小さな体躯でも腕を伸ばせば十分に届きうる場所に貼られていたのもあった。とにかく、少年はその蜘蛛の巣を、雫を纏ったそれを「欲しい」と感じた。

 手を伸ばし、指先で触れる。その瞬間、張り巡らされていた糸が撓み、ばらばらと雫が落ちた。ほんの小さな水滴だったそれは地面に落ちて、僅かな滲みを作るだけだった。

 壊れてしまった。

 欲しいと、そう願って手を伸ばしてしまったばかりに。

 少年は激しい罪悪感と、寂寥感、それから落胆を感じた。

 その後はすぐに日常に戻ったのだが、それからしばらくの時間が経って自我が形成されつつある頃、少年はその過去を振り返った。

 そして、こう思ったのだ。

 美しいものが美しくあれる時間は有限だ。

 そして、それは容易に壊れてしまう。指で弾けば、爪で触れれば、それだけで瓦解して虚無に消えていく脆弱なもの。

 美しいものは、美しくあれる時間を美しくあれるだけ存在であればいい。

 その有限の時間で、精一杯に咲き誇ればいい。それを邪魔してはいけないのだ。

 その頃、少年はその価値観を築くと同時に好きな事ができた。それはイタズラだった。

 イタズラはいいものだ。貧民街の地べたに這いつくばるゴミのようなものは、イタズラをするだけで周囲の人間に認識されて「人間」と認められる。自己証明は他人に依ると言うが、少年にとっては自己証明はイタズラに依るものだ。

 恨みを買いたくはないので、あくまで自分の生活を保証した上での娯楽。自分を人間と証明するための行動。

 次第に少年のイタズラ好きは貧民街の中で広まっていき、やがて彼には名前がついた。

 稀代のイタズラ好き。

 トリックスター、と。



 カァ、と濁った声がした。真っ暗闇の視界の中で外套の中を探ると、肌を羽毛がくすぐる感触。カラスが……レイが、顔を出したのだとわかった。

「……お疲れ様、レイ」

 大きく咳き込み血痰を掌に吐きつけながら、トリックスターはレイに言った。それに返すように、カァ、と一鳴き。打てば帰る返答に心地よさと安心感を覚えて、トリックスターは微笑みを深めた。

 鴉のアンデッドであるレイは、サボディネートがキャンサー家襲撃の際に攫われていた。しかしトリックスターが中央街のカルフーン家に出向いた際に目を盗んで保護し、それから盲導犬ならぬ盲導鳥として行動を共にしていたのだ。

 レイはカースによる改造の甲斐あってか通常の鴉よりも高い知能を有している。更には元々片目を抉り出しており見えない状態だったトリックスターはそれが両目になっても比較的まともに動けていた、かつ白杖の扱いに慣れていたのもあって、その誘導は比較的容易だった。

 レイはトリックスターの目の一部として飛び回り、トリックスターはそれを信頼して動く。ほんの僅かな間だったが、二人、正確には一人の一羽の間には信頼関係が築かれつつあった。

 しかし、それももう終わりだ。

 人類安楽死計画は実行された。じきにここにも人を安楽死せしめる毒がまわり、トリックスターも死ぬだろう。毒で死ぬか、病で死ぬか、どちらが先かはわからないが。

 座り込んだまま、羽音がする方向に手を伸ばす。指先に嘴の感触が触れた……正確には、レイの方から触れた。その気遣いに気がついて、やさしい子だね、と柔らかな賞賛を贈る。

「もういいよ。自由にいきな。ここで死んでもいいし、外に出てもいい。後は全部、きみの自由だよ」

 手探りでレイの体を探し当てて、その頭部を優しく撫でながら囁いた。

 もう自由だ。盲目少年という足枷をつけなくても良い。その羽根でどこでも自由に飛び立てば良い。キミは不死なのだから、そのあまりある時間を自由に美しく生き抜いてくれ。

 きみは文字通り、自由の鳥なのだ。

「いきなさい」

 後押しのように告げると、カァ、とどこか名残惜しそうな一声。それからレイは羽を広げて上下に動かし、飛び立っていったようだった。その風が頬に当たって、心地いい。

 ふと、思い出す。

 ギリシャ神話では、鴉は神の伝令役を承っていた動物だった。その声は麗しく、人語を解し、そしてその羽は純白。しかしとある神に妻の浮気という真実を告げたところ、怒り狂った神の八つ当たりとして美しい声と真っ白な羽を奪われてしまったのだという。

 皮肉なものだ。真実に踊らされて自ら眼球を抉り出した自分と、真実の伝令によりアイデンティティを奪われた鴉。

 やはり、真実なんてロクなものじゃない。

 いつだって誰だって真実によって心を傷つけられていて、しかしそれだというのに、まるで美徳のように歌い上げられて。

 トリックスターは、嘘が大嫌いだ。カースに保護されてしばらく経って突然現れた、物心もつかない頃に自分を捨てた自称両親が、自分を拾い愛し育ててくれたカースを騙そうとしたその時から。逆上してカースとキャンサーに危害を加えようとしたその時から。

 しかし、それよりも何倍もトリックスターは真実も嫌いだった。いかにも「善である」というような素知らぬ顔をして、触れる人を全て傷つける真実が。

 自分がナイフで滅多刺しにした、自称両親の死体。男か女かも判別がつかなくなって、ぐちゃぐちゃに同一化したそれから零れ落ちた眼球が、猫のように細長い瞳孔をしていたという真実が。

 本当に、クソッタレだ。この世界も、自分自身も。

 天を仰ぐが、そんな事をしても意味はない。眼球がない自分の視界は真っ暗で、何も写さない。

 ばさり、と羽音がした。目が効かない分、聴覚が鋭敏になっているからだろう。ほんの些細な音でも耳が拾う。それと同時に、ハイヒールの靴で歩く、カツカツという音がした。ひどく焦ったような、早足の。

 それはトリックスターのすぐ横で止まる。息を呑むような音が聞こえた。

「……トリックスター」

 名前を呼ばれて、声の発生源を緩く見上げた。女性の、しかし少し低めの声は、間違えようもなく家族の……カースの声だ。

「カー、さん」

 ひゅー、と肺から異音がした。もう体は限界だ。トリックスターの体は、致死の重病を背負うには小さすぎる。

 詰まる息を吐き出すように、名を呼んだ。見えなくても、雰囲気でわかる。今カースは、痛ましいものを見るような瞳で自分を見下ろしているはずだ。

「どう、したの」

 ぷつり、と小さな音がした。多分、彼女が自分の唇を噛み切ったのだろう。悔しげに歯噛みをする彼女の姿がありありと想像できる。そういえば、自分が両親を殺してその死体の前で佇んでいた時も、そうして唇を噛み切っていた。やるせなさを自分にぶつけるのは、彼女の悪い癖だ。

「お前と共に、終末の時を過ごしに来たのだ」

 絞り出したような声で、言われる。トリックスターは思わず吹き出しそうになったが、肺から響くような痛みに呻いてしまって、結果出てきたのは笑みのなりそこないだ。

「き、ひひっ。なんで、俺と」

「キャンサーはキャンサーで過ごしている。我は一人で死ぬのは嫌だ。だから、お前と共に死にゆくのだ」

「そっ、か。俺もさ、こんな暗い中で、ひとりで死ぬの、さみしいから」

 途切れ途切れになりながら、痛む肺を押さえつけながら、なんとか言葉を紡ぎ出す。カースがいるであろう場所に手を伸ばした。

「ね、知ってる? ものが、うつくしくあれる時間は有限なんだ。だから、ボク……その、限られた時間を、大好きなカーさんとカニくんにはせいいっぱいに生き抜いてほしかったんだよ」

 抱きしめられる感触。囁くような、今にも消え入りそうな声で、訥々と語る。

 選択を任せた事を、悔いている訳ではない。自分でも無責任だとは思うけど、けれど自分で衝動のままにこの世界を滅ぼしてしまうよりは、ずっと自分で納得できるし……二人の美しくあれる有限な時間を、最大限まで引き延ばせたと思う。

 だから、後悔はなかった。



 急いだ様子で飛んできたレイの案内に従った先に倒れていたのは、トリックスターだった。その姿を見て、カースは瞬時に悟る。人類安楽死計画があろうがなかろうが、彼はもう死んでしまうのだと。

 話しかけると苦しそうな呼吸と共に、捻り出すような答えが帰る。その無惨な姿に、カースは思わず眉を顰めた。

 ひとりで死ぬのはさみしい。

 それは紛れもない本音で、真実。あまりに痛ましい現実。

 気がつけば、彼の体を抱きしめていた。

「……前々から思っていたのだが」

 胸の中のトリックスターの体は、かすかに震えていた。病気の痛みでか、死への恐怖か。誤魔化すように、カースは続ける。

「我やキャンに大好きだと言う時だけ一人称を『ボク』にするのは照れ隠しか? らしくもないな」

 目が見えない彼に笑みがわかるようにくすりと笑う。その軽口にトリックスターは一瞬ぽかんとして、次に不器用にはにかんだ。

「しかたない、でしょ。嘘は嫌いだから、つきたくないし、けど、照れくさいし」

 病気により痩せ細った体はあまりに頼りない。現実主義のカースの脳は、トリックスターが抱える病の名を反芻する。

 元々は、腎臓癌だった。それは発見して間もなく摘出手術を行い、二つあるうちの一つの腎臓を摘出する事で根治をはかった。手術は問題なく成功したのだが、それから暫くして癌が肺にも転移している事が発覚した。

 肺癌は腎臓癌のように摘出手術は行えない。放射線療法と化学療法しか使えないのだが、トリックスターはその二つを強く拒絶した。きっと、副作用により病がキャンサーに発覚する事が嫌だったのだろう。抗癌剤は強すぎて髪が抜け落ちてしまうし、放射線療法は流石のカースも専門外で、それをしようと思うのなら通院は不可欠だ。

 だから、まるで死期が近づくと姿を眩ませる猫のように、彼はそのまま死ぬ事を選んだのだ。

 肺癌の症状に日々苦しみながら、しかし毎日カースの研究の手伝いや情報の収集などに奔走していた。その刹那を駆け抜ける生き様は、冗長に生きてきたカースにとってはあまりに鮮烈だった。

「……本当は、生きていて欲しかったんだがな」

 トリックスターも、キャンサーも、二人ともカースにとっては同等に、しかし自分の命よりもずっと尊い我が子だった。自分の胎を痛めて産んだ子ではないが、彼らを拾い育てた十年で、カースはすっかり子を愛し何よりも子を尊重し大切にする親という生き物になっていたのだ。

 本当は、病も関係なく生きていける方法をトリックスターに提示したかった。けれどもそれは間に合わない。

 そして、生きていてほしいという願いと共に、彼の考えを尊重したいという思考もあった。

 彼の願いを尊重して彼を看取るか、彼の命を尊重して彼を不死にするか。その二つの選択肢で懊悩したのは、いうまでもないだろう。

 カースは、我が子の考えを尊重した。きっとこれが、一番トリックスターもキャンサーも納得できるのだろう。これが彼らにとって、最良ではないけれど最高の生き方なのだろう。

 トリックスターの細い体を目一杯抱きしめる。

「この、親不孝者め」

「……ごめんね」

「ゆるさない。ゆるさないさ。あの世でもずっと、ずっと恨み節を囁き続けてやる」



 その言葉に、トリックスターは反応した。

 あの世でも。

 あの世でも、カースは、自分の側にいてくれるのだろうか。自分の側で文句を言いながらも、普通の親子として一緒にいてくれるのだろうか。

 トリックスターは、自分は一人で死ぬものだと思っていた。病気の治療を受けないと決意したその日から。

 死ぬ瞬間は誰かが側にいたとしても、あの世では自分は一人きりなのだろうと。自分が殺した両親に脚を引っ張られ続けるのだろうと。

 けれども、カースは当然のように自分の側にいてくれると言った。

 それがどれほどの救いなのか、彼女は知らないのだろう。既に無い目がじんわりと熱くなった気がした。

「……ありがとう」

 もつれる舌をなんとか動かして、言葉を紡ぎ出す。肺が、全身が、痛い。しかしそれ以上に、心が温かかった。

「ありがとう、かあさん」



 安楽死の毒ガスは、既に満ち始めているのだろうか。

 カースが抱える小さな体は、既に息をしていない。末端からどんどんと冷たくなっていて、それが生命の喪失を感じさせた。

「嗚呼……」

 天を仰ぐ。レイが空を飛んでいて、二人の姿を見守っている。

「これで、終わりか」

 自分にしては、随分と穏やかで上等な死に方だと思う。

 もう随分と長い間生きてきて、しかしずっと自分は一人でひっそりと死んでいくものなのだと思っていた。死体が腐敗する異臭でようやく死亡が確認されて、誰も出席しない葬式で一人寂しく逝くのだと。

 だから、息子と共に迎える最期は、悪くない。心底からそう思う。欲を言うのなら、ここにキャンサーが居ればいい、とも思うが、彼も彼で懸想する少女と積もる話もあるだろうから。

 カースはゆっくりと目を閉じた。体が痺れるような感覚。体の機能が、少しずつストップしていっている。これは毒か、それともただ単なる老衰か。

 眠るように地面に体を預け、家族の亡骸をその胸に抱えながら、穏やかに微笑む。


 おやすみ。

 我の家族。我の世界。我の全て。


 また、あの世で。



 レイは飛び立つ。ガラスのドームの分しかスペースが無い、ひどく狭い空。

 閉じられた箱庭の世界。ひどく窮屈な自由の中、レイは見知った顔を見て回る。

 そう、例えば。車椅子に座った男と、それを押して歩く女性の二人組だとか。




「悪いな、チュトラリー……いや、ゾーイ。こんな事に付き合わせて」

「いいえ。何も詫びる事はありませんよ、私は何も気にしていませんので」

 肩を落とすリーガルーに、常よりも少し柔らかい声でチュトラリーが返す。

 今までは便宜上チュトラリーと呼んでいたが、彼女の本名はゾーイ・チェンバレン。苗字を持っているから貴族の娘かと言われるとそんな事はなく、極々一般的な中流家庭の出だ。しかし、それはあくまで当時の価値観に限った話。彼女は出生こそ当時では一般的ではあったものの、その人生は奇特、かつ唯一無二のものであった。

「お前は、俺様についてこなくても良かったんだぞ」

「私がいなくても良いと」

「いや、そうは言わないが……。いくら恩義を感じてるからと言えど、俺様に縛られる必要はないんだぞ。そもそも恩なんてないんだ。お前が目覚めたのは、ただの奇跡の代物。俺様は何もしてないんだから」

 カラカラと車椅子の車輪が回る音。二人はノアの方舟を歩き続ける。行き先は決まっている。せめて最後の言葉を言い残す猶予を作るために、気密性が高い最奥の部屋に向かっていた。そこは倉庫のように使われている部屋で、外の冷たい空気を、つまり毒ガスを含んだ空気を通しにくい。

 そこへと歩きながら、二人は薄暗い廊下に立ち並ぶ扉を一つずつ確認するように眺めた。

 ここは、二人が始めて出会った場所だった。

 当時のリーガルーは、十代中盤の子供だった。しかしリーガルー家の長子、同時にノアの方舟の管理者としての活動を始めており、既に地下空間に閉じ込められて研究に没頭していた時期だった。

 当時の自分はかなり荒んでいた、と後になってリーガルーは振り返る。その時、彼は自分の境遇に思い悩んでいた。自分の双子の弟は自由気ままに地上で生活しているのに、自分はノアの方舟から出る事は許されない。一人きりのその場所で真っ当な価値観は育たず、時折訪れてくる弟への羨望と嫉妬は募るばかりだった。

 ノアの方舟の王者としての責任に嫌気が差していた。氷漬けになって仮死の状態で眠り続ける人の、守護なんて綺麗な言葉で飾り立てた管理。

 この人々の命を存続させているのは自分なのに、誰も自分に感謝しない。何一つとして感情を見せず、真っ白な寝顔を晒すだけ。笑顔も何もなく、王だと言われているのに民を守っているのだという実感は全く無かった。

 だというのに、ノアの方舟の人々は日に日に減っていく。地上で暮らす人々の食糧となるために。

 こんなの、家畜と何が違うのだろうか。生き返る目処も未だなく、無為に眠り続ける人々。何億人にもなる彼らを管理するだけのリソースは、このビバリウムではギリギリだ。食料問題は昔から深刻で、ガニバリズムはリーガルーが生まれる遥か以前から始まっていた。

 この民は、食べられるために生きているのだろうか。自分は、家畜のためにこんな場所に閉じ込められているのだろうか。

 ただ粛々と、自分に課せられた義務を果たし終わりの無いと思える研究に身をやつす日々。人間と相対しているのだという自覚は欠片もなく、毎日食肉として出荷されていく誰かだった肉塊を見送る。

 コールドスリープ状態の人間を生き返らせる方法は、まだ完成させていない。

 段々と、静かに緩やかに、リーガルーは壊れていった。

 そんな彼に、転機が訪れる。

 いつも通り、日に当たらないせいで骨が脆くなり歩けなくなった彼は電動の車椅子に乗ってノアの方舟の巡回をしていた。一つ一つ、隣に名前や出自、年齢などの個人情報が簡単に書かれたプレートが横に立てられたポッドを見て回る。

 それの中身は曇っていてよく見えない。中に人がいるのだと感じさせるものは、隣のプレートだけ。それが酷く、虚しい。

 大きく幾つにも分けられた部屋。一つの部屋に対して、収容されているのはおよそ百人。百部屋につき一ブロックと区画分けされているうちの、三十八ブロックの七十七部屋目だった。

 ピー、と電子的なアラート音が鳴っていた。動きが鈍い車椅子をもどかしげに動かしながら、その音の発生源と鳴っているポッドにリーガルーは近づいた。

 何やら、人をコールドスリープさせているポッドに何かしらのエラーが起きているらしかった。彼はすぐに持っていたノートパソコンとポッドを端子で繋げようとするが、すぐに気がついた。

 ポッド起動中を表す緑色のランプが、灯っていない。

 それはつまり、今このポッドは、少し閉鎖的な寝袋と化しているという事で。

 中の人間がどうなっているかなんて、わからなかった。

 一瞬、嫌な想像をしてしまった。中の人間がただの常温の死体になっていて、もうコールドスリープにしてもどうにもならない、というのが最悪のパターン。

 自分の整備不良が、人を殺す。そんな想像をしてしまって、ただでさえ青白いリーガルーの肌からは更に血の気が引いた。

 慌ててポッドの蓋を押し開けると、そこにいたのは少女だった。肩ほどの長さの赤茶けた髪と、細身の体躯。年齢はリーガルーと同じほどだが、青白い顔色のせいか若さ故の艶やかさがなくなっているように思えた。

 リーガルーが少女の状態を確認しようと、車椅子から手を伸ばしたその時。

 少女の瞼は開かれ、焦点が定まっていない青い瞳が覗いた。それが困惑したようにきょろきょろと泳ぎ、そして彼女に手を伸ばしていたリーガルーに止まる。

「だ……れ」

 酷く掠れた声だった。聞き苦しく、どうにも言語としては聞き取りにくい。

 しかし、それは目の前の少女が生きている事の、何よりの証左だった。

 長い間コールドスリープ状態にあり、機械の不調によりゆっくりと解凍され、奇跡的にも息を吹き返した。

 ノアの方舟が運用され始めて、百年以上。これまでに一度も無かった、氷の世界からの生還だった。

 その唯一無二の少女の名前が、ゾーイ・チェンバレン。

 ビバリウムの中での階級が適応されない時代に生きていたがために、本来ビバリウムで貴族しか持たない苗字を彼女が持っているのは、そういった理由だった。

「あの時は本当に不審者かと思いましたよ。コールドスリープしてたのにいきなり目覚めて、暗いポッドの中に一人で。それがようやく開いたと思ったら、自分と同じ年頃の男の子が幽霊でも見てるような顔してたんですもん」

「なっ、その話はもう掘り返さないでくれ……!」

 ゾーイはくすくすと心底おかしそうに笑う。年齢相応か、それ以上に幼く見える笑み。それに対して、リーガルーは照れ隠しに語調を少し荒くしながら頬を紅潮させて叫んだ。

「なんてロマンのない白雪姫。私はキスではなく機械のバグで目覚めて、王子様は卑屈な男の子。ロマンチックではあるけど、童話とは程遠い」

「……」

 揶揄うようにゾーイは続けた。すると途端にリーガルーは黙り込む。それは照れ故のものではなく、彼は人差し指を喰む独特の仕草をして考え込んでいた。

 その間に最奥の部屋にまで辿り着き、チュトラリーは内側から扉を施錠した。ノアの方舟で生きている人間は二人以外にいないので誰かが入ってくる事はないが、それは気持ちの問題だ。

 廊下よりも数段薄暗い室内は、扉から伝わってきた温度のせいで肌寒い。自分に迫り来る不可視の死を自覚しながら、ゾーイは扉の向こうを睨みつけた。

「……お前は、俺様を恨んでいるか」

 リーガルーは静かに問うた。

 お前は恨んでいるか。

 お前の親が目覚めない世界で目覚めさせた俺様を。

 同じ人間の肉を喰らわねば生きていけないような世界に起こした俺様を。

 このまま目覚めなければいいと思うくらいに、クソッタレたこの世界にお前を引きずり落とした、俺様を。

 恨んでいるか。憎んでいるか。

 それは、そう思っているなら報いを受けるつもりだ、と言っているようだった。

 お前を起こしたのは俺様も同然だから。

 だから、自分を殺したって、それ以上酷い目に遭わせたって、良い。

 リーガルーはそう言った。両手を広げて、無防備な姿を見せて。

「……以前も、言ったでしょう」

 それに対して、ゾーイは薄く微笑んだ。冗談を一笑に伏すように。笑い捨ててはいなかったが、けれども彼女は笑っていた。これまでにないほど穏やかに。

 車椅子を止めて、そこに座っているリーガルーに、後ろから手を回して抱きついた。周囲にはコールドスリープ用ポッドから漏れ出した冷気が漂っていて寒いというのに、肌と肌が触れ合っているそこは暖かい。

「私は、怨んでなんかいませんよ。このままだったら、きっと自分が死んでしまった事にも気づかずに、名前も知らない誰かに食べられてしまったから。こうして貴方に出会える事もなかったから。……だから、私は貴方がなんと言おうと、目覚めて良かったって思うんです」

 抱きしめる。柔く、優しく。彼の脆い骨が砕けてしまわないように。この強さに、彼が折れてしまわないように。

 リーガルーの背後に立つゾーイには、彼が今どんな表情をしているのかはわからない。しかし、おおよそ察しはつく。何せ、目覚めてから十年以上にもなる、長い付き合いなのだから。

 彼は今、苦々しい、様々な感情がごった煮になったかのような複雑な表情をしているのだろう。嬉しいだとか、悲しいだとか、なんで自分が、だとか。

 そういった人間らしい感情を彼が持てている事が、ゾーイにとっては何よりも嬉しい事だった。出会ったばかりの彼は、この地下生活に精神が磨耗しきっていたから。彼がこうして人間のように振る舞えているのはゾーイと出会ってからで、思い上がりかもしれないけど、その人間性を自分が作ったのかもしれないと思うだけで、ゾーイは柄にもなくにやついてしまう。

 いつもはリーガルーの使用人としての鉄面皮で隠しているが、彼女は本来は感情豊かで、そしてそれが顔に出やすい性格だった。

「……それでも、俺様と一緒にこんな場所にいる必要は、なかった筈だ」

 こんな薄暗くて寒い場所に、こんな人間の使用人として住む必要は、なかったのだと。リーガルーはそう言い募る。

 ゾーイは仕方ない主人だと微笑んだ。彼は「俺様」という一人称に似合わず、自己肯定感が低い。誰にも認められない、認めてくれる人がいない環境に起因しているのだろうな、とゾーイは考えていた。

「私は北の方の地方の出身なので寒いのは平気です。暗いのも怖くありません。何より、リーガルー様を置いて外でのうのうと暮らしていける訳、ないじゃないですか」

「責任感か? だったらそれは無用だ。俺様は生まれた時からこうなんだ。憐れみもいらないし、俺様を差し置いて普通の生活をする事は罪でもなんでもない。人はそれぞれ全く別の生活があるんだから、俺様はこれ、お前はお前と割り切れば良かったんだ」

 まるで子供の駄々だ。一周回って呆れながらも、ゾーイは続けた。

「……リーガルー様、私の容態が安定してお礼を言った時、どんな顔をしてたか自分でわかってますか? あんな顔されたら、離れられる訳、ないじゃないですか」

 コールドスリープの後遺症から回復して、そして彼女を懸命に看病していた彼に、礼を言った時。

 彼は、蒼白だった顔を真っ赤にしていたのだ。生まれて初めて感謝の言葉を伝えられたような。親からも貰った事のない愛を、初めて受け取ったかのような。

 それを受け取るべきか、受け取らないべきか、それすらわかっていないような。あまりにも無惨な。

 そんな、あまりに幼くて不器用な子供の顔。

 同じ年頃の少年がそんな顔をする事に、その後彼の境遇を知って、ゾーイは驚愕した。

 ずっとずっと、生まれた時から無音の民を守り続けてきて、しかしそれが当然で、彼に感謝する人すらいない。文字通り人生を捧げている大役なのに、それは影の中に覆い隠されて、誰もその働きを知らない。

 彼の働きは、報われない。

 それは酷く、寂しい事だ。

 ならば、私が彼の民となり従者となろう。

 彼に感謝の言葉を伝える者となろう。

 彼の密かな働きを更なる裏から支えよう。

 この王様を、心から敬い、慕い、従い。


 添い遂げる事をこの冷たい古墳に、方舟とは名ばかりの墓場に誓おう。


「私、一途なんですよ」

「……そうか」

 呆れたような、しかし安堵したような、リーガルーの声。

「……なら、最期まで共にいてくれるか? こんな、民の一人も救えない愚かな王と」

「ええ。愚王だろうと賢王だろうと、例え王ですらなかろうと、私はいつも貴方のお側に」


 氷の国は終わりを迎えた。そこからじわじわと浸食する死毒の足音は、酷く静かで穏やかだ。

 リーガルー・B=カルフーンの国は酷く安穏とした死神のベールに包まれ、沈黙した。



 レイは飛び立つ。その漆黒の翼を動かし、鳥籠の中を縦横無尽に飛び回る。

 次に目をつけたのは、中央に建てられた、このビバリウムの中で最も大きな屋敷。王族が住まう、しかしそう呼ぶには見窄らしい皇居だった。



「あーあぁ、終わりかぁ」

 閑散としてしまった宮殿のような屋敷の中、玉座に座ったままキングはぼやくように呟いた。

 最早彼は王ではない。こんな滅びゆく国の王をいつまでも名乗っているほど彼は自分の立場に誇りも責任感も持ってはいなかった。この玉座も、すぐにただゴテゴテと飾りを施しただけの椅子になるのだ。それが少し早くなっただけだ。

 椅子に浅く座り、そこから長い脚をまっすぐに伸ばしてキングは伸びをした。この屋敷にはノアの方舟と直接繋がっている道もあるから、きっと他より毒ガスが来る速度は速いだろう。使用人達は全員追い出したが、彼は一人玉座の間に留まり続けている。今死ぬのも、十分後に死ぬのも、同じ事だ。

「リー兄さんは今頃死んでるんだろうなぁ。あんなクソッタレた場所の王様として誇り高く死んでるんだろうなぁ。そういうの、めっちゃかっこいいけど愚かしいよ」

 今ここにはいない、恐らくはノアの方舟に留まり続けて誰よりも先に死んでいる兄を想う。

 考えてみれば、自分も愚かしい。兄は生まれた時に押し付けられた役目に囚われていたけれど、自分はそんな兄を憐れむ感情の檻に囚われていたのだ。

 まるでマトリョーシカだ。小さい籠の中で責任という名の重石を乗せられる兄。そんな彼に同情して、救ってやると囀っても、結局は自分も籠の中の鳥だった訳だ。兄の境遇は憐れまれて然るべきものだったけれど、憐憫だとか同情だとか、そんなものを与えたとて人類は籠に囚われ続けていて、それはずっと変わらない。

 不死になれたら、それは少しは変わったのだろうか。

 そう一瞬考えたが、すぐに振り払った。考えても詮無い事だ。

「はぁーあ」

 心底つまらなさそうに溜息を吐いて、キングは全身の体重を椅子に預ける。

「キング様」

 呼びかける声に、瞑目しかけていた瞼を開けた。椅子の正面で頭を垂れたサボディネートが、まるで命令を待つ犬のような従順さでキングに侍っていた。

 長く伸ばされた紺黒の髪は乱れていて、メイド服の裾は若干の泥に汚れている。

「……なぁんでいるかな。全員さっさとここから離れろって言った筈だろ?」

「ええ。ですので、わたくしの独断専行です」

 まるで全力疾走でもしてきたかのように汗をかき息を切らす中で、サボディネートはしかし平然と答えた。その姿に、キングは柳眉を顰める。

「僕様言ったはずだよね。家族のとこにでも行けって」

「ええ。ですが、わたくしの家族は既に亡き者。急ぎ最後に花だけ添えてきましたが、あとはもうわたくしがあちらに向かうだけなのです」

 彼女がこんなにも疲弊しているのはそういう訳か、とキングは納得した。大慌てで墓場までの往復の道を走っていたのなら、こんな状態になるのも当然だ。

 亡き者。その単語で、キングはサボディネートの生い立ちを思い返してみる。

 確か、彼女は貧民街の出だったか。幼い頃に双子の妹を母に殺され、父は生きているのかすらわからない。自分の片割れを、それが無惨な亡骸になっても尚守り続けて、そしてつけられた名前はサボディネート。遺骸に従属する者なんていう、あまりに皮肉な名だった。

 記憶の棚からその情報を引っ張り出して、キングは納得した。

「お前は、もしかして僕様と自分を重ねてんの? 双子の妹を守れなかったお前と、双子の兄さんを生かそうとしてた僕様を」

「……ええ。その通りです」

「なにそれ、代償行為? そんなののために僕様の命令全部こなしてきたの? 強盗とかの犯罪も? なにそれ、倫理観終わってんじゃないの」

 犯罪まがいの事をやれと命令したのはキングだが、それを受ける方も受ける方だ。キングは呆れ返ってしまって玉座にだらしなく頬杖をついた。

「倫理観なんてとっくの昔に終わってるでしょう。それこそ、人類という種を存続させるために共食いの道を選んだ時から」

「確かに。どこもかしこも狂ってるんだから、そこで産まれる子供が狂ってないはずないもんねぇ!」

 キングは楽しそうにケラケラと笑いながら傑作だとばかりに手を叩く。

 そう、狂っているのだ。誰も彼も。

 自分の子を永らえさせたいばかりに自分の体と他人の体を改造し続けてきたカルチノーマも。

 人類を存続させるために自ら眼を抉り出し、しかし最終的な決定権を兄弟に任せたトリックスターも。

 この腐り切った世界に失望したとはいえ、ほんの僅かな逡巡しか持たずに大量殺人に加担したキャンサーも。

 与えられただけの責務に殉死したリーガルーも。

 そんな彼に付き従って共に破滅したゾーイも。

 自分と主の姿を重ねて、自己満足の贖罪に命を捧げているサボディネートも。

 それから、きっと、年にほんの数回しか顔を合わせない、ただ血が繋がっている片割れというだけで無条件に自分の持つ全てを捧げようとしたキングも。

 みんなみんな狂っているのだ。

 狂わざるおえなかったのだ。

 だって、世界が狂っているのだから。

「こんな世界に人倫を求める方が、間違ってるんだよねぇ」

 その言葉は、諦念めいていた。

 どうしようもない諦めで、達観で、譲歩だった。

「……それで? サボディネートはこんなところで何してんの。まさかここで死ぬつもり?」

「そのまさかです」

「え、嫌なんだけど。僕様誰かと心中とかしたくないし」

 キングは露骨に嫌そうに渋面を作る。サボディネートは従順なメイドで、どんな事も命令すればこなしてくれたが、しかし優秀な部下に対する感情以上のものは持ち合わせていない。ただの部下と心中なんて真っ平ごめんだし、そもそもキングは一人で静かに死にたいのだ。

 キングの清々しいほどはっきりとした拒絶に、しかしサボディネートは動かない。従僕として頭を垂れたまま、まるで次の命令を待っているかのように。

「ああ、じゃあさぁ。僕様を王として扱うのやめてよ。死ぬ時くらい王冠外したいじゃん」

「嫌です」

 はっきりとした拒否だった。できない、ではなく、嫌、つまりやりたくない。あまりに感情的なそれに、キングは思わず面食らう。

「なんで」

「あなたを、わたくしと同じにしないためです」

 簡潔な答えに、キングは意味がわからなかった。しかし、彼女の顔を覗き込んで、理解する。

「はっは……あはははははは! そうかそうか、そうだよねぇ! 自分の妹を守れなくて打ちひしがれてた君が、自分の兄を守れなかった僕様を嫌わないはずがないもんねぇ! 僕様達はどうしようもなくおんなじで、けど同族嫌悪してるから立場が同じって事を認めたくなくて、自分とは遠い存在の王として僕様を死なせようとしてるんだね!」

 サボディネートの顔に浮かんでいたのは、隠す気もない激しい憎悪。

 彼女は家族を守れなかった自分とキングを重ねて、そしてキングが兄を救う事を期待していた。自分ができなかった事をキングが成す事で、独りよがりな罪滅しをしようとしていた。

 しかしそれは叶わない。キングは兄を亡くしたのだから。

 キングはサボディネートが一方的にかけていた期待を裏切った。二人の立場は、完全に同じになった。

 しかし、そんな事は認めたくはない。同じだと思いたくない。二人とも同様に失敗したのだと。

 だから、サボディネートは自分とキングを重ねる事をやめた。自分とは全く違う王としてキングを見做す事で、無かったことにしようとしていた。

 あまりに身勝手だが、彼女はそうするしか無かったのだ。

 彼女は自分のためだけに、王としてキングを死なせるのだ。

 その意図を汲み取ったキングは、哄笑をあげる。死ぬ前にいいものが見れたと言わんばかりに、心底楽しそうに。

「そっかそっかぁ! 僕様は今この瞬間は、このビバリウムの王じゃなくて君だけの王様なんだね! クソッタレた世界の王じゃなくて、自己満足に浸り切った君一人の王なんだね。それってすごく……気持ち悪い! 気持ち悪いけど、良いよ! 受け入れようさ!」

 従者が主に向けるには、あまりに歪な感情だ。押し付けがましい、一方的な願いだ。

 一人の人間として死のうとしているキングに、彼を王として終わらせようとしているサボディネート。そして、主導権はサボディネートが握っている。

 キングは自嘲した。これは、愚王だった自分への罰なのだろうか、と。

 キングはビバリウムの王という立場ではあるが、実のところ王としての政があったわけではない。外交が途絶している以上、彼の仕事はビバリウムの設備の点検、国民の状況の把握などである。やっている事は公務員と大差ない。

 先祖が遺したこのビバリウムという鳥籠の中で、それを内側から点検するだけの業務。人肉を食わねばならぬこの状況を解決する事もできず、その結果がこれだ。叛逆者への対処も、今思えば甘かったのだ。

 自分は、良い王ではなかった。その純然たる事実のみが、目の前に突きつけられている。

 だとしたら、サボディネートが行おうとしているのは紛れもなく罰だ。

 愚王に愚王として死ねと言っているのだから。自分の無能を皮肉ったまま死ねと言っているのだから。

 自分には、驚くほど相応しい終わりなのだ。

「良いね。良いよぉ。死のう。王として死のう。ギロチンなんかよりもよっぽど、僕様には似合ってる!」

 ギロチンは痛いと感じる暇もなく、一瞬で意識ごと首を寸断される。そしてこれからキングを殺すのは、緩やかに体の機能を止めて苦しませずに殺す安楽死の毒だ。

 どちらも苦しまないという点では同じだが、けれども後者の方が自分の死に様として、自分自身が納得できる。

 どこか安堵にも似た感情を抱きながら、キングは歯を剥き出しにして笑った。幼い印象を抱く、無邪気な笑い方だ。

「……そうですか」

 サボディネートは釈然としないような表情を浮かべたが、すぐにそれを掻き消した。変わらずキングに平伏の形をとりながら、ひたすら彼を王として跪き続ける。

 それに満足して、キングは目を閉じた。

 ああ、終わりの時だ。

 少しずつ動かなくなっていく指先の感覚。じわじわと死期が迫っている事を実感しつつ、玉座に身を任せた。

 安らかに、静かに。

 王と従者は、終わりを遂げた。


 ひらひらと舞いながら落ちた一枚の黒い羽根を拾い上げた子供が、不思議そうな顔をして上を見上げる。

 頭上では真っ黒な鴉が羽ばたいており、ガラスドームのパネルの隙間から漏れ出た光が逆光となってその鴉の影を一層黒く濃くしていた。

 それがどこかへと去っていくと同時に、子供の視界はぐらりと揺れる。目に見えるものや聞こえるもの、五感が全て霞んでいく。

 しかし、それだけった。手足の感覚がなくなっていって転ぶも、その痛みすら無い。痛いと思う事も苦しいと思う事も無い。

 それは、穏やかな眠りのようだった。



 ヒーラは、ふらふらとしたおぼつかない足取りでビバリウムを歩いていた。

 様々なものを見た。

 あの部屋を出てしばらく歩いた先にあった、あまりに見覚えのある少年の死体。

 寄り添い合う形で眠るように冷たくなっていた、親子の死体。

 まるで心中でもしているかのように、抱き合って頽れていた死体。

 もはや飾りと化した玉座にもたれかかった死体と、それに死んでもなお傅く死体。

 他にも、穏やかな日常をそのまま切り取ったかのような表情で路傍に転がる大量の死体。 

 老若男女問わずに一様に死んでいる有様は、まるで世界の終わりだった。

 いや、実際世界の終わりなのだろう。このガラスの箱庭はもう終わっているのだから。

 死体を避けて通りながら、ヒーラは歩く。どこかで覚えがある寂寥感。デヴィッドが死んだ直後に荒れ果てた地を歩んだ時と、似ていた。

 一歩一歩を踏み締めるように、石畳を歩く。

 気がついた時には、もうそこに辿り着いていた。

 それは、大きな門だった。全てが金属で構成されており、叩いてみた反響音を聞くに相当分厚い。破る事はまず不可能だ。

 ビバリウムの端の端、東西南北にそれぞれ一つずつ取り付けられた、外へとつながる門。ヒーラが今立っているのは、南に繋がる門だった。

 この門は九十七年前、ちょうどデヴィッドが外に出た日に完全に封鎖されたと聞いている。扉に触れてみると溶接の跡が残っており、これは扉としての役目を果たしていない事がわかる。

 確かに、この門からは絶対に出られない。

 しかし、それならば門から出なければ良い。

 その門はずいぶんと分厚い。また、周囲は貧民街であるため大量のゴミや荷物、何かの破片などが散らばっている。

 それに隠されるようにして、その穴は存在していた。子供が屈んで通れるくらいの、抜け道だ。ビバリウムのガラスドーム自体に開けてある穴で、ヒーラがこれを見つけた時は巧妙にも外殻のソーラーパネルを外側から被せてあった。以前この道を使って外に出た者がそのような工作をしたのだろう。

 しかし、それはつまり、以前この穴を使った者は外に出たきり戻ってきていないという事だ。ソーラーパネルを外側から被せるには、必ず外からそれを行う必要がある。

 そして、それをしたであろう人物をヒーラは知っていた。

 デヴィッド。九十七年前。彼もこの抜け道を使って外に出たのだろう。 



 空は、清々しいほどの晴天だった。

 あまりにも深く深海を思わせるほどの紺碧に、不純物のような雲が浮かんでいる。

 星は死んだ人の象徴と言うけれど、あの青空は今日、一体どれだけの人の命を吸い込んだのだろう。そして、今日の夜空はどれほどの失われた命を糧にしてうつくしく豪勢に瞬き輝くのだろう。

 かつてデヴィッドと共に眺めた星空を思い出す。いかに美しいかを問われたあの空を。大好きな彼と見たあの光景はヒーラの宝物だけれども、今全く同じものを見たとて、同じ感想を抱けるか。

 ビバリウムに滞在したのは、ほんの数日。しかしその数日は、ヒーラの価値観を大きく変えた。デヴィッドがヒーラに人間性を付与した時のように、決定的に何かが変えられた。

 彼女は変わった。それは成長かもしれないし、退化かもしれない。

 なんにせよ、大量の人間を虐殺した彼女は、もう普通の人間ですらない。その事実に彼女がどう向き合っていくのかも、これから彼女がどう思考して行動するかによるのだ。

 彼女はもう、ダイスに選択肢を委ねる機械ではない。自律し思考し行動する、歴とした人間なのだから。

 ばさり、と羽音がした。

 一切の生命が絶えたはずの場所ではあり得ない音だ。見上げると、そこには黒々とした羽を広げた鴉、レイがいた。

 レイは地表に近づくにつれて速度を緩める。なんとなく片腕を差し出してみると、レイはそこに停まった。爪が肌に食い込んで、痛い。

 ……痛い?

 ヒーラは、痛覚など持っていなかった。心も体も、痛いなんて思った事はなかった。常人なら痛いと思えるような刺激を受けても、痛いという感覚がわからなかった。

 けれどもヒーラは今、明確に痛いと思った。

 それは、痛みを痛みとして捉えられるほどの変化を遂げたという事で。

「……そっか」

 これからは、ヒーラは普通の人間と同じように痛みを感じるのだろう。心を痛めて、体を痛めて、そうして普通の少女のように心を動かすのだろう。

 そんな未来を想像して、ヒーラは微笑んだ。

 そして、レイに向き直る。きょとりと目を丸くしたレイに、ゆっくりと語りかけた。

「一緒に、くる?」

 レイはアンデッド、つまり不死だ。安楽死の毒でも死ななかった事が何よりの証拠。

 レイはヒーラと同じ不死。つまりヒーラと同じ時を生きられる存在なのだ。

 その提案は、レイが孤独にならないように、そして同時にヒーラ自身のためのものであった。

 これからは、一人と一羽で傷を舐め合って生きていこう。そういう提案。その言外の意図を汲み取ってか、それとも知らずか、レイは首肯しカァと鳴いた。濁っているしゃがれた声だった。

 その黒い羽毛を一撫でして、ヒーラは柔らかく微笑む。

 いこう。

 死体がそこら中に転がっているビバリウム。安らかな表情をして眠っているような人々を振り向きもせず、ヒーラはレイをつれて歩き出した。


 それは、真の意味で彼女が人間として生き始めた、その第一歩だった。

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ヒーラ 凪野 織永 @1924Ww

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