第21話

 

 すべてはハッピーエンドには終わらない。


 カノンは暗い牢の中で、くあーっと欠伸をひとつした。まあ、舞い戻ってきてしまったというやつだ。随分前、クルーエルの宿で色音を使ってしまい、ここに担ぎ込まれてしまったことを思い出し、ふふ、と彼女は笑った。あのときと随分な違いだ。


 もちろん以前とは違い、第一級犯罪者として収容されている現在は、収容場所も違えば、のちの裁判の結果を想像しても、あまり気分のいいものではない。

 あのあとすぐさま部屋の中になだれ込んできた憲兵にカノンは捕まえられ、暗い檻の中に閉じ込められた。


「…………国家反逆罪か……」


 ま、しょうがないなぁ、とため息をつくしかない。黒の色音をすべて断ち切ることは、自分にはできなかった。こぼれ落ちたわずかな色音達は、雨となり街に降り注いだ。一体これからどんな影響が出るか、誰にも想像がつかない。これくらいで済んだのは奇跡のようなものだ。もしかしたら、すべて失敗して、洪水のように空がこぼれ落ちたかもしれない。

 ――残念なことに、この牢に窓は設置されていないらしい。


 せめて青い空を見ることが出来れば胸が軽くなるのだろうけれど、と、薄暗くじめじめとした水の匂いを嗅ぎながら、カノンはため息を吐いた。


(…………こわいなぁ)


 覚悟していたこととはいえ、これでしっかりとした犯罪者になってしまったのだ。一度目に連行されたときとは話が違う。ひんやりと冷たい煉瓦の床にしゃがみ込み、かちかちと小さく体が震えるのは、ただ寒さからだけではない。後悔は、してない。きっとこれで、カラーシンガーたちの責務は終了したはずだ。


(…………本当に?)


 わからない。

 ナギの顔を思い出した。このまま、彼を見ることがないまま自分は裁かれてしまうのだろか。あの赤い石も、アウサーが渡してくれた人形も取り上げられ、今はただ、着の身着のまま、体を抱きしめながら震えることしかできなかった。


 遠くで、ぼんやりとあかりが灯っていた。守衛さえもいないのは、この頑丈な鉄格子を通り抜けられる訳がない、という証拠だろうか。それにしては不用心だと心の中で毒づいたが、そんなものに意味はない。カノンは膝の間にそっと顔をうずめた。かつり、かつりと煉瓦を歩く音がする。看守が見回りにでも来たのだろうか、と冷たい体を抱きしめたままでいると、不思議なことに足音が二つあるということに気がついた。ときおり回ってくる守衛はいつも一人きりだ。おかしいな、と思いつつも、そのまま、まあいいか。と思った。なんだかもう、全部がもう面倒くさかった。


「……カノン、寝ているの?」

「カノンさん!」


 聞き覚えのある声がしたけれど、おそらく幻聴だろう、と勝手に考えていた。だからゆるゆると、自分でも驚くくらい緩慢な動きで顔を上げ、ぼんやりと光るランプごしに、鉄格子に手のひらをかけている青年と女性を見たとき、これも幻覚だろう、と最初に考えた。しかしあんまりにもそれがリアルなもので、ゆっくりと息を吐き出すと、ナギは格子の向こう側から、静かに腕を伸ばした。


「どうして」


 吐き出した声はどこか現実味がない。だからこそ妙な非現実感と合わさり、はたと目を覚ましたようにカノンは慌てて立ち上がった。ほんの少しだけ足を滑らせて、鉄格子を勢いよく掴む。知らぬうちにナギと手が合わさってしまったことに気づき、逃がそうとしたが、逆に強く上から握りしめられた。意外なことにも硬い。けれども、やんわりと暖かい。本物だ。知らぬうちに視線を落としナギの手を見つめていたカノンだったが、「そっちは僕の顔ではないよ」といたずらめいた声を落とされ、少し耳の裏が熱くなったのを感じた。


 顔を見上げると、ナギはふわりと微笑みながら、反対の手でカノンの髪を優しく撫でた。


「元気かい? と、聞くのは少しおかしいけれど」

「うん、元気」


 彼の手のひらを頬にすりつけると、ナギも指先をほんの少し動かして、カノンの頬をくすぐる。そのときになって、やっとこさ状況を理解して、もう一度彼を見上げた。


「ナギ、一体どうやってここに?」

「一応、僕らはカラーシンガーだから。ある程度の特権は許されているさ」

「…………僕ら?」

「…………あ、ごめんなさい、えーっと……」


 お邪魔をしちゃっているみたいで……と、ホホと口元に手を当てたマリーが、そそくさと数歩下がる。い、いやいやいや、とカノンとナギは顔を真っ赤にさせながらお互いから離れ、ナギは手の甲で頬を打ち、カノンは両目をぎゅっと瞑り、開く。


 ナギはマリーと瞳を合わせ、うんと頷いた。「内側からは、色音は封じられているけれども……」ふふ、と彼は悪戯っ子のように瞳を細めて、「外側からは、案外無防備なんだ。村で悪さをしていたときのことを思い出すな」青年は指先からするすると赤色の糸を出した。そして牢の鍵部分に人差し指を差し込み、暫く経ったかと思うと、カチリと金属が外れる音がする。重い音とは反対に、扉はあっけなく開かれてしまって、ぽかんとカノンが口を開けていると、ナギはカノンの腕をつかんだ。


 牢の外に引っ張り出されたカノンは、瞬きをするばかりで、「ちょ……っ」大声を出そうとした口を、ナギは柔らかく押さえ込んだ。


「逃げよう、僕と一緒に。カノンここにいる必要なんてない」

「あるよ、悪いことをしたんだもの。そんな、逃げたりしたら……」

「カノン」


 ナギはぎゅっとカノンの両肩をつかんだ。あまりにもじっと瞳を見つめられるものだから、カノンはほんの少しだけ身動ぎをする。そんな彼女も許さないというように、ナギはもう一度、彼女の肩に力を入れる。


「カノン、僕はずっと我慢をしてきた。だから、ちょっとぐらいの我侭くらい、許してくれたっていいだろう」


 そう言った後、違うな、と彼はやんわりと首を振る。


「好きだ、愛してる。一緒になってくれ」

「ちょ……」


 抱きしめられ、キスされた。ん、ん、ん、と苦しげに彼の胸を叩いても、びくりともしない。そっとマリーに目の端を向けてみると、彼女は「こほん」と咳をついて、瞳をつむってくれていた。大人である。


「………ぷはっ」

「よし、それじゃあ行こう」

「え、えええ、そ、そんな」


 一方的過ぎる。自分の返事というものはないのだろうか。そんな顔をするカノンを見て、ナギはふふふ、と嬉しげに口の端をあげた。「カノンの返事なんて、聞かなくたってわかる。だいたい、僕らは一緒に暮らすんだって、小さな頃に約束したじゃないか」それはそういう意味で言った訳ではないのに。顔が真っ赤になりそうだ。死にそう。でも、多分、自分は彼のことが好きだ。マリーと彼が付き合っていると聞いて、腹の底がぐるぐるした。そうか、と分かってしまえば簡単だ。


「で、でもナギ。どうやって外に出るの、牢から出たとしても、その先は……」

「問題ないさ」


 にこにこと笑うナギを見て、なんだか胸が苦しくなる。かっこいいのに、かわいい。


「正面から、堂々と」




 ***


「…………カラーシンガーかァ……」


 羨ましいこってね、と一人の兵士がくあーっと欠伸をしながら、先程の二人を思い出した。赤髪のナギ、黒髪のマリー。彼ら二人をこの街で知らないとは、モグリのようなものだ。

 ――――牢の結界を貼り直しに参りました。



 そう言いながらこちらを見上げた青年は、随分甘い顔立ちをしていた。これは女たちが騒ぐのも無理はない。ちょっぴり羨ましい。ローブのようなものをかぶっていたのは、あの目立つ赤髪を隠すためであろう。ただの黒髪であるマリーも、同じような格好をしていたのは、カラーシンガーの制服か何かなにかもしれない。


 さすが、人気者は大変だねえ、と思ったのだけど、「給料、いいんだろうなぁ……」

 一番最後に行き着く思考はそれである。

 こちとらしがない牢屋の見張り番。一日ぼんやり椅子に座って、ときどき牢屋を見て回って。牢の中にいる犯罪者を見ることは未だに慣れないし、この頃あまり運動してない所為か、腰が痛い。


 男はさすさす腰を撫でつつ、くあーっともう一回、欠伸をした。眠い。

 かつん、かつん、かつん、と二人分の足音が聞こえた。おっと、と牢屋番は背筋を直し、びしりと顎を上に向けながら直立不動で彼らを見送る。ローブの隙間から見える赤髪と黒髪の女性を確認して、牢屋番は彼らを見送った。「ご苦労様でした!!」そう言って胸を張って敬礼したのだけれど、彼らから返事がないことには(まあ、カラーシンガーなんて、雲の上の人間だもんな)と思うだけで、特に疑問には思わなかった。


 それから数時間が立って、そろそろ見回りか、と重い気持ちを押さえながら、壁にかけておいたランプを手に取り、足を踏み出す。


 かつーん、かつーん、かつーん。足音が必要以上に響く訳は、もし犯罪者が脱走したとしても、こちら側にすぐわかるように、ということらしいのだが、これは反対に、自分がどこにいるか、犯罪者達にもまるわかりなのではないか、といつも恐ろしい想像に駆られる。


(ああ、転職したい……)


 かなり本気で。前々から考えていたことだ。一つ一つの牢を、恐る恐るランプをかざして確認し、おどろおどろしい犯罪者達の顔を見る度にそう思う。何かきっかけがあれば、さっさとこんなところをやめてやるのに。


(…………そういえば)


 珍しく、若い女の子がこの場所へと入ってきた。一体どんな悪さをしでかしたのか見当もつかないが、筋骨隆々な親父を見ているよりも、瞳が洗われるというものである。心持ち足取りを軽くして、青年は歩いたのだが、ふと、新入りの少女の牢から、静かな泣き声が聞こえた。


 一瞬ぎょっとしたものの、心細くなったのだろうか。悪いことをしたと言っても女の子だ。そこらの子どもと気の持ちようは変わらないのかもしれない。「お、おおーい、どうした……?」 少しだけ戸惑ったものの、声をかけてみた。彼女は長い髪を伏せながら、しくしくと涙をこぼしていた。見えづらいな、とランプを持ち上げたとき、「う、え、え!?」涙で頬を濡らしている女性は、自分が予想した顔とは違う。


「く、黒髪のマリー!? な、なんで……!」

「わ、わたし、わたし……」


 マリーベルは美しい顔を涙で濡らしながら、ゆるゆると頭を動かした。


「こちらに、同じカラーシンガーのナギと共にやってきたのですが、どうやら騙されてしまったようです。彼は唐突に牢の鍵を開けて、私の服と、彼女の服を替えさせ、わ、私をこの中に……!」


 わっと顔を伏せてしまった彼女を見ながら、青年はランプを持ったまま、ふらふらと後ずさった。ちょっと待ってくれ、彼女がそういうのならば。


「じゃあ、さっき出ていったマリーは……!」


 大変だ。大変だ。なんてことだ。腕ばかりをばたばた動かし、青年は一度こけ、二度こけ、やっとのことで外に向かった。知らせないといけない。外に知らせなければ。


「脱走だ! 脱走された! 協力者は、カラーシンガーのナギだー!!」


 守衛の部屋の中に取り付けられている小さな電話の受話器を勢い良く上げ、力の限り叫んだ。ああ、自分はクビになってしまうだろうな、と考えたのだけれど、丁度いいきっかけになったかもしれないなあ、心の中で、案外冷静に考えた。


 ちなみにであるが、青年は、牢屋の中でぺろりと舌を出すマリーの存在なんて、知るわけもない。




 ***


 自分は一体、何のために生きてきたんだろう。カルロは黄緑色の髪をはためかせながら、ふと、胸に手を置いた。おそらく自分より早くの年にカラーシンガーとなったものはいない。彼は生まれた瞬間、カラーシンガーと決められた。そう、この国の王が判断した。


 カラーシンガーは王と対面して、やっと特級色音使いだと認められるのだ。

 カルロは王妃の三番目の子どもだ。もっと言うのならば、三人目の王妃の、王の八番目の子ども。跡取りはすでに決まっていたし、今更子どもが増えようとも減るまいとも、どちらでもよかった。それよりも、空を支えるカラーシンガーの方が入用だった。それだけだ。


(…………ここに来ることは、本当は簡単にできたんだ)


 カラーシンガーに逆らうことができる人間なんて、そうそういない。ただ一人、あの黒髪の少女を除いて。

 ちりりん、と胸の中で鈴が鳴る。小さな頃から持っていたものだと聞いた。母親から渡されたものだとも。けれども自分は彼女の顔を思い出すことができない。


 ちりりん、ちりりん、ちりりん

 木の幹に乗っかり、ぐんぐん育つ彼に、ありがとう、と言葉を渡した。それに答えるように、またにゅっと木々が伸びていく。こんもりと盛られた木から飛び降りた瞬間、大勢の人間がカルロに視線を向けた。その中心には、玉座に乗っかり、足を組む男の姿。

 ふーん、これが父親か。

 感想はそれだけだ。


「貴様! どうやって!」

「どうやってって、植物たちに頼んだだけだよ」


 カルロが天井を指さすと、長く生い茂った木々がわさわさと揺れる。


「ねえ、あんた」


 一歩あるいた瞬間、周りの人間たちが、音をあわせて踏み出した。駆けつけた憲兵達が、一瞬にしてカルロを包み込む。瞬間、放たれた色音に、「ハッ」と軽く鼻で笑いながら、指からだした黄緑色の糸をくるくると巻き、相手の色音を束にする。上級程度が、こっちに勝てると思うなよ。


「よい」


 王はゆっくりと手のひらを横に引いた。周りの家臣たちが眉を顰めたとき、「よい」もう一度。別にでかくもない声なくせに、なんだそれ。彼らは一斉に膝をつき頭を下ろす。

 馬鹿馬鹿しいな、とカルロはため息をついた。そして言った。


「ねえ、あんた。俺のこと知ってる? いや、知らないかな。どっちでもいいんだけど」

「名前は忘れた」

「あ、そう」


 正直だね。と笑いそうになったけれど、やめていた。


「いいよ、別に知らなくて。ただ言いに来ただけだから。俺、この国のカラーシンガーはやめる」


 さて、あちらがどう言うか? 少しだけ興味があったのだけれど、ただ男は軽く眉を寄せただけで、面白い顔の変化はなかった。というか、顔にはところどころ深い皺が刻まれていて、まるで初めからそういう形の彫刻です、と言われたら、納得してしまいそうになる。子どものころから、皺だらけで生まれてきたのかもしれない。ありえないけど。


「それは困るな」

「それだけかよー。もっと他にコメントくれよ」

「他国に付かれれば困る」


 まあ確かに。カラーシンガー一人が他の国に移動して、あちらの味方になってしまえば、武力を手にした国が、ほんの少し調子に乗ってしまうかもしれない。苦笑してしまった。


「別にそういうの、めんどいし。しないよ。ただこの国を出て、旅に出る。もう縛られるのはたくさんだ。そう言いたかっただけ」


 本当は、いつでも本気を出せば逃げることができた。けれども心のどこかで、この国から足を離すことを恐れていたのだと思う。

 王は特に何もいうことはなかった。ただ頬杖をついて、カルロを見つめていた。カルロは彼に背を向けようとした。けれども一つ、と振り返った。「母さんは……」そう言葉を出した後、後悔した。「何でもない」と首を振り、歩いて行く。周りの人間たちが、どうすればいいかと困った顔をしたまま道を開ける。


「あれは」


 声が聞こえた。大して大きくもない声のくせに、よく響く。あいつも、何か色音でも使っているんだろうか。そんな訳ないけど。


「あれは、気が小さい女だからな。親よりも先に死ぬかもしれん子を、見たくはなかったのだろうよ」

「あ、そ」


 別に、それだけだ。息を吐き出した。

 生まれて初めて訪れた城を――いいや、おそらく生まれたときは、この城にいたのだろう。二度目に訪れた城を門から見上げ、カルロは瞳を伏せた。嫌われてたのだろうか。いや、そうじゃないのだろうか。


 おそらく、これからこの国は荒れる。幾人ものカラーシンガーたちが、自分と同じように、他の国に渡るだろう。その中には他の国に味方するものも現れるはずだ。今まで一つの国が所有していた武力が拡散される。そうなれば、また争いも始まるかもしれない。

 けれども、きっと仕方のないことだろう、と他人ごとのように考えている自分がいる。ただ俺は、その流れを見つめるだけだ。


 多分もう一生訪れないであろう城を見上げながら、ふと黒髪の少女のことを思い出した。彼女がナギ達によって助けられることは知っている。丁度同じ時間、自分は城にて騒ぎを起こした。ナギ達を捕まえるための兵の手配は、少々遅れるに違いない。自分にはこれくらいのことしかできないが、とため息をつき、ふと、胸の中が暖かくなるのを感じた。

 なんでだろう、と探ってみる。


 ――――小さな革袋を見つけ、ああ、と息を吐き出した。




 ***


 あの子は元気だろうか?

 この頃、そのことばかりを考えてしまう。夫は死に、その残り形見だと思い産んだあの子は黄緑色の髪をしていた。これはどういうことだろう、と考える前に、あの宿の子の髪は黒ではないと噂が駆け巡り、あの子はカラーシンガーとなってしまった。

 まだ、子どもだ。そうつっぱねた私から、彼らは無理やりあの子を奪った。


(いいえ)


 クルーエルは、ゆるゆると首を振った。そう思えば、自分が楽になれると知っている。彼らは知っていた。夫が死に、金に不自由し、子ども一人の面倒を見ることができるかどうかわからないということを。


 このまま子どもが飢えて死ぬよりは、この子をカラーシンガーとして国に出し、すくすく元気に成長すればいいじゃないか。あんただって、金がもらえる。なあに、その金で宿を直して、この子が大きくなれば勝手に戻ってきてくれるさ。

 その言葉は甘く、まるでそれが一番正しいことのように感じたのだけれど、あのときの自分は愚かだった。


 カラーシンガーは親元を離れ、一生戻ってくることはない。

 そう知ったとき、なんて自分は馬鹿なんだろうと涙ばかりがこぼれて、何もできなくなってしまった。けれども働かないと、死んでしまう。お金はある。カラーシンガー達の親元へと送られるお金は莫大なものだ。けれどもそれに手をつけることは出来なかった。どうしてもという必要な分だけ使い、また貯金が貯まれば元に戻す。そんな風に、働いて、働いてを繰り返して頭が真っ白になったとき、ふと気づいたのだ。


 今はあの子は小さいけれど、大きくなれば闘技場に出ることもあるだろう。今年は黒髪のマリーで、その前は青髪の男性。あの年頃になれば、自分はたとえ遠くからでも、あの子の姿を見ることができる。この間うちの宿に来てくれた、息子と同じ黄緑色の髪をした男の子のように、こっそりと遊びに来てくれるかもしれない。


 いいえ、産んですぐに手放した親のところになんか、来てくれる訳もない。そんな都合のいいことは考えていない。ただ、あの子が元気で育って欲しい。自分の願いはそれだけだ。


 そういえば、あのカノンという女の子は、驚いたことにカラーシンガー見習いになってしまったらしい。びっくりね、とクルーエルはカチャカチャと皿を洗いながら微笑む。もし、機会があれば、息子の様子を聞かせてもらえないかしら……と思ったとき、ふと外で物音がした。何だろう? と首を傾げ、クルーエルはゆっくりと皿を流しに置いた。


 顔をひょいと覗かせてみれば、ドアがほんの少しだけ開いている。誰か宿屋の客が起きてしまったのだろうか? と瞬きをして、「どちらさま? お夜食でも作りましょうか」そう言いながら、エプロンで手のひらをふき、パタパタと歩くと、そこにはひとつ、小さな皮袋が落ちていた。そしてその横には、小さな木の葉っぱ。


 誰かの落し物だろうか。一体だれのものだろう、と何の気なしに袋を開けると、中には黄緑色の髪の毛が入っていた。


 一瞬ぎょっとしておっことしてしまいそうになったのだけれど、クルーエルは息を飲んで、もう一度中を確認した。確かに、息子と同じ色の、髪の毛だ。

 葉っぱをもう片方で持ち、クルーエルは首を傾げた。けれどもハッとして、慌てて外に飛び出た。


 ――――ちりりん、ちりりん


 一瞬、鈴の音が聞こえた気がして、もう一度耳を傾けてみる。真っ暗な街には、ひゅうひゅうと風の音が響くだけで、人っ子一人、見当たらなかった。




  ***


「カノン、大丈夫かい」

「大丈夫だよ」


 二人の少女と青年が、ぎゅっと手のひらを握り合い、微笑んでいた。青年はローブを深くにかぶり、その表情を伺うことができない。けれどもはずむ声が、その顔を語っている。街が遠く、小さな粒のように家々が連なって見える。


「……もう帰れないね」


 ふと、悲しげに呟いた彼女の声に、ナギは不思議気に首を傾げた。


「トラッパの街に?」

「ううん、ヴィオラの村。養父さんと、義弟が待ってるのに」

「うん」


 そうだね、と言いながら、ナギとカノンは進んでいく。追っ手がやってくる。おそらく、これから国は混乱する。自分二人に手を煩わせるほど暇ではないとは思うが、生まれた村に戻るなど、捕まえてくれと主張しているようなものだ。別の国に行かなければならない。そうナギは呟いた。カノンも、ゆっくりと頷いた。


 でも、そうだなあ、とナギははたはたとローブを風にまとわせながら、ゆっくりと瞳を閉じる。


「あと、数年経ったら。そしたらカノン、きみは大人になる。見かけも、きっと変わる。俺も、髪を染めて、瞳を隠して。そうすれば、誰も俺たちがナギとカノンだなんて、分からなくなるんじゃないかな」

「そうなるかなぁ」

「なるさ」


 そしたら、小さな頃の夢を叶えよう。それまで、二人で逃げるんだ。にこにこ笑うナギに、カノンもゆっくりと微笑んだ。


「カノン、見て」


 ゆっくりと、空が明けていく。



「――――今日が、初めての夜明けだよ」



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カラーシンガー 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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