第20話

 

 マリーは重い足取りで儀式までの道のりを進んだ。二日に一度、。その場ではカラーシンガーしかいることを許されないし、そもそも幾重にもかけられた結界は、カラーシンガーのみしか入ることができない。

 瞼が重い。鏡を見ずとも、ぷっくりと情けなく瞳が腫れていることは知っている。幼い子どもを思い出し、また胸が辛くなった。泣いてばかりいてはいけない、そう思うのに、誰かが欠けていく度に、本当にこれでいいのだろうか、と自答する。次が自分ならいい。けれどもそれが、カルロや、ナギや、橙の色音使いのように、自身よりも若い命であるならばと考えると、押しつぶされてしまいそうだ。


(私は無力ね……)


 幾度と考えた思考を繰り返し、ゆっくりと彼女は片手を上げた。色音使いの、その限られた人間にしか見ることのできない不可視の糸が彼女の人差し指をはいずる。結界に指を入れた瞬間、なんの感覚もなく手のひらが空間を素通りしてしまったことに、瞬いた。


「…………え?」


 どういうことかしら。おかしいわ。まさか勘違いだろうか。いや、そんな。何度くぐりぬけた場所だと思っているのだ。もう一度、と引っ込めた手のひらを、ゆっくりと伸ばしていく。「…………ない」なにもない。ただ草木が生えるばかりの森だ。


「結界が、開かれている……?」


 違う。

 よくよく目をこらしてみれば、そこかしこに残骸が転がっている。乱暴に、無理やりに、切り裂かれている、と言った方がいいかもしれない。そんな簡単に壊れるようなものが、配置されている訳がない。一体誰が、と思考を巡らせたとき、一人の少女の姿を思い出した。彼女ならば。けれども何故?


「…………マリー! これは……!」

「ナギ!」


 ナギは軽く眉を顰め、マリーの肩を叩き駆け抜ける。マリーもそれに倣い、塔へと向かった。

(…………これが、彼女の仕業だとしたら)


 数日前の出来事を思い出す。


(きっと、私がヒントを与えすぎた)


 わななく唇に手のひらを当て、瞳を見開いた。

 自分は何を恐れているのだろうか。彼女に何が出来るわけでもない。


(いいえ、恐れているのではない)


 たかだか初級の色音使いである彼女だ。上級はともかく、カラーシンガーである自身を倒せるはずがないと、マリー自身でさえもそう思っていた。なのに彼女は、誰も想像もしないことをしでかした。そんな彼女はそんな少女だ。小さな、小さな期待が胸にあった。それが、どきどきと音を立てている。ひどく、胸が高鳴っていた。


 ***


 赤い石が呼んでいる。

 ナギはマリーを伴いながら、すでに無意味と化した結界を次々に通り抜けた。呆然としたカラーシンガー達を奮い起こし、どくりと騒ぐ血潮に、目眩がした。


 ――――ナギ


 石が呼んでいる。

 もともとあれは、マリーにやったものだった。自身の色音を凝縮し、視認できるほどの濃度を持つそれは、すでに自分自身と同義である。どう巡り巡ってか、石を持った彼女が、自身を呼んでいる。


(カノン)


 小さな頃から、好きだった。ほんの少しお転婆で、生傷ばかりをこさえて、人並み以上に才があるのに、自身と比べ、卑屈になる癖があった。そんなところも好きだった。違う、今も好きだ。守りたい。一緒になりたい。そう思ったからこそ、自分はこの街へとやってきたのに。一緒になりたいのに、離れようとしている自分は奇妙に矛盾しているけれど、仕方がないことだ。忘れてもらおうと思った。だからこそ、自分は彼女へと連絡をすることもなく、けれども決別の言葉を送れるほどの度胸もなく、日々を過ごしていた。――――目の前に、あの子が現れるまで


 なんでやってきたんだ。

 なんで僕の前にやってきた。


(僕はもう、死んでも構わないと思っていた)


 カラーシンガーになり、幾人もの死者を見送った。小さなルッサムの手のひらを思いだす。何で気づいてやれなかったんだろう。あの子はすでに限界だった。子どもだから、はっきりと声を出すことができなかったんだ。自分は彼の小さな声さえも汲みとることができなかった。


(自分だけ、死にたくはないというのは、虫がよすぎる話だ)


 逃げ出すカラーシンガーたちを、片っ端から連れ帰った。氷のような男だと、裏では囁かれていることを知っている。自分でも、そう感じる。

 覚悟してるつもりだった。

 誰に嫌われたところで、構わなかった。誰かがどうにかしなければ、いつか空から黒い色音が落ちてくる。ただそれだけを止めるために生きていたつもりだった。だと、いうのに。


 ――――ナギ


 呼んでいる。あの子が呼んでいる。

 行かないといけない。

 バラバラに砕け散った結界を踏みにじりながら、一体彼女は何をしようとしているのか、とナギは震える体を叱咤しようとした。気づけば、カルロが並走している。こわばった彼の顔つきを見ていると、奇妙に彼は何かを知っているような気がした。けれども今、それを尋ねるべきではない。ナギは塔の扉を叩き、階段を駆け上った。


 最上階だ。まるでただの平凡な家のドアのように、小さな扉の取っ手に、手のひらを掛けた。一瞬、指先をはねさせたが、いいや、と首をふり、ノブを握る。ゆっくりと、押し開いた。


 真っ白い柔らかい毛が生えた絨毯。いくつかのクローゼットや本棚。散らばった椅子。その天井は薄いガラス張りで、なんとも言えない奇妙なアンバランスさを見る度に感じる。その中に、一人の少女が立っていた。


 片手に異国の武器を握りしめ、こちらに向けていた背を、ゆっくりと振り替えさせる。「かっ、」カノン、と声を上げる前に、ナギの脇からカルロが飛び出した。ナギも慌てて部屋に足を踏み入れ、他のカラーシンガーたちも部屋の中へとなだれ込む。


 ゆっくりと、カノンは微笑んだ。


「カノン、悪い、俺、なんにも考えてなくって、いろいろビックリしたんだよな? ほら、戻ろうぜ。大丈夫、俺が悪いって、ちゃんと説明するから……!」


 駆けつけたカルロの手のひらを、カノンはゆっくりと握りしめた。場違いながらも、痛いほどに大きく心臓がなった。何をしているんだと、そこをどけと叫ぼうとする口を必死でつぐみ、早歩きで彼女の元へと辿り着こうとした瞬間、カノンはくるりとカルロの体を反転させた。そしてその首元に鞘の抜かれた武器をちょんと当てる。


「えっ」

「動かないで」


 一体どういうことだろう。彼女は何をしたいんだろう。口元を動かしたいのに、固まってしまって動かない。理解ができなかった。じっくりと、カノンの顔を見てみた。あのときは暗くて、彼女の顔立ちがよく分からなかった。試合のときも、遠くて、全然わからなかった。だから明るい光の中で、しっかりと彼女を視認するのは、今がはじめてだった。


(…………やっぱり、綺麗になったな)


 ぼんやりと、そう、場違いなことを考えていた。

 いや、僕はバカか、とナギはぶるぶると首を振って、ゆっくりと深呼吸をした。今の自分はカラーシンガーの長である。私情に流されるべきではない。


(……でも、ちょっと、おかしいよな)


 彼女のために、世界を守ろうと思った。色んなことを我慢してきた。だというのに、自分は彼女を止めようとしている。いや、彼女が何をするのかさえ分からないけれど。これは矛盾するのではないか、と考えようとして思考を止めた。そんな堂々巡りの物事に結論を出せるほど、自分は人生を生きてはいない。


「…………カノン、カルロを放してやってくれ」

「断ります」

「じゃあ、僕らにどうして欲しいんだ」


 にこっと彼女は笑った。武器を首につきつけられているカルロもぎょっとするくらい、可愛らしい笑みだった。


「ナギは話が早くて助かるな」


 そう彼女はつぶやき、瞳を細めると、もう一度、ゆっくりとナギ達を見つめた。


「今、この場で。儀式を始めてくれませんか?」


 ***


 やばいやばいやばいやばいやばい、意味がわっかんねーまじまじ意味わっかんねー。ちょっと待てお前、カノン、いやいや、カノンさん。お前は何をしたいの、何故俺はこの子の人質になっているの?


 ちょんちょんと首に剣がついている。見たこともない武器だが、多分剣だろう。間違いない。ぶすりと刺されれば、間違いなく致命傷だ。その剣が、俺の首元にあった。


 えっ、俺殺されるの


 そんなことを冗談で考えてみたけれど、そんなわけない。彼女は何かがしたい、ということがわかった。今更ながらに、彼女に全てを話してしまったことが悔やまれたけれど、それはもう遅い。自分の判断不足だった。そのことでカノンを責めるつもりはない。

 でも、この状況はちょっと、どうかと思うんですよ。


 カルロはふはー、と重い溜息をついた。そしてぎゅっとカノンが自身に密着しているものだから、背中に感じる暖かさとか、柔らかい物体の正体だとかに、多少耳を赤くしながら、だから今はそんなことを考えてる場合じゃないだろう、と首を振った。


 八人、いいや、今は七人となってしまったカラーシンガー達の人数には不釣合いのように、部屋は結構な広さがある。その入口付近で、ナギやマリー達が、表情を強ばらせてカルロ達を見つめていた。ははは、と思わず苦笑いをしてしまいそうになったのだけれど、状況にあまりそぐわないのでやめておいた。


「今、この場で。儀式を始めてくれませんか?」


 カノンの言葉に、何を言っているんだ、と瞬きをしたのは俺だけじゃない。ナギの後ろから飛び出そうとした青色の色音使いの目の前に、ナギは瞬時に片手を開き止めた。


「……何故?」


 青年の声は冷たい。いいや、わざとそうしようとしているのだろう。いつもよりも少しだけ声の温度が高いような気がした。あくまでも、自分の価値観からだけど。


 彼女の指が震えていた。体が小刻みに震えていた。ゆっくりと、瞳だけを動かし、彼女を見つめる。相変わらず口元はにっこりしていて、傍からみれば笑っているように感じるのかもしれない。けれどもカルロには、それがただの虚勢のように見えた。


「ナギ、私はきみのことが好きだと思う」

「へっ」


 一瞬見せたナギのマヌケな顔に、空気が固まったが、ごほん、とナギは咳払いをひとつして、「僕もきみのことが好きだよ、カノン。だから刃をしまってくれ」


 …………なにお前、ナチュラルに告白してんの……?


 と、思ったけれど、それは気にしてはいけないのだろう。ふと、カノンはカルロに小さく耳打ちした。(絶対に、傷つけないから)そう、彼女ははっきりと言った。


 彼女が、何をしようとしているのか。そんなものは全然わからない。けれども不思議と信じてみたくなった。首を頷かせようとしたけれど、刃があってどうにも動かない。なので片手を彼女の背中あたりにゆっくりと回して、ぽんぽん、と叩いた。わかった、と言いたくて。


「ひゃうっ!?」


 カノンが一瞬妙な声を出したものだから、何でだと思ったのだけれど、どうやら自分は彼女の背ではなく、尻を触ってしまったらしい。ごめん。本気でごめん。そしてカノンよりも、ナギからの殺気の方が怖い。


 カノンはごほん、と咳をひとつして気をとりなおしたのか、「ありがとう、ナギ。でもね、ちゃんと要求を飲んでくれないと、私はこの子を殺すよ」そう言いながら、もう片方の手で小さなナイフを取り出す。


「カルロには、束縛の色音をかけてあるから、この子の体は動かないよ。私に色音を使おうとしてもダメだ。知っての通り、私は刀で色音を切ることができるからね。何か妙なことをしたら、こっちのナイフでカルロを突き刺す」


 えっ、そんな物騒なことになってるの? と、カルロはゆっくりと鼻から息を吐き出した。いやそんなものかかってないけど。でもとにかく、自分が動けないということならば、そういうふうにしなければならない。の、だろうか? わからないけれど、必死にそのふりをした。ところで瞬きくらいは、許されるのだろうか? 結構辛いんだけど。


 他のカラーシンガー達はともかく、ナギは完全に信じていない顔だった。そりゃあそうだろう。カノンがそんなことをする訳がない、とあいつは信じ切ってやがるんだ。なんだか腹が立つけれども、どうするべきか、と耳打ちする色音使いに、ナギは眉を顰めながら頷いた。


「信じて、ナギ。お願い、私は私を信じる。だから、あなたも信じて」


 そう、ゆっくりとカノンは微笑んだ。

 それがきっかけだったのかもしれない。

 ナギはもう一度大きく頷いた後、「わかった。儀式をしよう。カノン、端に寄ってくれ。俺たちはいつもの配置につく」


「いいんですか!?」

「いいも悪いもないだろう。部外者が一人いるだけで、いつもの時間に、いつもの儀式をする。それだけだ。……まあ、一人抜けるけどね」


 他のカラーシンガーの言葉に、ナギはちらりとカルロを見る。

 カルロは思わず視線をそらし、カノンに誘導されるまま、部屋の端へとナイフを突きつけられたまま移動する。ナギはカノンなど気にもしない様子で、いつもと同じふうにてきぱきと人員を配置した。視線を移動させてみると、カノンは静かに瞳を細めてナギを見つめていた。おいおい。


(……両思い、うっぜ)


 うっぜ。

 信頼しきってて、うっぜ。

 羨ましい。

 うん、羨ましい。

 羨ましがっても、自分が何ももらえる訳でもないことくらい、知っていた。「カノン」カルロは、小さく呟いた。おそらく、彼女以外の誰も聞こえないくらいの声を出した。


「カノン、何を、しようとしてるんだ……?」


 彼女はただ小さな息遣いを返すだけで、なんの言葉を発することもしなかった。


「――――さて」


 いつもの、光景が始まる。いつもは内から見ている光景を、こうして外から眺めるのは不思議だった。「儀式を、はじめよう」ナギが、ゆっくりと喉を震わせた。



 ***


 本当にできるのだろうか? 大丈夫なのか? そんな疑問ばかりが自分の中でぐるぐると回っていた。こうしてカルロを人質にとってまでして、自分は他人を巻き込んでいる。もしこれが失敗に終われば、カルロも責任を問われるだろう。わかっている。そうわかっているのに、とカノンは唇を噛み締めた。


(覚悟している)


 その覚悟が、自分自身で収まりきらないものだと知っていても。


(私は、ナギを連れて帰るんだもの)


 絶対に。絶対に。

 青年は、椅子に座り、ゆっくりと喉を震わせた。それに重なるように、カラーシンガー達が声を振り絞る。あのときは、自分はクローゼットの中にいた。だから、しっかりと全容を把握することができなかった。今再び見たその姿は、ぐらぐらと意識が遠のき、喉から、耳から、全身の穴という穴から、何かが噴出してしまいそうなほど、気分が悪くなった。


 混じり合った彼らの黒の音は、ぐるぐると螺旋をうずまき、薄いガラスを振動させ、ゆっくりと空に溶けていく。まるで水が空に落ちていくようだ。


 カノンは、カルロを開放した。「……カノン?」カルロが不思議気に声を上げる。それに返事することもできないで、彼女はゆっくりと彼らの中心へと足を踏み出した。長く息を吐き出し、瞳をつむった。そして、力強く刃を奮った。


 ――――すぱんっ


 すんなりと四散した黒の色音は、ぽちゃりと細かい雫に変わり、絨毯を黒く染め上げる。


(……思った通りだ)


 たとえ膨大な量の色音であろうと、所詮は他人と無理やり混じらせたもの。普通の色音よりも、切りやすい。

 ナギ達は、初め何が起こったのか分からないというように、瞬きを繰り返した。ぎょっとした瞳でカノンを見つめた後、すぐさまに空を見上げる。


「…………まさか」


 喉からすりだしたように、ナギが呟いた。初老の、すでに白髪が入り交じるカラーシンガーが、「なんてことを、してくれたんだ……」と、拳をわななかせ、叫んだ。


「黒の色音と、空はつながっている。俺たちは膜をはっている最中だったんだ。それが、こ、こぼれ落ちた! 色が、街に降り注ぐぞ…………!」


 しわくちゃの指をまっすぐに伸ばした老人の背を、ナギは軽くはたいた。


「もう一度、歌おう。そして膜をはりなおす」

「できるもんか、一度崩れたものが、もう一度なんて!」

「できなくてもやるしかない」


 さて、と両手を左右に広げたナギの背から、ぎゅっとカノンは彼の口を押さえ込んだ。ナギは勢い良く振り返り、ぎょっと目を見開いたが、カノンは彼の耳元にささやいた。「お願い、信じて」 困惑した彼に、やんわりと微笑み、空を見上げた。


 ガラス越しの空がまるで海のように波打っていた。黒い波がぶよぶよと小刻みに震え、ぱちんっと一つの気泡が割れる。それに重なるように、ぱちん、ぱちん、ぱちんぱちんぱちんっ

 ここはあまりにも空に近かった。だから塔の天井部分が一番初めに決壊した。

 カノンは右手に刀を抱えた。カラーシンガーたちは、慌てたように扉に体当たりし、残っているのはマリーと、ナギ、カルロだけだ。マリーは両手を合わせ、すべてを理解したかのように微笑んでいた。カルロは腰が抜けた体勢で、ぼんやりと空を見ていた。


 そして、ナギは。

 少しだけ瞳をつぶった。それは一瞬で、すぐさまカノンの腰に手を回し、ぎゅっと軽く抱きしめた。そして肩に額を乗せた。「カノン」 呟くような声だ。

「僕はずっと、君のことを好きだった」


 ガラスが割れる音が響いた。

 カノンは刀を振り上げた。瞳の奥に螺旋が見える。重なりあった色と色の亀裂が、はっきりと見えた。それにそって刀を振るう。


 カノンは、自身にはなんの才もないと思いこんでいた。溢れるナギの才を見て、育ってしまったから。本当はそんなことはないのに、ナギが消えてしまったあとも、ただ努力を続けた。人よりもよく見える目と耳を持っていた。そんなカノンは、ずっと気づいていた。


 空にも、螺旋がある。


 その螺旋にそって切ったら、どうなるだろう。黒くてたぷたぷといつも音を立てているあの空だ。試してみよう、と思ったことはある。でも手が届かなかった。彼女が試すには、頭上の空は高すぎた。降り注ぐガラスの破片の中で、はっきりとカノンは空の音を聞いた。絶対音感。色音使いであるならば、誰しもが持っている力だ。魔力は持って生まれたものだ。鍛えることなどできない。でも、彼女は努力した。様々な音を切り裂いた。ただ、ナギに追いつくために。

 だからカルロの話をきいたとき、はっきりと理解した。


 あの空は、切ることができる。



 何度もしてきたことだ。混じり合った色音は、すっと空気を振るうように軽い。そのはずだった。「……あっ」 手のひらがしびれた。マリーの色音を切ったときよりも重く、深い水の中にいるように体がうまく動かない。「あ、う……」 両手の血管が浮き出るくらいに力を込め、歯を食いしばった。汗で滑りそうになる手のひらを握りしなおし、唇を震わせる。(信じてって言ったのに)苦しい。心臓がばくばくする。(無理かも、しれない)


「…………カノンッ!」


 ふわりと体が温かいものに包み込まれた。小さなときよりも、大きくなった手のひらでカノンの両手を力強く彼は握った。「…………あっ、う……」 少しだけ、動いた。ナギが強く食いしばる音が聞こえる。すぐさま刀は弾き返された。けれども。

「………………アアッ!!!」

 勢い良く、刀を振り下ろした。


 目の前で水が入った風船が割れたように弾けた。「…………カノン、見ろ!」 気づけば、瞳を瞑っていたらしい。彼女は息を吐き出し、ナギへと振り返った。彼は空を見上げていた。パッと頬に暖かい光がさす。何事か、と瞬き、見上げた。


「…………そ、そらが、青い……」


 それは見たこともない色だった。海の色よりも深く、どこまでも広がっている。静かに雲が流れていく。鉛色のベール向こうの薄汚れた色でしか見たことがないそれは驚くほどの白さで、ふわふわとしていて、未だに残る微かな割れ目から、細い光が静かに降り注いでいた。


 カルロが呆然としたように息を吐き出す。彼は空が黒ずんでから生まれた子どもだ。自分も、ナギもそうだ。マリーは、と見つめてみると、彼女はただ瞳を大きくしていた。彼女も、澄んだ空を見るのはずっと幼い頃のことだから、もう殆ど覚えていない。綺麗な顔をくしゃりとさせて、まるで泣いているように笑っていた。


「…………黒の空を、切り裂いたのか……」


 信じられない、という風に、ナギはぽつりと言葉を漏らした。

 そのとき、パキリと音がしたと同時に、手の中が軽くなった。粉々に砕け散った刀を見て、「わ、わあああ」と一瞬慌ててかき集めたものの、そんなことをしたって何の意味もない。自分自身のそんな行動が、なんだかおかしくて笑ってしまった。


 そしたら涙がこぼれてきた。人差し指で軽く拭っていると、おかしい。どんどん涙がこぼれてくる。しまいには息が辛くなっていた。自分はいつの間にか両手で顔を覆っていて、ぼろぼろと涙をこぼしていた。「カノン、カノン」ナギの声が震えていた。多分、ナギも泣いていた。彼はぼろぼろと涙をこぼしながら、ことりとカノンの肩口に額を置いた。


「むかしっから、カノンは僕の想像の、右斜め上をいくんだ……」


 しょうがないなぁ、という風に、彼も泣きながら呟いた。




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