第19話
――――絶対に、そこから動かないで
カノンは小さなクローゼットの中に押し込められた。朝、目が覚めると同時に、カルロとカノンは宿舎と飛び出した。そして繁茂する木々を抜け、幾重にもはられた色音の結界も通りぬけ、そびえ立つ塔の前にたどり着いた。天井はガラス張りで、ぎいぎいと空から聞こえる不快な和音がとてもよく耳に響き、色音使いとしては、とても気分がいい場所ではない。
部屋の中には、八つの椅子と、タンス、真っ白なカーペットがひかれており、一見すると、ただの部屋のようだった。
カノンは衣装ダンスと思しき場所の中に、体育座りをしながら入り込み、端に小さく開けられた丸い覗き穴から、じっと外を見つめた。何人もの人間が、次々と部屋の中に入ってくる。橙の頭をした可愛らしい女の子。髪の毛があるかどうか、判断さえできない老人。男性、女性。全部で六人。
「……あら、カルロ、珍しく早いのね?」
聞こえた可愛らしい声に、カノンはパチリと瞬いた。マリーだ。
まあね、とカルロは苦笑した。
そんな様を見て、今から何が始まるのだ、と唾を飲み込んだ。見ればわかる、そうカルロは言ったけれど、本当に見てわかるんだろうか。
タンスの小さな穴からはわかり辛いけれど、マリーの瞼は赤く腫れ上がっているように見えた。真っ白に色が抜け落ちたルッサムを抱きしめていたのは彼女だ。腫れ上がった瞼の理由にはすぐ気づいたけれど、忘れたふりをした。自分の胸の中に、どっしりと重くのしかかる。
「……なんだか寒いわね。上着を取りましょうか」
マリーは明るい声を出すように、カルロに微笑んだ。そうしてゆっくりと、こちらへとやってくる。やってくる。やってくる。…………え?
(上着、あっ)
カノンが入っている場所はクローゼットだ。それ以上の何者でもない。上着があるとしたら、ここに決まっている。体育座りをしている自分の頭に、これでもかと並べられているこれらの服が犯人に違いない。けれどもちょっと待って、それはまずい。マリーだけならよかった。けれどもこの場には、カラーシンガー達が勢ぞろいしている。ぱかっとマリーが扉を開けたとき、クローゼットの真ん中で体育座りをしている自分がご開帳など冗談ではない。
せめてもとクローゼットの取っ手部分を爪で固定しようとしてみるものの、裏側からの力なんて微々たるものだ。意味なんてない。マリーのひ弱な腕だろうと、こちらが負けるに決まっている。
まさかこんなところで、それもマリーによってバレるとは思わなかった。あと一歩のところで、カノンはぎゅっと瞳を閉じた。ぱかり、あれ、カノン? そんな風に、マリーが首を傾げるところまで想像してしまった。
「マリー、そのクローゼット、開けない方がいいよ。俺がさっき見たとき、毛虫が入り込んでたから」
「えっ……。え、カルロ、そうなの?」
「そう。後でとっておくよ」
「お願いするわ。ちょっとくらい寒いのは、仕方ないわよね」
どうやらなんとかなったらしい。
ほーっとため息をついたとき、ぎいい、と重い扉が開く音がした。穴の中から目を凝らしてみても、位置が悪いらしく、扉を開けた主を確認することができない。けれどもカラーシンガー達の全員がそちらを見つめてて、ピタリと会話が止まった瞬間、それが誰なのか、カノンにはすぐわかった。
「みんな、揃っているかい」
ナギの声だ。
柔らかい絨毯の所為で、足音はわからない。けれども少しずつ、彼が近くなっていることは、泡立つ肌でわかる。カノンはゆっくりと唾を飲み込んだ。今から、わかる。全部がわかる。
「知っての通り、ルッサムは死んだ。けれども恐れないで欲しい。僕らはこの国を支えている。僕らがいるからこそ、みんなが生きているんだ。自分たちの大切なものを、思い出してくれ。瞳の奥に映ってるかい。笑ってるかい。ダメなら笑わせるんだ。僕らはそれを守っている。さて――――」
ナギは、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「歌を、歌おう」
誰が歌い始めたのか分からない。誰かが小さな声をこぼした瞬間、重なるように、幾重にも声が反響した。言葉はない。ただ喉の底から叫んでいるだけ。覗いた穴からは、誰も彼もがぱっくりと口を大きく開け、苦しげな表情をしていた。ぐるぐると重なる音程は、一つの糸を紡ぎ出した。黄色い糸、赤い糸、黄緑の糸、橙の糸、様々な色が重なりあい、どす黒い色へと変化していく。黒く、黒く黒く、嵐のように糸は巻き上がり、透明のガラスを取りぬけ、黒い空へと立ち上った。
(まさか)
何が起こっているのか、ただの小さな穴からでは判断することはできない。カノンはただ体を震わせることしかできなかった。彼らの音はどす黒く歪み、まるで常に空から叫ばれている、不協和音と似ていた。いいや、同じだった。
(まさか、声から色音を作るだなんて)
――――それはありえないことだ
自身の体から音を作るということは、とても難しいことなのだ。ナギの手のひらを合わせた音を色音として使用する、それだけでもとてつもない技術がいる。声は人間の感情を表す。嬉しい声。悲しい声。楽しい声。同じ音であるのに、人間の声帯は様々な音を形作り、その色は無限であるのだ。だからこそ、声を媒体として使用することは、理論上は不可能とされていた――――理論上は。
今現在、その理論を飛び越えたものを、カノンは目撃している。
おそらく、複数人の膨大の色音を、無理やりにまとめ上げることにより、まるで複数の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜるようにして、黒の色音を作り出しているのだ。技力の足りないものは、足りるものが無理やりにまとめあげて、力の限り色を放出することで、この不協和音と作り出している。
皿をナイフでひっかいたような、聞いているだけで気分が悪くなるような音が幾重にも重なった。苦しい。吐き出してしまいそうだ。思わず目を背けた。けれどもいけないと見開いた。穴にかじりついた。
とぷんっ
とぷんっ
とぷんっとぷんっ
雫が揺れる音が聞こえる。おそらくこれは、(空の、音だ)
遠く、聞こえる音を耳にしながら、カノンはぐらりと意識を遠くさせた。いけない、と唇を噛み締める。耳の奥でうずうぞと毛虫が這っているように不快だった。
(…………これは)
これが、儀式。
ばしゃん! と水が噴きかけられるような音が、耳元で響いた。カノンはただ唇を噛みしめた。音を立ててはいけない。そうわかりつつも、ガタガタと震える体を抑えることができなかった。
すべてが終わった後、カルロは、ゆっくりと扉を開けた。カラーシンガー達は誰もいない。儀式は終わり、誰もいなくなった部屋の中で、ゆっくりと息を吐き出した。
クローゼットの中で、カノンが細い体を必要以上に折りたたみ、顔を真っ青にさせていた。その真っ白な顔を見ながら、カルロはああ、自分にも、彼女の気持ちがわかるに違いないと感じた。
一番初め、ルッサムと同じ頃の自分が初めてこの儀式に参加したとき、恐ろしさのあまりに失禁した。そんな様子を、周りのカラーシンガー達は誰も笑わなかった。よくあることのような平然とした顔で、カルロの後始末を行った。
「…………カノン、空を見て」
カルロはゆっくりと空を指さした。ガラス張りの天井からは、朝も、昼も、夜も変わらず黒い膜が張られた空が見える。
「なんで空には、あんな膜があるんだろうと考えたことはないかい。昔っからあんな空だった? 違うよね。僕らが生まれる少し前、二十年ほど前では、空はちゃんと綺麗な水色だったって、君も聞いたことがあるだろう」
それは一体どんな光景だったんだろうか。
自分には想像ができない。絵画で塗られたあの青い空は、どうにも嘘臭く、作り物のように思えた。いいや、そう思ってしまうのは、羨ましくって、そんな空を見たことがない自分が悔しくて、自分自身がそう思い込んでいるだけに違いない。
「空が黒くなったのは、人が色音を使いすぎたからなんだ。内乱があった。多くのカラーシンガーが戦争に立ち、人を殺した。けれども彼らが使った色は、少しずつ、彼らの元を離れ、空へと上っていった。空には黒い膜が出来上がり、青い空は消え去った」
でも、話はそれだけでは終わらない。
「あの膜は、空を遮っているだけじゃない。地を守る、最後のラインなんだ。あの膜の上には、多くの淀んだ色音が満ちている。たぷたぷと、まるで水みたいな奇妙な音が、空から聞こえるだろう。あの膜が壊れてしまったとき、淀んだ色音は世界に満ちる。何が起こるかはわからない。けれども、少なくとも。よくはならないだろう。空全体を覆うほどの色音だ。世界が滅んだって、おかしくない。だから俺たちカラーシンガーは、儀式を繰り返す。あの膜を、より厚く、より丈夫にとするように、二日に一度、歌を歌うんだ」
真っ黒な、歌を歌う。
それは並大抵の魔力の放出ではない。だからこそ、彼らは死ぬ。刻々と寿命を削っていく。けれども逃げられはしない。ナギのように、大切な人を守ろうと使命を持つ者がいる。自分のように、逃げる場所も目的もなく日々を繰り返す者もいる。マリーのように、胸を痛めながら、ただただ自身の良心に従う者も。
そしてルッサムのように、任されるまま義務を果たし、命を落とす者。
「誰にも言わないっていう約束、守ってくれる?」
言ったところで、何になる訳でもないと分かってくれただろうか。
カノンからの返事はなかった。ただ彼女はゆるゆると首を振った。カルロはほんの少しだけ苦笑した。なんで笑ったのか、自分にも分からない。ただ、全部を諦めていたのだ。だから笑った。
「部屋に戻ろう。そしたら荷物をまとめて、村に帰るんだ。……約束して、くれるよね?」
***
自分は、おそらく何も考えていなかったのだと思う。
カルロにも指摘されたことだ。そのときはそうだと思った。けれども、あがけばなんとかなると、うっすらと考えていた。
手のひらは、ただ惰性で動いていた。カルロが言うように、荷物をまとめて、鞄に詰めて、養父にどう説明したらいいものかと考えて。けれどもそれは、全部本気じゃない。別の思考を投げ出すために、片手間として考えているだけなのだ。頭を半分、別のことにつかって、もう半分は、また別のことを考える。そうしているものだから、目の前がぼうっとして、何もかもどうでもよくなってきた。これじゃあいけない。そう思う。けど、考えたくない。
(……世界がどうにかなってしまうなんて)
そんな大層な問題、ただの小娘の自分に、どうしろと言うんだ。
悔しくなった。だったら、初めからそうと言って欲しかった。そしたらきっと自分は、(諦めた?)そんなことない。多分、諦めなかった。言われたとしても、何でもっと強く言ってくれなかったんだ、と理不尽な気持ちになるに決まってる。止まっている自分に対して、言い訳をしているだけだ。
(帰ろう)
いや、本当に帰っていいんだろうか。じゃあどうしろって言うんだ。自分には、カラーシンガーになる資格がないことはわかった。そもそも、魔力がなければカラーシンガーにはなれない。ナギと一緒に帰って、養父と、養弟とパン屋を経営する。いい夢を見たんだ、とう思った。けれども。
(悔しい)
何が悔しいんだろう。きと、自分にはどうやったってあがくことができない問題だったことが悔しいんだ。始めっから負けてたんだ。どうしようもないことだったんだ。宿屋の主人、クルーエルを思い出した。彼女は息子を待っているのだろうか。息子は死んだと、知らされるのだろうか。いや、その事実さえも伏せられてしまうのだろう。息子は生きている、いつか帰ってくる。そう思って、宿屋を経営し続けるのか。それもある意味、幸せであるのだろうと感じた。けど、ほんとに。それでいいの……?
「おーい、姉御ー? いないのかー?」
カチャリ、と開けられた扉からひょいと顔を覗かせたのは、お馴染みの顔だった。どうやらノックに気づかなかったらしい。アウサーはカノンが荷物を片付けている様を見て、きょとんと目を点にした。「あれ、姉御。どうしたんだ? どっかに旅行とか」まっさかなぁ、と笑いながら、彼は筋肉を揺らした。今はそんなほのぼのとした様子が胸に沁み入った。
「帰るんだよ」
ぽとん、とこぼした言葉に、アウサーは、初め何を言われているか分からない、と言ったように、にこやかにな顔のままだった。けれどもすぐさま表情を強ばらせて、「帰るって……ああ、何か、急用とかか。お父さんが倒れたとか、そんな……」
それならしょうがないけど、あんまり長く離れると、資格も失うから、気をつけてくれよ、と彼は早口で付け足す。
カノンは笑った。自分では笑った気になっていたけれど、実際はわからない。唇だけを上げた。アウサーはそんなカノンを見て、不思議そうな顔をしていた。カノンは耐えかねたように、彼に背を向けた。
「帰るんですよ。もう、戻って来ないので、資格とか、そういうのは、もう、どうでも」
どうでも、いいんです。
喉から声を擦り出すと、「えっ、お、え……」とカノンの背から、彼は言葉にならない声を出した。言うべきじゃなかった。半分八つ当たりのようなものだった。自分のぐだぐだとした気持ちを溢れかえらせ、彼にぶつけたのだ。ぶつけられた方は、たまったものではない。
「ごめんなさい、冗談です」
そう言ってみたものの、アウサーはカノンを見つめていた。背中を向けていたから、多分そうだろうということしか分からなかったけれど、ぐっさりと彼の視線が突き刺さるのを感じた。
「何でだ?」
荷物を詰めた。彼の疑問に答えることが出来なかった。
「……何でなんだ? いや、怒ってるとか、そういう訳じゃねえんだ。ただ、不思議で……教官が、姉御には不平等だから? 他の上級の奴らが、嫌なことでも言ってきたか? そんだったら教えてくれよ。俺、そいつら締め上げてくるからさ。姉御は頑張ったんだ。ここまでやって来たじゃないか」
「冗談なんで。気にしないでください。そろそろご飯でしたか? 私は、後で行くんで」
「姉御」
「出て行ってくれませんか」
「なあ、姉御」
「だから」
「何迷ってんだ?」
ぐしゃっ、と手の中の服を握りしめた。
「俺、言っておくけど、姉御よりも年上なんだ。大人なんだぜ。自棄になってるだけなんだろう、あんた」
アウサーは、のしのしと足を踏み出した。そして、よっこらせ、と親父臭い声を出しながら、カノンの隣に座り込んだ。
「どうした? 元気ねぇなあ。不安なことでもあるのか? 話ぐらいなら、いっくらでも聞くぞ」
アウサーは太い腕で優しくカノンの背中を叩いた。ぽんぽん、ぽん、と叩かれることで、全部を吐き出してしまいそうになった。けれども言えなかった。言うべきではない。カルロとの約束がある。自分一人で、言ってもいい話でもない。けれども。
「……アウサー、は」
「うん?」
「自分の、大切な人がどうしてもしなければならないことをしていて、けれども、それが、その人の命に関わることで、続けると、死んでしまうかもしれないとなると、どう、します、か……?」
なんだそりゃ? と彼は眉を顰めた。カノンは口元だけ笑わせて、「ただの、抽象的なお話です」抽象的ねぇ、と彼は口元をひねらせた。
「俺には想像力が足らんから、そのときになってみんとわからんが……」
ふむ、と彼は太い指を顎元に持って行きながら、「深く考えるのは苦手だ。声を出すぞ。俺は特別大声だからな」
「文句があるなら文句を言う。それであっちが迷惑になるかもしれんが、俺は俺だ。俺の声を、はり叫ぶぞ」
にんまり笑いながら、彼は懐から小さな人形を取り出した。多分女の子だろう。長い黒髪を、低い位置でくくっており、一本の刀を握っている。ええ、とカノンは瞬いた。もしかしなくとも。
――――カノン★ガンバ!
人形の背中には文字が縫いとめられていた。カノンはアウサーにその人形を手の中に入れられ、声を飲み込んだ。何度も手の中の人形を見つめ、彼へと顔を上げると、アウサーはいたずらっ子のように頬をひっかく。「あ、アウサー」「おう、なんだ」「もしかして、これ、自作なんですか……!?」「一番最初にきくのはそこか!」
カノン、ガンバ!
小さな人形をポケットに詰め込みながら、カノンは刀を握りしめた。どうやら、自身は知らずに多くの人間に守られているらしい。ナギにも、ずっと守られていた。
目を瞑り、息を吐き出した。
後悔はあるか。
ある。
ナギと多くの人間の命。そんなものを天秤にかけられるほど、賢くはない。もう一度、息を吐き出した。
(…………これで、いいのかな)
きっとよくはない。
(けれど)
「逃げない」
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