第17話

 

 ――――ひどい

 ――――あいつはやっぱり、ひどい奴なんだ

 ――――最低だ

 ――――消えちまえばいいのに


 紫色のパンを焼いた。一口ふくんで、ああうまい。

 あんな女、消えてしまえばいいのに。



 ***


 さて、これからどうするべきだろう。カノンは頭をひっかいた。マリーにもう一度会うことが出来ればいいのだけれど、そう都合よくいくものではないだろう。本当なら、ナギに会うことが出来れば一番いいのだ。昨日はマリーと会うために、訓練をサボってしまった。本当ならば、今日も訓練に行かなければならない。けれどもそれは時間の浪費のような気がする。


 うまいこと方法がないものか、と唸りながら廊下を歩く。今から朝食の時間だ。今の間に、もう一度カラーシンガーの宿舎に忍びこんでみるのはどうだろう。やらないよりも、行動した方がいいに決まってる。頭の中で、太い、アウサーみたいな腕を振り回した養父が叫んでいた。『さっさとナギを連れ帰ってこい! そろそろ兄弟みんなで飯を食いたい!』 うん、と頬を叩く。たとえ、自分の意見を押し付けることになったとしても、今、ほんのちょっとの可能性を諦めてしまうことの方が怖い。


 カノンは胸を張りながら、まっすぐに歩いた。けれどもその背後から、こつん、こつん、と彼女にかぶるような足音が聞こえたのだ。


 思わず振り返ると、声の主はにっこり笑った。

 いつもはとんがっていて、鋭角的なメガネまでも優しくほんわり丸くなっている気がして、カノンはぽかんと瞳を広げた。


「やあ、カノン」

「ああ、クルックン……」


 彼は手の中に盆を持っていて、その上には暖かなスープや、くるみやぶどうのパンが乗っかっている。ついでにぶどうのジュースまで乗っていた。朝ごはんはまだ食べていない。きゅきゅっと胃の奥がぷるぷる震えたような気がした。思わず食料に見入っていた自分を叱咤して、カノンはクルックンを見つめた。どうせいつもと同じく、それを自分の目の前でひっくり返す気なのだ。まったく、暇な奴だなぁ、とちょっと呆れてしまう。


 けれどもクルックンはにこにこ笑って「カノン、今まで悪かったね。僕は色々と大人気がなかったと思う。君に嫉妬していたんだ。でも、今日で仲直りしないかい。これがその証拠だ」 ね? と彼は懇願するように、高い背を折り曲げて、カノンに視線を合わせた。カノンはただパチパチと瞬きをするばかりだったのだけれど、ようやく事態がつかめてきた。


「カノン?」

「あ、いいえ。仲直りというのなら、もちろん」


 人から嫌われていて、気持ちのいい人は少ないだろう。彼の誠意を断る理由はない。「それじゃあどうぞ」とにこにこ目尻を下げながら、彼は盆をカノンに差し出した。カノンはそれを受け取り、「今はちょっと用事があるから、後で部屋でいただかせてもらうね」と踵を返そうとした瞬間、彼はカノンの腕をつかんだ。じっと、瞬きもせずこちらを見つめる瞳孔に、一瞬ぎくりとした。


「今すぐ食べないと、おいしくなくなるよ。ほら今すぐ」

「え、いやでも……」

「ほら、パンやジュースを飲むくらい、すぐだろう? せっかく持ってきたというのに、これじゃあ仲直りにならないよ」


 心底悲しそうに眉を寄せる彼を見て、確かに、とカノンは頷いた。自分は少し失礼だったかもしれない。正直何かがおかしいな、と思ったのだけれど、首を振って、クルックンを見上げた。そして、「盆は僕が持っててやるから」というクルックンに、「それじゃあ行儀が悪いけど」とパンを摘んだ。柔らかいくるみの味と、もう一つの干しぶどうが甘酸っぱい。


「ほら、ジュースも」


 パンを押し流すように、カノンはぶどうのジュースを飲み込んだ。

 ごちそうさま、美味しかったよ、と声をかけようとしたとき、クルックンはパッと両手を放した。重力に従って床に敷かれた絨毯の上にバウンドする盆や皿を見て、ぽかんと彼を見つめると、彼は瞳を大きく開けたまま、ニマッと口元を横に開いた。


「食べたな……!」


 喉から吐き出すように、彼はしわくちゃな声を出した。えっ、と思わず自身の喉に手を置いた。毒でも飲まされたのか、とぞわりとする気持ちを飲み込み、「クルックン……?」彼はゆっくりとカノンの両肩に手を置いた。カノンは瞬きを繰り返し、自身に置かれた左右の手を、不安をあらわに顔を引きつらせる。


「カノン」

 クルックンは、にまぁ、表情を泥のようににやつかせた。そして、「僕は、紫の色音使いなんだよ……」ゆっくりと伸ばした手のひらで、カノンの腹をなでるように押し込んだ。「――――これは、紫の音……」




 気がつくと、体が動かなかった。暗い。真っ暗な空間の中で、必死に辺りを探った。腕にごつごつと固い何かがぶつかっている。体が動けない訳ではなく、狭い空間に無理やり押し込まれているようだった。木の匂いがつんと鼻につく。「……だれか」喉からかすれた声がする。どれくらいの時間、ここにいたのだろうか。わからない。


「……だれか、いませんか……!」

「いないよ」


 カノンは微かに目を開いた。けれども、真っ暗な闇の中に誰がいる訳でもない。「いないったら」ケラケラ笑うクルックンの声は、まるで壁一枚を隔てたようにくぐもっている。そうか、とカノンは瞬いた。壁だ。目の前に壁がある。カノンが理解したと同時に、こんこんこん、とクルックンが壁を拳で叩いた。


「これはね、壁だよ。級が上がるごとに、色音使いの人数は減る。けれども施設の数は同じだけあるものだから、部屋が有り余ってるんだよ。その一つの場所さ」


 カノンは嫌な予感がじわじわと溢れてくることに気づいた。上級色音使い専用の食堂を思い出した。広く、ただっぴろい部屋の中で、もぐもぐと席につく色音使い達。あの開いている席と同じ分だけ、部屋も場所も余っているとしたら、いくら自分が声を張り叫んだところで、誰も気づかないかもしれない。


 ――――壁の中に、埋めこまれている


 ぞっとした。一体、どうやって、と考えたとき、すぐに気づいた。彼は転送の色音使いだ。それも紫。ぶどうを媒体にして使う色音使いがいると噂で聞いた。おそらく、彼がそうなのだ。一番初めの食卓で、初級のものと取り替えられていた食事の中には、ぶどうのパンが混ざっていた。先ほどカノンが口にしたものも、ぶどうのパン。そしてジュース。取り込んだ体の胃の蠕動運動が音だとでもいうのか。随分器用な男だ。もっと注意深くなるべきだった。今更後悔しても遅い。


「クルックン、私は確かにマリーを倒したし、ここにいるべきではない人間だ。けれども、これはやりすぎだ」

「そうかい?」

「そうだよ。私がここを出た後、君が犯人だと告白すれば、君も処罰を受けるんじゃないかな。色音は国の許可なく使用できるものはないと聞いたけれど」


 宿の主人、クルーセルの言葉を思い出す。うっかり色音を使用してしまったカノンに、それはいけないことだと教えてくれた、歳若い母親だ。

 カノンの言葉の何が面白かったのか、クルックンはケタケタと笑った。


「ええ? きみ、もしかして出る気だったの? そこを。ええ? ちょっと考えが楽観的すぎやしないかい?」

「え……?」


 カノンのきょとんとした声が面白かったのか、彼はひーひーと息も絶え絶えに、どんどこ壁を拳で叩いて笑い転げる。


「出すわけないだろ、君はマリーに告げ口した。僕の悪口を言ったんだ!」


 一体彼は何を言っているんだろう。そういえば、とマリーとすれ違った彼の様子が、随分おかしかったことに気づいた。だからって、「つ、告げ口って……?」「まったく、性格が悪い。陰口を叩くだなんて、これだから女は嫌なんだ。マリーは違う。マリーは違うのに。それなのに……彼女は僕を無視した!」


 無視なんてしただろうか? 


「いつもは僕にフレンドリーに話しかけてくれるんだ。にっこり微笑んでくれるんだ。それなのに、それなのに君が告げ口をしたから!」

「く、クルックン……」


 君は彼女と初対面じゃないのかい? なんて言葉を言ったとしても、きっと伝わらないのだろう。きみのせいだ、きみのせいだ、と彼はひとしきり叫んだ後で満足したのか、ごとんっと壁に何かがぶつかった音がした。位置的に言えば、彼の額だろう。そして囁くように呟いた。


「そこで死んでおくれ……」

「ちょっと待て!」


 嘘だろう、と叫んでも、カチャリと虚しく扉が閉まる音がする。「クルックン、クルックン、待ってくれ、誰か! 誰か!」 誰も助けてはくれない。ばたばた暴れても、木が体の節々に当たり、上手くうごかない。腰辺りはぴくりとも動かないことから、レンガか何かと一体化している可能性もあった。勘弁してくれよ、と思わず弱い言葉を吐き出してしまいそうになった。


 誰かが自分を見つけてくれる可能性は、どれくらいあるのだろう。おそらくゼロに等しい。いいや、家政婦が部屋を掃除に来るかもしれない。けれどもそれは、それくらいの頻度なのだろう。三日に一度? 一週間に一度? それとも……月に一度? 

 誰も使っていない部屋だ。そんなに熱心に掃除をする必要もない。


 人間は三日水分を取らなければ死んでしまうと聞く。刻々と、リミットが迫っていた。カラーシンガー見習いを追い出される。そんなちゃちなリミットじゃない。確かに、目に見える形で終わりが近づく。


「……信じられない……」


 もしこれで、腕が動けば、何か色音を使えるのかもしれない。けれども駄目だ。今自分に出せる音といえば声だけ。声は色音となりえない。声は一つの表情だ。高くもなり、低くもなる。ただでさえ、自身の体の音は色音にし辛いというのに、様々な色が含まれる声を色音として使用することは、おそらくナギでさえも不可能だろう。


(……ナギ……)


 ヴィオラ村を飛び出したときは、ただナギを連れて帰ってくることしか考えていなかった。胸の中はわくわくとしていて、他の可能性は目にくれず、ナギと、養父と、義弟の四人の家族がそろうことばかり夢見ていた。


(私って、本当に何も考えてなかったんだなぁ)


 バカみたいだなぁ、と笑いそうになって、胸が苦しくなった。今更ながらに、カルロの台詞が胸についたのかもしれない。ぽろっと涙が勝手にこぼれて、それだというのに、涙を吹くこともできない。どんどんぽろぽろこぼれてくる。泣いちゃいけない。泣けばそれだけ体の水分が消えていく。そんなことより、まっすぐみて、これからどうすればいいかと知恵を絞ることが、一番大切なのに。なのに。


「ナギ…………」


 勝手に声が漏れていた。


 ――――あなたに何かあれば、きっとナギはすっとんでいきますよ。大丈夫!


 マリーの慰めの台詞が、頭の中でリフレインする。ほんとかな。「ナギ」小さく喉から嗚咽が漏れた。


「……助けて、ナギ」


 ふんわりと、真っ暗な空間の中に柔らかい光が広がる。赤い光だ。一体どういうことだ、とカノンはぱちくりし、灯りの元を探ってみると、カノンのポケットの中から、服を通してぼんやりと光っている気がする。一体何で? と首を傾げた後に、ハッとした。マリーが、カノンに渡した赤い石だ。ポケットの中に入れたままで、すっかり忘れていた。けれども石が光ったところで何になると言うのだろう。


 ――――ふと、小さな声が聞こえた。


『…………マリー?』

「え?」

『…………その声、カノン? ちょ、ちょっと待て、なんでカノンが』

「なっ……」


 ナギ、と言いたいのに、声がつまって上手く話せない。ポケットの中の赤い石はやんわりと星のように瞬いて、誰かが、向こう側でごくんと唾を飲む音が聞こえた。


『…………カノン、泣いてるのか?』


 すぐ行く。

 ぷつんっと赤い光が消えてしまって、パチパチと瞬きをした瞳は、驚きのあまり涙が乾いてしまっていた。一体どれくらいの時間がたったんだろう。暗闇の中だったから、長く長く時間を感じてしまっただけで、実際は大したことがなかったのかもしれない。壁が震えた。ぱっとポケットの中の石が、再び真っ赤に燃え上がり、どろどろと目の前の壁が溶けていく。けれども、熱くはない。あっという間に液体に変わった壁の成れの果てをみながら、カノンはぼんやりと目の前を見つめた。


「……カノン!」


 まるで泣き出しそうな表情で、カノンの頬に手を伸ばしたナギを見て、カノンは一体何が起こっているのか、理解が出来なかった。けれども、顔が勝手に歪んでいく。口元が勝手に震えている。


 ―――あなたに何かあれば、きっとナギはすっとんでいきますよ。大丈夫!


 マリーさんの声が、また聞こえる。いつの間にか、ぎゅっとナギに抱きしめられていた。女の子みたいで、線が細くて、柔らかい声の少年はもういない。カルロよりもがっしりとしていて、ふわりと男の人の匂いがした。養父とも違う、胸が落ち着く匂いだ。


「だから、言ったのに。君にはここは似合わない。村に帰って、養父さんと一緒にパンを焼いて暮らす方が似合ってる。君は君が思っている以上に、世渡りが下手なんだよ」


 ぎゅっとカノンの腰を握るナギの手の力が増す。


「ナギがいないと嫌だよ」


 口から、勝手に素直な気持ちが漏れていた。


「お金はもうたくさん、十分だよ。ナギ、一緒に戻ろう。養父さんも、養弟も待ってる。あの子、すごく大きくなったんだ。ナギに会いたいって、ずっと言ってる。家族だもの、ナギ、一緒に帰ろう……!」


 ナギの胸から、さっと顔を逃して、カノンはナギを見つめた。ナギは少しだけ苦しそうな顔をした後、カノンの肩に、ことりと額を乗せた。柔らかな赤い髪が、ふんわりと頬をくすぐる。思わず彼の頭を撫でてしまいそうになったとき、ナギはゆっくりと顔を上げて、カノンの顎を掴み、ゆるゆると口元を近づけようとした。けれどもすぐに首を振って、もう一度カノンを抱きしめた。


「…………ナギ?」

「だから、ダメなんだ。君がいると、決心が鈍る。こういうのは、ダメだよ」


 もう一度、ぎゅっとカノンを抱きしめる。

 そのときカノンは、マリーとナギが付き合っているということを、やっとこさ思い出したのだ。こういうのはダメ。ダメに決まっている。


「だ、だめ、だめ、放して、マリーに申し訳ない……!」

「マリーがなんで?」


 きょとんとナギは瞬きを繰り返して、自分がダメだと言ったくせに、ぎゅっとカノンの腰に手を回したまま放さない。だ、だから、とカノンは口ごんだ後、「ナギと、マリーは付き合っているって……」だから、こういうのは、いけない。


「…………ハァッ!?」


 即座に彼の口から漏れた素っ頓狂な声に、ひゃあっとカノンは自分でもらしくない高い声で驚いてしまった。


「な、なな、なんでそんなこと……!」

「なんでって、カルロが」

「くそっ、アイツ、適当なことをいいやがって……!」


 いいやがって、とはナギにしては口調が荒い。

 カノンはナギを上目遣いに見上げ、「それじゃあ違うの?」

「違うに決まってる! 僕は、僕はずっと……!」


 そこまで一気に言葉を吐き出した後、彼は大きく口を開けたまま、ふーっと息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。その後、やんわりとカノンの黒い髪をなで、その後にふわふわと彼女の頬を撫でた。「髪の毛、伸ばしたんだね」とても優しげに、微笑んだ。


「すごく、可愛いよ」




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