第16話

 

 ――――マリーベル、疲れていたみたいだね。暫く休んだらどうだい?


 大勢の人がいる前で負けてしまい、ぽかんと座り込んでいるマリーに向かって、名ばかりのカラーシンガーの教官は、にこりと微笑んでそう言った。


 別に疲れているでもそんな訳でもなく、自分は全力を出し切った。だからこそ、彼女をカラーシンガーに認めて欲しいと考えたのに、マリーにはそれを主張するすべはない。カラーシンガーは国につながれる運命だ。そうだとしたら、あの少女が見習いという立場で留まっていることは、彼女にとって幸せかもしれない。


(……いいえ、余計なお世話ね)


 その人によって、幸せの形なんて変わるに決まっている。

 休暇というお払い箱で、ぼんやりと部屋の椅子に座り、窓の外を見つめる。それだというのに、儀式には参加しなければならない。空は相変わらず黒くどんよりと曇っていた。辞めさせてくれると言うのなら、きっと自分は今すぐここを飛び出していく。ぺたぺた窓に指を這わせ、指紋をつけた。ふと、窓の向こう側に、赤い瞳が映ったような気がした。あの戦いの後、今と同じくぼんやり部屋で窓を見つめていた自分の背後に、苦しげな表情をして、彼がぼんやりと立ち尽くしていた。


『……ナギ、元気がないわね?』


 わかりきった台詞を言ってしまったことに後悔した。彼はぐっと力強く唇を噛み、自身の髪をくしゃくしゃにした。彼は、愛想のない人間ではない。けれども普段はそれをじっと抑え込んでいる。カルロはよく、彼を氷のような人間だというが、そうではない。ろうそくの炎のような人間だ。やさしくて、暖かく、ほっと心を幸せにする側の少年なのだ。


 けれどもその性根に合わない、苛烈なほどな才能を持ち合わせた所為で、彼は氷にならざるを得なかった。何よりも、大切な人間を守るために。


『ごめんなさい、私がもっと……しっかりしてたら』


 何度この台詞を口に出したのだろう。彼はまだ十九の、成人すらしていない子どもだ。なのに自分は彼に甘えきっている。こんな台詞を吐く事自体、その証拠だ。


『きみの所為じゃない、止められなかった僕の所為だ』


 ナギはそう言って、すぐさま氷の仮面を被った。本当に私はバカね、と心の中で自嘲する。彼ならば、そういうに決まっているのに。


 どこからかハタハタと飛び出した全身が黄色い鳥が、くるくると旋回し、マリーの肩に飛び乗った。やっとわかった。何故、彼は自分に心を許しているのか。ずっと疑問だったのだ。


『私の髪が黒いからだったのね』


 ナギは意味が分からないという風に眉を顰めた。マリーはくすくすと笑った。


『あなたの会いたい人。やっとわかったわ。会ってあげたらいいのに』

『マリー、僕には意味がわからない』

『嘘ね』


 これでも、自分は彼よりも長く生きている。人生の機敏では、こちらの方に分がある。それも色恋沙汰となれば。くすくすとマリーが微笑んでいると、ナギは堪らずと言うふうに、眉を顰め、さっと視線を逸らした。けれどもその頬は微かに赤い。そのことに自身も気づいたのか、遅れて片手の甲を頬につける。


『我慢する必要なんて、どこにもないのよ』


 そんな言葉は気休めだとわかっている。誰かが犠牲を強いられなければならない。しかしそれが、自分よりも年の若い人間であっていいはずがない。お金がなくて、せめてもの可能性だと、マリーはこの場に飛び込んだ。今はそのことを後悔している。けれども自分は逃げはしない。ナギやカルロ、ルッサムがいる限り、逃げはしない。

 ナギは困ったように苦笑した。ただそれだけだった。それがまるで大人ぶった子どもを視ているようで、悲しくなった。




 静かに窓のガラスを指先でさする。あれから数日が経った。いったいカノンはどうなったのだろうか。何度か鳥を飛ばそうと思ったが、屋敷の中はオレンジの色音使いが見張っている。下手なことをすれば、上に知らされる。そうすれば、ナギに処罰が下る可能性もある。


 自分はきっと、待つことしかできないのだ。マリーはゆっくりと扉を開けながら、ルッサムの部屋まで向かった。今頃寂しがってぐずっているかもしれない。途中、カルロの部屋を通り、こんこん、とノックしてみた。


「カルロ、晩ご飯に来なかったでしょ? 早く行かないと、なくなってしまうわよ……カルロ?」


 寝ているのだろうか。「失礼するわね、カルロ」嫌な予感がして扉を開けてみると、電気もついていない部屋の中で、こんもりと膨らんだ布団が見える。よかった、と息をついたのも一瞬だ。マリーは即座に布団をめくった。その中には、紐でくくられた毛布が、彼の代わりに横たわっている。


「……か、カルロ……!」

 ――――また脱走しちゃったの!?


 これほど懲りないカラーシンガーも珍しい。ナギに、とポケットの中にある赤い石を握りしめ報告しようとしたのだけれど、これ以上彼の心労を増やしても仕方がない。マリーは眉を顰めた。(橙の色音使いは……)多分もう、おねむの時間だろう。きっと大丈夫、と頷いた。

 真っ暗な部屋の中で、マリーはポケットから金の時計を取り出した。窓を開け、かちり、と秒針を動かす。飛び出した鳥たちが、さっと辺りに散らばっていく。

 いくらかした頃だろうか。


 ――――マリーベルさん! 聞こえてますか? あなたとお話ししたいことがあります。


 聞き覚えのある少女の声に、マリーべルはパチリと一つ、瞬いた。




 上級色音使いにあてがわれた部屋の中で、カノンはじっと椅子の上に腰を下ろしていた。アウサー達には、体調が悪いから今日は休むと連絡している。昨日の疲れが残っているのかと彼らは心配していたことが申し訳ないが、事実を言う訳にはいかない。あの紫の色音使い、クルックンはカノンの言葉を盗み聞いて、朝の食堂では上機嫌であった。この程度で体調を崩すとなれば、カラーシンガーには不適正だと、カノンがこの場から追い出される場面でも想像したのだろう。それは別にいい。いつかの未来であるからだ。

 カノンは思わず苦笑した。


 ――――まさか、クルックンも思いもよらないだろうな


 彼女はマリーのファンだと言っていた。

 そんな彼女が、今この場に今この場にいるなんて。


「……カノンさん、どうかされました?」

「いいえ、なんだかビックリする状況だな、と思いまして」


 マリーはきょとんと首を傾げた。そんな仕草が可愛らしく、男性たちの胸をつかむのだろう。おそらくナギも。自分には到底真似ができない。憧れる、と言ってしまえばそうかもしれない。というかナギは年上趣味だったのだろうか。マリーはどう見ても、とっくの昔に成人しているような、クルーエルと同じくらいの年齢である。これ以上考えると自分の中で何かがぐらぐらと崩れてきそうなのでやめておいた。


 あの後、黄色い鳥に向かって叫んだ伝言を、彼女はしっかりと受け取った。正午に自分の自室に来て欲しい。ダメもとで頼んだ台詞だったのだが、マリーの鳥はまるで返事をするように枝に止まったままバサバサと羽を動かし、そのままひょいっと夜の空を飛んでいた。


 正直、期待はしていなかった。だから部屋のドアのノック音を聞いたとき、びっくりするくらい体が飛び跳ねて、そのまま椅子から転げ落ちた。恐る恐る入ってきたマリーは、そんなカノンを見て不思議気な顔をした。今思い返しても恥ずかしい。

 マリーも同じことを考えたのか、クスッと笑った。やっぱり恥ずかしい。


「それで、マリーベルさん、話と言うのは……」

「お気軽に、マリーとお呼びください」


 にこっと柔らかい微笑みを持つ彼女は、そういえば一番初めに会ったときもそう言ってたっけ。


「わかりました。マリーさん。それで、ええっと……」


 実際に会ったら何を聞くか。ナギは本当にヴィオラ村のことを忘れてしまったのか。あれはナギの本心であるか。そう聞こうとはっきりと決めていたはずなのに、喉の奥に痰が絡まった。緊張しすぎているのかもしれない。


 そんなカノンに先んずる形で、マリーがにっこり微笑みながら、「カノンさんは、ナギのことをお好きなんですか?」「え、ええ、はい?」何を言われたのだろう、と口元を引きつらせたマリーは、可愛らしく両手をきゅっと合わせながら「ですから、カノンさんは、ナギをお好きなんですか?」


「…………えーと……」


 読めない。

 にこにこと体中からキラキラオーラを出す彼女は、本当に読めない。義父は何か言いたいことがあれば怒鳴るし、義弟は泣いて主張する。昨日のナギの無表情もよくわからない、と思ったのだけれど、この人はある意味一番わかりづらい。というか、この会話の流れはなんだろう。


「好きではありますけれど、その、幼なじみとして……」

「えええ……そうなんですか?」


 なんであからさまにしょんぼりした顔をします?

 普通付き合っている男性を、他の女が好きと言って嬉しいものなのだろうか。いや、もしくはこう、改めて彼の魅力を見るような感じで嬉しいとか? 自分にはまだまだわからない境地である。うむむ、とカノンが腕を組んでいると、マリーは「でもでも」とぐいっと体を寄せた。豊満な胸に、思わず赤面してしまいそうになったのだけれど、それをしてしまえば自分の性別が分からなくなってしまいそうだ。


「でも、カノンさんはナギのためにここまでやっていたんですよね?」

「あ、はい。まあ、そういう感じで」

「じゃあ、お好きなんですね!」


 ねね! と両手を合わせて、きゃー! と嬉しげな声を出す彼女に、カノンは目を点してぼんやり見つめた。


「きっとナギも、あなたのことを好きなのだと思います。その気持ちを忘れないでください」

「え、ちょっと……いや、それは」


 ……あなたが言うのは、おかしくない?

 混乱するカノンを、マリーは別の意味で捉えたらしい。彼女はほっぺをピンクにさせながら、「大丈夫です!」ぎゅっとカノンの拳を握りしめた後、彼女はポケットから小さな赤い石を取り出した。

 きらきらと輝く、綺麗な石だ。


「今はナギにも色々と事情があって、冷たく当たってしまっているだけなんです。この石を持っていてください。あなたに何かあれば、きっとナギはすっとんでいきますよ。大丈夫!」

「事情……ですか?」

 カノンは思わず赤い石を握りしめ、ハッとしたようにマリーを見上げた。本当だろうか。


「それは一体、どんな……!」

「言えません」


 ぴしゃりと叩きつけるような言葉に驚いた。

 マリーは悲しげに眉を寄せ、ふるふると首を振る。言えないんです。そう全身で叫んでいた。聞けない。でも聞きたい。手の中の石を、ぎゅうっと握る。

 マリーさん、教えてください、事情ってなんですか。ナギは私のことを忘れていないんですか。期待していいんですか。でも期待して、ナギが重く感じてしまうのなら怖いです。でも、聞きたいです。自分はやっぱりカルロの言う通り、他人が自分の思う通りの台詞を言ってくれないから、ムキになっているだけなんでしょうか。そんな気がします。カルロは正しい。多分、私の、私が、一番考えたくないところを、びしりと突き刺してる――――いろんな考えが、怒涛のように押し寄せた。口をぱくぱくして、一瞬出てしてしまったような涙を手の甲でごしごしこすって、彼女と見合った。


 やっぱり、マリーは何も言わなかった。ただ一言、「ナギも、カルロも、ルッサムも……そしてカノンさんも。歳若いみなさんの幸せを、祈っています」


 そう彼女が呟いたとき、カチャリと部屋の扉が開いた。

 ぎょっとして振り向くと、髪の毛が薄く紫がかったメガネの男がこっちを見ていた。がしゃんっと彼の手の中から昼食がひっくりかえる。クルックン、とカノンは男の名前を呟いた。


 自分を嫌っているはずの男が、なんでここに? と考えたのだけれど、彼のことだ。体調が悪いはずのカノンを見て、目の前でカノンの食事をひっくり返して笑ってやろうと思っていたのかもしれない。実は、前にも一度あったことなのだ。


「ま、マリー……!?」


 彼はメガネの奥で、何度もパチパチ瞬きをした。マリーベルは、こちらもきょとんとした顔で、「あら、どこかでお会いになったことがあるのかしら?」


 クルックンはぶんぶんと力の限り頭を振った。ファンが多いというマリーも、慣れたことなのだろう。「そうですか」と軽く頷き、「それではカノンさん、そろそろお暇させていただきますね」「えっ、あ、マリーさん……!」


 聞きたいことはまだある。けれども彼女は困ったような顔をしてクルックンの隣を通り、去って行ってしまう。カノンはポリポリと頭を引っ掻いた。クルックンがいる場でできる話でもないだろう。仕方ない。そう思い、彼がこぼした昼食を片付けようと、適当な布を探していると、ぼんやりとマリーが消えた廊下を見つめていたクルックンが、喉から唸るような声を搾り出した。


「……おい」

「え?」

「お前、マリーと何話してたんだよ」

「……何って……」


 自分の幼なじみの話だ、と言ってもいいものなのだろうか。マリーは、ナギの事情を言うことはできないと首を振っていた。このことを彼に伝えて、マリーベルは困らないのだろうか……?


「言えないことか!」

「……えっ」

「言えないことなんだな!?」


 歯を剥きだした嫌悪の表情も隠さず、クルックンは唾を吐き捨てると、そのまま廊下を駆け抜けていく。それと入れ替わりに、アウサーと中肉中背の男、他称、アウサーの腰巾着、バリューがホカホカと温かい食事を手に、にゅっと室内に顔を覗かせる。


「よう姉御、体調はどうだ? クルックンのやつがよー、姉御の飯持ってってさっさと消えたもんだからさ。どうせなんか嫌がらせでもするんだろうと思ってよ、バリューの奴に中級の余った昼飯を持って来てもらったんだが……」


 あちゃあ、と床に転がる食器を見て、アウサーはモリモリの筋肉をしょんぼりしなさせる。


「やりやがった。もったいねー」

「あ、あああ、あのっどうぞぉー!」


 ささっとバリューに渡された食事を、カノンは苦笑して受け取った。


「ありがとうございます。でもアウサー、あんまりバリューさんに頼っちゃダメですよ」

「いーんだよ。強いもんには弱いもんがつく。これが世界の決まりだろうが」


 まったく、単純な男だなぁ、と似たような言葉を吐いていたイーバムという男を思い出した。まったく、似たもの同士のムキムキである。仲がいい理由も想像がつく。


「じゃー、これ、片付けてから飯とすっかぁ、姉御ぉ」

「へへへ、へいっ!」

「ええ、いいですよ。悪いですし」


 困ったようにパタパタ布を振るカノンを見て、みんなでやりゃー、早く終わんのさぁ、と笑うアウサーには、なんだか救われる気持ちになった。


(……それにしても、さっきのクルックンはあまりいい様子ではなかったな)


 自分のアイドルと、嫌いな人間が一緒にいたのだ。ショックも受けるものだろう……と、考えてみたのだけれど、そうだろうか? アイドルであるマリーだって、人間なのだ。人付き合いくらいする。正直どこか過剰反応のように見えたのだけれど、とカノンはマリーから受け取った赤い石を、どうしたものかと手の中で遊び、まあ、大丈夫だろうと納得させて、ポケットの中に入れた。



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