第15話


 カルロは腹が立って腹が立って仕方がなかった。なんでカノンがこんなに泣いているんだろう。もちろんナギの所為だ。あのうそつきの所為。まるでカノンのことを知らないとでも言いたげなあの態度は、どう考えたって嘘っぱちだった。あれだけカノンの名前に反応しておいて、今さらすぎる。けれどもカノンはそんなことは知らない。


 いつもはまるで少年のように気丈な態度をとっている彼女が、自分に縋り付いている様には胸を打たれた。瞳が真っ赤になっていて、ぽろぽろ透明な雫を流していて、涙をこらえていて、それでもぎゅっと自分の服を握ってくれていて、自分よりも身長は少しだけ低いだけのくせに、体は細くて、ぎゅうっと簡単に包み込めて。


 やっぱりこいつ、かわいいぞ。かわいい。たまんなくかわいい。

 こいつなんて痛い目にあっちまえ、そう思っていたはずなのに、いざ彼女がこんな顔をしていると、胸が張り裂けてしまいそうだ。ごめん、ごめん、嫌なことを思ってごめん、と何度も頭を下げてしまいそうになる。あ。やばい。ぺちゃぱいだと何度も言ったのに、そんなことない。やっぱり、ある。自分の胸元に、何か柔らかいものが押し付けられていた。うわあ、ちょっと。勘弁してくれ。思わずちらりと見た、彼女の桃色の唇を見て、理性がぐらぐらと揺れた。


 ぎゅうっと彼女を抱きしめてみると、彼女も抱きしめ返してくれた。別にそういう意味じゃないとわかっているのに、頭のどっかがしびれていて自分はあと一歩で彼女にキスをしていた。何の前触れもなくカノンの顎をつかんだカルロに、カノンはパチリと瞬きをして、「カノン?」


 ……いまちょっと、やばかった。

 カルロはささっとカノンから手を放して、距離を置いた。やっとこさカノンも落ち着いたのか、相変わらず目が赤くて、ウサギのようになっていたけれど、照れたように手のひらを振って、「ごめん、情けなかったね」とかっこつけて笑った。


 無理すんなよ、と言いたいのに、何を言ってもダメなような気がして、カルロはじっと黙った。いまだに胸がドキドキしていた。


「これからどうすんだよ」


 だからあえて、会話を逸らした。

 カノンは少しだけ考え込んだ。さっさと彼女はこの町を去るべきだ、とカノンは思う。ナギは魔力もない人間がいるべきではない場所だといったが、それは変だ。


 カノンには魔力がある。それはカラーシンガーに比べれば微々たるものかもしれないけれど、彼女の魔力を切るという特技と、多大な運が味方したとはいえ、曲りなりともカラーシンガー見習いである彼女はいくらでも利用のしがいがあるというものだ。たとえあいつが、心がガンガンに冷えている氷男であろうとも、あんなに突き放した言い方をする必要なんてどこにもないのだ。

 まるで、カノンをここから逃がそうと、必死な。


(……あ)


 カルロは、わかってしまった。ナギが彼女を突き放す理由が。

 馬鹿か、と吐き捨ててしまいそうになる。結局あいつは自分のことは後回しにするんだ。そんなかっこつけの人間は嫌いだ。


 だからさっさとあいつの思惑どおり、カノンに嫌われてしまえばいいのにと思った。けれどもカノンは、たっぷりとカルロの言葉を考えた上で、「帰らないよ」と微笑んだのだ。おい、どういうことだよ。


「帰らない。ここで帰ったら、今までの頑張りも、カルロとか、アウサーとか、イーバムが助けてくれたことも全部無駄になる。もし、ナギが私のことを忘れてしまっているんなら仕方がない。もう一回覚えてもらうよ。それにナギは、優しい人だから。さっきはどこかきつい言葉だったけれど、それもきっと意味のあることだと思う」

「そんなわけないだろ!」


 頭の中がカッとした。


「なんだよ、あんた。カラーシンガーになるのは、ナギに会うためなんだろ! もう会ったじゃんか。あれがあいつの答えだよ。あんたのそれは、ただ他人が自分の思い通りのセリフを吐いてくれないから、むきになってんだ。それだけだよ!」


 叫んだセリフはぐっさりと自分に突き刺さった。それってまんま俺じゃん。今の俺じゃん。とわかっているけれど、止まらない。カノンがひどく傷ついたような顔をしたと分かったのに。「あんたの妄想と事情に、他人を巻き込むなよ……!」抑えよう、抑えようとする気持ちが、空回りして、口から飛び出た言葉は反対に迫力があった。カノンは顔を片手で抑えた。


 やばい、泣かせたかな、やっぱり泣かせちゃったよな。心臓がぎゅぎゅっと痛い。今すぐごめんと謝りたかったけれど、プライドが許さなかった。ただ彼女をにらむことしかできなかった。


 しばらくして、カノンは顔を上げた。てっきり、相変わらず涙に顔を赤くしているものだと思っていたのに、しっかりとした顔つきをしていて、やんわりと笑っていた。けれどもどこか無理をしているようにカルロには思えた。「カルロの言う通りだ」 認められると、ドキッとする。いや、さっきのは、本当に。感情を叩きつけちゃっただけで、そんな風に言われるのは。


「カルロが正しいと思う。でも、もうちょっと頑張ってみたい。本当にダメだと思ったら、あきらめるよ」


 それじゃあダメかな、とカノンはカルロに伺いたてた。けれどもカルロは自分が言葉を返す意味がないことを知っていた。自分は彼女に関係がないのだ。勝手に自分がキレてるだけで、彼女は彼女で勝手にすればいい。だから「がんばれば」と一言だけ言って突き放した。カノンは笑った。その顔を見て、また抱きしめたくなった。だから我慢して片手で顔を押さえた。


 多分、彼女はナギのことが好きなんだ。ただの幼馴染だと言っていたけれど、それは言い訳に違いない。自分はまだまだただのガキだが、昔の仲がよかった友達を気にかけているしぐさと、好きな人間を追いかける様の差くらい知っている。多分ナギもそうなんだ。


(……ちくしょ)


 見返りもない。初めから全部終わっていた。馬鹿らしい。ひどくむなしい。

 カノンはにこにこと笑って「カルロは優しいな」と言った。ばかやろ。やさしいもんか。今すぐ押し倒すぞ。それくらい、本気になればできるんだからな。でもしないけどな。


「……マリーベルに会いに行けよ」

「え?」

「俺は、ナギのことなんて全然知らない。知っててもちょっとだけだ。でもマリーは、ナギと仲がいいから」


 嘘だ。彼女に説明できる分くらいなら、自分だって彼のことを知っている。けれどもこれ以上、彼女とナギの話をしたくなった。でもそれを無視してこのまま帰ってしまうことも良心がとがめた。だからあとはマリーにバトンタッチだ。


 マリーの名前を出したとき、カノンは意外そうに瞬きをした。ほんのちょっと、悲しそうな顔をした。なんでだろう、と考えたとき、そうか。好きな相手に、仲がいい女がいるだなんて心中穏やかじゃないに決まってる。カルロはほんの少し考えた。そしてやっぱり一つ嘘をつくことにした。


「ナギとマリーは付き合ってるって聞いたことがある。だから多分、俺なんかよりもたくさんナギのことを教えてくれると思うよ」


 これくらいの嘘を教えてやっても構わないだろう。いい人ポジションなんてくそくらえだ。カルロはそれだけ言い残して、自分の宿舎に向かった。カノンの顔を見たくなかった。泣きたいような気持ちになったけれど、男だからと我慢した。




 カノンはぼんやりと、その場所で座り込んだ。頭を抑えて、カルロの言葉を繰り返す。


「あんたの妄想と事情に、他人を巻き込むなよ、か……」


 確かにそうだ。

 ぐっさりと突き刺さるものがなかったといえば、嘘になる。はー、と息を吐き出した。自分の言葉には、責任を持とう。もう少しだけ、頑張ろう。


(……マリーベルか……)


 そうだ、よくよく考えてみれば、ナギはもう十九だ。好きな女性の一人や二人いたっておかしくない。だからこそ、こっちに留まる決意をしたとか。

 ぐさり。

 なぜだかショックを受けている自分にショックを受けてしまった。いつまでも、お互い子どもじゃないのだ。おめでとう、と言うべきなのだ。幼なじみの恋愛を、自分はきっちり受け止めて、めでたいねぇ、と祝福しなければならない。それなのに、ちょっと変だ。


「……マリーベルかぁ……」


 自分と同じ黒髪だっていうのに、あの人は綺麗な人だったなぁ。


「いやいや、比べてどうする」


 とにかく、次が見えたじゃないか。問題はどうやって彼女に会うかということ。カラーシンガーの宿舎に忍びこむのは、もうすでに行ってみたのだが、さすがというか、警備の人間が絶えず立っており、どうにも現実的な方法ではない。カルロがやすやすと出てくるということは、外からの侵入には厳しいが、内からならばいくらか方法があるのだろう。そうわかっても仕方がない。


「ううーん……」


 よっこいせ、とカノンは立ち上がり、頭をひねらせてみた。おそらく、自分にはあまり時間がない。今はカラーシンガー見習いとしての逗留を許されているが、イーバムの言う通り、ある程度時間が経てば、カラーシンガーの才能はないと判断した、とでも適当なことを言って、追い出されるに違いない。今日、そのことがはっきりと分かった。


 ぱさり、と見上げた場所で、一羽の鳥が枝に羽をおろした。夜だというのに珍しい。フクロウか何かだろうか、と気になって首を伸ばしてみた。けれども違う、小鳥だった。


「あっ」


 カノンは瞳を瞬かせた。

 そして未だにふらつく足に気合を入れるようにと軽く叩いて、木に登る。


「マリーベルさん! 聞こえてますか?」


 黄色い鳥が、こくりと可愛らしく首を傾けた。


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