第9話

 アウサーは、日がな一日ぼんやりと過ごしていた。気がぬけている。というか魂がぬけている。おーい、どうしたー、大丈夫かー。同じく上級色音使いであるイーバムが、アウサーの目の前でパチンと両手を叩いた。ちなみに彼のムキムキな両腕からつくられた音は、パチンなんて可愛らしいものじゃなく、バッチイイイイン!!! と人一人殺してしまいそうな音だった。イーバムの後ろにいたバリューは、「ヒ、ヒヒャア!」と叫んで卒倒した。O


 けれどもアウサーは、ぼんやりと体育座りをして部屋の隅にうずくまっていた。イーバムも彼の気持ちはうっすらと理解していたので、それ以上深くは触らず、日に一度様子を見に来るくらいで、彼に特に何を言う訳でもなかった。


 そう、彼はあの妙な女にぶったおされてしまってからというもの、食事も喉に通らない。別に恋をしているとかそんな訳でもなく、自分が本当にやられてしまったということさえ理解できなかったのだ。一応自分は街中で色音を使用した。あの女と一緒に、自分は憲兵に捕まってしまった。けれども何故だかすぐに釈放されて、まさか上級色音使いが初級に負ける訳がないだろうとよくわからない釈放理由をきかされて、え、え、え、どういうこと……? と頭の中がクエスチョンマークで一色だ。


 あの女が初級だったという事実にも驚いたが、自分が本当に負けたのだといくら主張しても役人たちは聞く耳を持ってくれなかった。他の人間に叫んで、主張しても、誰も耳を貸してくれなかった。


 まさかあれは、夢だったのでは……? 


 昇級試験が近くて、ちょっぴりセンチな気分になっていた自分が見てしまった白昼夢……。一緒にあの女と対抗したはずのイーバム達でさえ、何を言ってくることもない。一時期、アウサーは本気でそう思い込んでいた。けれどもある日たかだか上級色音使いである己の部屋の元に訪れた、赤髪の色音使い――――自分よりも年下で、中々端正な顔をしている彼の瞳を見た瞬間、アウサーは彼が何者であるか、即座に理解した。思い出した、と言った方がいいのかもしれない。


 炎の色音使い、ナギ! カラーシンガーの中でもトップの実力を持ち、実質的なリーダーと噂さされる、若干十九歳の脅威なる天才、ナギ。ちびるかと思った。カラーシンガーになりたい、と思っていた自分であるはずなのに、いざ本物を見ると、びびってびびって、ぶるぶると体の底から震えがやってくる。


 ――――夢だと思ってくれ。


 存外、優しげな声でナギはアウサーに説いた。


 ――――初級の色音使いに、上級が負ける訳ないだろう? 夢だよ、全部夢だ。いいかい、わかったね。君はちょっぴり嫌な夢を見ただけだ。夢で見た内容なんて、いちいち覚えている必要があるかい? ないね。いいかい、あの少女のことは忘れるんだ。いいかい、忘れろ。


 言われなくても夢だとこっちは思っている。

 思っていたのに。

 

 現役一番のカラーシンガーが、自分の部屋に乗り込んできて、実は全部が夢でした、ちゃんちゃん。じゃないだろう。反対にお目々はぱっちりだ。余計なことしやがって。このやろう。馬鹿やろう。これだからイケメンは嫌いなんだという主張はまあ僻みであるので、それはさておき。

 不思議な事実はふつふつと溢れてくる。


(なんでナギは、あいつを女って知ってるんだ?)


 そう、アウサーが、名前も知らない少女――カノン――を、女だと認識したのは、ナギの台詞からだった。多分女だろう、と思いつつも、自身に向かい合う気骨ある態度を見て、もしかしたら男かも……自分が負けたくらいだし、うん、やっぱり男だった、絶対ムキムキな男だったとアウサーは事実を捻じ曲げて記憶していたのだ。周りの人間に風評するときも、全て相手は男だったと主張していた。


 それなのに、何故あの男は女と、それも少女と言う?

 彼は何かを知っている風だった。けれども何を。当事者の自分以外に、一体何を隠しているんだろう。考えれば考えるほど分からなくなってくる。彼の体は筋肉で形作られ、ついでに言うと残念なことに、脳味噌まで筋肉だった。わからない。昇級試験の日は近付く。それだと言うのに、胸がむかむかするばかりだ。自分はなんで負けたんだろう。どうして負けたんだろう。少女に。本当に少女だった……? ムキムキじゃなかった……? 自分が負けたくらいだ、もっと、こう、激しく胸板が厚く、岩くらいの大きさのある女じゃなかったっけ……?


 アウサーは苛立ちを誤魔化すように、部屋の隅に隠していた糸と二本棒を取り出した。手早く結び目をつくり、ちゃっちゃっちゃ、と組み合わせていく。落ちつく。いいなぁ、落ちつくぜ。彼の色音と同じく真っ白いふわふわな毛糸。長々と布が出来上がって行く。マフラーだ。ちょっと季節は早いが、気にしない。ついでに模様も編み込もう、とピンク色の糸を籠の中から取り出す。アウサーは少女趣味な男だった。だからこそ、試験前にナイーブになれば験を担ぎに店に行って駄々をこねる。


 ――――そう、やっぱりあれはムキムキで恐ろしく太い二の腕を持つ女だった。


 出来上がったマフラーを掲げ、アウサーは頷く。そこには【アウサー★ふぁいと!】とピンクの糸で器用に文字が織り込まれていた。俺★ガンバ!


 大丈夫だ。自分は大丈夫。色々と記憶を作り替えながら、アウサーは満足する。けれども胸の中にしこりは残った。やってきた男、ナギ。そして名前もしらないムキムキ女。


 数日たって、あれほど気合を入れていた昇級試験の当日だというのに、彼はどうもやる気が起きなかった。もうどうでもいい。初級にやられた自分には、参加の資格なんてないんじゃないか。いや、あれは夢だったっけ。どっちだったっけ。


 イーバムはとっくの昔に試合場に向かった。バリューもそのお付きだ。自分だけもそもそと意識して、何度も咀嚼して時間をかけてメシを平らげ、のそのそ無理やり歩幅を小さくして、試合場に向かって、けれどもやっぱりやる気がおきずフラフラしていたら―――「なに、やってんだお前……」小さな少女が、アウサーに向かい、尻を向けていた。


 窓から垂らしたロープを一生懸命のぼっていて、声をかけたアウサーに振り向くとハッとしてそのままのぼりきり、逃げ去ろうとしたらしいが、手のひらをすべらせ、「あ、ああ、あっ!」と叫んだ。なんとか両手でロープを握ろうとしたが、上手くいかず、バランスを崩して「ああああ~……」と情けない声を出しながらアウサーの元に滑り降りる。ついでに言えば窓からボキッと嫌な音をたてて金具が落っこち、地面にグサッと突き刺さった。「ああっ!」と彼女は悲しげな悲鳴を上げた。ああって。さっきから「あ」しか言ってないし。


 アウサーはそんな彼女の奇天烈な様子をじっと見ていた。へたり込んで、手のひらにふーふー、と息をかけている。彼女は今更思い出したかのようにアウサーを見上げた。口元をひくひくさせていた。犯罪行為を一部始終見られていたのだ。そりゃあ顔も真っ青になる。けれどもアウサーは、そんなことよりも改めて彼女の体をしげしげと眺めた。


 どこもムキムキじゃない。

 やっぱり自分よりも小さな少女だった。

 夢じゃなかった。


 思いっきり顔をビンタされて、目を覚まされたような気分だ。あの、カラーシンガーがやって来たときと同じく。ポケットの中に突っ込んでいた参加チケットをぐしゃっとつぶす。アウサーは、激しく動揺している自身の気持ちに気付いた。自分はこんなに小さな女に負けたのだ。……けれども本当に? もう一度戦いたい。そして確認したい。そう思う。けれどもそんなチャンスなんてやってくるだろうか。


 ***


 カノンは真っ青な顔をしたまま、ムキムキ男を見上げた。名前は何だったか。ア、から始まる名前だった気がする。思い出した。アウサーだ。アウサーはなぜか季節感がまったくないマフラーを首に巻いていた。熱くないのだろうか。その上マフラーには文字が編み込まれている。【アウサー★】まで見えるので、もしやこれは手編みだろうか。まさか自分でとは思えないので、彼女とか。もしくはお母さんとか。

 いやまあ、そんなことはどうでもいいいんだけど。


(逃げる!)


 それしかない。荷物を素早く手に持ち、そのままアウサーに背を向け逃げ去ろうとした瞬間、すっと背中が軽くなった。慌てて振り返り、カノンの服の背中に入れておいた刀に手を伸ばしたけれども、すでに遅い。きょとんとした顔のアウサーが、カノンの刀をぎゅっと握っていてどうしたもんか、というようなやる気のない表情でカノンを見つめた。あれがないと、自分は何もすることができない。


 すぐさま手を伸ばしたが、アウサーはさっと刀を空に掲げた。アウサーとカノンは、頭一つ分どころか二つ分以上も違う。いくら背伸びをしても手が届く距離じゃない。カノンはギリと唇をかみしめ、彼を睨んだが一つため息をついて諦めることにした。人に見られるべきでない行為をしていたのは自分だ。彼に八つ当たっても仕方がない。自分は失敗した。


 両手を顔の横に置いて、首を振る。負けました。観念しました。はいどうぞ、憲兵にでもなんでも突きつけてください。そんな意味だったのに、アウサーはぼんやりとした顔のままカノンを見下ろしている。カノンは訝しんだ。おーい、と声をかけてみても反応がない。

 いや、あった。三秒くらい遅れて、彼は唐突にハッと体を震わせた。そして今更の疑問である、というか、先ほども問いかけた言葉をカノンに向けた。


「何やってたんだ、あんた。……ロッグクライミングの練習とか?」


 この人、大丈夫かな……?

 カノンはちょっぴり心配した。それはないだろう、とカノンが見つめていると、彼自身もおかしいと思ったらしく。ぶるぶると首を振る。


「いや、その、俺は今変なんだ。気にしないでくれ。それで、何やってたんだ」

「何って」


 カノンは口ごもった。さすがに恥じる気持ちはある。なのでカラーシンガーやらなんやらという部分を除き、最小限で答えることにした。


「不法侵入してたんですよ」

「何のために?」


 けれどもアウサーはつっこんできた。カノンは口の中をうごうごさせた後、正直に全てを話した。

 この試合に出ることができて、カラーシンガーを倒せば、自分の実力が証明されると思ったこと。けれども中に入ることができなかったので、犯罪行為に走ってしまったこと。念のためにカルロのことは伏せておいた。行動の決定権はすべて自分にあった。結果がどうであれ、彼まで巻き込む必要はないだろう。


 全部を話し終えると、アウサーは、「ハー……」と長いため息をついた。「そんなバカなことを考える奴がいるんだなぁ」耳が真っ赤になりそうになった。


 わあっと沸くような歓声が、試合場の中から響く。私はぴくりと顔を上げた。きっと試合が、昇級試験が始まったのだ。頭を悄然と落として、泣きたいような気分をこらえた。間に合わなかったんだ。


 そんなカノンを見ながら、アウサーはぼんやりと考えた。彼は【アウサー★ふぁいと!】と描かれた自分のマフラーを見つめて、筋くれだった指でマフラーをいじる。瞳を瞑った。ついでにポケットの中に入れておいたチケットをつまみだして、宙にひらひらとさせた。


「なんと驚き。こんなところに、こんなものが」


 彼はぽつりとつぶやく。カノンはゆるゆると瞳をあげ、彼がひらつかせていた紙きれを、その瞳の中に収め、ぼんやりとして見た後に、もう一度じっくりと読み返し、アウサーの顔を見て、また最後にチケットを見つめた。


 ――――上級色音使い、アウサー殿 昇級試験参加チケット


 その紙には、黒い無骨な文字で、そう印刷され、複雑な形をした印が押されている。きっと王宮の印だ。色音使いという職は王宮の加護のもとに成り立っている。


「時間はもう過ぎている。けれども俺の試合時間までには、まだ時間がある。これには顔写真がついてないし、お前がアウサーっていう偽名でエントリーすれば、多分間に合うだろう。お前が俺から無理やり奪ったもんだって後から主張してくれれば、別に俺としても何も困らないし」


 そもそも自分は今回参加するかどうかも決めかねていた訳だし。

 そうアウサーは付け足す。カノンは徐々に瞳をきらめかせ、まさか、と言うようにごくりと唾を飲み込んだ。けれどもアウサーは、彼女が声を発する前に、「その前に!」と彼女取り上げた刀の鞘部分を、サッとカノンに向けた。


「その前に、だ。俺ともう一度勝負しろ。そしてお前が勝ったなら、このチケットをお前にやる。それが条件だ――――それでもいいか」


 カノンは何度も頷いた。問題ないに決まっている。「ありがとう!」カノンは満面の笑みで微笑んだ。アウサーは拍子抜けをしたような顔をして、「おい、まだやるってきまった訳じゃないぞ?」「わかってるよ。そうじゃなくて……えっと、ありがとうって思ったから」


 だから、ありがとう。

 アウサーはポリポリと顎をひっかいた。調子がくるう、と彼はぽそりと呟いて、カノンはぱちりと瞬きをした。


「勝負って言っても、切ったはったはナシだ。だいたい今から試合だってのに、そんな疲れることはできねーし、こんなところで思いっきり色音を使ったら、今度こそ牢屋行きだ。さすがの俺もそれは嫌だからな」

「うん、そうだね」

「だから、古代歴史にのっとって、色音使いの決着法で決めようと思う」

「……色音使いの決着法……?」


 そんなの初耳だ。知らないのか、と言うようなアウサーの視線が痛々しくて、カノンはしょんぼりと肩を落とした。ごほん、とアウサーは慌てたように咳をつく。


「知らないなら仕方ないな。こうやって……」


 アウサーはぎゅっとカノンの手のひらを掴んだ。大人と子どもというくらいに大きさが違っていて、ぶわっと暖かい。なんだかびっくりした。


「色音になる前の魔力をお互いにぶつけ合って、それを制圧した方の勝ちだ」

「あっ、それ、知ってるよ」

「ん? そうか。それならこれで決定だな」


 よし、とアウサーは白い歯を見せた。知っている。何度も何度も彼とした遊びだ。それじゃあいくぞ、とアウサーがむんと手のひらに力を入れる。カノンも負けじと意識を手のひらに集中した。魔力と魔力のぶつかり合いだ。


 アウサーの魔力は力強かった。さすが上級。初級のカノンとは比べ物にならないくらの魔力の量だ。けれども、とカノンはぺろりと舌をなめる。これくらいなんてこともない。


 なんてったって、彼女は毎日天才と遊んでいたのだ。彼は圧倒的で、力強く、かつ柔軟で、斬新だった。カノンは少ない魔力を引き延ばす。ただ薄くするだけでは駄目だ。ゴムのように粘り気があり、すぐにはやぶれない膜を作る。アウサーの魔力はただまっすぐカノンに向かってくる。おそらく彼はカノンを甘く見ている。自身と彼女の力の差に過信している。


 カノンはすぅっと息を吸い込んだ。広げた包囲網を、急速に縮めて行く。縄に絡まり、急速にアウサーの魔力は収縮していく。「え……?」勝負は一瞬だった。どういうことだ、と彼はあんぐりと口を開けて、カノンを見つめた。「私の勝ちだね」ニッと口元を釣り上げた。


 アウサーは約束だ、と言ってポケットからチケットを取り出した。彼女はその紙を丁寧に両手で受け取り、嬉しげに瞳を細める。


「……お前、すごいよ。初級とは思えない。天才じゃないか」

「……ええ? 私が?」


 そんな訳ない。本物の天才を、自分は知っているのだ。才能と言う面では、アウサーの方が、よっぽど彼女より恵まれている。


 ふと、風が吹いた。カノンはチケットが飛ばされないようにと両手を守った。アウサーの首元につけていた白いマフラーが、ふいと形を崩して、風の中ではためく。カノンはチケットを自身の懐に入れ、しゃがんでくれ、という風に、アウサーに向かって、手のひらをちょいちょいと下に向ける。彼は首を傾げながら、その山のような体を小さくしゃがませた。カノンはそれでも精一杯背伸びをしながら、彼の首元でくずれたマフラーを巻きなおす。そのとき、やっとマフラーに編み込まれた文字が分かった。


 アウサー★ふぁいと!

 クスッとカノンは噴出した。


 誰が作ってくれたのかわからないが、中々可愛らしくて、優しいマフラーだ。


「アウサー、ありがとう」


 カノンはぐっと拳を握って彼の肩を柔らかくこづいた。アウサーは暫く瞬きをしていたが、ワー! と試合場から興奮の叫びが聞こえた瞬間、カノンはいけないと慌てて踵を返した。その背中に、アウサーは問いかける。


「あんた、名前、聞いてない!」


 カノンは一瞬振り返った。


「カノン!」


 そしてまた走りだす。「カノン!」アウサーは叫ぶ。「あの宿には、後で謝りに行く! 悪かった!」カノンは握りしめた拳を、グッと天に突き出した。アウサーも同じ格好をして拳を握りしめた。彼女に見えている訳がないけれど。彼はもう一回、ぐっと力強く、拳を突き出した。


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