第3話 彼女とひゞき

その後は、しこたまお酒を呑んだ。


甘いもの、苦いもの、炭酸がきいたもの、もはやジュースと違いがないもの、多種多様なお酒を飲んだ。


当然、お酒初心者な俺はベロベロに酔っているわけだが。


「ふぇーやばい、視界がぼやぼやしてる。酔うってこんな感じなんだ」

「初めてにしてはよく耐えてる方ね。うん、結構お酒強い方じゃない?」

「そうですね。親もまぁまぁのんべぇなんで」

「と言っても、これ以上かちこんだら家に帰れなくなりそうだね」

「う、確かに…」


体全体が妙な浮遊感に包まれている。それのせいもあってか、柔らかな眠気までも襲ってきた。されど、体の芯が発熱を繰り返し、かろうじて『生』を感じている。


この時の俺は、完全に受験や母のことを忘れていた。お酒という名の小船に乗せられて、ゆらゆらと忘却の海に漂っていたのだ。


輪郭のぼやけて見える琥珀色は、つまみのピスタチオをぱくぱくと食べていた。カウンターの上に置いてあった取り皿は、剥かれた殻で山盛りになっていた。


ひとしきり食べ終わると、「ほいじゃ最後に、私の思い出のものをね」と、彼女は酒店の1番上にある、琥珀色のボトルを取り出した。


彼女と同じ色だ。


俺は朧げな意識の中、このお酒が只者ではないのだと確信した。


「触ってみる?落とさないでね」


俺は体を起こしてコクリと頷き、そのボトルを受け取った。


重みのあるそれは、宝石のような加工を施されたガラスボトルだった。透き通った中身の液体とボトルは店内の光を反射して、まるで一つの芸術作品のようだった。


『響』と、ラベルには書かれていた。


「このお店とおんなじじゃん」


思わず呟いた。


不思議、いや必然なのだろう。お店と、彼女と、このお酒が、全て『同じ』であることは。


俺は心底感動し、ただポカーンと口を開くのみだった。


「さ、じゃ、呑も。私も一杯、やろうかな」


彼女は2つグラスを取り出した。さっきまで使っていたものではない、少し特別感があるものだった。


「まー、せっかくなら最初はロックで、ね。キツかったら炭酸で割ろう」


小さな氷山、でも容積のほとんどを占めてしまうような大きい氷をガラスに入れた。


俺は彼女に響を返す。胸の高鳴りが止まらなかった。決してアルコールで心拍数が上がったわけではない。


グラスに少しずつ響が注がれる。もう既に、芳醇な香りが辺りを漂っていた。


「はい。ひゞき。」


氷山を包む響が、僕の目の前に現れた。


ウィスキーのロックはアルコールがきついと、流石に俺でも知っている。しかし、この光景を前にして、この魅惑を前にして、そんな理屈はすっ飛んだ。


「頂きます」


冷たいグラスを手に取り、一口呑んだ。











俺は涙を流した。


なんて美味いんだ。


「はぁ〜」


嘆息を吐く事しか出来なかった。


「…あぁこれって…あぁ、だから……その……なん…て言うか……」


俺はこの美味さをなんとか言語化しようとする。しかし、上手くいかなかった。


「んっ……ふふ。いいよ、何も言わなくて」


彼女は俺を止めた。そして、響を口にして呟く。「美味しい」


「はい。ほんっっとうに美味しいです」


俺は同意する事しかできなかった。


「うんうん」


彼女も同じだった。


二口目を飲むと、受験や母のことが心鏡にぼんやりと映るのを感じた。しかし、それらは悲観的なものでなく、むしろ、少しの勇気に包まれていた。


物事を無視せず、しかし直視もせず、片目だけで生きるような、そんな生き方の、勇気が湧いた。


柔らかくて、やさしくて、でも少し冷たくて、涼やかな。


そんなお酒だった。響というものは。


ゆっくりと流れる時間の中、響を通じて俺は少し目を逸らしながら、自己と向き合った。深く、深く。潜るように。


現実に戻る頃には、もうグラスには小さな氷だけが残っていた。顔を上げると、琥珀色の髪をしたバーテンダーが朗らかな笑みを浮かべていた。


「…ふふ、やっぱり私と同じだ」

「同じって……」

「私も最初にそれ呑んだ時、同じような反応をしたってこと」

「あぁ、なるほど」


『思い出のもの』と彼女は言っていた。もしかしたら、単にこのお酒が好きと言うわけではなく、何かのエピソードがあるのではないだろうか。俺と同じような反応をしたとも、言っていたし。 


しかし、無闇な詮索は要らない。響のように、柔らかいままでいい。


暫く余韻に浸って、俺は母親に受験の不合格の連絡を送った。この後起こるであろう悲劇を、後悔する事なく。


そして、丁度既読がついた頃、俺はそろそろ店を出ると彼女に伝えた。お駄賃は要らないと言われた。その上、車で送っていくとも言われた。しかし、流石に遠慮して歩きで帰ることにした。


買ったロープと水と桶は、適当に街のゴミ箱に捨てた。ゴミ回収者の人が、怪しまないことを願って。


夜空の下歩くのは、とても気分が良かった。時刻は10時を回っていたが、あたりはそう寒いとは感じなかった。


そうして俺は、まっすぐ家に帰った。


帰った後のことは、本当に空白で覚えていない。受験に落ちた挙句、酒臭い息子を、母は散々怒り散らしたのかもしれない。まぁ、朝鏡を見ると頬と顎が腫れていたので、多分ぶたれたのだろうが。


しかし、痛む頬を触るたびに、俺は響の舌触りを思い出した。和らぐその痛みが、響の思い出を一層甦らせて。


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ひゞき 白山 @YY1230

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