安らかだが、楽ではない

タコなぐりチンパンジー

 手紙は出してきた。メールでもよかったろう。ここに来て電子が信用できなくなった。覚悟が決まれば様々なものが疑わしくなる。メールはたやすく消えもするし漏れもする。字も手書きであれば伝わるものもあるだろうと、なんだか思いやりのある人間であるかのような考えを巡らせた。子供じみている。寂しいのか。

 あの男が自分にとってなんだったのかもはっきりとしない。話を聞かせてほしいと言ってきた。映像に残したいのだと。どうでもよかった。いや、どうでもよかったというのは嘘か。あのときはまだ格好をつけていたか。映像に残るという響きに惹かれたか。主役のつもりでいたように思う。恥ずかしくなってきた。手紙を残してきたことも、撮影に付き合っていたことも。

 あぁ、いやだ。

 体が動かなくなる。これではまた次にいけない。さっさとこの国を出よう。

 どのタイミングで彼は手紙を読むか。彼はまともである。私とのことは生活そして仕事の一環であったろう。手紙を開いた日が彼の誕生日であったなら申し訳ない。家族の誕生日であったなら。友人の誕生日であったなら。甥っ子が生まれた日であったら。

 お陰さまで私は死にますと、そう書かれた手紙は不幸の手紙他ならないだろう。だけども、どうにかわかってほしい。その手紙を書いている時の私は、ここ最近で一番まともだったのだ。後ろめたさはない。清々しく、活力に満ちていた。

 許しが出たのだ。日本から遠く離れた、選択が許された地で。

 私はそこへ向かう。予定の今日、たまたま快晴の予報であった。太陽光がとても白い。純白である。

 選ぶことが許されたあのとき、安心したのだ。連絡は丁寧で事務的なものであった。彼らとて、危険な思想家ではない。利用するにふさわしいかの判決が希望者を待つ。そこですら私は弾かれるかもしれない。不安もあった。

 人間性の話であれば、私は怪しい。だが大丈夫であった。きちんとした証がある。医者が私に与えた証。とても重かった。がんばれと励まされる。がんばりましょうねと。ありがたい。大変苦しいものであったが、その証は私に毎日を励むための助けと意味を与えてくれた。

 だが、わがままなものでそんなものはそれほど長続きしなかった。痛みがありとあらゆる気力を削いでいった。やがて他人に気をまわせるほどの人間ではなくなり、申し訳なさで耐えられなくなった。屈辱を感じるほどの、大層なプライドがあった自分にも嫌気が差した。大人しく世話にもなれない。すみません。

 一応の生活ができるようになったあとも、痛みは続く。半端に生きていられる。

 だがもういいだろうと、心が諦めつつあった。

 救いの手は、テレビから伸びた。死ねる国があるという。なんと眩しいことだろう。薄暗い部屋にある四角い画面の光が、ありがたい後光のようであった。生への執着を無くした途端、このような体験。かの高僧もこのような心持ちであったか。

 即決ではない。以前から己が首に縄をかけるイメージが沸々と脳裏に浮かんでいた。初めこそ下らないと切り捨てる余裕もあったが、何度も唱える内に現実味を帯びてきた。

 首に手を回し、その太さが意外とないこと、温かさはしっかりあることなどを実感した。怖さはあった。だから皆毎日をがんばっている。

 番組の内容がそこを越える勇気となった。なんと未来的な人々の姿だろう。

 生死を越えたところに、未来はある。空飛ぶ車も、電脳も要らないのだ。大体、未来を扱った創作も行き着くテーマは生死であったように思う。だからこそ、番組で取り扱われる異国の人々とその施設が未来的に見えたか。


 診断書と会費、それで施設の利用者としての資格を得た。渡航に必要な諸々の経費も用意した。

 はつらつと手紙をしたためる。送り先の男は死に抗う人物を探していた。どこから聞き付けたか。自分の身の上話をする人物などそう居なかったから、その数少ない人物から私に辿り着いたのは中々の幸運である。苦労しただろう。そう思うと無下に扱ってがっかりさせたくなかった。苦労して辿り着いたのが私のような人間であることにも同情した。せめて協力することにしたのだ。精一杯の寛大さで。

 それがなんとも申し訳ないことになった。結局私は死に抗うことをやめている。生きることの大切さをテーマにした記事は、路線変更の末、打ちきりである。向こうに非はないわけだから、まぁこれからも頑張って。

 二、三行の手紙。認められた地へ死ににいくこと。投げ出すようですみませんと取材のこと。あなたの熱意は疑い用のないこと。この三つの内容を簡単に書き記し、別れの挨拶とした。

 私はこういう考えでこういうことなのでこうします。あなたのことはこう思いますなどと長々書くのは申し訳ない。不吉な知らせに付き合わす時間は短い方がいい。

 家のメダカが死んだときのように。そういう時期だったかという心持ちでありますように。

 あぁ、もういい。

 もうあの人は関係ない。私にしてはきっちり人と区切りを付けた。

 診断書のように、紙は便利だ。知らない知らない。元より関係はない。手紙を読んだのであればそれまでだ。契約書のような重みで受け取ってほしい。さようなら、私は行く。



 辛気に満ちた部屋、苦渋の寝床に背を向け、ここ数年で重みを増した扉を開く。

 真上から陽光が降り注ぐ町に逃げ込む。ここを越え、空の旅路をまずは目指す。マンションの住人に会うことはなかった。ツイている。順調だ。町の皆さん、これからも頑張って。皆さん、立派だ。皆が皆、各々の役割を全うしている。今に至るまで色々あったでしょう。買い物帰り。銀行でお金を下ろす人。子供の首根っこに手を回し道路に飛び出さないように細心の注意を払う親御さん。犬の散歩に付き合う老人。

 犬の散歩をする老人、これが好きだ。犬にも老人にも、そこだけの時間が流れ、とても心安らぐ。トコトコと歩く犬、ソロソロと歩く老人。犬もよくわかっている。見たことがない、グイグイとリードを引っ張り早く歩くことを急かす犬。共に老いているということか。到達点であるな、一つの。末長く一人と一匹でゆっくり歩いてほしい。

 人通りの多いエリアに入ったところで突然声をかけられ、体が強ばってしまった。なんやかんやと問いかけられたが、すみません、今どうでもいいですと、雑な返事をしてしまった。急いでますでよかったはずだが、私の目的がバレてはいけないと変な気を回してしまった。いや、すみませんと頭を下げ、その人から離れる。怪訝な顔をしてしまっていたかもしれない。咄嗟に申し訳ないと思い出来る限りの愛想笑いをしたつもりだが。

 ごめんなさい、貴方は悪くない。道行く人に声をかけ、今の携帯になにか不満はないかと聞くのがあなたの仕事であるわけだから、迷惑なんてことはない。私はびっくりしただけだから。

 人が多いところは苦手だが、人通りが多いところは嫌いではない。その他大勢の中にいる心地よさ。ほんの一瞬一瞬、すれ違ったその瞬間だけの関わり。無数の小惑星が交差するように。わやわやとした流れの中に身を投じ、誰の記憶にも残らず次へ行く。これから消えていく私にぴったりだ。これだけの人がいるのだから、私一人がいなくなっても大丈夫だ。ありがたい。


 体が砕ける感覚に襲われ立ち尽くす。痛みに包まれた体という器から逃げ出したい。霊魂の衝動が歩みを止めるなとつぶやく。試練なのか。だとすれば先にあるのは解放だろう。そう思えば、この苦しみも励みになる。

 大義を成す人間は天からの試練ですべからくその心身を衰弱させ、その先に栄光を見るらしい。なんとかいう偉人の言葉。大義などないが。

 木っ端の人間に与えられる試練などこのような陰湿なものだろう。

 体が枯れ葉のようになっていく。重みはなく、ペキペキと節々が痛み、木枯らしに為す術もない。目標を達成の暁には、土に還るような、世に溶け込むような解放を望む。

 自分の身に与えられた軋む痛みに励まされ、足はなんとか空の旅路その入り口である空港へとたどり着く。

 気配りが行き届き、艶々とした空間。不浄なものを認めまいとするこの輝きに多少の肩身の狭さを感じながら、飛行機への搭乗手続きを済ませる。大したことのない荷物を預け、これから二十時間以上この身を機長に預ける。私のような者も分け隔てなく運ぶその責務に感謝。

 慌ただしかったことと言えば飛び立つ際の飛行機独特の揺れ程度のもので、至極平穏な空の旅。乗り継ぎであたふたしたりもしたが、私の陰気で乗客を不幸に巻き込むような事態も無く目的地へ到着。


 空港を出れば、平穏な町並み。観光客の立場であればときめきもあったろうが、私にとっては終の地。念願叶うゆりかご。故郷から遠く離れた地で眠る。夜明けを迎えるのもあと数回。なんと心地良いまどろみだろう。

 この先にどんな世界があるのか。怖さがないと言えば嘘になる。だが尻込みするつもりはない。想像するばかりの、生きている内には見ることすら叶わない場所に足を踏み入れることができるのだ。自らの選択で。怖さよりも好奇が勝る。

 今だけだろうか。いざ実行となれば、怖じ気づくこともあるだろう。そのときまでなにもわからないか。

 いずれにせよ、向かうところは異様な世界である。無限の感情に振り回され、混迷のなかで逝くのもまた私に与えられた試練として受け入れよう。

 車道の傍らで波打つ海は澄んで青く、異国の建物が思い思いの形で太陽光を反射する。

 この国の人らはどう考えているのか。死を選ぶ権利など。突き詰めて考えられる人間がそう多くいるとは考えられない。半分もいないのではないか。死んだ先の世界など誰にもわからないのだから。パンクするだろう。一人で考えていては。各々折り合いをつけ、適度に噛み砕き消化しているはずだ。それでいい。決意を固めた者らだけで享受できる空間だ。入ってくるな。闘いである。残る者と、先へ行く者。勝ち負けの結果はお互い知る由もない。いい仕組みだ。

 光り輝くものか、なにもかもが霧散する暗闇か。人生を終えたときなにを見るか。考えれば大きく心拍が上がる。この心音はなにに対してかわからない。だめだ。

 情けない自分が顔を覗かせるような気がして、ここを考えてはいけない気がする。思い出せ、痛みを。もう生きることに用はないはずだ。


 異国の様子に思いを馳せることもせず、ただ真っ直ぐ私を受け入れてくれることとなった施設へ向かう。名を告げると部屋へ案内され、女性が私を出迎える。

 ここの意思である彼女が私の処置を担当するのだ。なんと恐ろしい人だろう。物腰柔らかな物言いで、あの世との橋渡しをしている。善悪を越えた未来的なその立場に敬意を表する。

 これから行われることへの説明を終え、宿泊先へと向かおうとなったころにようやく施設を見渡す余裕が出てきた。静かである。自分の乾いた足音だけが響く。

 人の気配を辿ってみれば、大窓の外に見えるテラスに老婆とその家族とおぼしき集まり。ここまでは聞こえてこないが、施設の人間となにかしらの話をしているのが見てとれた。日の光が当たる老婆の顔からはなんら後ろめたさを感じない。あまりじっと観察するわけにもいかず、ものの数秒で目を逸らした。

 あの一団と私はまるで状況が違う。邪魔になる前にこの場をあとにする。

 施設からタクシーで十分程離れたホテルへと入る。もう少し近くの選択肢もあったが、見透かされそうな気がしてある程度の距離を取った。見透かされたところで今さらなにがどうなるわけでもないだろうが。

 水分こそ取ったが、食べ物を摂る気にはならない。真っ当に規則正しい生活サイクルはもはやないのだ。良い。体が次に行こうとしている。今を捨て、次が来る。

 ベッドに入り、すぐさま意識が遠退く。来るべき日も、こうでありたい。



 最後の意思確認である。

 先日、老婆を見たテラス。そこでつらつらと説明を受け、書類にサインを促される。あの老婆が行っていたこともこれだったのだろうか。家族に見守られながら、商談のようにサインをしていたのか。世界が違う。たくましい場面であったのだな。

 あの老人はどうなったか、どうでしたかと聞きたくもあったが、すぐに思い直した。そんなことはすぐに意味がなくなるのだ。

 手続きを済ませ、最後の日はさらに一週間後となった。

 医師からなにかリクエストはあるかと尋ねられた。なにかと思えばどうやら演出のことらしい。曲を流せるというのだ。好きな曲、思い出の曲と一緒にということらしいが、洒落臭い。

 過去どういう人が居たのかと尋ねると、旅立ちがテーマの曲を流して逝った人が居たらしい。お洒落がすぎるな。いい人生だったのだろう。

 改めてどうするかと聞かれたが、お断りした。

 丹精込めて作った曲を、私のような人間の送別会に使われてはたまらんでしょう、音楽家は。そう言うと医師は眉を八の字に歪ませながら笑ってくれていた。


 一週間、ホテルのベッドで死んだように眠っていた。摂取した栄養も最小限である。

 今は私をこの世から旅立たせてくれる施設のベッドの上である。純白の整えられたベッド。タクシーにはこの施設から少し離れたところで降ろしてもらったので、ここまで歩くのにだいぶくだびれた。

 タクシーから降りる際にふらつきもしたし明らかに軟弱な様子であったから、運転手の男に心配されてしまった。心配をかけまいと、親切を断って出来る限り気丈に振る舞って歩いて来たものだから余計に疲れた。医師から説明を受けて案内されたあと、純白のベッドには長旅から帰ったかのように倒れ込んだ。

 仰向きに寝かされ、点滴のチューブが腕に通される。致死薬がそこを通るのだ。管に付いたバルブを捻れば……。そう医師から説明を受け、あとは私に委ねられる。非常にシンプルだ。腕に管が通される以外になにもない。酸素マスクのようなものもない。

 壁際のベッドで視界には白い天井のみ。頭の方向にある窓から微かに日が差し込む。向こうはもう私には関係のない領域。ここは静かで端正だ。無駄がない。曲などかけてもらわなくて正解だった。

 落ち着いた空間で私だけが──

 穏やかではない。

 これほどのお膳立てがあって……。ここにきて混乱するのか。決意が揺らいでるわけではない。自分がなんなのかわからないか。私はどうなろうとしているのか。バルブを捻り、ごく簡単な手順を残すのみで。思い出せ。ただただ辛い日々であった。何年間だったか。どこからこうだったかも今やはっきりしない。記憶ごと曖昧だ。痛みだけがはっきりしている。やり残したことはない。私からは何が残るだろう。綺麗さっぱりと終えたいが。私一人だけのために、私は行きたい。誰かにどう思われたいがためではない。

 宙に私一人ポツリと浮かぶイメージを脳裏に抱く。そう、こうありたい。なれるだろうか。

 半開きの眼でバルブの位置を探りゆっくりと手を伸ばす。くるりとその栓を開き、ただ待つ。

 なにか音がした。あのよれよれのコートには見覚えがあるな。顔を見る前にはもう瞼が落ちきってしまったが。

 危なかった。一人でなくなるところであった。

 お医者さんありがとう。これからの人のことも頼みます。

 今この視界が何によるものなのかわからない。

 こんな私にも色々あったな。こうなってしまった。もっと可能性はあっただろうか。だめだ。追い付かれる。

 強烈に声を上げたかった。あぁ。感情が脳内にこだましているだけなのか。本当に喉から発せられているのか。もうわからない。

 まだなにも見えてこない。何もわからないまま行くのはもどかしいな。

 あぁ、悲しい。

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