第56話
漸く長い辺境の冬が明けた。
まだ風は冷たいが、畑や森は緑が美しく新緑を湛えている。
久しぶりに緑のじゅうたんが風に揺れる様子が見られただけで、頬が緩む。
緑が濃くなっていくだけでこんなにもわくわくし、晴れ晴れとした気分になることを、辺境伯領へ来ていなければ知らなかっただろう。
今日は街を見下ろせる高台に来ていた。
ライオネル様と初めて二人きりで出かけたあの場所である。
「マリー、明日は結婚式なんだ。風邪をひくと困る」
街が見下ろせる場所まで思わず駆けて行った私を見守るように、歩いて後を追うライオネル様の手にはストールが握られていた。
ストールを広げ、ストールごと包み込むようにして後ろからライオネル様に抱きしめられる。
ライオネル様に抱きしめられると、冷たい風が遮断されるだけでなく、ライオネル様のぬくもりも伝わってくる。
辺境に来て一年弱の間に、背中越しに伝わるライオネル様の体温やライオネル様に包まれたときに香るベルガモットの香りにもすっかり慣れてきた。
「俺たちは王命によって出会ったが、俺は王命に感謝している」
「はい。私もです」
「きっかけは王命だったが、王命だから結婚するのではない。俺は、ここから見える景色を守っていく義務がある。騎士として危ない目にあうこともあるだろう。領主として辛い決断に迫られる可能性もある。けれど、マリアベルがいるから俺は頑張れる。どんなことがあってもマリアベルを守ると誓う」
「……ライ様」
ふいに背中が涼しくなったと思ったら、ライオネル様が私の目の前に片膝をついて跪いた。
私の手を取り、見上げてくる。
ライオネル様としっかり視線を合わせた。
「マリアベル。俺と結婚してくれ」
「っはい!」
勝手に瞳が潤んできた。
だけど、嬉しさと幸福感で勝手に笑顔になる。
立ち上がった笑顔のライオネル様に抱き上げられた。
先ほどとは逆。
ライオネル様が私を見上げくる。
どちらからともなく、自然と唇が重なった――――
結婚式当日。私は早朝からバタバタしていた。
私は自身の準備に入る前にフレアを落ち着かせるという予定外の仕事が待っていたからである。
フレアは、朝起こしに来た時からすでに泣いていた。しかも滂沱の涙をあふれさせて。
これには流石に感動どころではなく、思わず苦笑いしてしまった。
「フレア……流石に泣くのが早すぎだと思うわ」
「おじょっお嬢さまがっ、あの、っ!ちいさかったお嬢様が!」
「う、うん。わかったから、落ち着いて?」
「ぅっ!うぅぅぅぅぅ……おじょうさまあぁぁぁあああぁぁぁ……!」
何とかフレアを宥めて準備が完了したのは、予定ギリギリの時間であった。
ライオネル様は、決められた式典用の騎士服を着て軽く髪を整えるだけだったからむしろ暇だったと後から聞いた。
バージンロードを一緒に歩いてくれるのは、トマスである。
トマスの腕にシルクの手袋をした手を添える。
聖堂の扉が開き、ステンドグラスを通して眩しい位に青や黄色の光が降り注いでいる中へ一歩一歩と踏み出していく。神父の後ろのガラス張りの先には湖に日が反射してキラキラときらめいていた。
バージンロードの先、右側には式典用の騎士服に身を包んだライオネル様が立っている。
ライオネル様の元へ辿り着くと、トマスが小さな声で「お幸せに」と声を掛けてくれる。トマスに微笑んで小さく頷き、ライオネル様へと視線を向ける。
優しく微笑んで腕を差し出してくれるので、トマスの腕から今度はライオネル様の腕へと手を添える。
ライオネル様と進む祭壇までの一歩一歩はとても重く、背筋が伸びる思いだった。
(私は今日、この人の妻になるのだわ。愛する人の妻に)
子供のころに一度は諦めた夢が叶うのだと思うと、感慨深くなる。
神父や参列した証人の前で結婚の誓いを宣誓し、宣誓書にお互いにサインをする。
「それでは誓いのキスを」
眩しいくらいに差し込んだ光がライオネル様の瞳を青と紫に染めていた。
ライオネル様の顔が近づいてくるが、その幻想的な瞳に見惚れてしまう。
「瞳をとじて」
ライオネル様に小声で言われてハッとする。
急いで目を瞑ると、くすっとライオネル様が笑った感じがしたが、すぐに唇が重なる。
誓いのキスが無事にできたと安心し、慌ててぎゅっときつく瞑っていた瞼の力が抜けていく。
そっとライオネル様の唇が離れていくと思ったら、完全に離れきる前に少し角度を変えて再び唇が重なった。
(え!?)
そう思った瞬間に、はむっと下唇を食んでから今度こそ唇が離れた。
びっくりしてライオネル様を見ると、いたずらが成功したような顔で笑っていた。
(ひ、人前で…………誓いのキスなのに。なんてことっ)
ライオネル様の愛おしそうな視線に言葉が出ない。
きっと顔が真っ赤になっているに違いない。
あわあわとざわめく心を落ち着けようとしていると、ライオネル様が耳元でささやく。
「結婚の誓いを立てているときにぽうっとしているからお仕置きだ」
「!」
――――耳から首元まで真っ赤に染めあげたマリアベルを参列者たちは温かく見守っているのだった。
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