海を見つめる青年

 夜の海は星空を移して非常に美しいが、同時に冷たくおどろおどろしい存在でもある。

 水面と夜空の境界線が溶けて、視界いっぱいに藍色の化け物が広がる。

 夜の香りと磯の香りが混ざり合って不思議な匂いを生み出す。

 後ろを振り返って足元に広がる砂浜と点々と立つ建築物を確認すれば、今、自分の居る場所が現実だと分かるのに、海ばかりを見つめてしまえば夢の中にでも迷い込んだ気分になった。

 真っ暗な中、砂浜に腰を下ろしてぼんやりと海を眺める男性は一体何を思っているのだろうか。

「あの、大丈夫ですか?」

 博士の洞窟から帰るのに、すっかりと遅くなってしまった清川が恐る恐る話しかけた。

 清川の目に写る男性は酷く寂しげで、今にも海へ飛び込んでしまいそうに見えたからだ。

 守護者は男性を気に掛けつつも警戒し、静かに二人の間へ割って入った。

 ぼんやりとしていた男性の瞳がハッと輪郭を取り戻し、そのまま振り返って清川を捉える。

「君は……高校生がこんな時間に海辺にいたら危ないじゃないか。波に攫われてしまうよ……僕の兄さんみたいにね」

 瞳には追慕が浮かんでいる。

 清川を捉えたはずの瞳は再びぼんやりとして、空想でも眺めているかのようだった。

 大切な人を、彼の語った「兄さん」を思い出しているのだろうか。

「えっと、私は大丈夫です。お兄さんも大丈夫ですか?」

 しどろもどろに清川が問う。

 すると、男性は苦笑して立ち上がった。

「大丈夫だよ。自殺でもしそうに見えたのかい?」

「え、えっと」

 見ず知らずの人間を雰囲気だけで自殺志願者だと決めつけるというのも随分と失礼な話だろう。

 図星を刺された清川は上手く返事ができずにキョロキョロと瞳を泳がせた。

 すると、男性の真っ黒な目が悪戯っぽく細められて口角が柔らかく上がる。

「やっぱりそうか。僕は海を眺める度に誰かから注意をかけてもらうんだ。この間なんか、おじいさんに『コラ! 儂よりも生きておらぬ者が儂より先に死ぬとは何事か!』って怒鳴られちゃった。いやいやいや! って感じだよね。決めつけが激しかったけど、まあ、アツいおじいちゃんだったなぁ」

 黒いスラックスに真っ白いワイシャツを身に着けている男性は少なくとも二十代半ばであり、大人っぽい姿をしているのだが、困り笑いで顔面をクシャクシャにすると年齢よりもずっと若く、幼く見えた。

 言葉遣いも相まって、高校生か大学生くらいのお兄ちゃんに見える。

 子を守っている母熊が一瞬たりとも気を抜かず全てを疑うように、守護者は男性を警戒して常に清川を守れるよう備えているが、彼女の方はすっかり男性に親しみを覚えている様子だった。

 その証拠に、バスへ向かう清川の隣を男性がくっついて歩いても何ら気にせず談笑する有様だ。

 悲しいかな。

 完璧に守られている子ほど平和ボケしてしまっていて、生まれたての雛のように警戒心が薄い。

 自分の名前や高校名など、問われるままにあっさりと話してしまう清川が心配で堪らず、守護者は彼女の口を塞いでしまうか迷ってオロオロとしている。

 トートバックの中でもスマートフォンが警告を鳴らすように未読の通知をチカチカと点滅させていた。

「そうか、君は水晶高校の生徒さんなんだね。僕は警官の灰田だよ」

「灰田さん……灰田さんは、海が好きなんですか?」

「え?」

 ポツリと出された素朴な問いかけに灰田は目を丸くする。

 そんなにおかしなことを聞いただろうかと清川は首を傾げた。

「好き、ではないな。でも、嫌いじゃない。僕は海に希望をみているからね。愛憎入り混じる感じさ」

 バス停で立ち止まった清川が何気なく彼の瞳を覗いた。

 真っ黒に澄んだ瞳が少し濁っている。

 まるで、黒い絵の具に極めて濃い灰色を混ぜ込んだようだった。

「海から兄さんが出てきて笑ってくれる気がしてさ、僕はもう、随分前から暇さえあれば海に来ているんだ。ずっと会えないけどね」

 自然には脅威がつきものだ。

 毎年何人の人間が海や山で命を落としているか分からない。

 きっと、灰田の兄も数年前に亡くなってしまったのだろう。

『幽霊を見たいのかな?』

 幽霊でもいいから会いたいとは、随分と想いの強いことだ。

 仲の良い兄弟だったのだろうか。

 清川は姿すら知らぬ灰田の兄に思いを馳せた。

「ご冥福をお祈りします」

 零れた言葉は灰田への慰めというより無意識に転げた感情に近い。

 灰田は虚を突かれて固まり、瞳をパチパチと瞬かせた。

「ああ、そっか、そう受け取るよね。違うよ、僕は兄さんが生きていると思ってるんだ。根拠だって無いんだけれど、それでも生きていると思っているんだ」

 希望に満ちた声には少年のような響きが混じっていて明るく柔らかい。

 上を見上げる真っ黒な澄んだ瞳には綺麗な星空が映りこんでいた。

 それに対し、清川がサァッと顔を青くする。

「ごめんなさい、私、失礼なことを言ってしまいました」

 慌てて頭を下げ、小さく震える清川に、灰田は先程までと変わらぬ優しい表情を浮かべた。

「大丈夫だよ。気にしないで。兄の生存が絶望的であることは、理屈では理解しているんだ。でも、僕は兄さんが大好きだったから」

 酷く傷ついた横顔に掛ける言葉が見つからない。

 清川は小さく俯いた。

「君は優しいね。嫌な感じがしない。少しだけ兄さんに似ている気がするよ。優しくて、気を遣って、黙ってしまうところが似ている。だからかな、喋りすぎちゃった。僕は兄さんを真似して、あんまり本心を話さないようにしているのに」

 素の灰田は素直で少し幼い。

 しかし、ずっと学生のようだった灰田が苦笑を浮かべると同時に少し胡散臭くなる。

 親しみ分かかった人が急に何処かへ行ってしまったような気がして寂しくなり、清川は眉根を下げた。

 それに、話さないのではなく話せない人間には、そういう人間なりの言い分がある。

「……あの、話さないの、あんまりよくないです。私、本当は話したい事いっぱいなのに、今も、あんまりお母さんと話ができてないから。あの、言えるなら、言った方が良いです」

 聞き心地の良い灰田の声と人好きのする笑顔が惜しかった。

 すると、清川の言葉を聞いた灰田が少し黙り込み、それからキラキラと瞳を瞬かせている。

「僕が隠し癖をつけたかったのは兄さんのことを深く知りたかったからなんだ。そうしたら、どうしていなくなっちゃったのか分かるかなって。でも、全然わからなかった。無駄に胡散臭くなるだけだった。それが、兄さんの気持ちが、こんなにあっさり分かるなんて……」

 まん丸の瞳で清川を見つめる灰田がうわごとのように呟く。

 どうやら灰田、清川に尊敬と崇拝の念を向けているらしい。

 灰田は元々素直な性格をしているのだが、それにしてもほどがあるのではないだろうか。

 過ぎたるは及ばざるが如し。

 胡散臭い態度の裏で鍛えられた素直さがおかしな方向へとんでいっている。

 初対面の少女を信じ込む姿はいっそ狂気で、両手を包まれた清川はちょっと引いていた。

「いや、あの、今のは私の感想で、あの、私は灰田さんのお兄さんじゃないです」

 自分の感覚を灰田の兄の感覚へ置き換えられて妄信されては困る。

 清川はハッキリと否定したのだが、困ったことに灰田は全く聞く耳を持たない。

 むしろ鼻息を荒くしてズイッと清川に歩み寄った。

「そうか、兄さんに近づきたいなら兄さんみたいな人間にもっと話を聞くべきだったんだ! そう、目の前の清川さんのように! 清川さん、僕ともっとお喋りをしよう! 清川さんには兄弟はいるかな?」

「えっと、いないです。あ、バスが来ちゃったので、乗りますね」

「路線は違うけど僕も乗るね。大丈夫! 僕は大人だから、門限がないんだ!」

「何を言ってるんですか! 駄目ですよ!」

 ギョッとした清川が到着したバスに急いで飛び乗ると、続いて灰田も乗車しようと足をかける。

 しかし、見えない何かに弾き飛ばされて抱き抱えられ、ふわりとベンチに座らされて固定された。

 パントマイムのような異様な光景を作り出したのは勿論、守護者だ。

 バスが発車するまで灰田は指先をピクリと動かすこともできない。

「す、凄い! 清川さんも兄さんみたいな力があるんだね! ますます兄さんみたいだ! 待ってよ! あ! バスが……」

 興奮で頬を真っ赤にし、瞳を星空よりもキラキラとさせている灰田だが、無情にもバスはアッサリと彼を置き去りにして走り去った。

 残るものは灰田を指差す部活帰りの男子高校生と、スススと彼から距離をとってベンチに座り直したOLのみだ。

 しかし、灰田は羞恥を感じてしかるべき視線を無視するとバスのお尻にガンを飛ばした。

 バス内では流石に焦った清川が額に汗をかきながら席に座って一息ついている。

『守護者さん?』

 清川の右手が不自然に引かれる。

 導かれるままにトートバッグの中に手を突っ込むとペンを握らされた。

 空いた手でメモ帳も取りだせば、今度はそのままペンを持った手が操られて強制的に文字を書かされた。

『大丈夫でしたか? 藍?』

 器用な守護者だが人の手を操って文字を書くのは流石に骨が折れるらしい。

 ガタガタと揺れるバスで書いていることも影響して文字はぎこちない形をしているが、清川の手を痛めぬように、彼女がキチンと文字を読めるように、と考慮してゆっくり書かれた文字は何処か丁寧で、意外と読みやすかった。

 緩く手を拘束していた何かが緩む。

 清川は自分で手を動かして文字を書き始めた。

『大丈夫だよ、守護者さん。ちょっとビックリしたけど、多分、悪い人じゃないから』

『藍、あまり小言は言いたくないのですが、悪い人というものは必ずしも悪い姿をしていません。キチンとした人が酷いことをするというのはよくある事なのですよ。それに、仮に灰田さんが悪い人じゃなかったとしても、不審者であることには変わりがありませんよ』

 清川はイカノオスシを幼少期に叩き込まれた良い子だ。

 かつてならった防犯対策に照らせば、随分と良くないことをしてしまったなと落ち込んだ。

『ごめんなさい』

 言い訳をせずに素直に反省し、改善に努めるのが清川の美点だろう。

 しゅんと落ち込む彼女の頭を守護者が優しく撫でた。

『いえ、私も悪かったのです。藍が在籍する学校名を述べようとした時点で躊躇せずに止めるべきでしたし、バス停に着く前に灰田さんを排除すべきだったのです』

 守り方というのは本来、複数種類あってしかるべきだ。

 高校生の清川に対して、小学生向けの守り方を適用すれば彼女の成長を妨害することになる。

 守護者の本質は守りだが、保護者であるとして生まれた都合上、対象者の成長を願い、促す性質も併せ持っている。

 保護と成長のための放任をどのような割合で行っていくのか。

 どのような時には守り、どのような時には見守るべきであるのか。

 清川と直接的に関われるようになって以来、守護者の中に強く根付いた課題であり、今も解決できていないままだ。

『ずっと向き合うことになるんでしょうね、この課題とは』

 清川の中で守護者の存在は大きい。

 守護者の在り方が清川の人生に大きく影響を及ぼすだろう。

 重く強い責任を感じるが、守護者は逃げ出したいとは思えなかった。

 のしかかる責任と成長を見守る喜びでは後者の方が大きいのだと、これまでの日々で気が付いていたからだ。

『とりあえず、守ることが第一であるのには変わりがありませんね。灰田さん、藍には悪いですが、どう考えても不審者ですからね。今日からは再び気を引き締めて藍の守護に当たりましょう』

 髪の束を二本ほど操作して自らの頬を打つ。

 ほぼ同時にパァンと乾いた音が聞こえて清川の姿を確認すれば、最近、守護者に守られている安心感で油断しきっていた己を引き締めるべく、強めに頬を叩いた彼女がいた。

『藍、お揃いですね。お互いに頑張りましょうか』

 守護者の文字の意図を察したのだろう。

 予想外に威力が強く涙目になっていた清川だが、守護者がいると思しき方角を向いてニコッと笑った。

 ちなみに、守護者は予想と真逆の方角にいる。

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半透明の守護者 夜空と花火 宙色紅葉(そらいろもみじ) 毎日投稿中 @SorairoMomiji

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