第2話 ナチュラル・ボイスのわんこ

一歩足を踏み入れた途端、異様な空間だと感じた。壁も床もなく、真っ白な曲面の天井がいくつもの太い柱で支えられている。それは屋内というより、公園の東屋をとてつもなく大きくしたようなものだった。大地にふわりと覆い被さるような広がりを見せる天井に圧倒されて、視線を上に向けると、Natural Voiceという青色の文字が目に入った。

 居住空間と外の草原が一続きになった、際限のない広さ、乱立する木々、放し飼いにされた牛や豚、半裸ではしゃぎ回る子供たち。団体の理念に相応しく、二○五一年という時代に取り残されたような、古い神話を思わせる様相を呈している。


 右の視界に見える草むらから、白い作務衣を着た女が、満面の笑みを浮かべてこちらに走ってきた。一目見て、その笑みがオフィスのディスプレイで見ていた画像と重なった。こうして実際に見ると、意外と愛嬌のある表情をしている。彼女がぐんぐん近づくほど、私の視野を占める彼女の姿が大きくなっていく。視野を覆い尽くすほどの距離まで接近したところで彼女は急停止し、一瞬の沈黙と共にじーっと私の目を見つめた。ふわりとした風圧に、健康的な人間の汗の匂いがする。

「どうもー」

 変声期を向かえる前の少年のような声。

「初めまして。お忙しいところありがとうございます。宜しくお願い致します」

「こちらこそありがとうね。遠いとこから来てくれて。わたし、森川壱子。『わんこ』って呼んでくれて良いよー」

「なるほど、『壱』が英語で『わん』ですか。面白いですね」そう言いながら私は笑みを見せた。

 森川に勧められて、敷地の奥にある木製の椅子に座った。腿の上でラップトップを立ち上げ、録音とメモの用意をする。銀色のラップトップは、草むらや木々の風景に在ると随分異端だ。ここに来てようやく、自分が「部外者」であることへの不安が薄く胸中を覆った。カプセルが入ったポケットに無意識に右手が伸びていることに気が付いて、急いで手を背中の後ろに引っ込める。

「緊張しなくっていいよ」

「ああ、とんでもない」

 何が「とんでもない」なのか自分でもよく分からないが、ともかく森川のその言葉で、胸につかえる不安はいくらか和らいだ。

小さく呼吸を整え、質問リストを画面に表示して、あまり動揺せずに取材を進めようと決意した。改めて挨拶を済ませ、取材に取り掛かる。

「それでは早速伺いたいのですが、まず森川さんはなぜ科学を否定しているのでしょうか」

「あー、わんこはね、厳密には科学それ自体を否定してるわけではないよ。科学によって『真の声』が聞こえなくなるのが良く無いって思ってるの」

 真の声、という言葉を平然と発する森川に、再びぼんやりとした不安を覚えた。その言葉は、明らかに私と森川とでは住んでいる世界が違うことを意識させる。一瞬でも油断すれば、私もそちら側の世界に引き摺り込まれるかもしれない。

 なるべく声音を落ち着けて、質問を続ける。

「なるほど。『真の声』というのは具体的にどのようなものでしょう」

「うーん、いつも思うんだけど、真の声が聞こえない人に真の声の説明をするのは難しいなあ。まあ、とってもざっくりだけど、『からだの声』って言い換えても良いかな」

 森川は顔をしわくちゃにして笑った。

「からだの声、ですか……」

「痛いとか気持ちいいとか、おいしいとか、疲れたとか、そんなんが一番わかりやすいかな。もっと言うと、叩きたいとか、キスしたいとかね」

「なるほど、そういった声なら私にも聞こえる気がします」

「この辺りはそうだろうね。でもね、君はすでに沢山の声を失っているのだよ。なぜなら、からだの声は現代社会では真っ先に迫害されるものだからね」

 森川の言いたいことがいまいち掴めない。極力理解しようと、頭の中で必死に言葉を整理していく。

「うーん、君はどうも感性が無いようだから、なるべく論理的に説明してあげよう。まず、第一の前提、人間は何かを信じなければ生きていけない。神とか仏とか、或いは科学とかね。次に、第二の前提、宗教なるものができる以前から人類は存在していたし、神も仏も科学も知らない赤ちゃんだって一生懸命生きている。この二つの前提を信じるなら、どうも科学どころか宗教以前から、人間には『信じるもの』があったということになるよな。わんこはね、その『信じるもの』こそ『からだの声』だと確信しているんだよ」

「……なるほど、『からだの声』が我々の生存に不可欠である、ということですかね。しかし、それと科学技術がどのように繋がるのでしょう。科学がからだの声を聞こえなくしているという点が少し理解できず」

「いやいや、だってそうでしょう。バクテリアカプセルなんかその最たるものさ、鬱になれば元気になる菌を、社会性がなければ他人に興味が出る菌を、油と塩気を愛する舌は好ましく無いから、野菜を好きになる菌を。聖典の都合の悪いところを勝手に塗り潰すようなものさ。どうして、不都合なところを含めて自分のからだを愛してやれない。それとね、『からだの声が生存に不可欠』ではなくて、からだの声に応えた結果に、生存があるんだよ。わかるだろ? それなら、からだの声を削ぎ落としたらどうなる?」

 森川が話している最中、十人ほどの男女が奥の草むらからこちらに歩いてきた。彼らは無表情で、私と森川の周りを輪になって取り囲んだ。何かされるのだろうか。その意識は今まで感じていたぼんやりとした不安を、明確な恐怖として膨れ上がらせる。久しく、この「恐怖」という感覚を忘れていたのだと悟った。そんなものは感じる前からカプセルで解消していたから。私はポケットに、震える右手を完全に突っ込んでいた。

「大体な、人間を人間たらしめる、欲求も、理想も、道徳も、そんなものの一切はからだを起点に立ち上がっているのさ。だから罪悪感は身を焦がすようだし、愛する人に会えば胸が温かくなる。それを理性とかいうお遊戯会の舞台みたいなところに持ってって、からだを置き去りに勝手に話を進めるからおかしなことになるの。死への恐怖も、相思相愛の歓びもない、無機質な屋内でさ。そんな理性が振るう最大の武器が科学なわけ。人間のからだが請け負うべき責任をすっぽり覆い隠して無かったことにしてくれる。そりゃあ付け上がるよなあ。例えばほら、環境破壊は地球がかわいそうとか言ってる。違うだろ、からだあるもの、先ずはてめえの心配しろよ。地球の心配なんて随分余裕あるじゃない。環境破壊に関しては、私ら自身が歪んじゃうからいけないんだろ」

 森川の腰は次第に椅子から浮き始め、私を見下ろす体勢になっている。その目はさながら、小動物を睨む蛇のような鋭さを含んでいた。今すぐにでもカプセルを飲んで、この恐怖を消してしまいたい。

「今に見てろ、人工肉が根付けば、『人間のために殺される動物がいてはならない』、AIが絵を書きゃ『ヒトとAIに本質的な違いはない』、どうせ言うに決まってる。からだの声が一個一個と削ぎ落とされて、頭がどんどんでかくなる。手足も内臓も、首吊り死体みたいにだらしなく垂れ下がるだけ。そうなった時、正義や道徳が理由を失って宙ぶらりんになるのは自明だろ。『人を殺してはいけない』、『自殺をすべきではない』、『子供は大切にするべき』、そんなんが全て無味乾燥な情報になるんだよ。すると人類はこう考える、『我々がこれらの情報に律儀に従う合理性はあるのだろうか』ってね。恐ろしいことだと思わないか」

 指先の感覚を使い、雑多に押し込められたカプセルケースの中から、L. reuteri のケースを探る。以前、カプセルを飲む前に思い切りこのケースを机にぶつけたことがあったため、ケースの角には少し触ればわかるくらいの傷ができていた。その傷跡を頼りに、悟られぬよう、ゆっくりと目的のバクテリアに手を伸ばす。中々目的のケースが見つからず、恐怖はさらに、加速度的に増えていく。

「ねえ、きみ、きみはなぜ生きているんだい」

 右手が——ポケットの中でバクテリアを探る右手が止まり、硬直する。視線がぶつかり、得体の知れない緊張感が漂う。「尋問」という言葉が頭の中に浮かんだ。返答次第で私の処分を決定しようとしているのではないか。

「……なぜ生きるか、ですか。難しいですね」

 常々、生きていることに大した意味はないと思っていた。死ぬときは死ぬものだし、こればかりは成るように成ると言うほかない。以前どこかで目にした「生きるのは死ぬまでの暇つぶし」という言葉は、言い得て妙だと思う。しかし、この考えをそのまま口にしては、何か大変な目に遭わされるような予感がした。

「……すみません、その様なことをあまり考えたことが無く」

「愚かだね。そんなの考えずとも、聴こえてくるものだ」

 もはや私は、取材のことなど考えていなかった。とにかくこの恐怖を何とかしなくてはならない。私はとうとう目的のカプセルを見つけ出すことに成功し、一粒、右手に握りしめた。

「じゃあ君は、大切な友達がライオンの群れに襲われていたら助けるか」

「……それは勿論、助けたいと思ってますけど」

「無理だ、君には。君はどうせ助けない。怖くて怖くてたまらなくなって、友人に背を向け全速力で逃げるに決まってる。背中に悲痛な絶叫を感じながら、無惨に肉を咀嚼される音を聞きながら、ただ自分が助かりたい一心で走るね。ああ、分かった、君が友達に足をかけて転ばせたんだろう。一緒に逃げていたところを、身代わりにしたんだ。わんこはね、そんな程度の人間が、何かを悟ったような、澄ました顔でぐだぐだと生きているのをみると、吐き気が込み上げてたまらなくなるんだよ。大っ嫌いなのね、聖人気取りの格好付け。それはね、君が理性という、偽善に満ちた仮面を付けてるからだよ。そのくせその仮面が本当だと思って、そう盲信して生きている。お前の理性は所詮、偽善、偽善、偽善!」

 森川の叫びに私は抑えられなくなり、とうとうポケットから力の限り右手を引っこ抜き、そのままのスピードで口へ、握りしめたカプセルを放り込もうとした。その瞬間、バチリという鈍い音、そして右手に電撃が走ったような鋭い痺れ。遅れて、自分の右手が思い切りはたかれたのだと気づいた。

「この外道が!」森川が至近距離でばっくりと口を開けて怒鳴ると、刃物のように尖った犬歯が力強く光って見えた。私は無意識に森川に背を向け、出口に向かって走り出した。後ろに立っていた男と女の隙間を全速力で強引に通り抜けようとしたその瞬間、足の裏が地面を掴む感触が消え、なぜか全身に感じる無重力、体全体に内臓まで響くほどの衝撃を感じるのとほぼ同時に、圧倒的な重量を感じる——森川が私の上に跨って、押さえつけている——。手足の筋肉に全力を込めて脱出しようとするも、磔にされたかのように身動きが取れない。頬に押しつけられる土の冷たさを感じると、森川に弾かれたカプセルが雑草の上に虚しく落ちているのが見えた。

「おい、お前、殺すぞ」

 森川の殺すという言葉にはあまりにも現実味が宿り、私のからだの奥底を凍りつかせるようだった。とにかく謝らなければ、そう思って口を開きかけたとき、首筋に恐ろしく冷たく、硬い金属の感触——。

 ナイフが突き付けられていた。

 殺される。その意識だけが私の頭を満たす。

 はっ、と息を急速に吸い込み、そこから呼吸が出来なくなった。呼吸ができないから、言葉を発することもできない。「死」が今実際に、私の首の上に、圧倒的な存在感を持って乗っている——今までの人生で感じたことのない恐怖。何十匹もの百足が背中を這っているような神経の逆立ちと、爆発しそうなほど速く拍動する心臓——私はここで殺されるのだろうか。

 ナイフの冷たさはじっとりと這うように皮膚を移動し、首筋から顎、頬を伝って、こめかみの所に来た。面で感じていた冷たさが線のように細くなって、刃を皮膚に垂直に立てられたのだと悟る。

何か言葉を発しなければ、弁解しなければ。はっ、はっ、はっ、と懸命に息を吸い込もうとするがうまくできない。心臓が張り裂けそうなくらいの爆音を鳴らし、鈍く痛む。

こめかみに鋭く焼けるような痛みを感じて、たらりと粘り気のある血液が皮膚を伝う。皮膚を切られたのと同時に私の中の何かが決壊し、股間から太ももにかけてが、暖かく濡れているのが分かった。

殺される、殺されてしまう。横向きになった視界に、半裸の子供たちが、こちらには目も向けずに草原を走っているのが映った。その奥の方では、白い作務衣を着た男女がお互いの目をじっと見つめながら抱き合っている。

私は何か重大な間違いを犯しているのだろうか。

皮膚を伝ってきた血液が目の中に入り、視界が赤くぼやけた。

死にたくない、私はまだ、死にたくない。血液が、手足が、皮膚が、心臓が、私の細胞の一個一個が、死にたくないと言っている——。


「うそうそ、冗談だよ」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。それは母親が子供に話しかけるような、あまりにも優しい声。その声を聴くと同時に、森川の手からナイフが放され、目の前の地面に落ちるのが見えた。

私を押さえつける力が弱まり、彼女にもう殺意の無いことが分かる。森川はなぜかそのまま、笑顔で私を抱擁し、私は安堵からか、訳もわからずぶわりと涙を吹き出してしまった。

しばらくして、私たちは地面に直に座り直し、近距離で向かい合った。森川に弾かれたカプセルは地面の中に消えたのか、もうどこにも見当たらない。私たちを取り囲んでいた男女もいつの間にか消えている。

「どうかな、少しは真の声が聞こえたでしょう」




 オフィスに戻ると、長旅から家に帰ってきた時のような安心感を覚えた。パソコンとデスクが整然と列を作り、仕事をこなしている。

「え、お前殴られてるじゃん」

 前田が笑みを浮かべながらこちらに向かってきた。

「いやまあ、殴られたというか切られたというか」

「何それ、詳しく聞かせろよ」前田は取材先での出来事に興味津々のようで、口角を上げて前傾姿勢になっている。私は敷地の様子や森川の言葉、ナイフを突きつけられたことなどを事細かに話してやった。前田は大袈裟に驚いたり、森川の言葉に反論したりしながら私の話を聞いた。

 一通り話し終えると、前田は、「お疲れ、まあ飲めよ」と言って私にカプセルのケースを差し出した。それは「笑うバクテリア」という商品名で、酒やタバコに代わる次世代の嗜好品だった。健康への悪影響を与えることなく快感を得ることができる。

「……ああ、どうしようかな」

「お前まさか、あいつに影響受けたわけじゃないよな」

 あんな酷い脅しをされた相手に、影響を受ける訳は無い。そもそも森川が言っていたことなど半分も理解することが出来なかった。しかしそれでも、なぜか私は一瞬迷った。そうして、このカプセルを飲むことが何かひどく罪深い、取り返しのつかないことなのではないかと感じた。

とはいえ、この時代で一生カプセルを使わずに生きるなど、不可能ではないだろうか。恐らく私は、ナイフで脅された鮮烈さに一時絆されているに過ぎない。カプセルを控えようなど、どうせ続いても一週間が関の山だろう。

 差し出されたケースから一粒カプセルを取り出し、手のひらに乗せた。ケースを前田に返すと、彼も同じように手のひらにカプセルを乗せた。

 前田がカプセルを飲み込んだのに続いて、私も口腔内にバクテリアを放り込み、ころころと舌で遊ばせた後、飲み込んだ。体の表面に張り付いていた躊躇いがぴりりと剥がれた気がして、三分もするとすぐに宙に浮いているような心地よさで満たされた。

 ふと、目の前にある前田の顔を見ると、笑っている。全ての輪郭を定規で引いたような笑顔で、奇妙なほどに笑っている。私は取材の話の続きをした。

「それでさ、俺、おしっこ漏らしちゃってさ」

 私も笑っている。前田と同様の、顔文字のような笑顔を浮かべていることだろう。

「だっせえな、てか警察呼べよ」

 世界中の人々が笑っている。バクテリアを飲んで、気持ち良くなって、何がおかしくて笑っているのかも分からないまま、極めて合理的な「いい気分の獲得」。

 次があれば、前田のように筋肉と闘争心をつけてから取材に行こうと思った。最初からそうしておけば良かった。

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笑うバクテリア 佐々木あさひ @asahisasaki

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