第五章 きみはうつくしい

第36話 複雑な複数の話


「私やっぱり頑張りたい。もちろん無理ないくらいで、だけど」


 映画を観て、夕食を食べ、帰り道にそう宣言した黒江はとてもスッキリした顔をしていた。

 もう今回みたいにストレスを溜め込んでしまう事もないだろう。

 

「大丈夫。周りの評判自体は良かったし、きっと上手くいく。あ~るいずうぇるだ」 


 実際、黒江の自己改革は本人への負担を度外視すればかなり上手くいっていた。

 それは俺に自覚したくないほどに醜い、嫉妬心を湧き上がらせるほどに。


 ——こればっかりはどうしようもない。


 俺が彼女の足枷になってはいけない。どれだけ仲が良くても、特別な存在だと自負していても、いやだからこそ彼女の頑張りを邪魔するようなことをしてはいけない。

 

「じゃあ、明日。学校でね」


「おう、学校で」


 遠くなっていく背中が見えなくなるまで、なんとなく立ち尽くしていた。

 感傷に浸っているとかそういうことではない。

 ただ今日だけは、万が一彼女が振り向いて手を振ってくれたときに背中を向けていたくないと思っただけだ。


 

 *


 

 色々あったが、俺は黒江が好きだ。そう改めて実感した。学校に来ても心に余白ができたからか、そんな想いが積もるばかりだ。

 必死に抑え込んでもこればかりはどうしようも——。


「そもそもなんで告らないわけ?」


「……藪から棒にどうした、風間君よ」


 内装に使う遮光カーテンを受け取って教室に戻る道中、脈略もなくそんな会話になった。力仕事なので今は二人きりである。

 風間はずっと聞きたかったことをやっと聞けると言わんばかりに目を輝かせている。


「いやだって、どう考えても脈アリだろ。あんな青春ドラマしちゃうくらいにはお前も好きなんだろ? 二人で居るときも傍から見てもアレで何で付き合ってないのかよく分からん」


「いじりおる……複雑なんだよ。色々と」


「複雑ねぇ。日和ってる言い訳に聞こえなくもないがネ」


 出会いから今に至るまで、本当に短期間で様々な事があったのだ。複雑以外に俺と黒江の関係を一言で説明できるものはない。彼の言う通り日和っているのは間違いないが。

 それに、今告白したところでまた「過大評価」と言われてしまう予感もある。


 だが事情を断片的にしか知らない風間からすれば色々もどかしいのだろう。


「それに、うかうかしてる暇はあんまりないと思うぜ」


 先んじて教室に入らんとした風間は「ほれ」と顎でその中を見るように促してくる。

 そこにはクラスの男子と話す黒江が居る。早速“頑張っている”ようだ。

 それは良いが、気になるのは話し相手の方だ。誰がどう見ても分かるくらい雰囲気を放っている。——黒江本人は恐らく気づいていないが。

 

「複雑な事情があろうが、最後は感情の問題だろ。考えすぎんなよ。応援してっから」


 風間は俺にだけ聞こえる声量でそう言うと、黒江とその男子の会話を断ち切るように「内装班集合―!」と声を張り上げた。


 声の方に振り向いた黒江と思い切り目が合った。

 彼女は俺の顔を観て心配していると思ったのか、グッと親指を立てて「大丈夫!」とアピールしてくれた。

 

 こんなに可愛くて、美しくて、哀しい彼女をこれからもっと多くの人間が知っていくのだ。


 俺は自分の内に湧く気持ち悪い感情を奥に奥に押し込めて、歯を食いしばったまま口角だけ上げてグッドサインを返した。


 きっとこの文化祭を通じて黒江を取り巻く環境は大いに変わるだろう。それも良い方向に、だ。

 この想いを伝えるにしろ秘めておくにしろ、決断はその後にするべきだろう。



 *



 さて、文化祭準備の方も黒江の頑張りに呼応するように順調に——とはいかず。


「コンセプトが固まらないことには内装も衣装もこれ以上動けねーぞ」


 本番まで三週間を切った今も未だに具体的なコンセプトが固まっていないのだ。

 それによって作業の手はほぼ完全に止まらざるを得なくなり、クラス代表の浪川を中心に、内装班、衣装班の代表数名での協議が行われた。それももう今回で三度目になるが、会議は踊るばかりで進展はなかった。

 というのもここで出た案——ありきたりなメイドやら執事喫茶——をクラス全体に提案すると必ず無視できない数の反対意見——という名の難癖をつける勢力が居るのだ。


「自分たちの意見が通らなかったからって、ほんと子どもだよな。先生も全然動いてくれねぇし」


「風間、それは思っても言わないやつ」


 その勢力とは主に出し物を決めるときにお化け屋敷を希望していたクラスカーストの高い集団だ。最初は協力的だった人らもそれに追従して、とにかく面倒くさいことになっている。


「ハハ……多数決は安易だったかなぁ」


 あんなにイキイキとしていた浪川も板挟みにされて消耗している。中間管理職の悲哀のようなものすら滲み出ている気がする。

 

 そんな状況とはいえ既に生徒会に出した申請を取り下げるのは難しいし、いい加減本格的に動き始めないとどうにもならなくなってしまう。

 

「あの……」


 唸り声だけが漂う空間に、おずおずと声を上げる者が現れた。

 それは俺の背後に座っていた人物で姿は見えなかったが、瞬時に声の主が誰か分かってしまった。


「黒江さん……? えっと、どうかした?」


 ——ちょっと頑張りすぎじゃないか!?


 心の中で思わず叫んだ。 


 浪川もかなり驚いている。まだ彼の中の黒江ナナは無口で近寄りがたい存在のままだったらしい。

 衣装班の方にも小さくはない驚きが広がっているようだ。

 皆、予想外の人物の発言に対して無意識に傾聴していた。


「あの人たち、お化け屋敷をやりたかったんだよね。だったら、“ホラー喫茶”みたいなのにすれば文句言えないんじゃないかな? って、思ったんですけど。ダメ、かな?」


 それは単純ながら、どこか対立構造で捉えていた俺達にとっては盲点だった。目から鱗と言うべきか、とにかく狭まっていた視野がサッと広がる一手であったのは間違いない。

 周囲からは「あーたしかに」とか「でもむずくね」とか隣近所で問答する声がさざ波のように広がる。

 

「——あり! ありだよ、めちゃくちゃ。少なくとも提案する価値はあると思う。具体的なところ詰めれば結構面白くなりそうだし」


 その波をさらに大きくする鶴の一声が教室に響いた。

 さっきまでの哀愁はどこへやら、浪川は勢いよく黒板に『ホラー喫茶』とデカデカと書いた。


 しかし言うだけなら簡単だ。一言にホラーと言っても幽霊系、スプラッタ、エクソシズム、ヒト怖と多岐にわたり、下手を打つとただグロテスクなだけの何かに——いやとにかく、黒江もその辺のディティールまでは完璧に準備していないだろう。


「はい。俺、ホラー自信あります」


 だから、多少間抜けな形だができるだけ協力させてもらおう。

 久しぶりに浴びた“変わり者を見る目”は、記憶にあったより生暖かくて存外悪くなかった。

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