第35話 よく見ること
「というか別に撫でてはないし」
「ごめんごめん、冗談。緊張しちゃって、つい」
「ついって……」
黒江は軽く笑っているが、その手はずっと落ち着きなく自らの膝やら反対の腕やらをさすっている。
ふと、初めて彼女が家に来た時の奇行を思い出した。あれも、今のも彼女の“試し行動”のようなものなのかもしれないなと思った。
そうでなくても、彼女が相当の不安を抱えていることは確かだ。
彼女は「話戻すね」と言って、ふっと斜め上を見上げた。なんとなく釣られて同じように首を動かすが、何の変哲もなくて見慣れない天井があるだけだ。微かな圧迫感を覚えて、俺はすぐに目線を落とした。
その先には使い古された勉強机と、原稿用紙らしき紙束があった。
「私には小説しかないって考えてた。だからそれを捨てたお母さんは許せないし、何よりもあの原稿が無くなった途端に私には何も残ってないって気づいちゃったんだ。……だからあの日全部終わらせようと思ったんだけど、誰かさんになぜか映画に誘われちゃってさ」
「その節は……とにかく必死に絞り出した言葉がそれだったもんで」
彼女の自殺の件に明確に触れるのは初めての事だ。
それに触れてしまえば彼女の希死念慮を刺激してしまうような気がしていた。そして何よりも重い空気にしたくなかったというのが大きかった。
それは問題の先送りでしかないのに、俺は全部が上手く進んでいると思いたかったんだなと再認識する。
「あのときからずっと、俺達は会話が足りてなかったな。アナタは急に脱ぐし、俺は急に映画観せるし」
「それは言わないの。それに、最初の頃に色々聞かれてたら私から離れちゃってたかも。一緒に映画を観てる時間はすごく、なんていうか、丁度良かったんだと思う」
「そっか。じゃあ、俺も人付き合いが苦手で良かった」
努めて平静を装っているが、内心にはあの日彼女を見送って“明日の約束”を取り付けた瞬間のすべてを肯定されたような高揚を思い出していた。
自分でも驚くほど鮮明にあのときの感情も、彼女の笑顔も、気温まで覚えている。それだけ鮮烈な時間だった。
ふと、彼女がこちらに顔を向けるのが目の端に映った。
こちらもそれに応えるように真っ直ぐ彼女を見据える。その瞳が少し茶色っぽいことに初めて気が付いた。
「私ね、慎と出会って本当に生まれ変わったのかと思うくらい視野が広がったんだ。初めての友達だし、知らなかった気持ちもたくさん知れた。慎が観せてくれる映画で新しい視点から物語に向き合うこともできた。本当に感謝してる。けど——」
「けど……?」
「一気に視野が広がって、今まで知らなかった怖さも湧いてきちゃった」
「この前言ってくれたやつか」
俺からの認識と自己評価の齟齬、それに過去の自分からの冷笑。
とにかく彼女は自分が許せず、その自分を肯定しようとする俺もまた否定したくなるという話だったはずだ。
感覚としては理解できる。自分が駄作だと思っている作品を絶賛している人が居たら感性を疑ってしまうものだ。たぶん、それに近い感覚だと思う。
「私は、過去の自分がイヤで、変わりたいと思ってるくせに変化を怖がってる」
徐々に伏し目がちになる彼女の言葉は端的でありながらも重く、受け取るだけで胸に痛みが走る。
でも彼女はこれをずっと抱えているのだ。
「でも変わろうとして動いた」
「うん、文化祭は今までの自分と決別するいい機会だと思ったの。でも、どんなに表紙をよく見せても中身は変わらないね。慎の言う通り無理してたせいで日に日にストレスも溜まっちゃって、どこかで限界は迎えてたと思うけど、クリティカルな映画観せられてギリギリだったのが溢れちゃった。慎からしたら訳わかんなかったよね」
「いや、それは俺が悪い。色々考えすぎた癖に黒江の事はちゃんと考えられてなかった」
成功体験で思考を止めた。考えているフリをして自己満足してしまった。
そしてなによりも、黒江を、黒江と過ごした日々をないがしろにしてしまったのが俺の大罪だ。
彼女は、そんな度し難い俺に優しく語り聞かせるように言う。
「私はただ……慎に自分の言葉で喋って欲しかったんだと思う。映画に罪はないから今度またちゃんと観たいな」
自分の言葉で喋る。
それは俺に出来ていない沢山の事の中で一番大きな問題を端的に表した言葉だと思った。
映画には人の心を動かす力がある。だがそれを代弁者として過信してはいけない。力を振るうのは結局自分だ。
得た教訓を胸に刻みこむと同時に、じわじわと安心感が湧き上がってきた。
また、一緒に映画を観てくれるんだ。
「——うん。ごめんなさい」
誰かにこんなに誠心誠意謝るのなんて本当に久しぶりかもしれない。先ほどの、感情のままに伝えるのとはまた違う、自分の非を受け止めて、後悔の中にこれからの期待と希望を込めた謝罪だ。
黒江は「私の番だって言ったのに」と困ったように呟いてから、一度咳払いをして一際真面目で力強く続けた。
「私も、迷惑と心配かけてごめんなさい。本当にたくさんたくさん、上手くできなくてごめんね」
お互いに頭を上げて目が合ったとき、どちらからともなく気の抜けた笑いが零れた。
仲直りできた、のだろうか。
現実はBGMが無いから心理の変化が難しい——なんて考える心の余裕は生まれている時点で少なくとも自分のわだかまりはほぼ無くなったのだろう。
不安も思う所も全てが解消することはきっとない。完璧な人間関係なんてない。ほころびや欠落から目を逸らさなければ、それでいいのだ。
『相手を知りたかったら方法はひとつ——よく見ること』だ。オギーのこの言葉を胸に刻み込んでいかなければ。
「言いそびれたこととかあったら、遠慮なく言って」
黒江が突然そんなことを言って、補足するように「私ばっかりたくさん喋っちゃったから」と付け加えた。
頭を巡らすが、山のようにあったはずの言葉たちは殆ど霧散してしまっていた。
「黒江が帰った後、すげぇ不安だった。ほんとに生きててくれてよかった」
ふっと口をついて出たその言葉はもしかしたら一番大きく胸中にわだかまって残っていたものだったかもしれない。
彼女は、バツが悪そうに視線を外して言う。
「そりゃ……一瞬過ったけど、慎とかひまりさんとか悲しんでくれちゃうでしょ。それに『死ぬ前に観て欲しい映画』、どうせまだまだあるんだろうなって思って」
俺がしていることは全て間違えているのかもしれない——彼女と交流を持ってからずっとずっと心のどこかにあった不安だった。ここ数日は特にそうだ。
一度失敗するとそれまでのすべてがダメだったと思ってしまうから。
「そっか。そっか……!」
だが彼女が俺と過ごした日々は、全くの無駄ではなかった。俺と映画は、あの部屋での時間はちゃんと現世の楔になっていた。
その映画で彼女を責めてしまっていたことも忘れてはいけない事実だが、“黒江ナナに生きていて欲しい”という俺の身勝手で切実な願いは実を結んでいたのだ。
「ありがとうね」
彼女は優しい言葉と共に、知らず知らず泣いていた俺の頭を撫でた。感謝を伝えたいのは俺の方なのに。
思えばいつもそうだ。黒江を救おうとして自分も一緒に救われてしまっている。
それからしばらくして、お互いに普段のリズムを取り戻していくように、軽く雑談をした。
風間と亀井に背中を押されたことや、俺が来て黒江がどれだけパニックになったのか。近所のスナックをほぼ全て回ってようやく辿り着いたこと。
そして、俺の中学時代の失敗についても話した。
「フッ、今よりもっと酷かったんだ」
「おい、酷い言うな。良い笑顔しちゃってからに」
反応は非常に辛辣だったが、笑って貰えた方がありがたかった。
気が付けば壁掛け時計の針は正午を通り過ぎている。
どこかで昼食でも、と誘おうとして、その前に確認しておくべきことに思い至った。
「そういえば、今日は月曜日な訳ですが……映画、観る?」
「ふふっ、観る。とびっきり笑えてスカッとするやつが良いな」
「そうだな。『マスク』とか観るか!」
俺も黒江もこれからどんどん変わっていく。その中で今回のようなトラブルもまたあるだろう。
それでも変わらないものもあると思えるように、今あるものを大切にしていきたいと、そう思った。
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