第33話 映画バカ
一段踏む毎にギシ、ギシと小さく音を立てる階段をゆっくりと上る。
電気のスイッチが分からず薄暗いままということもあって、足取りは自然と慎重になる。
いや、それだけではない。今更な不安と緊張もまた足の動きを鈍くさせているのは明らかだった。
階段を上り切ってその先を見やれば細い廊下と三つの扉が現れた。
「上ってすぐの部屋、ここだよな」
心のざわつきを誤魔化すように口の中でつぶやくが、効果がないどころか拍動の騒がしさは悪化した気さえする。
とはいえ今更引き返すなんてありえない。
黒江の部屋の扉の前に立ち、ノックをしようと上げた右手が小刻みに震えていた。
俺はあれだけ同じ時間を共有した相手と話すことを、ここまで怖がっているのか。そう自覚すると何だか情けない笑いが込み上げてきた。
“仲直り”という行為がこんなに恐ろしくて苦しいものだなんて、黒江が居なければ知らなかったかもしれない。
風間も亀井も互いに心地よい距離感を保っていたし、誰かに嫌われても傷つくだけで、それを修繕しようとした経験はなかった。
——それだけ黒江ナナは俺の中で特別なのだ。
それを再認識するといつの間にか手の震えは収まっていた。
コンコンコン、冷え冷えした廊下に固く乾いた音が響く。
「黒江、俺。えっと、神崎だけど」
たどたどしく扉の向こうに声を掛けると、それまで静まり返っていた部屋から様々な音が連続して聞こえてきた。
勢いよく椅子が地面と擦れる音、何かが衝突する鈍い音、黒江の悲鳴にならない苦悶の声、紙束がバサバサと落ちる音、「あー!」という黒江の情けない声、等々。
「だ、大丈夫か!?」
「だいじょ……うぶだけど、ちょっと待って!」
久しぶりに聞いた黒江の声は、今まで聞いたことが無いほど余裕のないものだった。
なんだか思っていたのと違う走り出しになってしまった。
もっとシリアスでしっとりした雰囲気の中で真面目な話と謝罪をする想定だったのに——部屋の中のドタバタと駆け回る音を聞いていると、申し訳なさが湧くと同時にみるみる緊張感が飛んでいくのが分かる。
「——とりあえず入って」
二分ほど経って部屋が静かになると、扉が控えめに開かれて黒江がチラリと顔を覗かせた。
普段以上にクールでツンとした声が印象的だ。
グダグダになった空気をリセットしようとしてくれたのか、単純に俺と顔を合わせて話すことがイヤなだけか。
「おじゃまします」
答えが出ないことを熟考しても仕方がない。
促されるまま扉を開ける。
黒江の部屋は、当たり前だが非常に彼女らしいものだった。
部屋の広さ自体は俺の部屋と同じくらい。家具は最低限で布団と勉強机、そして本棚。どれもデザイン性よりは機能性を重視した質素な造りだ。
その中で何よりも目についたのは本棚から溢れて床に山積みにされた文庫本たちだ。俺のDVD棚とまったく同じことになっている。
——黒江が俺の部屋に入って真っ先に棚に関心を向けた理由が分かった。収集癖のある人間はコレクターの収集物に意識が引き寄せられてしまうのだ。
俺の視線に気が付いて、片付いていないことを指摘されるとでも勘違いしたのか、彼女は本の山との間に立って、不満気な目でこちらを睨めつけた。
「急に来るから、ビックリしたんだけど」
左腕をさすりながらそう言う彼女の姿を見て正気を取り戻した。
彼女の服装が薄水色のジャージ姿という私服姿よりもさらにラフなものだからか、なんだかひ弱な印象を受けた。
いや、違う。服装や場所は関係ない。
よく見れば黒江の目元は赤く泣き腫らした痕がある。
彼女は、本当に弱っている。
ある程度予期していたことではあるが、目の当たりにするとやはり胸に来るものがある。
努めてそれが表に出ないように、なるべくいつも通りに、なにか会話を——。
「ごめん。一応メッセ入れたんだけど……既読になってなかったっけ」
ああ、これじゃ彼女を責めているみたいじゃないか。
心と完全に一致した言葉と声色で話せたらいいのに。俺にはそんな名優のような芸当は到底できない。
せめて表情だけでも気の抜けた笑顔で、と思うが多分酷く歪んで引き攣った顔になっている気がしてならない。
「『直接話したい』ってだけ言われて、まさか本当に学校休んでまで突撃して来るとは思わないよ」
「それは、確かに。駆け回りながらだったから頭回ってなかったな」
そう言うと、黒江は呆れ顔と共に「まさか……」と呟いた。
「どうやって家まで来たのかと思ってたけど……スナックをしらみつぶしに来たの? 慎って結構おバカで変なことするよね、ほんと。私に聞けばよかったのに」
どこかぶっきらぼうだった彼女の言葉に感情が乗って抑揚が生まれ、いつもの調子に近づいていた。
「うっ、でも聞いたら素直に教えてくれた?」
「…………たぶん」
「ほら。おバカで変でも目的果たせてるから。一時間放浪したけど」
「普通にストーカー行為だからね。私だからギリギリ通報されてないだけ——」
そこまで言って彼女はハッと何かに気が付いたように目を見開いてわなわなと表情が険しくなっていった。
「ちょっと待って。てことは、お母さんと会ったってこと?」
「えっと、いや、うん。ちょうど玄関口で鉢合わせて、お店のとこで軽く事情を話したら通してくれた。買い出しがあるって出掛けちゃったけど」
後ろめたさから事実をそのまま話ているのに変な言い訳をしているような気分になる。
「大丈夫? 何か変なこととか嫌なこと言われなかった!?」
ヒートアップする黒江はグイグイと距離を詰めてくる。元々閉めた扉に背中を預けていたこともあってすぐに壁際に追い込まれるような形になった。
「だ、大丈夫だから。むしろお茶まで出して貰って、それよりちょっと近いッ……!」
彼女は俺の言葉が耳に入っていないのか、距離を取るどころかさらに顔を近づけて真っ直ぐに目を合わせてきた。
「本当に? 絶対?」
彼女は今にも泣きだしそうな目で念入りに確認してくる。
その姿を見て、一つ確信を得た。
この家の時間はあの日のまま止まっている。
きっと彼女の中の母は、自分の夢を台無しにした最悪の存在のまま変わっていないのだ。
絵梨さんの半ば諦めたような様子も鑑みると二人の間でその件に関してまともな対話が行われたとは思えない。
「本当だよ。俺は大丈夫、大丈夫だから」
子どもに言い聞かせるように答えると、黒江は「そっか」と脱力した。
一歩後退した彼女が気まずそうに視線を斜め下に落とす。扉の隙間から流れてくる空気がやけに冷たかった。
今まで漠然としていて理解しようとしても出来なかった“黒江の苦しみ”の姿が、なんとなく輪郭を帯びてきていた。
学校に行き、うちで映画を観て、泣いて笑って、感想を語り合って、ご飯を食べて、おしゃべりして——それでもこの家に帰れば黒江はいつもあの日に、死のうとした日に巻き戻っていたのだ。
「黒江」
衝動的に、無意識に名前を呼んでいた。
彼女は俯いたまま小さく「なに?」と返事をする。
抑え込んでいた感情が、衝動が胸の内から溢れ出してくるのがハッキリと分かった。
順序とか文脈とか空気とか、そんなものを気にする余裕はどこかへ霧散した。
「この前はごめん。お前が泣いて帰った日からずっと謝りたかったんだけど、なにがどれだけお前を傷つけてたのか、正直ちゃんと分からなくて……だから! 黒江さえよければ、ちゃんと話がしたい。黒江の話も聞きたい。それで、ちゃんと仲直りして、俺、また一緒に過ごしたいよ」
言いながら、鼻にツンとする感覚が襲ってきた。目も霞んだ。声は弱々しく震えた。言っていることも理論も何もない子どものわがままみたいな身勝手なものだ。
どれだけ反省の言葉を並べても、心を入れ替えたとしても、犯してしまった過ちは消えない。彼女を泣かせた事実は変わらない。
それでも俺はどうしても、なんとしてでも彼女とまたいつものように——。
「俺、黒江と映画が観たいんだ。お前と観るのが一番楽しいから」
黒江に『私を直視してない』と言われてから、自分を顧みた。何度も何度も。
たしかに俺は黒江ナナとちゃんと向き合えていたか自信が持てない。無意識に“これ以上踏み込まない”という心のストッパーをかけていたのかもしれない。
そして何よりも、友人も少なく、深い関係になることも避けてきた自分の行いに自信なんて持てるはずもなかった。
それでも、ひと時だけ、映画を観て感想を語り合うあの時間だけは、彼女と真剣に向き合っていたと胸を張って言えると気が付いたのだ。
「——ほんと、映画バカだね」
俺は自分を信じることはできないが、映画を愛する気持ちだけは信じられる。
俺にとって映画は、人生の寂しさを埋めて寄り添ってくれる巨大な支柱だったから。
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