第32話 親の勝手


「それで、慎クンの用件は? 本当にナナと喋りたいだけ?」


 絵梨さんは灰皿に煙草を押し付けて、本題に踏み込んできた。

 どこから話したものか考えていると、彼女はすぐさま補足のように言葉を付けたした。


「あの子、木曜の夜から部屋に籠って出てこないの。アタシがお店出たり寝たりしてる間にご飯とかお風呂は済ませてるみたいだけど」


「それ、僕が原因です。ナナさんにその——無神経なことを言ってしまって。ただでさえ色々溜め込んでたのを、さらに傷つけてしまいました。用件もそれです。どうしても直接謝りたくて」


 自白しながら黒江の泣き顔をまた思い出して心臓が締め付けられる感覚に覆われる。

 それに対して絵梨さんの反応はと言えば「そう」と呟くだけで、非常に軽い反応だった。その内心は読み取れない。

 

 彼女はこちらにずいと顔を寄せ、頬杖をしながら口を開く。


「二か月くらい前から、手伝いのない日にあの子がどこか寄ってから帰ってくるのは……アナタ?」


 一瞬、身体に緊張が走る。

 俺が話したい事を向こうから切り出してくれたのはありがたいが、この鋭い目で見つめられながらだからか、弱くない圧を感じる。


「はい。僕の家で、映画を観てます。あと晩御飯も一緒に。親御さんに無断ですみませんでした」


「映画——。そう、なのね。今度お家に伺うわ。お詫びと、お礼しないとね」


 素直に白状して頭を下げると、絵梨さんは壁に視線を移して呟くようにそう言った。彼女の頭にはいったいどれだけ複雑な感情が渦巻いているのだろう。


「そんなっ、僕達が勝手にやっていることなので。ナナさんから夕飯代もちゃんと貰ってますし」


「アナタ優しい子ね。でも大人には大人の通すべき筋があるの。どんなにダメな親でもね」


 穏やかな微笑みを浮かべながらそう言う彼女からは諦めのようなものを感じる。

 その声は優しく、顔にはあらゆる感情が表れて揺れている。


「慎クン。ナナのこと、気にかけてくれてありがとうね。アナタみたいな子が居るって知れただけで安心したわ。アタシは酷い事をしちゃって、もう愛想尽かされちゃってるから——って、もうあの子から色々聞いてるのかしら?」


「書いてた小説を捨てられた、とか。詳しくは何も」


 本当は寝言に近いものだったが、それを詳しく話す場面ではないだろう。

 それに、これが“聞きたかったこと”の方だ。俺が変に情報を足して話がそれてしまうのは本意でない。


「詳しいも何もないわ。あの子が『賞に出す』って言ってたものを捨てた。趣味だと思ってたとはいえ、ずっと書いてたのを知ってたのにね。あの子は隠してるつもりだったみたいだけど、何年も何年も熱中して書いてたのに」


「それは……何か理由があったんですよね」


 少し話しただけだが、この人は娘を相当想っているのは伝わるし、自分が良い親ではないと客観的に考える冷静さもある。

 そんな人が無理解やヒステリーでそういう行動に出るのはあまり想像できなかった。


 ——というのは良く考えようとし過ぎだろうか。ただ、俺が黒江と母の関係が修復可能であって欲しいだけ。しっかりと話し合えば分かり合える理由があって欲しいの思っているだけだ。


 俺が聞いていることは親子のパーソナルな問題で、初対面の子どもに話すような内容でもないだろう。

 だからこそ真剣に、話して貰えるなら相応の覚悟を持って聞かなければならない。

 

 絵梨さんはしばらくの間俯いてから、俺の目を真っ直ぐに見て話し出してくれた。


「ナナには……普通の人生を歩んで欲しいの。あの子はアタシと違って賢いから、アタシみたいな不安定な道に進んで欲しくなかった……ただの自分本位な押し付け、それが正しいことだと思ってた。でも、あの子が見たことない顔で怒って家を飛び出した時、初めて自分がしたことの悪辣さに気が付いたわ。追いかけたけど、アタシはあの子が行きそうな場所もサッパリ分からなかった——正直、もう二度とあの子は帰って来ないんじゃないかって思った」


 淡々と話しているがきっとたくさんの葛藤が、感情の爆発があったであろうことは、震える声からなんとなく伝わる。


 この人がやったことは決して許されることではない。親だろうが人の夢や努力を破壊して良いわけがない。それを見失ってしまう程に一人娘の将来を心配していたとはいえ、だ。

 当然俺にそれを紛糾する気も権利もないが、その時の黒江の気持ちを想像すると、やるせない。


「でもちゃんと帰ってきてくれた。あの子はこの家に居るのもイヤだろうし、溝は埋まらないだろうけどアタシはそれでも……って、余計な事たくさん喋っちゃったわね」


 絵梨さんは「ごめんなさいね」と誤魔化し笑いをして、新しく煙草を咥えて火をつける。


「でもお店の手伝いはしてるんですよね?」


 それはずっと気になっていたことだった。

 親との不和をトドメに自死を選ぶほどなのに、その親の仕事——それもコンプレックスを抱いているもの——を手伝っているというのが理解できなかった。

 

 ふぅとため息と一緒に煙を吐いた絵梨さんは頬に空いた手を当てていかにも“困っている”という仕草をした。


「無理にやらなくてもって言ったんだけどね。あの子あれで意地っ張りなところもあるから」


「ああ、ちょっとわかります」


「それに、実際助かっちゃってるから。私も強く言えないし……バイトの子でも入ればいいんだけどこんな辺鄙なところじゃ中々ね。きっとナナもそれが分かってるのね」


 なるほど、と思わず頷いていた。実際に今言った通りかは分からないが、これまで知った彼女の人物像と合致する答えだった。


 それから、絵梨さんはこちらに向き直って「ところで」と先ほどよりは明るい声で話を振ってきた。


「推測だけど、君があの日のナナを見つけてくれたんじゃない? あの子が男の子と仲良くなるなんて初めてだもの、どんな技術テクを使ったの?」


 なんとなく、それまでの母親としての顔に少しだけ“スナックのママ”としての側面が覗いたような感じがした。


「俺はただ映画観ようって誘っただけで、救うなんてとんでもないです。結局傷つけちゃってますし」


「——そういうことにしとくわ」


 絵梨さんは意味ありげに笑うと、何かを思い出したように少しわざとらしく「あっ」と声を上げた。


「買い出しに行かなきゃいけないんだった。引き留めちゃってごめんなさいね。ナナはそこの扉開けて目の前の階段上ってすぐの部屋よ——アタシに似て素直になれない不器用な子だけど、よろしくね。君なら安心だわ」


「はい……! あっ、お茶ありがとうございました。それに、色々話してくれたことも、本当にありがとうございます」


 外に出ようとする絵梨さんに向けて頭を下げた。彼女は困ったように眉を下げて「じゃあまた」と軽く手を振って玄関のノブに手をかけた。

 

 なぜかその背がやけに小さく、弱々しく見えて、思わず「あの!」と声を上げていた。


「この前映画館に行ったとき、小さい頃のお母さんとの思い出を大切そうに教えてくれました。涙こらえながら。だからまだきっと——!」


「フフッ、気を遣わなくていいのよ。でもありがとう」


 そう言って絵梨さんは玄関扉の向こうへ消えてしまった。

 ガチャンと扉が閉まる音が響くと、フロアには煙草の甘い残り香と静寂だけが残った。



 改めて実感したが、親子の問題は俺にどうこうできるものではない——それなのに最後には過ぎたことをしてしまったが。

 だが、今聞くことができて良かったとも思う。


「俺は俺のできることを、だ」


 黒江ナナと心の底から向き合う覚悟の準備が整った。


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