第23話 友
「綺麗だね、ここ」
「最近完成したばっかりだからな」
商業施設を出てすぐ傍を流れる川に沿って伸びる遊歩道は、完璧に舗装された平らな地面と整然と並ぶ花壇の花々、そして陽光が反射する水面が美しい。
これが一駅分以上続いているのだから驚きだ。
空はうろこ雲に覆われて、やわらかな日差しとじんわりした温かさが気持ちいい。そんな穏やかな散歩道をゆっくりと歩く。
ときどき市民ランナーとすれ違ったり追い抜かれたり、散歩中の犬を追い越したり。そんな穏やかな散歩道。
俺はその間ずっと黒江が話し出すのを待ち続けた。
彼女は何度か話を切り出そうと口を開いたが、すぐに口を噤んでしまっていた。
「はぁ、ごめんね。ちゃんと話したいのはホントなの。でも——なんか、言葉が詰まっちゃって」
黒江はこわばった表情で、押しつぶされそうな声で言う。
彼女はこれまで、いったいどれだけの苦しみと向き合ってきたのだろう——飛び降り未遂の日は想像だに出来なかったが、今はほんの少しだけ想像できてしまう。
だからこそ言葉選びが難しい。
どの言葉なら、俺にでも彼女の重荷を肩代わりすることができるだろうか。
悩ましいが、前と同じだ。沈黙はダメだ。頭をちゃんと回してしっかり考えて言葉を紡ぐしか俺に術はないのだから。
「一応言っておくけど、どんな内容でも受け止める覚悟はできてる。実は擬態した宇宙人とか、敵国のスパイだとか、裏社会の仕事人とか、そういうのじゃなければ」
「さすがにそこまで重大発表じゃないよっ。全部前観た映画のやつだし」
ほんのわずかにだが、彼女の頬が緩んだ。気休め程度にはなっただろうか。
「そんでもって、黒江が言いたくないならそれでもいいとも思ってる」
「でもそれは、もやもやが残っちゃわない?」
「そりゃ気にはなるけど、誰にだって他人に言いたく無いことなんていくらでもあるでしょ。言わない方が黒江にとって良いなら俺は聞かない」
瞬き程の沈黙が流れ、同時に一陣の強風が吹き抜けた。季節外れの暖かな風だ。
「私にとって……そっか」
「そのときは映画の感想語りに移行だな」
「それもする。けどその前にやっぱり話す……ありがと」
彼女は大きく息を吸い込んで、さらに深く息を吐いた。
緊張がこちらにまで伝わってくるようで、思わず生唾を飲み込む。
「私の家、スナックなんだ。私もそれを手伝ってるの。ほぼ裏方だけど」
彼女はこちらの反応を待たずにさらに続けた。
「さっきのは常連さんの一人。距離近いし声も大きいから苦手なんだけど無碍にもできなくて。迷惑かけちゃってごめんね」
なんと返したらいいのか分からず「迷惑なんて……」と曖昧な返事になった。
彼女がそれを嫌悪していることは分かるが、単純に予想外のものが来て驚いてしまったのだ。
そして、知識不足故にスナックのイメージが上手く出来ないことも反応を鈍くさせた。
キャバクラとかガールズバーよりは店側と客の距離があるイメージはあるが、それが合っているか自信もない。
しかし、親の職業や家庭環境は間違いなくセンシティブな話であるし、それが水商売ともなると第三者には分からない苦悩も多いだろう。手伝いまでしているなら尚更だ。
常連だというあの男への態度を想えばその片鱗は察せるというものである。
「なんか、反応薄くない? ちょっと不安になる」
「いやごめん、何言われても良いようにって覚悟しすぎてて。事件性がないだけでちょっと安心してしまったというか」
「事件性——あ、もしかして“あの噂”? P活とかエンコーとか」
黒江は本当にどうでもいいことを思い出すように言った。俺が想定していた“最悪の場合”を、あっさりと。
「慎も知ってるとは思ってなかったな」と呟いてから彼女はさらに続ける。
「さっきみたいに出先でお客さんに会う事が前にもあったから、それを学校の人に見られてたんだろうね。それが尾ひれ生やしながら広がったのか、私のこと嫌いな人が大袈裟に広めた感じじゃないかな」
「いやどっちにしろムカつくな、噂流した奴。黒江が反抗しないからって言いたい放題かよ」
俺の言葉を聞いた彼女はフッと自嘲気味に笑った。
「でも、実際お店で“接客”させられることもあるし、個人的にやり取りしてないだけで、ずっとそういうお金で生きてるから。私が他の子より穢れてるのは確かだよ。噂も苦痛も全部、その報い」
「それは違う!」
腹の底から反射的に声が出た。
「金とか仕事の貴賤は正直よく分かんないけど、そこに生まれただけで報いを受けるなんて馬鹿げてるし……それに、黒江は綺麗だよ。俺が知ってる誰よりも」
黒江ほど「透明」な人間を俺は知らない。
空虚とすら感じてしまうほど純粋で、危うさを覚えるほどの自罰的な繊細さ。
それは彼女の言う穢れとは対極にあるように思える。少なくとも俺が見てきた黒江ナナはそんな人間だ。
彼女は口をあんぐりと開けた顔を一瞬こちらを向けたかと思うと、すぐに川の方へ逸らしてしまった。
そしてじわじわと、自分が大変なことを口走ったという自覚が沸き上がってきた。
「今日の君は……恋愛小説のキャラクターみたいなことを言うね」
「——あっえっと、今のはその、あくまで内面的な話であって……いや外見がキレイじゃないとかそういうことでもないんだけど!」
「はいはい。分かってるよ。慎は私のこと不当に高評価してくれるもんね。さすがに慣れてきた」
「不当ではない」と言いかけたところでジトッとした目で睨まれてしまった。
これ以上の問答は意味がないと諫められた感じだ。
全身にじんわりとした暑さを感じながらしばらく無言で歩いていると、黒江が川の流れに視線を釘付けにしたままで呟いた。
「ありがとね。私より私を大事にしてくれて」
その声はか細くて震えていた。
「こちらこそ、言い辛いこと話してくれてありがとう」
「ふふっ……そうだ。映画の話しようよ」
「——そうだな! まず黒江のお気に入りポイントから聞きたい」
「うーん、まず新キャラクター達の魅力が——」
それから隣駅に着くまでひたすら語り合った。
思う所がないわけじゃない。綺麗サッパリ全部の疑問が解消されたわけでもない。むしろ理解からは遠ざかったかもしれない。
だが、何があっても、どんな境遇でも、何を聞こうが聞くまいが、俺達がこれまで築いたこの関係は変わらない。
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