第12話 フォーリン…
その後、いつも通り黒江の感想や疑問点を聞いたが案の定、大抵の疑問は上映中に語り尽くしてしまっていて監督が最近『〇〇村』というタイトルの微妙な作品を乱発している話をして本日はお開きとなった。
そして黒江がいつも通りリビングの母さんに挨拶をしようと顔を見せ、いつも通りそのまま雑談が始まった。
「あら、今日は早かったのね。何観たの~?」
「えっと『呪怨』っていうホラー映画を」
「……ナナちゃん、他に怖いやつ観たことは?」
「ほん怖ぐらいでほぼない、ですかね」
「慎、あんたそんな子にいきなりアレ観せるって……無理させるんじゃないわよ~! ほんとそういうところはお父さんそっくりなんだから」
「いやその、一番最初に目についたもんで」
何も言い返せない。たしかに間違いなく初心者向けの作品ではなかった。何を言っても言い訳にもならないので甘んじて母さんからの冷たい目と軽いお説教を受け入れる。
「で、でも慎くんは事前に何度も無理そうならやめるからって言ってくれたし、横でずっと喋っててくれたので殆ど大丈夫でした! おかげで私、思ってたよりはホラー大丈夫だって知れましたし」
「黒江……!」
黒江のフォローが温かい。母さんは基本的に彼女には甘いため本人に言われれば「そう~?」と言ってすぐに引き下がった。
彼女に「助かった」と目配せすると、黒江は少し困ったように眉を下げて小さく笑った。これは彼女が帰り際によくする表情だ。
「母さん、そろそろ——」
「そうだ、ナナちゃん。せっかく早く終わったなら晩御飯食べてく?」
言いかけたところで、母さんが巨石を投じてきた。一瞬で体全身に緊張が走る。
母さんからすれば特に悪気のない、善意からの提案。だが、それは俺が今まで意識して避けてきた黒江の家庭環境に触れかねない話題だ。
「母さん……急に言われても困るでしょ」
「私ったら。たしかにそうよね、もう六時だしお家の方で用意されてるかしら」
遠回しに窘めようとした結果より踏み入ってしまった。
だが、予想に反して黒江は別に気にした素振りもなく口を開いた。
「えっと、晩御飯は各自なので用意とかは別に」
「あら……そうなの? じゃあ普段はどうしてるの?」
「はい。お金だけ貰ってて、基本スーパーとかコンビニ行って出来合いのものを買って食べる感じで」
黒江はごく当たり前のことを話すように滔々と語った。それが彼女にとって特別なことではなく、何年も続いた習慣であると、否が応でも理解してしまう。
いっそ悲しい顔をして欲しかった。いっそ機嫌を損ねてくれと思った。彼女はもうそんなことに傷つくことすらやめてしまっていたのだ。
脳裏に彼女の姿が浮かぶ——薄暗い部屋に独り、ただ栄養補給のため事務的に食べ物を口に運ぶ姿が。
母さんも思う所があるのか、「そうなのね」と先ほどまでに比べて落ち着いた語調で相槌を打つにとどまった。
「でもやっぱり申し訳ないので、すみません。今日はもうお暇させてもらいます」
こちらの空気を察したのか、そう言って黒江は軽く頭を下げた。母さんは少し寂しそうに「またいらっしゃいね」と笑った。
俺は何もかも気づかないフリをしていつも通りあの橋の先まで彼女を送った。道中何か話した気もするが、多分上手く会話はできなかったように思う。
「俺ってこんなに繊細だったっけか」
部屋に入った瞬間、開けっ放しだった窓から吹き抜けていった涼風に身を震わせながら思わずそう呟いた。
*
「——ん、黒江から? めずらし」
その晩、何となくじっとしていられなくて惰性で課題を消化しているとスマホの通知が鳴った。ロック画面に表示される二十三時の時刻とナナからの一件のメッセージ。
その内容を確認しようとロックを解除したところで、ちょうど画面が強制的に切り替わる。一瞬ぎょっとしたがそれが着信を伝える画面であると理解すると同時に今度は体が跳ねて勢いよく立ち上がってしまった。
電話? なんで急に? まさか帰り道俺の様子が明らかにおかしかったから? いや良くも悪くもそういうこと気にするタイプには思えな——いや、というか出れば分かるだろ!
「あー、もしもし」
『ん、よかった起きてた。急にごめんね』
「いやそれは全然……どうかした?」
『えっと……その、別に大したことじゃないんだけど、ね。どうしても喋りたくて』
黒江らしくない、甘さを含有したかのような言葉に思わず心臓が跳ねる。
電話越しの彼女の声はか細く囁くようなもので耳元で内緒話をされているようで落ち着かない。それに、少しくぐもっている感じもする。まるで布団か何かを被っているような——。
「あっ、もしかして怖さがぶり返してきて眠れないとか? なんて、それはないか」
『……』
「えマジ?」
『だ、だってあの映画、お風呂とかベッドとか日常の中でばっかり怖い事が起きるでしょ? だからどうしてもフラッシュバックしちゃって……!』
黒江はワタワタと必死になって、さらに『普通布団の中は安全地帯じゃない? 今もスマホの画面から目逸らせないのッ!』と小声で訴えかけてくる。その切羽詰まった様子が普段のクールな彼女とあまりにも乖離していて思わず笑ってしまった。さっきまで何を悩んでいたのか、全部バカバカしく思えてくる。
『笑ってるけど、そもそも君のせいなんだからね』
「ああ、そうだね。全くもってその通り。『お詫びとしてこのまま話し相手になれ』ということでよろしいでしょうか?」
『そういうことです。寝息とか聞かれたら恥ずかしいから、眠くなったらすぐ切るけどね』
こちらも課題はやめにしてベッドに潜り、スピーカーモードにして寝転がりながら取り留めのない話を始めた。
上映中は敢えて話さなかった『貞子vs伽椰子』の話をしてプロモーションで始球式もしたという話をしたあたりで彼女の声から怯えは消えていたが、お互いなんとなく終わりを切り出すことは無かった。
学校の話、俺の友人とのバカな思い出話、黒江が読んでいる小説の話——は『恥ずかしいから』とはぐらかされたが、とにかく普段あまりしないただの雑談というものをした。
一時間くらい話しただろうか。
黒江は徐々に返事も覚束なくなり、呂律も怪しくなってきた。そしてついに長い沈黙が流れる。
耳をスピーカーに寄せれば微かに穏やかな呼吸が聞こえる。あんなことを言っていたのに結局寝落ちしてしまうとは。
通話終了をタップしようとスマホを持ち上げて、逡巡し、彼女に届かないように小さく呟いた。
「なぁ黒江、あの日なにがあったの」
当然、返事は全く期待していない。ただずっと心の内に燻らせていたものを吐き出して少しでも楽になろうとしただけ。
だがそんな独り言に言葉が返ってきた。返ってきてしまった。
『小説をね、ずっと書いてたんだ。でも、全部……捨てられ……それで……』
寝言か、それとも——ともかく彼女はそれだけ言うとまた規則的な寝息をたて始めた。こちらの心をもみくちゃにする暴風だけを残して。
嗚呼、これだから嫌だったんだ。これ以上彼女を知れば、踏み込んでしまえば、もう抑え込んでいた気持ちに嘘が付けなくなってしまう。
本当は黒江ナナの重荷を一緒に背負いたい。笑顔にしたい。感動してほしい。色々な表情が見たい。一緒に居たい。幸せにしたい。
「好き……だよなぁ」
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