第10話
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夜九時になった。鍵野井は宿泊者三名と一緒に地底湖に向かった。鍵野井は最後尾である。
夏の蒸し暑い夜に、鍾乳洞の中はひんやりとして、じつに心地よいのだが、ただ鍵野井は長身だから、洞窟内を歩くのは一苦労であった。背を屈める場面がやたらと多く、壁に手をやると、じとっと手が濡れてくる。鍾乳洞内の壁は常に雨水が伝っているのだ。そして、その終着地点が地底湖というわけだ。
やがて地底湖に到着した。深く抉れているのは、かつてはここに水が溜まっていた証拠である。
一行は湖底に向かって降り始めた。これが一番危ない。ヘルメットはしているが、足を滑らせれば、地底湖の底に真っ逆さまである。
しかし鍵野井たちは、無事、地底湖の底に降りた。ここで初めて、鍵野井は周囲の壁や天井を見上げることができた。
ライトに照らされた天井には、鍾乳洞独特の鍾乳石が大小無数に垂れ下がり、その先から、ぽたりと雫が落ちたりしていた。
一行の一人が、地底湖に置いてあるランタンに火をともすと、まるでキャンプのような雰囲気になった。
アルミマットを敷いて座ると、みんなはリュックから食べ物や飲み物を取り出した。
「あんたも何か酒でも出して飲みなさい」
やはりこの地底湖は酒盛りの場だったのだ。
独特の雰囲気で飲む酒は格別なものがあるのだろう。ただ酔っぱらっては危険すぎる。
やがて酒がまわったのか、三人ははしゃぎ始めた。唄を歌うものも出て来た。しかしこれは序の口である。
三人はリュックの中からパイプを取り出して、タバコを吸い始めた。三人そろってパイプとは古風だなと鍵野井が思ったのも束の間、すぐにタバコではないと気がついた。大麻なのだ。タバコとは違う匂いがしたから。
大麻使用は違法である。にもかかわらず彼らは平然と鍵野井の前で大麻を吸っている。大麻を愛好する者は、どうも仲間意識があるようで、鍵野井にもパイプを勧めた。
「そこのお若いの、ちょっとこれを吸ってみなさい」
「何でしょう?」鍵野井はわざと無知を振舞った。
「ここに来た者は旅の記念に挑戦してみるといい。誰も人に言わないし、あんたも人に言わないでしょう。わしは人を見る目がある。あんたなら大丈夫だと思って連れて来た。でなければ、誰が初対面の人間をここに連れて来たりするものかね」
鍵野井は躊躇したが、そこまで言われて断るのも難しい。お互い秘密にしたいわけだから、と鍵野井はおそるおそるパイプを受け取った。
「火はついているから軽くゆっくり吸ったらいい」
鍵野井はアルミマットの上に胡坐をかいて、パイプを口にかまえた。そして、吸ったふりをした。
やがてランタンの薄暗い灯りの中で、鍵野井は恍惚状態になっていった。が、それは大麻の影響ではない。吸ってはいないわけだから。その場の雰囲気で酔っているのだ。この鍾乳洞のホールには妙な魔力があって、何かが生み出される、そんな予感が鍵野井にはするのだった。
大麻を吸っている三人は、すでに酩酊状態になっていた。
やがて一人がげらげら笑いだした。ときおり甲高い声で叫ぶように笑った。そのとき鍵野井は、これだ、と思った。この笑い声を鍵野井は井戸の外で聞いたのだ。
兜川に説明するにはこれで十分だった。間違いなく地底湖は、兜川邸の真下にあるのだ。
酩酊状態にある人間は頭がぼうっとする。口が軽い。したがって、彼らに質問をするのは今がチャンスだと、鍵野井は、立ち入り禁止の件を持ち出した。
「あれのことか」と鍵野井にパイプを勧めた四十代の男が言った。「あれは要するに人に見られてはまずいものが置いてあるということだよ」
「見られてはまずいものですか。では違法なものですか?」
「わしらがなぜ地の底の洞窟で大麻をやるか、それは地上の現実から逃避できるからだよ。このわしらも地上ではいたって普通の人間なのだぞ、面白味のない。しかしここなら自分がスーパーマンにだってなれるのだ。ここに来る常連は、みんなそれが目的だ。その特効薬があの立ち入り禁止の中にあるということさ」
「大麻草ですね」
「ほう。知っているじゃないか。大麻草と草をつけたね。見て来たのか?」
鍵野井は、この男には正直にしゃべっても問題ないと判断した。
「ええ。案内を受けた女性から、立ち入り禁止は、危険だから入るなと言われたのですが、見た感じそんなに危険には思えなかったもので。──それにしても、大麻草は半端なく成長していましたね。すごい照明で目がくらくらっとなりましたが」
「いいか。そのことは外に出てしゃべってはだめだぞ、絶対に。わしらは鍾乳洞の中でのみ、大麻を使用している。ここは別の世界だから。言ってみれば夢の世界だ。夢の中で何をしようと現実世界とは違う。お咎めなしだ」
「分かりました。しかし気になりますね。あれだけの規模なら毎日手入れをする人がいるわけでしょう」
「大麻草の栽培は、いたって簡単で毎日見る必要はない。だが刈り取りをする者はいる」
「誰ですか?」
「それは言えない。言えばわしはどんな目にあうか分かったものじゃない」
「暴力団ですか?」
「まあ似たようなものだな。大麻で稼ぎをしているわけだから。真っ当な人間ではない。とにかくこれ以上は、わしの口からは言えない。それにわしもそんなに詳しいわけじゃあない。わしは毎年ここへ来るようになって、十年くらいたつが、いまだに謎の多いところだよ。あの受付の女性が実質上のオーナーということは、最近分かった」
「兄がいると聞いていますが……」
「それは誰から聞いたの。──たしかに以前は兄がいて、ここの経営をやっていた。しかし最近は姿も見ないね。数年前から若い男がここの雑務をやっているようだ」
「大学生ですか?」
「いやもっと歳がいっている。ちょうどあんたと同じくらいの青年だ」
「あの女将さんの息子さんではないですか?」
「ああそうかも知れん。何となく顔が似ている」
「そしてその息子さんが、七年前にこの地底湖で行方不明になった大学生なんですよ」
「何だと! この地底湖があの大ニュースになった地底湖だったのか!」
「そうです」
「根拠は?」
「行方不明になった大学生の名前が鶴彦というのですが、女将さんの子供も鶴彦と言うのです。鶴彦という名前はそうそういないでしょう」
「なるほど。それで大学生が発見されなかったわけか。ニュースで見たら、けっこう広い地底湖だったが、透明な水だから底に沈んでいてもそれと分かるだろう、とわしは不思議に思っていたものだが、地底湖から他所に移動したのなら、そりゃあ見つからんわな。だが、なぜその鶴彦という学生は、マスコミの前に出なかったのだ。一躍時の人になっただろうに」
「それは何か事情があったのでしょう」
鍵野井は、男に言われて、たしかにそれは不可解なことだと改めて思った。表に出ては何かまずいことがあるのか。大麻草のように。
とりあえず兜川の依頼については完了した。
予想通り、井戸の声は、隣の瞑想道場の連中の仕業であった。
地底湖も調べた。
平坦な底で、ライトを照らせば何もないことが一目瞭然だった。壁も、これといって気になるものはなかった。
ただただ、天井の鍾乳石が壮麗で、まるで厳かな教会の中にいるようであった。
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