第9話


 午後六時半となり、鍵野井はまず腹ごしらえをすることにした。食事は各自調理して食べるわけで、決まった時間はない。

 鍵野井は料理が、からっぴしダメな方だが、目玉焼きぐらいはできる。缶詰もあるようだから、あとは野菜のサラダを作れば問題ない。夜食用のインスタント・ラーメンも段ボールに入っている。ごはんは、すでに炊飯ジャーに用意されていた。

 調理場は、屋根が透明で照明を消せば、晴れた夜なら星や月を見ることができる。なぜかここだけ開放的である。それはたぶん鍾乳洞で瞑想という陰気臭いムードを払拭させる意味もあるのだろう。

 調理場では、初めて見る宿泊者も何人かいたが、にぎやかだった。

 親切な人もいた。その人は、フライパンで焼いたウインナーを半分、鍵野井に分けたりした。

「もう長いことここで瞑想をされているのですか?」

 と鍵野井は、その親切な人にたずねた。

「今日で十日目だよ。私は毎年、ここで瞑想に耽っているのだが、これはリハビリのようなもので体と精神がとてもリフレッシュする」

「やはり地底湖の方で瞑想をされるのですか?」

「いや。私はそこではなく、もっと狭い空洞だ。地底湖は数か月前に干上がって、話によると天井からシャンデリアのような鍾乳石が垂れ下がっているそうだ。一度は行ってみたいがね」

「だったら今夜どうですか? 私は宿舎で四十代の人から同行を許されたので、今夜九時に出発予定です」

 すると、この親切な人は、急に真顔になった。

「あの地底湖は何年か前に大学生が行方不明になった曰く付きの地底湖でね。あまり気持ちのいい場所ではないぞ。瞑想の場所は、もっと健全なところがいい。もしも大学生の遺体がそばにあった日には、ここに来たことを後悔しますぞ」

「そうですが、──ではまだ大学生は見つかっていないということですね」

「見つかっていない。だが反対に、死んでいるという証拠もないわけだ」

 回りくどい言い方だが、この人も兜川と同じ大学生はどこかで生きている、と考えているのだろうか。

「では大学生はどこへ行ったのでしょう?」

「それは分らない。しかし、行方不明になった大学生は、あの地底湖を熟知していたきらいがあるのだよ」

「知っています。大学生は前年にあの地底湖で泳いだ。そして次の年に行方不明になった」

「そう。じつはあの大学生は、この村の出身だったのだよ」

「えええー!?」鍵野井は驚いて、男性の顔を凝視した。「新聞では大学生の出身は他県だったように思いますが」

「これは私の言い方が悪かった。母親がこの瞑想道場の娘さんなのだ」

「えええー!?」再び鍵野井は驚いた。

「この人は一度他県に嫁いで、そのとき大学生の息子を生んだのだが、その後離婚してここに戻っている。子供の方は男親に預けた。しかし、夏休みなどにはよく遊びにここに来ていたようだ。私は顔を知らないのだが、名前は鶴彦と言ったな」

「そうそう、たしかそういう名前で、変わった名前だと思った記憶があります。しかしよくそんなこと知っていますね」

「じつは私も地元の出身で、大学生の母親とは中学校の同級生だった。瞑想とかいうチンケな商売をしているので、私も何か協力したいと、毎年寄付をしに来ているわけだよ。もっとも、私の場合はインターネットで仕事をしているので、一日中休んでいるわけではないよ。今流行りのノマドというやつだね。話はこれくらいにして、さあ食べよう」

 鍵野井は、この人なら洞窟の大麻草のことを詳しく知っているように思ったが、たずねることは控えた。藪蛇につながるおそれがあるからだ。立ち入り禁止のところを侵入したわけだから。

 それにしても地底湖で行方不明となった大学生の母親が、この瞑想道場の女将であったとは、ただ驚くばかりである。しかし、それならばいっそう大学生は生き延びている可能性が高い。

 おそらく兜川は知っていたのだ。行方不明の大学生が隣の娘の子供であることを。だから、どこかで生きている、と発言したのだ。

 だが生きていたのなら、なぜ隠れる必要があるのか。犯罪者でもあるまいし。



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