第2話
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兜川という表札がかかった門構えの立派な屋敷。
周りはブドウのビニールハウスが点在し、大変のどかな雰囲気が漂っていた。要するにど田舎ということ。
今回の依頼人は、この屋敷の当主である兜川剛造。口ひげを生やした中肉中背の五十代の男で、石灰石を採掘する会社を経営している。地元では大変顔が利き、地域の世話役でもあった。
兜川は、鍵野井を見て、ちょっと眉をひそめた。それは鍵野井が、神主というイメージからして若過ぎたからだろう。しかし兜川は、すぐに笑みを浮かべて、「あなたが出張お祓いの神主さんかね?」ときいた。
鍵野井は、まだこのとき神主の格好をしていなかった。お祓いをする場所を決めた後で、台やその他の道具を自分で運ぶ必要があったのだ。
鍵野井に助手はいない。生活の足しにと思って始めた出張お祓いである。助手を雇う余裕がないのだ。ただ巫女は必要があれば同伴する。今回はその必要がなかった。そして、いつも巫女役となるのは、自分の妹であった。
「はいそうです」と鍵野井は快活に答えた。「いつでもどこでも、お祓いの御用承りますの、私が○○神社の神主・鍵野井でございます」
「なかなか元気があっていいね。で、今日、あなたをお呼びしたのは他でもない。電話で話したとおり、最近、うちにある井戸の中から人の声や笑い声が聞こえてくるのだよ、気味が悪くてね」
「最近ですか、ではさっそくその井戸を拝見いたしましょう」
「うん。中庭にあるから、案内しよう」
兜川は、玄関の脇を抜けて、中庭に入った。中央に石を組んだ古めかしい井戸がある。
「これなんだがね」兜川は井戸を指さして言った。「毎晩のようにこの中から人の声が聞こえてくるのだよ。昨夜もそうだった」
「しかし、井戸の中は水がたまっているのではないですか?」
「昔はそうだった。というか一年半前までは雨が降ると井戸の縁から水が溢れ出るくらいだった。しかし、一年半前にあなたもご存じでしょうが、この地域をかなり大きな地震が襲った。それ以降、徐々に水が減っていって、今じゃあコップ一杯もすくえなくなったよ。たぶん地震によって、地盤が裂け、あるいは水の通り道が寸断されたのだろう。そういうことはこの辺ではよくあるのだ。というのも、ここはカルスト台地で、つまり石灰岩の地質だから地盤が弱い。ご存じでしょう。石灰岩は雨によって浸食されることを。だから朝起きてみたら、畑の一部がぽかんと穴が開いていたということは、この辺では日常茶飯事なのだよ」
「それは危険ですね」
「ああ危険だよ。この家もいつ傾くか分かったものじゃあない」
「しかし、立派なお屋敷じゃあないですか──」
「昔は庄屋で、役場のようなこともしておった。今は壊して無いのだが、この屋敷に蔵があって、刑事事件を起こした者は、その蔵の中にとじこめたりもしたそうだ。警察が来るまでね。もちろんそこで死んだ者はいないのだが、恨みを持った者はいるかもしれん。じつはこの家は三十年前に新しく建て替えたもので、水道もそのとき設備した。それ以降、この井戸は植物への水やり程度にしか使用しなかった。だから、空井戸になっても、さして困ることはないのだが、人の声がするようでは放っておくわけにはいかない。最初警察に頼もうかと思ったのだが、亡霊の仕業かもしれないし、事件性もないので、まずはお祓いをして、様子を見ようと、あなたをお呼びした次第だよ」
「なるほど。警察は事件が起きないと動きませんし、近所の目もありますからね。私を呼んだのは、大変賢明と言えます。なぜなら、私は探偵が趣味でして、もしもお祓いで効果がなければ、私はその謎を解くために毎日通いましょう。いえ、料金はいただきません。最初のお祓いだけで十分です。探偵は趣味ですから」
兜川の顔が、にわかにほころんだ。こいつは意外と頼りになるかも、と判断したようだ。
「先生よろしくお願いします」急に態度が変わった。
「とりあえずお祓いのための準備をしましょう」
鍵野井はワゴン車から、お祓い道具一式を中庭の井戸の前に運んだ。そうして、台の上に米・酒・塩・榊と手慣れた手つきで祭壇を整えた。
再び鍵野井はワゴン車に戻った。今度は神主の姿に変身するためだ。
鍵野井は神主の正装である狩衣を身に着けた。頭に烏帽子をかぶり、浅沓をはいた。
身長百八十センチの堂々たる体格で、手に幣を持って中庭に向かった。その姿を、兜川はまぶしいような目で眺めた。
この兜川には子供がいなかった。三十代で結婚はしたが、すぐに別れた。それ以降ずっと一人である。
親から受け継いだ格式のある家屋敷と石灰岩の山、その採掘権で、この地方では一目置かれる存在であった。人望も厚く地元の信頼を一身に受けていた。といって、さほど品行方正ではなく、女癖が悪かった。離婚もそれが原因の一つだった。
家事は近所のおばさんが数人で、料理・洗濯・掃除をパートで受け持っていた。
さて、お祓いの結果だが、まったく効果はなかった。ということを、鍵野井の方から電話して聞いたのだ。
で鍵野井は約束通り、毎日兜川邸へ通うことになった。もっとも鍵野井は、お祓いをする前から井戸の声は怪奇現象なんかではないと推測していた。隣地が鍾乳洞のある瞑想道場であることで、おそらくその道場に参加している者の声が、空洞を伝って空井戸から聞こえて来たのだと。
つまりこの瞑想道場を調べれば何か分かるはずだ。しかしこの瞑想道場は、余所者が簡単に見学できない仕組みとなっていた。一週間以上の滞在者のみ洞窟の中に入ることが許されていたからだ。
鍵野井は、そのことを兜川に伝えた。
兜川は、うなずいて、
「なるほど。たしかにそういう推理は成り立つね。ここら辺の地下は、縦横無尽に空洞がある。隣との距離は百メートルあって、塀で仕切りをしているが、地下ならその塀は関係ない。彼らがこちらの方に入り込んでいても、まったく分からない。あり得ることだ」
「ところで」と鍵野井は、ちょっと気になっていたことを言った。「この北側の山には有名な鍾乳洞がありますね。数年前に事件が起きて有名になった鍾乳洞です。大学の探検部がその鍾乳洞に入り、最深部の地底湖で一人行方不明になったという」
「ああ、あの事件かね。連日大騒ぎで、大変だったよ。マスコミが大勢押し寄せて来た。鍾乳洞の入り口から、一キロ半だったね、最深部の地底湖が」
「そうですか。詳しくは知りませんが──」
「図を見ると、ちょうどこの家の真下辺りだったので私は驚いたものだよ」
「へえーそうですか」と鍵野井も驚いた。
鍵野井は、地底湖は山の中にあると思っていた。しかし一キロ半を歩いて進むならば、それは比較的緩やかな傾斜でなければならず、であれば平地の地下にあっても何も問題はない。
兜川は言った。
「何日も県警が捜索したが大学生は発見されなかった。それで私は思ったのだ。行方不明になった大学生は地底湖から別の場所に移動したのだと。だいたい地底湖というのは、雨水が濾過されてたまるわけだから透明度が高い。それで見つからないとなれば、別の場所に移動したとしか考えられないのだ。流されたといった方がいいかもしれない。ニュースでは、その大学生は一年前にもその地底湖で泳いだと言うから、泳ぎは得意だったはずだ。地底湖の向こう側の壁をタッチするという恒例のゲームだったようだが、血気盛んな大学生らしいよね。しかし二度目はだめだった。そこで私は考えたのだ。大学生は正月にこの鍾乳洞に入ったが、その前年には二つも大きな台風がこの地方を襲ったのだ。ものすごい量の雨を降らせた。地底湖もその影響を受けて増水していたに違いないのだ。そのため以前は無かった壁の隙間に水が流れ込んで、そこから大学生は吸い込まれたのではないかと」
「素晴らしい推理ですね」
「そして私の考えでは、大学生は、今もどこかで生きている」
「それはまたすごい考察ですね」
「さっきも言ったが、大学生が行方不明になった地底湖はこの家の真下辺りだから、周りは空洞だらけなのよ。その空洞に運よくたどり着けば、地上に出られる可能性があるってわけだ。隣の家は、鍾乳洞で瞑想という怪しげな商売をやっているが、あの家の下がかなり広い空洞になっている。ちょっと変わった家族で、近所付き合いもないのだが、私は子供の頃にそこの息子と親しくて、何度かその鍾乳洞に入ったことがある。まるで迷路のような感じだったね。アリの巣と言ってもいい。だからそこに大学生が運よく流れ込んでいたら」
「そうですね。しかし、もし発見されていれば、ニュースになっていたでしょうから、やはり大学生はどこかに引っかかっているのでしょう」
「うむ。しかし隣の人間のすることだ。見つけたからと言って、公表するかどうか分からないぞ。秘密主義の連中だから。その証拠に見学を許さない。で先生は隣の鍾乳洞に入りたいということですな」
「はい。それができなければ、この井戸を掘って調べたいのですが──」
兜川は笑った。
「底まで七メートルほどあって、そんな長い梯子はうちにはないよ」
「私は十メートルの縄梯子を持っていますから、持ってきて井戸の中を調べてもいいですよ」
「いや、そんな危険なことはやめてください。それより今夜はここに泊まって、井戸の中から聞こえてくる人の声を聞いてもらいたいのだが」
「そうですね。それがいいでしょう。実際に声を聞いて、それが男か女か、あるいは若いか年寄か確認する必要があります。何人もの声が同時にすれば、間違いなく隣の行者たちでしょうから」
「では夜になる前に、近くの町に出て私と一緒に食事をとりましょう、もちろん私のおごりで」
「ではご一緒しましょう」
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