『カレーライス前章』(KAC20248お題『めがね』)

石束

花が瀬村異世界だより2024 その8(KAC20248)

 千波まひろは、大きな窓のあるリビングの、柔らかいソファに座っていた。

 部屋には午後の、穏やかな日差しが差し込んでいる。

 手元には、革張りの大きな本。ローテーブルには、今や貴重品となったB5判のB罫線ルーズリーフと、愛用の青いステッドラーの製図用2Bペンシル。


 装い自体はほとんど変わらない。ロングスカートとブラウスに、いつも羽織っているオーバーサイズのカーディガンが、桜色ではなく若草色であるくらい。あとは長い黒髪を編んで肩から前へ垂らしているのと、今日に限っては、古びた黒い縁の眼鏡をかけている。


 メタルフレームではない。かといってセルフレームかといえば、やや質感が違っているようにも見えた。色自体も一言で黒とはいいがたい。限りなく黒檀の原木に近い、艶のない重厚な黒色が見る角度によっては緑色にも見えもする。まるで、光を跳ね返すのではなく吸い込むような色だ。

 そしてレンズ。透明なそれはガラスともプラスチックとも違う非常に薄い材質で出来ている。だが不思議なことにフレームのどこを見ても、一筋の溝も一本のネジもなく、一体どうやって取り付けられているのか、わからない。まるでフレームと同じ素材で作られ、その部分だけ後で透明にしたかのようですらある。また、透かし見ても風景に屈曲はなく、度は入っていないのだとわかるのだが、ただ、時折、太陽の光や室内灯とは関係なく、虹色の光が全体を覆っているように見えた。

 事実、まひろは目は良く、その視力は矯正を必要としない。この眼鏡を装着するこでもたらされる『効果』は、別のところにある。


「プリス・アル・アレ・デバフドーベル・ベレン……」


 彼女の唇から時折もれる、不思議な音色。それは地球上のいかなる言語とも異なっていた。その言葉を幾度も繰り返し、自らの耳で聞き、場合によってはスマートフォンで録音して聞き直し、ハーディスク内のファイルに整理し、かつ、自らの手でルーズリーフに書き留めていく。


 そんな風に作業に没頭していた彼女であったが、インターフォンの涼やかな音色が室内に流れたのをきっかけに手を止め、テーブルの上のリモコンでロックを解除する。

 ドアの開く音、玄関ホールでの物音が続き、すぐに部屋のドアがノックされる。

「どうぞ」と、彼女がいうやいなや、引き戸が動いて――


「ただいまー まひろ先生! 次の本、持ってきたよ!」


 花が瀬村の少年、健太が、リュックサックを抱えて部屋に入ってきた。

 まひろは「ありがとう。おつかれさま。――おかえりなさい。」と少年を労ってから、続いて部屋に入ってきた八重樫キサラと視線を合わせ「お茶にしましょうか」と、ほほ笑んだ。


  ………

 何の因果か異世界に転移してしまった人々がいた。

 特に理由もなく、召喚されたものでもなく、勇者でも魔王でもない。死んでいないので帰りたいのだが、帰還方法のアテもない。彼らは自分たちの生活を成り立たせ、帰還方法を探すためにささやかでゆるやかなコミュニティを作り、助け合って生きることにした。

 

 すべてが手探りのままの異世界生活の中で、逼塞状態にあった花が瀬村の現状を打破するための、幽かな可能性。

 それがトンネルの向こうにある異世界人住宅と、そこにあった図書。

 そして、一本の、不思議なメガネだった。


(このメガネの由来は

『アピキウス』望郷の異世界レシピ05【KAC2021 お題『スマホ』】

https://kakuyomu.jp/works/16816452218980250827/episodes/16816452218991459509

にて、初出)


 


 

 

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『カレーライス前章』(KAC20248お題『めがね』) 石束 @ishizuka-yugo

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