めがねが壊れた日のはなし

蒼月 紗紅

私と眼鏡

 ――めがねが壊れた。


 人生で三本目の眼鏡だった。一番長くかけていたものだった。学生の頃からずっと使っていたからおおよそ十年弱の付き合いだろう。よく眼鏡は体の一部だと言うけどもこれはなんというか、例えるならば腐れ縁のようなものだろうか。


 しかし先ほど寝返りを打った際に体で踏んづけてしまったみたいだった。その痛みで中途半端に目が覚めてしまった。それにしてもなんて呆気ない最期なのだろう。



 ……さてどうしようか。生憎、私はコンタクトとかいう洒落たものは持っていない。それに眼鏡を買いに行こうにも視力が悪すぎて何も見えないからこのまま街を歩くのは怖い。すぐに頼れるような友人や身内もいない。


 かといって明日の仕事を休む訳にもいかない。書類の山がたんまりと残っているのだ。例え身内の不幸だろうがなんだろうが休みでもすれば上から叱責されるのは目に見えている。


 ――どうやら私は上司らからあまり好かれていないらしく、大量の仕事を押し付けては要領が悪いだの物覚えが悪いだの陰気臭いだの……。前二つは百万歩譲ってこちらに非があるとして、最後に関しては普通に言いがかりな気もするが。というか立場を利用して私の容姿に口を出すとは、事実だとしてもこれ立派なハラスメントではなかろうか?


 あぁそうだ、陰気臭いで思い出した。学生の頃もそうだった。クラスではいじめられたりなどはされなかったものの完全に空気というか、そんな立ち位置で。打ち上げなどに呼ばれたことは勿論無く、成人式の後の同窓会では誰も名前を覚えてなかったけな。なんか『眼鏡の人』って程度の認識だった気がする。きっと会社内でもそういう風に捉えられているのだろう。いや絶対にそうだ。



 私はいつだって精一杯生きてきたつもりだ。人を傷付けるようなことなどしたこと無い。なるだけ真面目に、一所懸命にやってきた。……本当は誰かに認められたいなんて欲もあった。でも選ばれるのはいつだって『あちら側』の人だった。果たして、これをかつての幼い私に大人の像として堂々と見せられるだろうか。否……。

 ――ただ、社会のおめがねにかなわなかっただけの話。よくある、それだけのことだ。



 ……いかん、夜は一度でもどす黒い感情が溢れ出すと止まらなくなる。このままじゃ寝るに寝れない。煙草でも吸うか。


 私は散乱したゴミの中をかき分けながら、おもむろに煙草の箱を探した。見えないけど確かこの辺に……。あぁ、あった。でも中身が無い。切らしてたんだった。どうしよう。


 ここからコンビニまではだいたい徒歩五分。時刻は深夜、車通りはほぼ無い。……仕方ない、行くか。



 申し訳程度の上着を羽織り、ポケットに小銭を詰め込んで家を出た。アパートの階段を手すりを伝いながら慎重に降りる。車の音すら聞こえない道路はまるでこの世界に生きている人間が私一人になったのではないかと錯覚させる。

 もうすぐ春だがこの時間はやはりまだ寒い。脇に植えられた微かな花の匂いが夜の冷たい空気に混ざって鼻を突く。




 私はふと、足元から目線を上げて前を見た。――ぼやけた視界に揺れる数多の街灯が、まるで星のようで。……綺麗だった。


 いつも終電に乗って帰ってくるときに見る、大嫌いなあの景色と同じもののはずなのに。今の私には全くの別物に思えた。カメラを通してすら見えない私だけの世界。――ただ、ずっと見ていたかった。


 思えば、目を悪くしてから風呂や寝るとき以外で眼鏡を外したことなどほとんど無かった。ましてや家の外で外したことなんて一度も無い。二十年近く、レンズ越しの世界しか見てなかったのだ。



 ……ずっと、見えないことが怖いと思っていた。物も人も、道標もなにもかも、分からなくなってしまうような気がしていたから。見失ってしまえば、誰も手を引いてくれないと思っていたから。


 でも案外、ぼやけたままで立ち止まるのも悪くないのかもしれない。そういうことも、人生において必要なのかもしれない。そしてまた歩きたくなったら、そのときがきたら好きなように歩き始めたらいいのではないだろうか。なんて。




 ……、あぁそうだった。見とれていて忘れてたが私は煙草を買いに来たんだった。それにこのまま突っ立っていたら風邪をひいてしまう。早く帰って暖を取


「うわっ、ととと、あだっ!」


 ――小さな段差に気付かず盛大にすっ転んでしまった。あぁなんて恥ずかしい。誰もいなくて良かった。スウェットの上からでも膝を擦りむいているのが分かる。……あまりの痛みで完全に目が醒めた。



「あー、」


「転職しよう」

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めがねが壊れた日のはなし 蒼月 紗紅 @Lunaleum39

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