眼鏡をかけて、彼女を崩す

朱緑樹

俺は卒業することにした。

 俺は眼鏡をかけた。

 はっきりと見える。彼女の目尻に刻まれた皺、授乳で垂れた乳房、ショーツのウエストラインに乗った腹のぜい肉。なぜかいつも彼女が好んで履くショーツはTバックだ。尻もたるんでいる。

 いつもはずす眼鏡を今日はあえてかけている。彼女から卒業するためだ。それには俺の中に強固に築かれた彼女の像を崩さなければならない。

 そんな俺に彼女は尋ねる。

「ほんとうに行くの」

 俺は眼鏡をかけたまま答えた。

「うん」

「来月だっけ」

「引っ越しは今月末だよ」

「もう戻らない?」

「戻らない」

 ここは俺のアパートだ。いつも会う時はここだった。

 眼鏡のおかげで彼女の顔や体がよりはっきり見える。

 彼女がブラジャーを拾った。

「十年経つんだっけ」

 俺も、着ていると暖かくなるインナーを着る。

「そんなになるんだ」

「そうだよ。来月の十日でちょうど十年」

 初めて彼女と話したのは、職場の歓送迎会だった。新入社員の俺に気さくに話しかけてくれたのが彼女だった。

 それからもすれ違うたびに挨拶してくれたり、体調を尋ねてくれた。

 ある夏の日、退勤時間がたまたまかぶった。

 彼女はいつも定時の午後5時ジャストで荷物をつかんでダッシュで「お疲れ様でーす」と走り出る。

 そんな彼女に「お疲れ様です」と俺も頭をちょこっと下げ、そのまま車に乗り込むつもりだった。うちの県はバスや電車が一時間に一本から、多くても三本。だから自家用車は一家に一台ではなくて、一人一台。

 見てしまったのだ。彼女の車の後部座席に取りつけられたチャイルドシートを。

 走り去る彼女の車のリアウインドウに貼られた「BABY IN CAR」のステッカーを。

 それなのに彼女と俺はよく話した。連絡先を交換し、二人で暇を見つけて遊ぶようになった。

 俺も彼女もなぜか疑われることなく十年が過ぎた。

 彼女の子供はもう小学校を卒業する。

 だから俺も卒業することにしたんだ。

 俺は何百キロも離れた支店に異動する。

 もう、彼女とは会わない。

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眼鏡をかけて、彼女を崩す 朱緑樹 @zhulushu0318

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