桜は咲いたが実は生らない話

猫煮

二月第一週

 学園の一室、文芸部の部室として使われているこの部屋の奥まった席。その机に座った少女の指先が、その椅子に座った少年の鼻筋にツンと触れた。


 シトラスの香りが少女のウェーブがかった茶髪からほのかに漂う。肩口に切り揃えられた髪が揺れるたびに強く香るその匂いに、少年の心臓は早鐘を打つ。


 夏の空を思い起こさせる香りと窓の外に咲く梅の香りが奇妙な連続性を持って、わずかな寂しさを少年にもたらした。


 少女の指の腹に抑えられた眼鏡、そのレンズ越しに少年と少女の瞳が見つめ合う。


 どちらから言葉をかけるわけでもなく、視線を絡ませたまま五秒、十秒。


「なんですか、先輩」


 焦れた少年が口を開くと、少女は指をパッと離しニヘラと笑った。


「や、メガネずれてたからさ」


「口で言えば済むことでしょう」


 少年は胡乱げな眼で少女を見つめるが、対する少女はどこ吹く風である。


「だって君、本に夢中だったし?邪魔するのもアレかなーって」


 少女は机から飛び降りると、細く描かれた眉をへにょりとまげて笑う。


 飛び降りた拍子に、少女の腰に巻かれたカーディガンが少年の腕を優しく撫でた。それをくすぐったがってか、少年の肌に淡く鳥肌が立つ。


 その鳥肌を自覚してかしないでか、少年は眉をひそめた。


「触った方が億倍も邪魔になるとは思わなかったんですか」


「億倍て、ウケるわ」


 話を逸らす少女にため息を吐くと、少年は手に持った文庫本に栞を挟んで閉じる。


「先輩もいい加減卒業なんですから、もう少し落ち着いてくださいよ」


「そーよ、私ももう卒業なんだから、君ももう少し活発にならないと」


 一つ前の椅子に逆さに座る少女と少年がにらみ合う。


 無言のまま、五秒、十秒。


「カボチャ頭」


 少年がぼそっと呟く。


「タコ頭」


 目を細めた少女がささやく。


「ウスバカゲロウ」


 少年の眉間に皺が寄る。


「雄鶏」


 少女のコメカミに青筋が浮かぶ。


 そのままボソボソと小声の短剣で刺し合う二人。険悪な空気の中に、どこか楽しげな雰囲気も漂う。常頃からこうして言い合っていたのだろうか。単語の応酬は途切れることなく、拍子だけ聞けばしりとりのようで。


「ハンプティ・ダンプティ」


 少年のその言葉がしりとりの「ん」になったのだろうか。部屋の中にしばらく沈黙が訪れる。


 気まずげに目をそらす少女と彼女を見つめる少年。無言の催促に負けたのか、少女は小さく唸ると背もたれに乗せていた顎を上げて頭を垂れた。


「精進します」


 少女のその言葉に満足したのか、少年は再び本を開いた。


 そこに伸びてくる少女の指。


 少年が背を反らせながら顔を上げると、身を乗り出す少女の悪戯な笑みと顔が合う。


 セーラ服のたるんだ襟元を努めて見ないようにしながら、少年は表情をなくしてみせた。


「精進の意味はご存知で?」


「寺に入る?」


「そうでもありますけどねぇ」


 少年の呆れ声にカラカラと笑いながら、少女は元の位置に戻る。スッと柑橘の香りが一時強くなり、少年の頬をなでた。


「まあ、私の進学先はミッション系だし?寺なのかというとちょっと微妙なラインだけどね」


「先輩が今更信仰に目覚めるとは僕も思っていませんよ」


「私も君がいきなり活発になったらクソウケると思う」


 少年は鼻に残った爽やかな香りを吐き出すように小さく鼻を鳴らすと、開いたままだった文庫に目を落とす。


 しばらくは少年がページを捲る音と、それを見つめる少女の小さな鼻歌だけが秘めやかな会話を続けていたが、文庫に落ちる少女の手の影がその密談を断ち切った。


「先輩?」


 責めるような口ぶりの少年に、その鼻先へと伸ばしかけた手を宙に彷徨わせた少女はごまかすように笑って見せる。


 しばらく腕を彷徨わせていたが、やがて手を平らにすると、指先の高さを少年の鼻から頭頂まで上げ、苦し紛れにのたまう。


「撫でたげようか」


「不要です」


 そっかと曖昧な笑みを浮かべた少女はすごすごと元の体勢に戻った。


 しばらく警戒して彼女の様子を伺っていた少年だったが、微笑みを浮かべて見つめる少女に気恥ずかしくなったのか、手元へと視線を戻す。


 しばらくは文字の上を目が滑っていたが、ふと気を止めると、少女が椅子の下で靴を宙にふらつかせているのが少年のメガネの端に映っていた。その生白い脚に、知らず意識が吸われては文章に引き戻す少年。と、またも伸びてくる影。


「見えてますよ」


 文庫から目を離さず少年のその声に、影は小さく震えると主の下へと逃げ帰る。


「エッチ」


「は?」


 少女の笑いをこらえた恥じらい声に、思わず少年の顔が上がる。


「私の下着気になってたんだ」


「そっちじゃねーし!……てか見えてないじゃん!」


 少年は思わず彼女のスカートを確認するが、変わりなく務めを果たしているその衣。思わず顔を赤くして怒る少年に腹を抱えて笑う少女。


「パンツとは言ってないんだけどね」


 笑い転げながら目に涙を浮かべてからかう少女に、深く息を吸って落ち着く少年。


 少年の胸いっぱいにシトラスの香りが詰め込まれる。


 思わず酔いそうなほどに強いその香りを長い息で吐き出すと、少年は文庫を完全に閉じ、机の上に置いた。


「大体、さっきから何ですか?メガネばっかり狙って」


 気を落ち着けた少年に、まだ笑いが収まらない少女は涙を拭いながら弁解し始めた。


「ほら、そのメガネさ。選ぶとき私もついて行ったから。サイズとか合ってないんじゃないかなと思うとつい」


「良いんですよ、どうせ伊達なんですから。そっちじゃなくて、今日はやけに構うじゃないですか」


 その問いに少女は少しの寂しさをおもてに混ぜる。


「こんなことできるのもあと少しだし。そう思うとつい、ね」


「先輩……」


 言葉を探す少年。先程は聞こえなかった無音時計が立てるかすかな歯車の音が、窓の外から漏れ聞こえる喧騒と共に少女の耳を打った。


 こころなしかうつむいた少女が目を伏せていると、言葉が決まったのか少年が口を開く。


「正直に言えば迷惑です」


「んもー」


 どっと気が抜けた様子の少女を蔑むような目で見る少年。


 少女が干されたユウガオの実のように上体を椅子の背にしなだれかからせると、年相応の胸がわずかに潰れ服の上からでも形が露わになる。


 思わず目が行く少年だったが少女はそれに気が付かないようで、仕方がないと自分を弁護する言葉を呟いている。


 そんな彼女に指摘するべきか。少年は迷っていたが、先程の二の舞いになるのもごめんだと二の足を踏む。


 そんな光景が、五秒、十秒。


「頼みますから、もう少し慎みを持ってください。僕は先輩の将来が心配ですよ」


 目線を意識して少女の顔に固定しながら少年が言うと、少女は自己弁護をやめ椅子の背に顎を乗せた。


「将来ならちゃんと考えてるのよ。それより、将来なら君の方が心配だね、私は。新入生獲得の見込みはあんの?」


「それは入れてみないとなんとも。まあ、最悪の場合の伝手もあるので大丈夫ですよ」


「頼むよ?私が抜けた代で廃部なんて、 OB会に何を言われるか」


 おお怖い。と、わざとらしく腕を擦る少女。それに少年は苦笑する。


「それは僕も一緒ですって」


「いいや、私には解る。後進を育成できなかったお前の責任だと私が特に責められるね」


「そんなことありませんって」


「間違いない。私ならそうするもの」


 その言葉に、鳩が豆を詰まらせたような顔で少女を見る少年。


 その味のある顔に気も止めず、意気揚々と持論を展開する少女。


 無視をして本に戻ろうかと文庫に目をやる少年だったが、すっかり気勢を削がれてしまったことに気がついた。嘆息すると、眼鏡を外してたたみ、文庫の上に置く。


 もはや演説の体をなしてきた少女と、聞き役に徹する少年。やがて、少女がご清聴ありがとうございましたと頭を下げる頃には時計の長針が六分の一周進んでいた。


「というわけだ。そう思うっしょ?」


「解らないということだけは解りました」


「辛辣だ」


 少女はおどけた笑みを浮かべながら少年の頬をつく。鼻元に置かれた少女の手からは、シトラスの香りに混じってほのかに彼女の汗も嗅ぎ取れた。


 それらの香りは少年の心臓を跳ねさせたが、少年は顔に力を入れて平静を装うと、手の甲で少女の腕を押し退ける。


「だから慎みが必要なんですよ。こういうことを誰にでもして」


 少年の言葉に少女がなにか言い返そうとしたその時、部屋の扉を叩く音が聞こえた。


 音の主に少年が入るように促すと、長い黒髪を背でまとめた少女が顔をのぞかせる。


 制服をきっちりと着こなしたその少女は、少年を認めると顔をほころばせた。


「ごめんなさい、お待たせしました」


 柔らかな金木犀の香りを纏ったその少女は折り目正しく少年に頭を下げると、部屋に一歩踏み入れる。部屋に漂っていた柑橘の香りはその甘い香りと混じり、なにか艶やかな色すら感じられた。


「ん、おひさ」


 シトラスの少女が黒髪の彼女に小さく頭を下げると、金木犀の少女も茶髪の彼女に小さく礼をする。


「ああ、会議は終わったの」


「はい。つつがなく」


 荷物をまとめながら問いかける少年に、香りと同じく柔らかな笑みを浮かべて見せる金木犀の少女。言外にも通じ合うような、言葉以上に視線で互いを愛おしむその姿は恋人のそれだった。


 そんな二人の様子を笑顔のまま眺めるシトラスの少女。黒髪の少女と言葉を交わしながらも片付けの手を止めない少年とは裏腹に、スカートのポケットに手を入れたまま、無言で微動だにせず彼らの様子を見つめている。


 やがて、少年はメガネを掛け、文庫本を鞄にしまうと席を立った。


「では先輩。お先に失礼します」


「はい、おつかれ」


 その言葉に見送られて、少年と金木犀の少女は扉の向こうへと姿を消す。


 横に並んで消えたその二人の姿が、廊下から聞こえる二つの足音と共に離れていく。何の話題かは聞き取れないが、遠ざかっていく楽しそうな話し声を部屋に残された少女は笑顔を消した無表情で聞いていた。


 やがて、彼らの気配も感じ取れなくなると、ポケットに入れたままの手を抜き取る少女。その手に握られたケースを開けば、少年のメガネと同じ意匠の小ぶりな眼鏡が収まっていた。


 それを彼のいた席に置いてみて、じっと眺める少女。


 眼鏡のレンズには、控えめながらも顔色の目まぐるしく変わっていた黒髪の少女とは対象的な、表情のないことに慣れきった無愛想な茶髪の少女が映り込んでいる。


「誰にでも、ってわけでもないんだけどね」


 顎を椅子の背に乗せた少女は無表情のまま、メガネのブリッジをつつきながら呟く。


 部屋の中には金木犀の香りが尚も残っていた。

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