最終話「笑い話」

 真っ暗だ。そう感じた角山は、ゆっくりと目を開いた。慣れた座り心地の椅子に、白が基調とされた清潔感と落ち着きのある室内。角山は第二診察室にいた。もちろん、さっきまでの記憶はある状態だ。最後の方は少しあやふやだが。時刻は午後六時過ぎ。角山は仕事が終わり、疲れて寝ていたのだろうかと思った。しかし、夢にしては長く、明瞭な感覚と記憶がある。スマホを取り出し、カレンダーを確認すると、今日はあの懐古恐怖症に噛みついた日と同じ日だった。初めて錯乱したあの日だ。角山は困惑した。今の自分の感情さえ説明できない。そんな時だった。

 コンとノックの音が聞こえると、その直後、連絡通路側の扉が開かれた。角山が立ち上がって振り返ると、そこから現れたのは、

「センセ!」

 黄髪碧眼、元気一杯の千崎だった。抱き合わんばかりの勢いで突進してきた千崎を角山は受け止めきれず、背後の壁に背を打ちつけた。

「ぅぐっ」

「ワッ! スミマセッ」

 慌てて離れた千崎に角山は咳き込みながら、大丈夫だと告げる。千崎の様子から見るに、角山がここで目を覚ます前までの経験の記憶が、千崎にもあるようだ。何から話そうか。そう、角山が思った瞬間、またノックの音が聞こえた。今度は出入り口側からだ。

「センセイ……」

「お、千崎サンもう来てたんすね」

 やってきたのは、胃炭と峽だった。胃炭は赤い眼鏡をかけている。ここへ来たということは、二人にも今までの記憶があるのだろう。ひとまず再会を喜ぶ角山たちだったが、胃炭はなぜだか気を落としている。

「あの、センセイ、数々のご無礼を何とお詫びすれば良いのか……」

 それは、罪悪感からだったようだ。反省しきりで控えめな胃炭に、角山はどこか懐かしさを感じていた。気にしなくていい。そう、角山が言おうとした途端、胃炭は角山の隣に回り込み、千崎との間に割り込んだ。

「ですがもう、昔のわたくしには戻れませんわ。ごめんなさいっ」

 そう言って角山の腕に抱きつく胃炭に、角山は言葉を飲み込んだ。

「昔のって、初めっから胃炭サンは……あれ、もうちょい大人しかったような気もしますね」

「奇遇ですね。僕もです」

 千崎もうんうんと頷いている。この場にいる全員が、胃炭が慎ましい性格だったような気がしているのだ。

「きっと、あの世界がわたくし達をおかしくさせていたのだと思いますわ」

 胃炭は元の自分を思い出し、あの世界ではなかった眼鏡もかけている。これは、元の世界に戻れたと思えるような変化だ。角山は胃炭をどうにか引き離そうとしながら言った。

「おそらく、僕たちもあの世界ではどこかおかしかったのでしょうね」

 峽は苦笑する。

「思い出すの、やめときましょ」

「俺はいつでもハッピーです!」

 千崎の変わらなさに、角山は安心したように笑った。

 その後、ネットや待合室のテレビで咲ヶ原市の外の情報が見られること、患者のカルテの内容がまともなものに戻っていること、窓岐院長が元気なことを確認した角山たちは、今日はひとまず解散することにした。余韻に浸りたい気持ちもあるが、精神的な疲れもあり、ゆっくり休むことを優先したのだ。それに、角山は綾子にお礼を言いに行きたいと思っていた。別れを告げて、手を振り合って帰路につく。角山は気づけば早足で道を進んでいた。

 記憶を頼りに教会の場所へ向かう。しかし、近くまで来てもそれらしい建物は見当たらない。角山は焦る気持ちを抑えながら進む。そして、教会のあった場所を目の前にした角山は、呆然として立ち尽くした。そこには何もなかった。何もない砂地の空間が広がっている。ただ、不自然なことに、その空間の中央にベンチが一基、奥側を向いて置かれていた。角山はそのベンチに近づく。背もたれ側から回り込んで正面を見ると、座面に何やら小さな紙が、真っ黒なマスキングテープで貼り付けてあった。何かのヒントであって欲しい。そう思いながら、角山はそれを剥がし取って裏面を見たが白紙だ。表も裏も何も書いていない。白紙のメモ用紙。そこで角山は思い出した。これは、あの約束の証と同じだと。つまりこれは、綾子からの「いつか顔を合わせて会うこと」の意思表示なのだ。また会える。それがいつのことになるかは分からないが、角山はこれだけでも十分前を向くことができた。

「気は済んだか」

 聞き覚えのある不愉快な声に、角山は強張った表情で振り向く。そこには、岸島がいた。口論をするつもりで言葉を発しようとする角山を、岸島は「まあまあ」と言いながら宥めた。冷静になりきれない角山だが、岸島があの世界にいた時と比べて、穏やかな、と言うより、少し気の抜けた表情をしていることに気づいた。

「私は種明かしをしに来たんだ」

 声からも疲れを感じる。角山は大人しく話を聞くことにした。

「ここは元の世界だ。おめでとう、お前の正気とは思えん願い事のおかげで、みんなハッピーエンドというわけだな」

 岸島はやる気のない、重たい拍手を角山に送った。

「あの世界はいったい何だったんですか」

「平行世界だ。私の願いによって生まれたパラレルワールドと言ったところか」

「貴方も例の女神に願いを叶えてもらっていたんですね」

 角山の発言が可笑しかったのか、岸島はくくくと笑い声をもらした。

「あんなもの、女神ではない。魔女だ」

「魔女?」

「ああ、あれは願いを叶え、代償を奪う悪い魔女だ」

 続けて岸島は、平行世界では存在を奪われ、魔女に利用される立場に陥っていたと話した。主だってあの世界を管理し、操っていたのは他ならぬ魔女だと。

「しかもだな、あいつは私の精神状態まで操っていた。だから、私はあいつに文句の一つでも言ってやるどころか、その不満さえ抱けなくなっていたわけだな。ああ、思い出すだけで心が苦しい」

 芝居がかったような身振りで自身の苦痛をアピールする岸島に、角山は感情のない眼差しを向けていた。

「あまりおつらいようなら、医者に診てもらうと良いですよ。僕は診ませんが」

 岸島は呆れたようにため息をついた。

「お前は、あっちでもこっちでもあまり変わらんな」

「お互い様ではないでしょうか」

 冷淡な態度をとり続ける角山に、岸島は素直に苛立った。この二人の関係が良好になるのは、まだまだ先のようだ。

「まあ、いい。私もこうして魔女から解放されることができたのだし、いつかお前に礼くらいはしてやる。覚えておけ」

 そう言って岸島は、角山に背を向けて去っていく。角山は岸島にもう訊きたいことが一切ないという訳ではなかったが、引き留めてまで彼と話したいとは思わなかった。

 結局、あの平行世界は岸島の願いによって生まれたものではあったが、実権を握っていたのはあの女神こと魔女であった。魔女の目的は何だったのか、分からず終いだが、今の角山はどうでもいいと感じている。最終的に元の世界に戻れて、誰も失わずに済んだのだから。角山はメモ用紙を見つめる。綾子とだって永遠の別れではない。角山はそう信じた。

 メモ用紙をしまおうとして、スマホが振動していることに気づく。角山が手に取ると、零次朗から大量のメッセージが届いている最中であった。無事を知らせる返信をして、角山は思う。あの世界で、自分は遠回りしすぎたと。そして、最後はあっけなかったと。

「全く、とんだ笑い話だ」

 そう言って立ち去る角山の瞳に、一筋の赤紫の光が通った。


          改革という名の笑い話 終

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