第5話 最終回

 まだ日の明るい頃にやって来た新之助がふたたび店に現れて、五郎八夫婦はびっくりしたようだった。

 店はいつもどおりの賑わいを見せ、竈から立ち上る湯気と客たちの熱気でむせかえっている。

 

 五郎八は料理場で包丁を握ったきり、なかは忙しく裏と表を行き来していた。

 そんななかを強引に裏で引き止め、新之助はなかに詰め寄った。


「新田の林で人殺しを見たこと、店の客たちに話したと言っていましたね」

 なかは新之助の勢いに押されるように、後じさりながら頷いた。

「そのあと、それは狸に化かされたんだろうって、そう言われたと聞きましたが」

「ええ、ええ。みんなに言われましたよ。でも、それが」

「誰です? 思い出してください。誰が狸に化かされたんだろうって言い出したんですか」

「誰って――」

 なかは新之助とおちかを交互に見つめた。


「大事なことなんです。よく思い出してください」

 そう新之助が言ったとき、表から客がなかを呼んだ。

 はあいとなかは叫んで、それから新之助に向き直った。

「そんなこと急に言われたって、よく思い出せませんよ。だってずいぶん前だし。それがどうしたっていうんですか」


「又蔵じゃありませんか。そりゃあ、狸の仕業だろうって言い出したのは、又蔵じゃありませんか」

 なかは考えるふうに視線を泳がせ、

「――そういえば、又蔵は新さんが狸を助けたってずいぶん感心していて」

 そしてなかは、はっきりと思い出したのか、うんうんと一人頷いて、

「又蔵ですよ。狸だよって、みんなに言って回ったんです」

 

 やはりそうだったのか。

 

 新之助はひとりごちた。おそらく九分どおり、おしまを殺したのは又蔵だろう。ところが偶然なかが見てしまった。それを知った又蔵は、新之助が狸を助けた話を利用したのだ。

 あのとき新之助に詳しく話したと同じことを、なかは又蔵にも話してみせた。そして顔を見られていないことや、見たというには案外あやふやな描写であることに又蔵は気付いた。


「じゃ、又蔵は人殺しをして、それをわたしが見たことを、狸のせいにしようとしたんですか」

 ええ、ええおそらくと新之助は言いながら、おちかを見た。じゃ、おしまはどこにいる?と、その目が言っている。

 そのとき、きゃあっとなかが叫んで、手から盆を落とした。


「――やっぱり夢じゃなかったんだね。わたしがあの林で見た殺しは」

 落とした盆が、こつんこつんと音を立てながら、なかの足元で回った。

 土間の上で静かになった盆を見つめながら、新之助は言った。

「あの林には、地震で沼ができた。――おそらくおしまさんはあの沼に」

 それまでこらえていたのだろう。絞りだしたような呻きを漏らし、おちかが両手で口を抑えた。

「番屋へ行って、又蔵のことを話しましょう」

 新之助は言うと、おちかの背中をそっと押した。



 番屋で雇われた男たちが腰に荒縄をくくりつけ、沼に入っていった。この界隈を仕切る岡っ引とその手下の采配のもと、探索は明け方から始められた。

 沼のまわりには、見物人が数人集まり作業を見守った。新之助の隣には柴崎とおちか、そして五郎八夫婦もやって来ている。


 出来たばかりの沼といっても、沼は底が知れないと言われるとおり、深さはかなりあるようだった。水に入る男たちのために、焚き火が焚かれ、もうもうと黒い煙が沼を覆った。


 何も出てこないのではないか。そんな諦めが誰の顔に浮んだ頃、いちばん深く水に浸かっていた男が声を上げた。


「仏だ、ここに沈んでやがる」


 ゆっくりと死体が引き上げられた。死体といっても、もうほとんど人間の姿はしていない。沼に住む魚に食べられたのか、骨に布切れがへばりついているだけだ。  

「あの着物の端は……」

 柴崎の呟きと同時に、わっとおちかが叫び声を上げ、その場にしゃがみこんだ。

 女が見るのは酷だ。柴崎が言って、青い顔をした五郎八の女房とおちかの袖を引いた。


 落胆したおちかを連れて、新之助は、五郎八の店へ行った。なにか温かいものでも食べれば、おちかも少しは元気になるかもしれない。

「あんな冷たいところに……」

 おちかはそう言って泣いた。

 先の地震ではたくさんの人が犠牲になった。だが、助かった者もいる。

 もし、又蔵の手にかからなかったら、生き延びていたかもしれないのだ。

 やりきれない思いで、新之助はそっと五郎八の店を出た。


         ☆


 それから、十日あまり。


 新之助は今日も商いに出ている。

 まだ朝ははじまったばかりで、日の光にはどこか初々しいものがある。

 

 今日は暑くなるだろう。

 梅雨が明けて、これからが夏本番である。

 天秤棒にぶら下がった籠には、まだ真桑瓜や茄子があった。松金屋とは別に、町を歩いて捌く分である。

 足をすすめながら、新之助はいつものように、声をあげた。


「なすびぃ、こきうりぃ」

 

 言いながら、新之助はついさきほど松金屋の料理場で、若旦那の藤吾郎が言ったことを思い返していた。

 商いが順調に伸びていることに礼を言った新之助に、藤吾郎は、店を持つ気はないかと言ったのである。表店とはいかないが小さくとも一軒の店を構え、商いに本腰を入れてみてはどうか。

 少しばかりなら、わたしも協力しますよ。あんたは武家の出にしては、商いの筋がいい。

 

 軽口のように言った藤吾郎だったが、からかわれたわけではなさそうだった。

 ではお願いしますとは応えなかったものの、その夢は新之助の心を鷲掴みにした。

 

 もう、武家の暮らしに戻る気はない。それは心に決めている。 

 だが足先から頭のてっぺんまで商人になるには、いくばくかの不安があった。母はまだ、郷里に戻り新之助が侍に戻ることを夢見ている。いくらご時世が変わりはじめているといっても、この先町人として成功することができるのだろうか。

 そう思ったとき、道の先で、こちらに向かって手を振る人影を見つけた。 

 日の下で眩しそうにこちらを見ているが、笑っているのはわかる。柴崎だった。


「頑張っているじゃないか」

 走り寄って来た柴崎はそう言うと、籠の中から真桑瓜をひとつ摘み上げて、鼻先に掲げ、

「夏の匂いだ」

 そしてあらためて新之助に向き直った。


「本当に世話になった。すぐに礼を言いたかったのだが」

「おちかさんは、その後……」

「どうにか、元気になったんだ。かなしみから抜け出すには時が必要だが、日に日に明るくなってきている」

「まだ、若いからな。だいじょうぶだ」

 すると、柴崎は瞬間口をつぐみ、

「俺でも、手伝えるようなのだ。おちかがそう言ってくれている。――やってみようかと思う」

 新之助は大きく頷いた。

 やってみることだ。案ずるより産むが易しというではないか。

 そのとき二人の前に、真桑瓜を買いに来た客が、籠を覗いた。


「では、近いうちに、俺のところへも顔を出してくれ」

 柴崎はそう言うと、踵を返した。

「ああ。必ず行く」

 新之助は応え、瓜を買った町屋の女房につり銭を渡してから、ふたたび天秤棒を担いだ。そして腹に力を入れて、叫んだ。


「なすびぃ、こきうりぃ」

 

 明日のもっと先まで届くようにと、叫んだ。

                                了





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明日の呼び声ー江戸棒手振り物語 @popurinn

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