第4話

 柴崎には柴崎にはまかせてくれと言ったものの、新しくはじまった商いのことで忙しく、新之助は又蔵のところへなかなか足を運ぶことができなかった。

 

 商いは一日として休むわけにはいかない。

 

 今日、ようやく新之助は又蔵の家のある界隈を歩くことができた。

 木戸を抜けて、細い路地を入る。

 裸足の子供たちが、後ろから新之助を追い抜いていく。


 立ち話をしているおかみたちを見つけ、新之助は又蔵の家を尋ねた。家はすぐにわかった。奥の路地に入って、二つ目の入口がそうだという。


 角を曲がり、それまでとさして違いのない長屋が続く路地に入った。

 いまだ地震の爪あとが生々しく残っていた。塀は傾ぎ、溝が泥で埋まったまま放置されている。

 人の住む気配のない家が続いた。どうやらここでは多くの死人が出たのだろう。ついさっき又蔵の住まいをおかみに尋ねたとき、おかみのひとりが言ったことが蘇った。


――あの長屋で今も暮らしているのは、又蔵さんだけだよ。この間の地震でみんな死んじまったからね。もう一人生き残った男もつい最近いなくなっちまったし。


 そして新之助が二つ目の入口へ目を走らせたとき、ちょうどそこから若い女が出てきた。頬を紅潮させ、唇を真一文字に結んでいる。

 女は顔をあげ、それから新之助に気づくと、きっと目を据えた。だがそれも一瞬で、女の目には瞬く間に涙が溢れ、そして折れたように首を垂れた。

そのまま横を通り過ぎようとする女に、新之助は声をかけた。

「――又蔵さんのお知り合いですか」

 すると女は弾かれたようにこちらを見上げ、唇を震わせながら頷いた。

「わたしは又蔵さんのところを訪ねてきた者です。――又蔵さんは」

 そこまで言って、新之助はあっと気付いた。

「――もしかして、おちかさん」

 女がふたたび頷いた。目から溢れた涙が、透き通るように白い頬を伝い、流れていく。


「――どうして、わたしの名前を?」

 そう言ってごくんと唾を飲んだ女は、みるみるうちに生気を取戻していった。まるで雨のあとの若葉が乾いていくようである。

「わたしは柴崎の友人です。柴崎に頼まれて、あなたのお姉さんのことを又蔵さんに訊ねにきました」

 おちかのことを語ったときの柴崎の様子が蘇る。

 しっかりした明るい子だと、柴崎は言った。そのとおり、目の前にいるおちかという女は、目に力があり表情に蔭がない。 

 

 いい子だ。

 

 柴崎が言うように、大人の言葉で括るにはあまりにも清々しい。そして胸元からは、子供というには眩しい白い肌が覗いている。柴崎が本気で惚れた理由がわかるような気がした。

 

 その丸く膨らんだ胸が、ふいにせり上がった。

「姉さんはいませんでした。又蔵は知らないって言っています」

 そしてふたたび大粒の涙をこぼすと、おちかは両手で顔を覆った。

「知らないって言うんです。別れてから会ってないって――。嘘ばっかり。わたし、あいつが別れたあと何度も姉さんを追いかけまわしていたこと知ってるんだから、あいつが――」

 それからは泣きじゃくって、言葉にならなかった。大きく肩を上下させて、そしてその場にしゃがみこんだ。

「――わかりました。わたしも話を聞いてきます」

 新之助はそう言っておちかを立ち上がらせると、路地の先で待っているよういい含め、そして又蔵の家の前に立った。



「知らねえもんは、知らねえよ」

 穴だらけの土壁にもたれかかって、筵の上で胡座を組んだ又蔵は、ずるそうな目で新之助を見た。

 訪ねてきたのが新之助と知って、普段の顔を見せていた又蔵だが、関わりを説明しおしまの話を出すと、ふいに顔色が変わった。視線は落ち着きなく揺れ、頬にやった左手がかすかに震えている。


「おしまさんは突然ぷっつり姿を消したんですよ。かどわかしに遭う年じゃなし、大事な妹を残して逃げ出したわけもない。それで知り合いのところかもしれないと思ったんです。ところがおしまさんの知り合いの誰に訊いても心当たりがないと言う」

 

 入口の土間に立って、新之助は部屋の中を見渡している。空の桶に、乾ききった砥石、床机の上には汚れた手拭いがある。やりかけの仕事か、壁に数本の刀があるが、昨日今日触れたようには見えない。部屋の隅には押しやったままの夜具があり、芯のない灯明皿が転がっている。


「俺には関係ねえこったよ。おしまとは二年前別れたきり、会っちゃいねえからな」

「それは本当ですか。妹のおちかさんは、あんたがおしまさんと別れたあとも付き纏っていたと言っているが」

「今頃――」

 そう言ってから、又蔵はゆったりと足を組み替えた。

「どっかの男と布団の中にくるまってるかもしれねえよ。騒ぐこたァねえんだ。ガキじゃあるめえし」

 

 確たる証拠もなく新之助がやって来たことに気付いた又蔵の態度に、ふてぶてしさが増してきた。

 新之助は諦めて又蔵の家を出た。煙に巻かれたような不快さが残ったが、これ以上は手の出しようがない。

 

 後ろ手で入口の戸を閉めると、おちかが走り寄ってきた。心配ですぐそばへ来ていたらしい。新之助は首を振ると、先に立って歩き出した。

 木戸を出て、表長屋の続く道をまっすぐすすんだ。新之助に僅かに遅れて、おちかも従ってくる。

 そろそろ日が暮れはじめている。小店が並び昼間は賑わう往来に、静けさが戻ろうとしていた。瀬戸物屋から店の小僧が出てきて、茶碗が積まれた鉢を担ぐと中へ入っていった。

 

 古着屋の前に来たとき、新之助はおちかを振り返った。

「――お役に立てませんでした」

 まったくだらしなかったと、思う。これでは又蔵にあしらわれたと言われても仕方ない。

 柴崎になんと言おうか。

 新之助は唇をそっと噛んだ。

 おちかの落胆は、柴崎の落胆でもある。明かりが見えない暮らしの中で、おちかは柴崎がやっと見つけた道案内に違いない。もしおしまが戻らなかったら、おちかはどうなるのか。そのまま裏店で独り暮らしをするのは、無理だ。といって、柴崎にはおちかを引き取ると言えるほどの稼ぎはない。裏店を引き払っておちかがどこかへ行ってしまうのを、見送るしかないだろう。おそらくそうなることを、柴崎は予感しているはずだ。

 

 古着屋が店先の行燈を灯した。その光が後ろからおちかを照らし、細い体がいっそう頼りなく見える。誰か、頼れる男が必要だ。

 だがそれは柴崎でないことは明白だった。もっと若くて力強い男に、おちかは寄りかかるべきである。

 そう思ったとき、おちかがふいに顔を上げて、新之助を見上げた。思いつめた目になっている。


「――きっと姉さんは、帰って来ません。帰って来られるはずないんです。だって――、殺されたにちがいないんですから」

「殺された?」

 新之助が目を剥くと、おちかは深く頷いた。

「いつかこんなときが来るんじゃないかって、わたし案じてたんです。――でも、やっぱりそうなっちゃった」

「そう結論を急ぐもんじゃない。わたしも又蔵が本当のことを言っているとは思えないが、――殺しなんて。殺しは大罪だよ」

「あの男は、なんとも思ってません。畜生にも劣る心がけの男なんです。ついかっとなって、きっと姉さんを殺しちまったんです」

「まあ、ちょっと落ち着きなさい」

 

 店先で話し込む男女に不審を抱いたのか、古着屋の中から人が出てきた。

 おちかの背中を押して、新之助は足をすすめた。そして閉めた店の軒先を見つけると、おちかに向き直った。


「いいですか。もし殺されたんだとするとですよ。殺されたおしまさんはどこにいるんですか。あんたは番屋にも届けているはずだ。岡っ引がどこかでおしまさんを見つけているはずではありませんか。ああして又蔵は家から離れていないんです。もし又蔵がおしまさんを殺したとしても、そう遠くではないでしょうし、この界隈で、そう簡単に死んだ人間を隠せるもんでもないでしょう」

 さっきの勢いはどこへやら。おちかはうなだれた。


「又蔵はたしかに怪しいが、確たる証拠は何もありません。見た者がいたわけじゃないし」

 そこまで言って、新之助は何か喉元に引っかかるような、釈然としない思いに囚われた。

 目の前に、男が腕を振り上げて女にかかっている光景が、まるで芝居を見ているかのように、見える。


 見たのだ。どこかでこれと同じ光景を、見た。

 いや、見たといっても、自分の想像の芝居を見た。そう――、煮売酒屋のなかの話を聞いて、これと同じ光景を思い描いた。


「まさか」

 思わず声をあげた新之助に、おちかがどうかしましたかと声をかけてきた。

「――海辺町へ」

 新之助はおちかの手を取った。

「確かめたいことがあります。いっしょにいらっしゃい」

        


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る