第3話
御舟倉の塀に沿って北に進み、入り組んだ路地を入っていった先に、その店はあった。
表に出した行灯でどうにかそれとわかる、小さくて目立たない店である。
まだ地震の爪あとが生々しく、だが中へ入ってみると、よく拭きこまれた床机といい、店に染みている煮物の匂いといい、どこか人をほっとさせる感じのいい飲み屋だった。
飲める男というのは、店を探すこともうまいようである。柴崎は馴染みの客らしく、慣れた様子で新之助を促した。
酒とつまみを一つ頼んで、二人は向かい合って坐った。会うのも久しぶりなら、こうして酒を飲む席についたのも江戸に出てきて二度目になるか、三度目になるか。
「ま、とにかく一杯やろうや」
柴崎はそう言うと、運ばれてきた酒を、まず新之助になみなみと注いだ。
今夜も蒸しそうだと、店先を通った誰かの声が聞こえてきた。まだ表の日は高い。
うまそうに酒を口に運ぶ柴崎に、新之助が切り出した。
「相談って、なんだ」
いい話でないと、新之助は予想している。本当なら、ここへも付き合いたくなかった新之助だった。といって、久しぶりに会った友の誘いを無下に断ることもできなかった。断ってあのまま別れてしまうのは、人生に逼迫している友を見捨ててしまうように思えた。
「体の具合は、どうだ」
こんなことを訊くまでもなかった。目の前の男の顔色を見れば、病魔にとりつかれていることがわかる。だが柴崎は、案外明るい声で言った。
「なんとか生きている。寝たり起きたりだが」
そして柴崎は、つと視線を手元に落とすと、
「相談したいことというのは、体のことではないんだ。ときどき家のことを手伝いに来てもらっている人がいるんだが」
そう言って、口をつぐんだ。
「手伝いとは、――雇っているのか?」
たしかに男やもめ暮らし、日々のことをこなすのは大変だろう。まして柴崎は病身である。家の中に手がなければ生きていけない。だが小女を雇うにも、賄いの婆さんを雇うにも先立つものが必要である。今の柴崎にそれが工面できるとは思えない。
そう思ってから、新之助はあっと合点がいった。
「――女か」
「いや、そういうものじゃない」
「いいじゃないか、うらやましい」
「待ってくれ、違うんだ」
柴崎はさっと顔を赤らめて、片手で新之助を制するようにしてから、
「隣に住んでいる娘さんでな。まだ十七だ」
ずいぶん若い。そう思ってから、いや、だがわからないぞと、新之助は柴崎を見た。男と女のことに年の開きは関係ない。広い世間にはいろんな結びつきがある。
「名前はなんと言うんだ」
「おちかだ。かわいそうな子でね。小さいときに両親に死に別れ、ずっと他人の家で育てられた。そのせいかどうか、年のわりにしっかりした子で、よく気がつくんだ。毎日猿江町にある甘酒屋に出ているんだが、そこでもかわいがられているらしい。忙しいだろうに、ちょくちょく俺のところへ顔を出してくれてな。余り物だからと煮物を持ってきてくれたり、汚れた物を持って帰って洗ってくれたりする」
「おまえの隣に一人で暮らしているのか?」
「いや、姉がいる」
いつのまにか空になった茶碗に、柴崎は何度目かの酒をついだ。酒のせいか頬にうっすら赤みがさしている。昔から酒には強いが、顔にもすぐ出る性質だった。だがそればかりでなく、おちかの話が柴崎に生気をもたらしたのかもしれない。
「相談というのは、その姉のことなんだ」
酒を飲み干すと、柴崎は言った。
「おちかと姉のおしまは七つ違いでね。姉は研師のところへ嫁いでいたんだが、何がいけなかったのか、二年前に戻ってきた。それから住み込みで働いていたおちかを手元に戻して、いっしょに暮らしていたんだが。つい半月ほど前からだ。そのおしまがいなくなってしまったんだ」
「いなくなった? どういうことだ」
「おちかが言うには、殺されたというんだ」
「殺された?」
柴崎はこっくりと頷いた。柴崎がおちかに聞いたところによると、姉の亭主だった男は、真面目だが嫉妬深い男だったそうである。そのうえ殴る蹴るを人前でも憚らない男で、おしまは最後逃げるようにして男のもとを去ったらしい。そしてしばらくは、姉妹二人、男から身を潜めて暮らしていたという。
「無論殺されたという証拠などない。おちかは番屋にも駆け込んだが、相手にされなかった」
思わず胸の前で腕組みをした新之助に、わずかに湿った声で柴崎が言った。
「困ったことにだ。おちかがその元の亭主に会いに行くといってきかない」
柴崎は溜息をついた。
「行ったところで、もし姉がいても、はいそうですかと引き渡してはくれないだろう。それにもしおしまがそこに囚われていたとするなら、生きているかどうか――」
「――調べてこいと言うんだな」
新之助が言うと、柴崎は申しわけなさそうに、頷いた。
「こんな体だ。思うような動きが取れないからな。それにもしそこにおしまがいたら、俺が迎えに行けばかえって話がこじれてしまう」
「どういうことだ?」
すると柴崎は、俯いて空になった茶碗を見つめた。
「俺はおしまに嫌われている。俺がおちかをたぶらかしていると言うのだ。おちかは姉に内緒で俺に親切にしてくれていた。――こんな侍くずれの病気持ちの、しかも年の離れたの男だ。おしまが妹に近づけたくないのは当然さ。だが手をこまねいて、おちかの嘆きを見ておれんのだ。あの若さもあるのかもしれんが、おちかは本当に元気な子でな。日々あの明るい笑顔に、どれだけ気持ちが救われたかしれん。それが姉がいなくなってからというもの、すっかりしょげかえっている」
どうやら柴崎は、本気らしい。
新之助は意外な思いで、目の前の古い友を見た。
柴崎は新之助と同じく禄の少ない侍の家の三男に生まれ、望んで婿養子に入った男である。だが婿として迎えられた家は、新之助のそれより格式のある家だった。
そのせいもあってか、柴崎はわき目もふらずお勤めに精進し、婿としての義務を果たしていた。その姿は常に自信に溢れ、眩しいようだった。あの頃の柴崎のままだったなら、おちかを慕ったか、どうか。
ふいに新之助の胸が熱くなった。国元を飛び出して以来、様々なことがあった。それぞれに人生の辛苦を嘗め、そして人は変わっていくらしい。
正直なところ、国元にいた頃、新之助は柴崎を好きではなかった。柴崎のある部分が、どうしても咀嚼できなかった。だが今目の前にいる男は、ただの男として、正直で好ましい。
「話はわかった。その姉の、元の亭主の名前と居場所を教えてくれ」
ぱっと柴崎の目が輝いた。少年のような顔になっている。
「又蔵というらしい。研師をしている男だ。住んでいるのは泉岳寺前のはずだが」
「又蔵? この界隈に住む研師の又蔵なら、知らないわけじゃないぞ。挨拶程度なら言葉を交わしたこともある」
新之助の返事に、柴崎はさらに顔を輝かせた。
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